第3話


         ※


 私の名前を言い当てた男は、がっしりと私の上腕を掴んだ。あまりの強さに抵抗する気も起きない。万力で締められる、とはこういう状態を言うのだろう。

 男は勢いよく壁面に中断蹴りを見舞い、一撃で開放。その奥に続く階段を駆け下りた。


「ほら、もっと早く走れないのか!」

「あっ、え? ちょっと!」

「よく聞けよ、神矢忍・一等陸曹! あんたには、俺の人質になってもらう!」

「ひとじ……ち……!?」


 あり得ない。こんなこと、あり得る話ではない。

 自衛隊の、それも特殊部隊の人間が、なんらかの反社会的組織の人間に人質扱いされるとは。

 私はさぞ間抜けな顔をしていただろう。鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、こういう時の私の顔を言うのかもしれない。


 すると唐突に、男が走行速度を緩めた。私も止まろうとしたけれど、前につんのめって男の背中に激突する。私は咄嗟に腕を顔の前で交差させ、反動を押さえ込む。


 しかし男は、足元から頭頂部までぴくりともしない。その代わりに、さっと振り返って私の頬を片手で掴み込んだ。


「ふみゅ!」

「お前、俺が誰か分かるか?」


 この時、男が私を焦らせなかったのは幸いだった。お陰で、私は少しは理性を取り戻せたと思う。となれば、男の問いかけにきちんと答えるべきだろう。そして正解しなければ。彼の気が変わって、いつ絞殺されるか分からない。

