第1話 旅立ちの朝
刺すような冷気が沈むあけぼの、わたしは縁台の革鞄をなんどものぞいては落ち着かず、日の明けを待ち遠しく思いながら支度していた。
「うう、さむ」
ちょっと寒すぎやしないか、今日は。
腕をさすり、ランプを灯す。赤熱の光に手をかざして一息ついた 。
今年の冬は冷え込みが辛いな。去年までは床下の漬物が凍りつくようなことはなかったのに……。枯れ木を集めようにも小道には雪のかさが腰まである。わたしが出ていったあと、母さんも父さんも、大丈夫だろうか。未知の流行り病で二人とも倒れないだろうか、母さんは魔術を語らえる人がいなくなって寂しくないだろうか。
「……」
いや、詮ないことだ。
首を振って縁台に目をやる。そこには古ぼけた皮手帳と透明なガラスペン。昨夜母さんが寝る前に渡してきた代物で、わたしにとっての垂涎の品に口元がゆるんでしまう。
『これは書いたものが消えて、見たいときに記録した文が浮かび上がる手帳。そしてこっちはインクの尽きないペン。大事にするのよ、エスト』
そう言って頭を撫でてくれた母さんは微笑んでくれた。
わたしは舞い上がってそれらを掲げた。
だっていくら書いても使い切らない手帳と、いくら書いてもインクの尽きないペンなど、わたしや母さんのような魔術使いなら喉から手が出るほど欲する品—魔道具だ!
母さんが名残惜しそうにドアを閉めたあと、わたしは穴が空くほどそれらを調べて寝た。おかげでちょっと寝不足だけど、あまり後悔はない。
手帳とペンを鞄のポケットに入れ、厚いローブにそでを通す。服作りは慣れた作業で、旅に着ていくものは自作した。昨日は幸運にも大きく油をため込んだ狼を狩ったから、狼からローブに使う皮やランプの脂、非常食の干し肉を確保できた。
包丁を使うのが下手な母さんより手先は器用でも、流石に一本釣りした魚を空中で捌く父さんにはかなわない。
父さん、奉納米をつくる農家だよね。魚釣るときの方がいきいきしてなかった?
「……ふふっ」
いまさらだが笑ってしまう。
ひとしきり荷物を片付け、ベットや窓に
——行こう。
すそを翻し、ぎこちないドアノブに手をかけた。
「おはよう」
「……おはよう、エスト」
なぜか二人ともほっと胸を撫で下ろしているように見えた。
わたしは理由を聞こうと口を開いて、やめる。……知る気になれない。
明日にはなくなっているであろう、三脚目のいすを引き、最後の朝食をとる。
昨夜の猪鍋の残りをすすり、ため込まれた古米をはむ。なんら変わらない朝、違うことがあるとすればわたしの出立ちだろう。ローブに鞄、簡易であるが、すぐに家を出ることは母さんや父さんならわかるはず。
珍しく母さんの食器を割る音と修復の呪文が聞こえない。
「ここを出て、どこに行くつもりだ」
「東の海沿いから北に」
「なんの為に」
「確実に魔導皇国の魔術学校に辿り着くためだよ。ほら、昔母さんが言ってた歴史のある『ノエルミリュン』とかいう学校」
「エスト、あまり良いところではないのよ、あそこは。言ったでしょ?」
母さんはあからさまに顔をしかめた。そしてわたしと同じ夕海のような髪先をいじる。
本当に気が進まないのだろう。父さんと顔を見合わせて苦笑してしまう。
なんでも貴族と授業を受けることが多く、気位の高い彼らの不遇を買うと嫌がらせされるという。その反面、長い歴史を刻んでいることも確かで、滅多にいない魔術師が研究のために教師をしている立派な学校であることも聞いている。
わたしはテーブルに手をついて身を乗り出す。
「元魔術師の母さんでもさじを投げるようなわたしの夢だよ?それを叶えるためには少しでも多くの魔術を調べられるところじゃなきゃ、現実的に不可能なんだよ!」
空飛ぶ大陸をつくろうというのだ。既存の魔術体系では到底成し得ない、神の業にすら手を伸ばす所業。だがそれを魔術で、普通の人よりもはるかに魔力量の劣るわたしが望んでやる。
語られる群雄割拠の数々を鼻で飛ばすくらいの夢物語を現実にするために、古くからの魔術を伝える魔導書は必須、ましてや使えるかもしれない技術の宝庫を見逃すなどありえない。
「で、でもねえ」
母さんが父さんを見やるが、腕を組んで目を閉じていた。
沈黙、魔術方面では口出ししないということか。
情けないとでも思ったのだろう、わきに肘鉄を入れて母さんはわたしに向き合った。
「貴族ばっかりでつまらない場所よ?なんなら別のところに紹介状を出しても良いのよ?」
「魔導書の蔵書数が立ちはだかる限り、わたしは貴族だろうがなんだろうがはね飛ばしてでも行くよ」
「じゃあいいわ!」
ニコリと母さんはほおを緩めた。
魔術の愛好家ならこれで落ちるのだ。なはは!
