5-6:サイゴの、シツモンです
本当に、こんな結末しかなかったのだろうか。
一人の人間がすべてを抱え込んで、たった一人で苦しんで、最後には自らを犠牲にする。それを横で見ている以外、自分には道がなかったのだろうか。
千晶はもう動かない。
心臓を撃ち抜き、彼はしばらく苦しそうに身じろぎしていた。それでも口元をやんわりと緩め、満足そうに目を閉じた。
直斗は必死に呼びかけたが、流れる血の量はあまりにも多すぎた。すぐ真下で治療を受けようにも、運び出す前に時間が来るのは明白だった。
そして今、彼は息をしていない。
直斗はその場でへたり込み、コンクリートに両手をつく。
どうしてだよ、と小さく呟く。全身の血が流れ出るように、心の中から一切の気力が失せていく。脳の奥も凍りついて、今はただうなだれる以外に何もできない。
少しして、近くで羽ばたきの音が聞こえた。屋上に集まった鳥たちが、わずかに声を上げ始める。
苦しい、と直斗は拳を握りしめる。今は苦しくて仕方ない。でも、ここで自分が嘆いていたら、何もかもが無駄になってしまう。
辛いと思うのに、頭の中には妙に覚めた部分が生まれてくる。その部分が冷静に、これから何をすべきなのかという計算を組み立てていく。
千晶が死んでしまった以上、彼のしたことを否定するわけにはいかない。
だから、まだ塞ぎこんでいていい状況ではない。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、直斗はわずかに顔を上げる。まともな思考もままならない。でも、自分に与えられる『役割』だけは理解することができた。
千晶はきっと、しっかりと彼の死を『利用』することを願っている。
だから、それを実行しなければならない。
苦しい、と心の中で思う。それでもゆっくりと立ち上がろうとする。震える腕に力を込め、体を支えようと努力した。
その瞬間、渇いた音が鳴り響いてきた。
パン、パン、と定期的に、手を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
「興味深い。実に興味深い。これは結構な見物だった。千晶がどこまでやれるのかと思っていたけど、これはとんだ聖人様だね。なかなかにクレバーだった」
耳に障る、甲高い声が発せられる。
目の奥が熱くなるのを感じた。必死に歯を食いしばり、直斗は声の方角を振り返る。
屋上の入口に、白いブレザーの男が立っていた。
「でも、やっぱり嘘はいけないよ」
宍戸義弥は拍手をやめ、両腕を大きく広げる。
「動物さんたち、騙されてはいけないよ。君たちには理解できない感覚が、人間には存在するんだ。今から僕が、『自己犠牲』という言葉を教えてあげよう」
屋上に集まった鳥たちに対し、高らかに宣言をする。
直斗は両目を大きく見開く。背筋が小刻みに震えてきた。「やめろ」と叫ぼうとするが、喉が動いてくれなかった。
「僕はたしかに検証した。そして解明したんだ。やっぱり、人間には死後の世界が存在しない。人間には魂なんて存在しない。人が死後に迎えるのは、絶対的な『無』だけだよ。魂が動物の姿になって天国に行くなんて、とんだ嘘っぱちなんだ」
鳥たちの目が宍戸の方へと一斉に集まる。「やめろ」と直斗はかすれた声を上げる。
視線を落とし、千晶の亡骸を見る。彼は穏やかに目を閉じていた。
ダメだ、と直斗は小さく頭を左右に振る。これではダメだ、と喉を震わせる。
このままでは、千晶のしたことが全て無駄に終わってしまう。
「だから理解して欲しい。千晶はあくまで、嘘をついたんだ。みんなを騙して、死後の世界の真実を隠そうとした。そのために、わざわざ自分の命まで捨てたんだよ」
揚々と言い切り、宍戸は大声で笑い出した。
「そう。これは茶番だったんだ。そして千晶の死は犬死にだ。人間なのに、『犬死に』だ。人間であろうと頑張り続けて、その結果の犬死にだ。世界で最も人間らしい犬死になんだ」
ゆっくりと歩み寄ってくる。千晶の死に顔を見下ろして、「犬死にだ!」と指をさして笑ってきた。
「……なんでだよ」
直斗は力なく相手を見上げ、かすれた声で問いかける。
どうして、この男はいつもこうなのだ。人がこうして死んでいるのに、それは人間のためにしたことなのに、どうしてこんな仕打ちができるのだ。
「なんでだよ」と直斗は再び声に出した。
「なんで? そんなの決まってるじゃないか。もちろん、世界を正しい方向に導くためさ。どうして『彼ら』がせっかく救済しようとしてくれているのに、拒まなくてはいけないんだい? 答えはとっくに出ている。神様がそう決めているんだから、それが一番の選択肢だってこと、もう考えるまでもないじゃないか」
宍戸は再び両手を広げる。背中を向け、再び柵の方へと歩んでいく。
「聞いてくれ、みんな。僕はついに、君たちの知りたい答えにも辿り着いた。というより、答えは最初から、君たちが持っていたんだ」
屋上の鳥たちへと向け、宍戸は声高に演説を始めた。
「君たちの探っていた人類全体の問題とは、僕たちの持つ過剰な『自我』だ。それがある限り、人は死後の世界に行くことはできない。やがて心が無に還り、完全な土くれへと還って終わりになってしまう。だから、それを『破壊』してしまえばいいんだよ」
ダメだ、と直斗は首を振る。やはりこの男はもう人間ではない。まともな人間の理屈がこの男には通じない。
