1-2

***


「ん、んぐ……今……何時だ……?」

ついつい授業中にうとうとしてしまった俺が昼寝から目を覚ますと、教室には誰もいなくて、世界が不自然なほどに赤く、紅く、朱く緋く、本当に目が痛いほど赫かった。

明らかに普通じゃない。寝すぎて目がイカれたとか、そんな単純なことじゃない。何かがおかしい。

とにかく俺は脳みそを手繰って現状を説明できる合理的な原因を探り出そうとする。

「なんだこれ……魔術……魔……「結界」……?」


どくん、と心臓が鳴った。突然、一昨日真田とした会話が脳裏に甦る。

「魔獣、って、マジ……?」

どくん、どくん。心臓の鼓動がどんどん早くなる。

魔獣が狙うのは、強力な魔法使いだ。俺が巻き込まれて、一番困る人。守らなければならない、人。

心臓が喉元で激しく跳ねる。胸が焼け付くような感覚が広がり、まるで身体が崩壊していくような痛みが走った。だが、それ以上に焦燥が俺を駆り立てる。



「真田!!!!!」

俺は机を蹴り飛ばすようにして立ち上がり、走り出す。違うならそれでいい。むしろ、間違っていてくれ。思い過ごしであってくれ――そう祈りながら、廊下を走ってA組の教室へ駆け込む。

バァンと開け放ったA組の教室には、――誰もいなかった。


「なんだよ、おどろかせやがっ――」

背後から強烈な衝撃を受けて、言葉が途切れる。


机や椅子の散乱する教室の中で振り向くと、そこにいたのは……バケモノだった。

廊下の天井に逆さまにぶら下がり、コウモリのような翼を広げ、人間の体に異形の顔を持つ……魔獣。


「魔獣……!? いや、怪人かよ……!」


きぃいいいいんという、耳をつんざくような高音が響いた。次の瞬間、コウモリ怪人が俺に襲いかかる。

「ぐぁ……、は、はなせぇ!!」

鼓膜が破れそうなほどの騒音が頭をかき乱し、俺は頭を抱えた。だがその瞬間、怪人は俺を抱え、窓を突き破って飛び出した。

砕け散るガラスと衝撃が全身を襲い、悲鳴が喉の奥から絞り出される。

「あぁぁ……!!! はっなせぇ……!!!」


怪人は飛べるほど強力な力を持ちながら、俺を抱えているとバランスが取れないのか、グラウンドに墜落した。

ずしゃっと大地に落ちて転がり、怪人との距離を取る。慌てて自分の体を確認すると、制服が所々破れ、血が滲んでいた。

「うわ……また妹に怒られる……」

そう呟きながらも、心の中ではそれどころじゃない。


「もう破れてるなら、これ以上破れても五十歩百歩だな。覚悟しやがれ……」

怪人に向き直り、拳を構える。もし、こいつが噂の魔獣なら――もし、真田が襲われるようなことがあれば……俺は、俺を許せない。


「キシャァ……」

転がっていた怪人も起き上がり、鋭い爪が生えた両腕を広げた。向こうも、俺を仕留めるつもりらしい。


「うぉおおお!!」


叫びながら俺は殴りかかる。しかし、拳が相手に当たっても、怪人はまるで痛みを感じていないかのようだった。


「硬い……!? 何だこの質量は……!」

怪人の体に少年漫画雑誌を殴っているかのような質量を感じ、うろたえてしまう。

「キシャシャシャ!!」

甲高い笑い声を上げた怪人が、爪を振り下ろす。

「ぐぁ……っ!」

肩や胴を切り裂かれ、熱い血と痛みが全身を貫く。くそ、めちゃくちゃ痛い。

「シャシャシャ!! シャシャシャ!!」


怪人の攻撃は続き、俺は腕や肩に重傷を負い、最後には蹴りで吹っ飛ばされた。

「ぐ……う……」

呻き声をあげながら倒れ込む。激痛に悶え、動けない。だが、目の前の怪人が、俺を仕留めずに結界の外に向かっているのが見えた。

「まさ、か、結界の外に出ようとしてるのか……?」


真田の顔が脳裏に浮かぶ。俺はどうにかして、力を振り絞り、立ち上がろうとした。

「まだ、終われないんだよ……! 待ちやがれ、コウモリ野郎……!!」


結界の亀裂へ歩くコウモリ怪人が、振り返る。

どくん。

俺の腹の奥から、熱い鼓動が響いた。

立ち上がりはしたものの、俺にできることなんて、たかが知れている。俺は魔法使いじゃない。特別強いわけでもない。なのに――

それでも、絶対に譲れないものがある。そうだろ。


怪人がじっと俺を見つめる。その目は、もう死んだ獲物を見るような、冷たい視線。俺が諦めていないことに、怪人は一瞬、戸惑ったようだった。だが、次の瞬間には鋭い爪を光らせ、再び俺を仕留めるために走り出してきた。