 彼の銃撃戦における能力はずば抜けているのだ。私を殺しても、彼が別な誰かを人質にするのは容易なことだろう。


 まともに思考回路が働いたのはここまでだ。頬を押さえられている都合上、きちんとした呼吸ができない。私は四肢をバタつかせ、男の腕に無数の拳を打ち込んだ。


「ああ、窒息しかかってたのか。すまない」


 男はゆっくりと私を床に下ろし、自分の腰に手を当てて私を見下ろした。


「改めて訊きたいんだが、あんたは俺を知っているか?」

「知ってるも何も……」


 私はぺたんと尻餅をついたまま、こくこくと頷いた。

 ヴィル・クライン。アメリカ合衆国大統領直轄部隊『アイアン・コール』の元隊員で、引退前の階級は特務少佐。主に中東地域での実働部隊の現場指揮にあたる。

 何らかの原因で妻と死別。子供はなかった。そのままアイアン・コールを脱退。

 再婚することなく、経歴を詐称して一般人としての生活を送る。


「それが四年前のことで、現在のあなたは四十二歳」

「よく知ってるな、神矢」

「ええ、あなたは日本でも有名ですもの。史上最凶の仮想敵として、自衛隊の人間なら誰もが一度は聞くはずよ。あなたの名前を……」


 それを聞いて、ヴィルはこくこくと頷いた。

 特A級のテロリストとして名高い彼のことだ、きっと妻のことも、不仲になって彼が殺害したのだろう。そうでなければ、誰が彼をまともな人間だと思うものか。

 いや、まだ確信できたわけではないけれど。


「概ねそんなところだ。で、神矢忍・一等陸尉。俺はあんたに人質になれと言ったわけだが、携行火器は全て放り捨ててきたな?」

「ふ、ふん、私が素直に教えると思う?」

「そうか、やはり弾切れだったか」


 まずい。心を読まれた。

 安心したのか油断したのか、ヴィルは拳銃の弾倉を交換しながら先へと歩き出した。こちらに背中を見せている。

 人質と呼ばれるにしてはいまいち緊張感に欠けるものの、立場上ヴィルが圧倒的優位に立っていることは間違いない。

 こうなったら、同伴するしかないだろう。


 翌日の各新聞社の一面で、ヴィルと私はトップを飾ることになるかもしれない。

 少なくとも、よくある芸能人の不倫現場よりは映える紙面になるはずだ。


         ※


 階段を下り続けることしばし。

 私たちは、互いに差し障りのないような会話を続けていた。

 これのどこが人質扱いなのか。幸か不幸か、私はそれを訝しんでいた。


「あなた、人質を取ったってことは、何かこれから行動を起こす気満々、ってことよね」

「決まっているだろう。何もあんたをナンパしたわけじゃない」

「何をする気?」

「流石に俺でも教えてやらんぞ。あ、ここ錆びついてるから気をつけろ」


 なんとも親切なことである。


「でもあなた、妙に日本語が堪能よね。どうやって勉強したの?」

「慣れた。ここ一年は、この国に滞在してたからな」

「ふぅん?」


 そういうものなのか。一年かかって一種類の未知の言語を使いこなす。本当にそれを成し遂げたとすれば、かなり効率的な方法を取ったのだろう。誰かと話しまくるとか。

 そんなことを考えていたら、急に私の足から力が抜けた。私がふらつくのを察したのか、先を行くヴィルは振り返って、階段を踏み外した私を抱き留めた。


「おい、何をやってるんだ。社会科見学じゃないんだぞ」

「そう……。あなたの言う通り……。皆、死んでしまったんだ。丸山二佐も池崎くんも……」

「突然どうしたんだ、一等陸曹? てっきりもっと、肝の座った兵士だと思っていたんだが」


 ヴィルがいろいろと言葉をかけてきたが、どれも認識できなかった。

 それはそうだろう。一個のチームとして訓練に明け暮れてきた皆が、何人も殉職してしまったのだから。言葉など頭に入ってくるわけがない。


 そんな私を見るに見かねたのか、ヴィルは立ち上がってぽん、と私のヘルメットに手を載せた。そして、ようやく私にとって意味のある言葉を発してくれた。


「死んじゃいないよ、誰一人」

「……え?」


 涙がぼたぼたと流れていく間に、目元も鼻先も拭うことなく、私はのろのろと顔を上げた。


「まあ勘弁してくれ。あんたらの練度が高かったから、しばらく眠っていてもらう必要があったんだ。さっきの戦闘で、俺は実弾を一発も使っちゃいない。そりゃあ、鮮血は飛び散っていたが、あれは出血しやすい部位を俺が狙ったからだ。額とかな。だからあんたも、あんたのお仲間も、殉職なんてしちゃいない」


 私の顔は酷いものだったと思う。涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃになって。

 だが、目だけは違うはずだ。丸山二佐や池崎一尉が生きている。それだけで、私は心を取り巻く寒気が一瞬で消し飛ばされたように思った。


 ここで号泣されては困ると思ったのだろう。ヴィルは拳銃を取り出して、分解作業を始めた。拳銃には細かい部品がたくさんあり、組み立てるには慣れが必要だ。それをこんな薄暗い中でやってしまうのだから、それだけでヴィルが歴戦の猛者であることは疑いようがない。


 私が一通り涙を流した後、ヴィルはハンカチを取り出し、返す必要はないと言った。

 持っているなら、さっさと貸し出してほしかった。無論、そんなことを議論できる仲ではないけれど。


 それでも、僅かながらヴィルの声に緊張の色が混じっているのを、私は聞き逃すことはなかった。

 さっと視線を上げ、かと思えばすぐに足元をじっと見つめる。


「挟み撃ちか。遊び過ぎたな。ほら、行くぞ一等陸尉殿」

「はっ、はいっ!」


 ヴィルはくるりとこちらに背を向け、再び階段を下る方へと駆け出した。

 対する私に行く宛てはない。こうなったら……。

 いざという時の抑止力たるべく、ヴィルの背中を追い始めた。


         ※


『グリーンフィールド』。通称GF。特定の人物に対して盗聴・追跡を行い、少人数で目標を排除する。その目標というのは、日本に害を為さんとする輩であり、国内外を問わず活動しているという。

 彼らが誰を狙っているかはその時々によるが、任務達成率は百パーセント。特にここ数ヶ月、出動が多い。今回のヴィルの所在を掴んだのは彼らであり、その嗅覚を活かして我々を追い詰めていくつもりだろう。

 この閉鎖的な空間は、GFにとって絶好の狩場だ。まあそれはお互い様で、ヴィルを相手にして無事に帰還できるかどうかは不確かだが。


「一人で歩けるか、神矢?」

「え、ええ。さっきはごめんなさい、ちょっと……」


 私が突然号泣してしまったことを謝ろうとすると、ヴィルは振り返って私の側頭部を殴りつけた。ヘルメットの上から打撃を受けたので、痛くはない。代わりに多少、頭がくらくらする。


「きゃっ!?」

「お前なあ……。自分の言動に矜持ってものはないのか? プライドでも格好のつけ方でも、呼び方は何でも構わないが」

「は、はあ……?」


 私が首を傾げると、今度はヴィルが項垂れた。自分の後頭部をぐしゃぐしゃと手荒く撫で回す。


「いいか? 俺はあんたの敵だ。ほら、ニュースでもよく見ただろう、この顔を?」

「そ、それはそうだけど……」


 豊かな黒髪に、切れ長の青い瞳。頬はやや細く、こけていると言ってもいいくらいだ。

 善人とも悪人とも取れる表現だが、その瞳の中に猛禽類のような鋭利な感情が映っているのを、私ははっきりと見て取った。


「何の縁かは知らないが、あんたは俺の人質だ。簡単に死んでもらっては困って――」


 とヴィルが言いかけた時のこと。足元から大きな横揺れが湧き上がってきた。

 外が明るくなっている。


「行くぞ、神矢一等陸尉」


 言いながら、ヴィルはバックパックから散弾銃を取り出した。

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