わたしは務めてしとやかに席につく。
父さん……昨日より二本白髪が増えたね。
打たれた脇を抑えてうつむく父さんの頭は、こう、薄かった。
父さんの気色悪いものを見るような目は無視だ無視。わからない人に説いても結局わからないのだから、わたしと母さんの合意だけで良い。
世界一の魔導書の所蔵数を誇る大図書館『オールフィルム』その称号が与える影響は大きい。母さんいわく犬に骨、猫にマタタビ、
「じゃあもう行くよ」
「……ええ」
空の食器を洗い、いくらか雑談して荷を手にとる。
やっぱりいつもの朝だ。扉を潜れば薄雲がお出迎えしてくれる。ちらほら泡雪が降りはじめていた。まあ、吹雪でないだけましだろう。
ほうっと息をはく。そして、歩き出す。
「エスト!」
冬木立の手前で声をかけられ、ゆっくりと振り返る。わたしと同じ、深緑の瞳が物言いたげにこちらを見つめている。
「おまえは、おまえは人より長く生きる。だから……愛するな!俺たちを通り過ぎていけ!」
「っふふ、なあに当然のこと言ってるのよお父さん。わたしが真剣な言いつけを破ったこと、あった?」
口元を隠して笑って見せれば、父さんは肩をおろして眉尻を下げた。
……ほんと、不器用な人。自分がどれだけ酷なこと言ってるのか、自覚はあるのかないのか。ないのだろうな。でも、父さんとしては振り絞ったのだし、素直に従いましょうかね。
わたしは極力目を伏せてきびすを返す。
肩から垂れる編み込みの髪は夕海のようだと父さんは言った。あいにくわたしは海を見たことがない。西の果ての先には塩の大地しかないから。旅の楽しみがひとつ増えたと喜ぶのも束の間、後方から雪をかき分ける音に立ち止まる。
父さんとくれば母さんもか。
今度は振り返らない。音もわたしの歩みと共に止まった。
「……エスト」
「呪いは母さんにも手に負えなければ、わたしがどうこうできるはずもないし、せいぜい聖女様が西の果てまでくるときを待った方がいいよ」
「そうじゃないの、だってエストも」
未練がましい言葉をさえぎる。
揺らがすような真似はやめて欲しかった。
「わたしは、安らかな眠りを求めてる。母さんは人の年月を取り戻したい。わたしに限りなく時間が必要なのはわかってるでしょ。だからなにも言わないで、さよなら」
雪は深く、腰まであるそれはただ重々しかった。
後ろから声はかからない。どう思われたかもわからない。すべて考えるだけ泡のようにうつろで無駄に帰す。ならばいっそ笑ってしまおう。こうも憩う
白い原が歪んで見えるのは気のせいだと思いたかった。握りしめた拳が痛いのも、さえずる小鳥に被せるような嗚咽もすべてすべて、なにもかもきっと嘘だと笑ってやろう。
「っはは、ぐす。相変わらず空はきれいだな」
恨めしくもならない、いっそ抱きしめてやりたいとすら思う。わたしにはそれがなんという感情なのかわからないが、悪い気はしないから黙って見上げ続けた。そして、もう足が止まることはなかった。
魔術師エストは空に陸を ホノスズメ @rurunome
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