『――今度こそ』


また、あの声が聞こえる。優しい声が脳裏をかすめる。俺の中で、何かが叫んでいる。このままじゃダメだ。守れなかったあの日の後悔を、二度と繰り返してはいけない。

ついに失血で幻聴が聞こえ始めたのかもしれない。だが、それでも構わなかった。今、この瞬間の俺には、それさえも力に変えられる気がしていた。


怪人が鋭い爪を振り上げ、すぐ目の前まで迫ってくる。


『――を守って』

再び、声が響く。今度は冷静さを失っていた俺の心臓をつかむように、強く、はっきりと。体の奥底から、何かが爆発するような感覚が走った。


どくんどくんどくん――

心臓の鼓動が、まるで世界の中心で鳴り響くように、俺の体中に力が満ちていく。もう痛みすら感じない。ただ、熱い力が拳に込められていく。燃え上がるような感覚と共に、湧き上がるのは圧倒的な――


『――君に貸すこの力は、終焉。呼び覚ます言葉は』

背骨に冷たい電流が走る。誰かが俺の全身を貫くように語りかけてくる。その声に覚えはない。記憶にもないはずの声だ。それでも、確信があった。俺はその言葉を知っている。


怪人の爪が迫り、振り下ろされる瞬間、俺の全身が反応する。抑えきれない力が、拳に集中する。まるで鉄の塊が体を突き破り、拳へと変わっていくかのように――


「うおおおおおおおお!!! 『オメガ』ァ!!!」


全身に溢れる力が爆発したように俺を包み込む。拳が鋼のように硬く、重く、まるで自分の体ではないような感覚だった。怪人の鋭い爪が俺の拳と交錯し、ギギギ……と軋む音を立てて爪がひしゃげていく。


「オメガ……! 力をよこせ……!」


俺は自分の姿を見下ろす。そこに映るのは、人ではなく、黒く鎖に繋がれた怪物のような姿。しかし、驚きも戸惑いもなかった。この力がどうして生まれたのか、そんなことは今どうでもいい。今、俺はこの力の使い方を感覚で理解していた。このまま、この怪人を倒せる。


圧倒的な力が全身を駆け巡る。硬く、重く、壊されることのない荒々しい力だ。これは、もう一度守るための力。あの日に果たせなかった約束を守るための力だ。


「キシャア!?」


怪人の赤く血に染まった爪が崩れていくのを見て、奴は驚愕に満ちた目で俺を見上げている。先ほどまでとは逆だ。俺の体はもうこいつの攻撃では傷つかない。全身が力に満ちて、むしろ生まれ変わったように感じる。


「コウモリ野郎、仕切り直しだ。覚悟しろ」


ガッ。地を蹴り一瞬で距離を取ろうとした怪人に、俺は容赦なく拳を叩き込む。ドゴ、と鈍い音が響き、奴の体が衝撃で動けなくなる。

武器は持っていないが、この至近距離では俺の拳が一番強力な武器になる。


「逃がすわけないだろ?」


俺の拳が乱打されるたびに、怪人の体が壊れていく。先ほどまでの攻撃では感じられなかった衝撃が、今の俺の拳なら簡単に貫通する。ドゴ、バキッと骨の砕ける音が響き、怪人は膝をついた。


「ああ、今ならわかる。お前らが欲しかったのは『これ』なんだな」


弱った怪人の胸には、赤く輝く魔力の結晶が埋まっている。俺はそれを一目で理解した。どうやら俺の中にある力は、こいつらと同じものだ。けれど、それが俺にとって問題になることはない。


「要するに、そいつを失えばお前は終わりだってことだろ?」

拳だけじゃダメだ。結晶を砕くにはもっと強力な一撃が必要だ。この一撃で全てを終わらせる。

だが、なぜかそのやり方を俺は知っている。記憶にはない知識が、俺の中で勝手に動いていく。


「とにかく、終わらせてもらう」

拳では限界がある。もっと体重を乗せられる場所、全身の力を込めるためには――キックが最適だ。俺は右足に全力を込める。


腹の奥から治らない鼓動が響き、力が集まっていく。青い波動が中心から広がり、右足に収束する感覚がはっきりとわかる。

「オメガ……! フェイタルインパクト!!」


怪人は、立ち上がることもできずに俺のキックを迎え撃とうとするが、胸の前に腕を組んだだけでは防ぎきれない。蹴りが胸元に打ち込まれた瞬間、衝撃が怪人の全身を包み、蒼い結晶に包まれた。


バキィ、バァァン! と結晶が砕ける音が響き渡り、後には赤く光る小さな結晶だけが残った。


「これが、怪人の心臓部ってことか」


俺は拾い上げた結晶を見つめた。光を反射して、そこに俺の顔が映っている。

「……?」


違和感を覚えて、校舎のガラスに近寄った。ガラスに映っていたのは、黒いボディに二本のツノが特徴的な、鎖付きの鎧を纏った戦鬼だった。


「これが、『オメガ』……」


俺の体を覆っていた鎧が、ゆっくりと消えていく。先ほどの結晶と同じように、黒い鎧はまるで幻だったかのように消え去り、ガラスには見慣れた自分の顔が映っていた。


「終わったのか……?」


戦いが終わり、結界もゆっくりと消えていく。周りには他の生徒たちの姿がちらほら見え始めていた。だが、俺の破れた制服だけは、元に戻ることはなかった。


「ちくしょう、また妹に怒られるな……」


そう呟きながら、俺は自分の教室へ戻り、ジャージに着替えることにした。


これが始まりの日の顛末だ。

この日から俺は、生まれ変わった。



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