一章 優等生マネとの出会い

第2話 藤間レイカという人


 藤間レイカはイライラしていた。

 人のごった返すダンスホールを歩く。

 目の前には音楽にあわせて気ままに体を動かす人たち。統一感はない。綺麗とも言えない。ただのエネルギーの塊。

 それを脇目に見ながら、レイカはフロアの中を歩く。


「お、あれ、レイカじゃないか?」

「まさか、歌舞伎のお嬢様だろう」

「結構、遊んでるって聞いたぞ」


 耳に入っては消えていく男たちの噂話をすり抜ける。音楽が切り替わり、それに合わせて男たちも移動を始めていた。

 小さな呟きさえ耳に入ってしまうのは、良い耳のせいだった。舞台では助かるが、聞きたくないことまで拾うのは昔からだ。


(他人のことなんで放っておけばいいのに)


 声を掛けてこないだけ、マシな方だ。そう自分に言い聞かせる。

 女優だって人間なんだし、外を出歩けば、飲みにも行く。遊びは多くないと思うが、本気もないのだから、きっと周りからみれば遊びだ。


「お姉さん、少し話さない?」


 軽薄な声が掛けられ、同時にぽんと肩を叩かれる。

 放って置いてほしいのに、空気の読めない男。

 ちょうどいいーーストレス発散に手ひどく振ってやろうと振り返る。こういうところが性格が悪いと言われる理由かもしれない。

 レイカはそこにいる男の姿に目を見開いた。


「レイカ」

「寿くん」


 自分の兄である寿がにっこり笑っていた。

 レイカは顔をしかめた。ストレス発散のあてをなくし、機嫌は右肩下がりになっていく。

 最悪だと思っていたら、さらに悪くなり、きっと地獄の縁くらいには届いている。

 寿に見つかるなんてツイていない。このタイミングで寿が声をかけてくることに、嫌な予感しかしなかった。


「そんな顔で飲んでるんじゃ、お酒が可愛そうだぞ?」


 抵抗することもできず、寿につれられてバーのカウンターに座る。

 基本的に座って飲むことは少ない。グラス片手に移動するほうがレイカは好みだった。

 グラスを傾けながら、寿を指さす。


「その顔をさせている本人に言われたくないわね」

「まったく、可愛くない妹だ」


 口ではそう言いながら、顔には微笑みを浮かべたままである。相変わらず、本当は何を考えているかわからない。

 兄としても、同業者としても、油断ならない相手なのだ。


(一体、何を言いに来たのかしら)


 ただでお酒が飲めるとは思っていない。わざわざ呼び止めるあたり、用事があるに決まっている。

 隣から眺める寿の姿は久しぶりだった。実家に帰ったときに顔を合わせる程度。前に会ったのは一か月くらい前だろうか。踊りの稽古には一週間に一回行っているのだが、そのときは公演が忙しく、寿はいなかったのだ。


