貝殻
耳に当てると潮騒が聞こえる。小さな貝殻の中にも、目の前に広がる海が入っているんだ。小さかった私はそう思って、手当たり次第貝殻を拾い集めてた。
結局その日はお母さんに止められて、持って帰れたのは3つだけだった。私と、仕事で海に来れなかったお父さん、それからもうすぐ生まれてくる弟の分。
お姉ちゃんとして貝殻の不思議を教えてあげないといけない。そう意気込んでいた。
「——だから、もういいんだって!」
弟は大声をあげ、棚の上にあるものをすべてひっくり返す。その中には、私があげた貝殻もあった。
落ちた貝殻を拾おうとしたけど、それを見た弟に阻まれる。
「こんなもんがあるから、姉さんはそうやって……」
私を押しのけると、弟は貝殻を拾って立ち上がる。そのまま部屋を出て行こうとする弟を、私は縋るようにして追いかける。
サンダルを履いて、玄関を出ていく弟。
——待って。お願いだから、それだけは。
ドアを開けてすぐ。目の前に広がる雑木林に向かって、弟は目一杯腕を振りかぶる。
私が静止するのも聞かず、貝殻はそのまま放物線を描いて消えていく。
「……これで、もういいだろ」
玄関の冷たい床にへたり込む私を横目に、弟は吐き捨てるように言葉を放つ。
私と弟の繋がりを示す、唯一のものだったのに。
「一体どうしたの!」
リビングからお母さんが出てくる。あぁ、もしかしたら今ならお母さんにも。
そっと手を伸ばそうとするが、弟がその手を勢いよく払いのける。
「なんでもないから」
そう言って、そのまま弟は自分の部屋に帰っていく。さっきまで貝殻を握っていたはずの手には、もう何も握られていなかった。
感情の昂りを隠しきれていない弟を、お母さんはため息をつきながら見送る。
「……ま、塞ぎ込んでるよりはいいんだけどね」
お母さんはそのままリビングに引っ込む。廊下には私一人が取り残された。
弟を追いかけようか、貝殻を拾いに行こうか。結局はどちらをする勇気も出ず、お母さんを追いかけてリビングに入る。
いつも通りソファの右側に座っているお母さんは、ゆっくりとお酒の入ったグラスを傾けていた。
「我が家もおかしくなっちゃったもんよねぇ」
そう呟くと、グラスを一気に煽って空にする。
お母さんはそのまま勢いよくグラスをローテーブルに叩きつける。
「……そんなに?」
「お父さんは外に女作って帰ってこないし、あの子はずっと何かに怒ってる」
自嘲するように笑うお母さんは、空になったグラスをくるくると手の中で遊ばせる。それに合わせて響くグラスと氷がぶつかる音が、嫌にリビングに響く。
「……その何かってのは、私も含まれてんだろうけどさ」
もう一度お母さんはグラスを傾けるが、先ほど空にしたことを思い出したようで手を止める。
さっきとは違い、今度はゆっくりとグラスを置く。
「そんなことないよ」
「きっと恨んでんだろうね。自分でも、それも仕方がないと思うし」
あぁ、いつものやつだ。
お母さんはこれから、聞いてる私が嫌になる程自分を責める。そんなこと、誰も思っていないのに。そしてそのまま泣き出して、最後には疲れて眠ってしまう。
まあ今日は金曜日だし、多めに見てあげよう。きっとこんなとこ娘には見せたくないだろうし。
「私、部屋に戻るね」
「……ごめんなさい」
お母さんは手で顔を覆い、そう呟いた。
私は聞こえないふりをしながら、そのままリビングを出る。
階段を上がって、喧嘩した弟の部屋の前に立つ。部屋の中はきっと、さっきの荒れた状態のままなんだろう。
「……怒ってる?」
そっと問いかける。部屋の中から返事はない。
やっぱり怒ったままだ。
「ごめんね。私だって別に——」
「知ってるよ。何年一緒にいたと思ってんのさ」
弟の声が聞こえる。その声音に怒りはない。なのに、さっきまでと同じように震えている。
「ただ、どうして俺だったんだろうなって。親でも恋人でもない、ただの兄弟の俺がどうして……」
そう言うと、扉の向こうから嗚咽が聞こえてくる。
きっと今日はもうお話できそうにない。私の存在は、ずっとこの家を悲しませている。
だからきっと、本当はこのまま消えた方がいいのだ。
わかっている。わかっているのに。
結局怖くなって、私はこう聞いてしまう。
「また、来てもいい?」
「……うん、当たり前だろ」
弟にとっては、そう答えるしかないことを知っている。知っていて聞いてしまう。
意地悪なお姉ちゃんでごめんね。
ひとり口の中でつぶやき、私は扉の前から離れた。
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