どうすればいい、と千晶の亡骸に問いかける。彼は目を閉じたまま動かない。助けを求めようにも、二度と声を聞くこともままならない。
でも、一つだけ目にとまるものがあった。
直斗は一度息を呑み、必死に千晶の亡骸に手を伸ばす。彼の傍らに転がる拳銃を拾い、両手でしっかりと抱え込んだ。
黒い銃身をまじまじと見る。リボルバー式で、まだ弾丸が入っているのが確認できる。
「おかしな真似はやめたまえ」
ふらふらと拳銃を構えようとした時だった。宍戸がくるりと振り向く。
「そんな腕では当たらないよ。それに、僕は今とても大事な話をしているんだ。そんな僕の邪魔をしようとすれば、きっと『彼ら』も怒ると思うよ」
宍戸は動じる様子もなく、周囲の鳥たちを示す。
直斗は構わず拳銃をかざす。腕が震えて、狙いがまったく定まらない。
「どうやら、誤解があるようだね。僕は何も、世界を滅ぼしたいわけじゃない。僕が見たいのは、人類の更なる『進化』だよ。今こうして彼らが現れたのは、それを実現する大きなチャンスなんだ」
何を言っているのか、全然わからない。
「聖書にもあるだろう。人類が神の怒りに触れ、バベルの塔が崩れたと。そして人類の言葉はバラバラになり、会話が通じなくなってしまった。人の心が動物のものになることは、その再来に過ぎないんだよ。混乱が起こるのは一時的で、人類はまた新しい一歩をやりなおすことができるんだ」
大仰に手振りを加え、うっとりと語る。
「これから人類は、一度獣に戻る。そこから新しい進化をやり直す。そうすれば、今よりもきっとずっと、尊くクレバーな存在になれるんだ。彼らはそのチャンスを与えるため、この世界の意志によって派遣されたものなんだ」
そうだろう、と周囲に呼びかける。
直斗は尚も拳銃を構えるが、どんどん震えだけが大きくなった。それでも腕を下ろすことだけはできない。
そうする間に、鳥たちが小さくざわめいた。
彼らが揃って羽根を揺さぶる。身じろぎをし、やがてその中の一羽が空中へと飛び立つ。
屋上に更に一つ、人影が増えた。見知らぬ若い女性で、白衣を着ていた。病院の看護師らしい女性は、飛んできたカラスを右の肘で受けとめる。
女性はゆっくりと、ボッティチェリを連れて歩み寄ってきた。
「オメデトウ、ゴザイマス」
いつも通りに、挨拶の言葉が投げかけられる。
「アナタに、シツモンです」
すぐに続きの言葉が発せられる。腕の力がもたなくなり、直斗は銃を持つ手をおろした。
「コレガ、サイゴの、シツモンです」
更に距離を詰め、ボッティチェリが告げてきた。直斗は息を呑んでそれを迎え、宍戸はにんまりと笑っていた。
数秒の間を置き、カラスが嘴を揺らめかせる。それに呼応し、女性が唇を動かした。
「ココロとタマシイ。どちらが、ダイジですか?」
ゆっくりと、よく通る声で、『二択』が提示された。
しばらくの間、全ての時間が止まったように感じられた。直斗は呆然とカラスを見やり、じっと唇を噛みしめる。
もっとも希望のない二択。心を選んで死後は無になることを受け入れるか、魂を選んで人であることを終わりにするか。
どちらを選んでも、人類に救いはない。
頭の中が、真っ白になる思いがした。
絶望的な思いがよぎる。瞬きすらできず、ただ呆然と口を開ける。
終わりだ、と思った。これでもう、千晶のしたことは無駄になってしまった。
沈黙が生まれた。かすかな風の音が聞こえるのみで、耳が痛むほどの静寂が支配する。
それを一番に破ったのは、癇に障る哄笑だった。
「直斗くん、答えておあげよ。人類の命運を決める二択だよ。いつものように、答えてあげるといい。これはとっても哲学的な問題だよ」
ニタニタと笑いを発し、再び歩み寄ってくる。ボッティチェリの間近まで歩み寄り、「そうだろう?」と顔を覗き込む。
「じゃあ、答えないなら、僕が代わりに言っちゃうよ。人類に大事なのは心なのか魂なのか。その究極の二択について、僕が答えを出してしんぜよう」
目の前がぼやけてくるのを感じた。目元が熱くなり、涙が滲みそうになる。
これで、終わりなのだろうか。
宍戸は恍惚とした調子で演説をしている。人間はこれから獣に戻るべきなのだと。それを実行するのが『彼ら』の使命なのだと。
このままでは、全てこの男の思い通りになってしまう。千晶の死も無駄になり、世界中から人間が消え、何もかもが荒れ果てる。
そんな結末を、受け入れなければならないのだろうか。
直斗は肩を落とす。そっと隣の千晶を見下ろし、彼の亡骸に救いを求める。
千晶の言葉が聞きたかった。せめて一言、なんでもいいから囁いて欲しい。このまま消えてしまいなどせず、傍にいて欲しい。
限界だった。両目の目蓋を強く閉じ、一筋の涙が頬を流れる。
こんな現実は絶対に嫌だ。絶対に無駄にしたくない。千晶が死に、彼の心がどこにも残らず、そのまま消えていってしまうなんて、絶対に認めたくない。
千晶の存在を無にしたくはない。せめてその心に救いを与えたい。
死後の世界も天国も、魂の有無も関係ない。ただ、死者の存在を無にしたくはない。たとえ命が尽きても、どこかで幸せにしていることを信じたい。
それが、自分の唯一の望みだ。
それを叶えるためだったら、どんなものだって背負ってやる。
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