「妹に嫌われている自覚はあるんじゃないかしら?」


 長兄である明とは普通の兄弟らしく話せる。年が離れているからか、兄もレイカを可愛がってくれたし、可愛がられた自覚もある。

 しかし、三つ上の寿とは昔からぶつかりがちで、嫌味の応酬のようになってしまうのだ。


「しょうがないだろ。先に生まれたものとして、言わなきゃいけないこともあるんだから」

「寿くんは言い方が嫌味なのよ。顔がいいから余計に」

「どうも」

「褒めてないわ」


 レイカはばっさりと返す。寿は涼しそうな顔で、自分のグラスを傾けていた。

 何を言っても暖簾に腕押しだ。

 まったく、気分を晴らしにきたのに、気に食わないことばかり起こる。


「あのオーディション、ダメだったみたいだな」


 するりと切り出された話に顔をしかめたくなったが、それを見せることさえ癪。

 やっぱり知っていた寿に顔を背ける。冷静を装ってグラスを傾けた。


「耳が早いわね。まぁ、しょうがないわね。キャラクターがあたしに合っていなかったし」

「可愛らしいヒロイン役だったもんな」


 からかうような兄の口調にレイカは唇を尖らせる。事務所で告げられたことをこんな場所でも聞くことになるとは。

 こういうときだけ鼻が利くんだからと肩をすくめたい気分になった。


「オーディションに落ちて悔しいのはわかるが、あまり遊びすぎるのはどうかな」

「自分のことを棚に上げてよく言うわ」


 兄の遊び癖を知らないわけがない。我が家の男はよく遊ぶ。それが芸の肥やしと言わんばかりだ。


「男と女は違うだろ」

「そうね、この世界では特にね」


 にっこり笑って言い放った一言に、寿の頬が引きつった。

 藤間の家は歌舞伎の家だ。何百年と続く名跡をずっと継承している。名跡を告げるのは男であり、女に生まれた時点で、家での扱いは決まってしまう。

 もちろん、大人しくしている気はなかった。だが、祖父の歌舞伎に憧れたレイカの夢は、永遠に叶うことはない。


(お祖父さまの芝居はすごかった)


 今でも目を閉じれば浮かんでくる残像が、レイカに苦い思いをさせる。

 家の話になると話せることは少ない。次男である寿も、女であるレイカも思うところがあるからだ。沈黙を破ったのは寿だった。


「マネージャーも辞めたんだろ?」

「……そんなことまで知ってるの?」


 グラスを少し傾けて、寿が氷を鳴らす。

 レイカの事情はまだしも、マネージャーのことまで知ってるなんて、どういう情報網になっているのか。一度寿の横顔を睨んでみたが、彼は微笑むだけだった。


「辞めて清々してるわ」


 肩をすくめて答える。

 レイカのマネージャーが辞めたのが一か月ほど前。ちょうどオーディションの直前。

 忙しいときに辞めてくれたと思いはしたが、恨む間もないほど忙しかった。それから一人で、スケジュールの管理や移動の手配をしている。


「芝居以外のことに時間を取られるのは面倒なんじゃないかい?」

「よくご存じだこと!」


 兄の言葉にレイカは思わず鼻で笑ってしまった。兄弟だからわかるのか、レイカには寿のことはわからないのだけれど。

 芝居に没頭したいときに、現実のことを考えるのは邪魔でしかない。

 マネージャーもいない今、舞台以外の仕事はすべて断っていた。


「レイカは性格がきついからなぁ。優しくしてやりなよ」

「大きなお世話よ。大したことしてないわよ。あっちの根性がないだけで」

「……お前は、それだからなぁ」


 寿の瞳が呆れたような色になった。こういう時はお説教と大半が決まっているのだ。

 少し身構えて兄の言葉を待つ。


「この業界に関わる人間の全員が、元々芝居に関わる家ってわけじゃないんだぞ?」

「わかってるわよ」

「いや、わかってない」


 と、寿はばっさり言いきった。

 とんと眉間を指で押される。顔を上げれば、マジメな顔をした寿にじっと見つめられる。

 居心地が悪く、体をゆすった。寿がレイカに顔を近づけ声をひそめる。


「天才が凡人のことをわからないのは仕方なくても、知ろうしないと足元をすくわれるぞ」


 ぐっとドロドロとした黒い記憶がレイカの喉元まで上がってくる。

 蘇った痛みの記憶。溢れる前にすぐさま蓋をする。

 余計なお世話だ。天才も何も、寿は男というだけでレイカの手に入れられなかったものを手に入れているのだから。

 レイカは空になったグラスをテーブルに置いた。


「ご忠告ありがとう。今度はそうするわ」


 席を立つ。今度は引き止められなかった。

 店を出ると相変わらずの人ごみが広がっていた。こんなに人がいるのに、レイカの求める人はいない。


「新しいマネージャーか」


 芝居を中心とした配慮。仕事場に遅れない送り迎え。あとは、オーディションの情報でも取ってくれれば最高だ。

 レイカがマネージャーに求めるものは少ない。その少ないものを満たす人間さえいないのだから、どうしろと言うのだ。

 レイカは明日の仕事について考えながら、家に帰った。

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