第4.5話 長い悪夢と君の寝顔

「怒られて……しまいました」


 部屋を出ていく雄飛を呆然としながら見送った後、蜜璃は我に返ったように目をパチパチと動かす。真っ暗になった雄飛の寝室に瞳孔が馴染んできて視界がはっきりとしてきた。

 蜜璃は身体を起こして辺りを見渡す。そこは装飾品や趣味の類いといった置物もないシンプルな部屋が拡がっていた。

 

「凪瀬くんは私が思っていた以上にストイックみたいです……」


 蜜璃の誘惑は全く通じなかった。そこに多少の恥ずかしさと悔しさは残ったが同時に全く別の感情が湧き上がっていることに気付いてしまう。


「凪瀬雄飛くん」

 

 ふと小さな笑みが零れる。その瞬間に緊張が解けてきたのか単に腰が抜けたのか、蜜璃は身体に力が入らずに自然と横になった。徐々に眠気が襲ってきて蜜璃は抗うことを止める。そのまま蜜璃は深い眠りについていった。


 ◆◆◆◆◆◆


「本当に一人で大丈夫なの?ママについてこない?」

「私は大丈夫だから。お母さんは心配せずに行ってきて!」


 海外赴任で日本を離れる母を見送り、一人暮らしを始める蜜璃はとてもワクワクしていた。引越し先へと早る足を抑えて向かう。

 この時の私はこれから起こる大変なことを無視して楽しいことだけしか見ていませんでした。


「うわぁぁ!」


 崩れ落ちる荷物の山に埋もれないように必死に片付けようと奔走し、部屋の状況は益々悪化していくばかり。気付けば越してきたばかりというのに見るも無惨なゴミ屋敷のようになってしまっていた。


「うう……前は片付けもできていたのに……」


 思い返してみれば、今までは家族にたくさん頼ってばかりで一人では何もできていなかったのかもしれない。

 涙がぽろりと零れそうになりながら部屋の片付けを続けた。明日は転校先への初めての登校日。そんなに遅くまでは続けることはできないのである程度のところで布団を引っ張り出して寝床を確保する。


「明日は上手く話せるかな……。次は――」


 電気を消して蜜璃は布団に潜り込む。

 見慣れない天井にソワソワしながらも期待と不安で感情が揺れる。


「次は私……ちゃんとできるかな」


 枕に顔を埋めて目をキュッと閉じる。布団に蹲るようにして身体を丸めた。


「次は……前の学校みたいに……ならないといいな」


 薄れゆく意識の中で蜜璃はホロリと涙が零れて枕を濡らした。


 次の日の朝の出来事。

 朝はしっかり寝坊することなく支度を始めたが、蜜璃はそこ重大なことに気付いてしまった。


「制服……どこ?」


 慌てて荷物を見境なくひっくり返していく。未開封のダンボールを開けていくが全く見つからない。


 ドンッ……ガサッ……


 山積みになっていたダンボールの一つが大きな音を立てながら崩れ落ちて、中に入っていた教材関係が飛び出てきた。後から探さなければならなかったので助かりはしたが、崩れ落ちた大きな音で我に返る。

 

 『もしかしたら周囲の住人にとても迷惑をかけているのでは……?』


「後で挨拶も兼ねて謝りに行かないと……」


 一人暮らしの大変さを自覚して萎みながらも制服を探して続ける。途中、不安定に壁にもたれかかったタンスが倒れてまた大きな物音を立ててしまったが、特に苦情が来ることはなかった。

 そして見つけた頃には自宅を出ないと間に合わない時間が迫ってきていたので挨拶などは後回しにし、学校に急いで向かうのだった。


「今日のホームルームを始める前に紹介する生徒がいる」


 『どうしようどうしよう!最初は説明をされるんだと思っていたのに……いきなり教室に連れてこられちゃった。まだ心の準備ができてないのに――!』


 先生からの合図はなく、代わりに大きな怒号が飛び交っているように聞こえて泣きそうになったが、蜜璃は意を決して今日のドアを開いた。ガチガチに緊張しながらも何とか教壇に辿り着く。


「初めまして。訳あって他県から越してきました。日下部蜜璃と申します」


 勇気を振り絞って挨拶をしたがクラスメイトからの反応はない。溢れ出そうになる涙を我慢して拳を握り締める。


「このクラスに早く馴染みたいと思っています。これから宜しくお願いします」


 蜜璃は頭を下げてキュッと目を瞑る。すると次の瞬間クラスメイトからの拍手と歓迎の声が聞こえてきた。顔を上げると緊張が解けて思わず笑みを零す。

 皆が歓迎してくれる中で一人だけ窓の外を見つめている男子が蜜璃の目に入る。こちらに全く興味を示さない彼を見ようとしたが、すぐに他のクラスメイトで覆い消されてしまった。

 そのまま一日中取り囲まれるように休み時間、昼休み、放課後と休む時間もなく質問に自己主張、嫌厭責めにあって結局、気になった彼とは話さずじまい。でも名前だけは席順の名簿を見えてもらって分かった。


「凪瀬……雄飛くん……。明日は話しかけてみたいな」


 一人になれた帰路で思わず独り言を漏らす。


【お前なんかが居るから……】


「え……?」


 蜜璃の後ろから突然、見知った人の声がして身体が強ばる。恐る恐る振り返るとそこには、かつての級友たちが揃って立っていた。

 全員、顔の部分は暗くなっていてよく見えないが、明らかに異常なことは蜜璃にも分かった。


 【私の大切な人を……】

 【蜜璃ちゃん……。俺たちと遊びに行かない?】

 【誑かしたな……】

 【――?ほっといていいよ。本命じゃないし】


 高らかに笑うクラスの男子と怒りに慄えるクラスの女子たちは昔と全く同じ会話をしている。男子の一人が蜜璃の手を掴んで陰のない顔で笑っていた。

 それを見ている女子が顔を毟りかいている。その化粧が剥がれて剥き出しになった陰のない顔の少女が男子と一緒に手を掴んで引き摺り込もうとしてくる。


「いや――来ないでよ!私は何もやってない!」


 抵抗する蜜璃の力も虚しく真っ暗になった闇の中へと引き摺り込まれていく。

 最後の力を振り絞ったその時、誰かの手が蜜璃の手を引っ張りあげた。


 ◆◆◆◆◆◆


 蜜璃はベッドから起き上がり目を覚ました。近くにあった時計はまだ夜中の三時を指している。


「そっか……私、凪瀬くんの家に泊まったんでした」


 ゆっくりと昨日のことを思い出していく。蜜璃がしてしまったことの数々を思い出しのたうち回りそうになったが、グッと抑えた。

 ベッドから身体を起こして寝室を出るとリビングのセンサーで反応した常夜灯で少し明るい。ソファには身体をタオルケットに埋めて眠る雄飛の姿があった。

 

 誰もが蜜璃と関係を持ちたいと男女構わずに擦り寄ってくる。そこには打算が絶対に絡んでいて、そんな日常に疲れていたのかもしれない。そんな中で凪瀬くんだけは純粋に私のことを心配してくれた。


「本当に……不思議な人です」


 寝る前に零した小さな笑みが雄飛の寝顔でまた零れる。

 目の辺りまでかかった雄飛の長い前髪を指で避けながら額を静かになぞってみたが、一向に起きる気配はない。


「凪瀬くんが……私を引っ張ってくれたんですね」


 あの悪夢から引っ張りあげてくれたのは彼だと、気持ちよさそうに眠っているその寝顔を見てそう思った。


「凪瀬くんは……たくさん貰ったって言ってましたけど、私は返しきれないくらい貰ったんです。だから……ゆっくり君に返させて下さいね」


 蜜璃は雄飛の素顔を眺めながらまた小さく微笑む。

 こうして長い長い夜は更けていった。

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