黒と赤

1-1.始まり(オメガ)の日


「まだ、終われないんだよ……! 待ちやがれコウモリ野郎……!!」


 俺は地面に這いつくばったまま、血まみれの拳に力を込めた。普段の学校の風景なんかじゃない。空は真っ赤に染まり、地面には俺の血と魔獣の息が渦巻く。身体中が痛みに悲鳴を上げているが、それでも立ち上がらなきゃいけないんだ。


 目の前の魔獣が足を止め、冷たく振り返った。人間とコウモリを混ぜ合わせたようなグロテスクな顔。そいつの目が俺をじっと見据える。まるで、「次はない」と言わんばかりに。その不気味な瞳に、俺は負けじと睨み返した。胸の奥で、何かが熱く燃え上がる。


『――今度こそ』


 瞼の裏に浮かぶ、優しい声。あの声だ。耳に焼き付いて離れない、あの時の声……。俺はこの声を忘れたことはない。そして、あの日の後悔を繰り返すわけにはいかない。失血で身体はもう限界に近い。それでも、俺は立ち上がった。


 コウモリ魔獣が不気味な超音波を放ちながら突進してくる。次の一撃で俺を終わらせるつもりだ。爪を振り上げ、狙うは俺の心臓。


『――を守って』


 その声が、再び脳裏に響いた。涙と一緒に流れたあの日の記憶。あいつの笑顔と、悲しげな瞳。俺の身体がそれに反応し、動き出す。身体の痛みが消えていくような感覚が広がる。心の奥底から熱がこみ上げ、俺を突き動かしていた。


「あいつには、指ひとつ触れさせない……!!」

 俺は叫び、拳を強く握り締めた。次の一撃にすべてを賭ける!

 もう後戻りはできない。コウモリ魔獣の爪が目前に迫る。俺の拳もまた、運命を決するべく振り上げられた。


『――君に貸すこの力は、終焉。呼び覚ます言葉は』

 瞬間、爪と拳が交差する。全身の血が沸き立ち、魔法ことばが自然と俺の口から溢れ出した。

「うおおおおおおおお!!! 『終焉オメガ』ァ!!!」


 その時。俺の全身を鋼鉄の鎧が包み込んだ。まるでそれは、鋼の戦鬼。

「最強」のイメージが俺の身体を支配する。それは二度と、誰にも壊されないための力……。


 その瞬間、俺は生まれ変わった。


 鋼鉄の装甲に包まれた身体は、さっきまでの満身創痍を忘れたように動く。

 コウモリの翼腕から放たれた爪撃を、俺は悠然と受け止められる。痛みはもうない。まるで、時間が止まったかのように、魔獣の動きさえスローモーションにすら見える。


 思考が加速し、この殺し合いの死の流れが俺には見える。無我夢中で振り抜いた拳が、真っ直ぐに魔獣の腹部へと抉り込んだ。

 メキメキと組織が壊れる音が耳に響く。だが、魔獣は吹き飛ばない。拳の衝撃が、そのまま肉に吸い込まれていく。


 血と何かの体液が飛び散る中、俺はさらに腕を伸ばし、魔獣の首を狙った。革のような硬い皮膚を裂き、指が魔獣の肉に深く食い込む感触。握りしめた力を解放する。


「今、終わらせてやる」


 全身に魔力が溢れ出し、その熱を思いのまま操れる感覚が広がる。まるで初めて呼吸の仕方を思い出したかのような全能感が俺を満たしていく。これは俺に与えられた力だ。俺が手にした「終焉オメガ」の力。


 俺の戦いが、ここから始まった。


 ***


 時は遡って数日前のこと。

 俺こと朝霧 百々目どどめは、鴨野橋魔法学園かものはしまほうがくえんに通うFランクの魔法使いだ。……いや、正確には「魔法使い」と呼ばれるだけの存在。魔法はほとんど使えないし、周りの連中からは「無能ロスト」と馬鹿にされている。肩身の狭い生活だ。


 もちろん、食べることに困るほどじゃない。だが、贅沢なんて夢のまた夢。中の下を滑るような人生だ。何か特別なことがあるわけでもない、ただの日常。だが、悪くはない。何もないけど、そこにはささやかな安定があった。

「無能」と呼ばれることにも、正直慣れっこだ。最初は腹が立ったり、情けないと思ったりしたが、今ではそんな感情も薄れてきた。

 クラスメイトたちは俺を軽んじるし、教師たちも同じだ。Fランクという烙印を押された以上、俺の社会での価値はそんなもんだ。

 平凡だが、妹と共に生きていく日々。それが俺の目指す未来だった。何もないけど、そこにはささやかな幸せがあった。俺はそう信じている。


 統一歴元年。

 今から2000年以上前の話を少しだけしよう。

 その時代、世界は未曾有の大戦争に見舞われていた。人々が語り継ぐところによれば、それは本当にひどい有様だったという。海は大荒れ、嵐が絶えず世界を襲い、火山は大地を焼き尽くすように次々と噴火した。人々は大地の上で、互いに命を奪い合い、殺し合いが絶えなかった。


 その戦争の中心にあったのは、「世界樹の実」だった。長く続いた戦争の理由が、この一つの果実だったとは、今思えば皮肉なものだ。三つの大国がその力を巡って争い、果実の持つ莫大な魔力を手に入れようと血を流し続けた。


 だが、戦争が最高潮に達した頃、世界樹が枯れかけた。根源たる魔力の源が失われると、世界そのものが崩壊するかのように、全てが狂い始めた。海はさらに荒れ狂い、火山の噴火はますます激化し、大地では命を賭けた殺し合いが止まらなくなった。


 そこで、三つの王国の王たちは、ついに戦争を止めることを決意した。彼らはそれぞれ、自らの命を世界樹に捧げることで、戦争の終結を誓ったのだ。王たちの犠牲によって、世界樹は再び力を取り戻し、海と火山を鎮めた。その瞬間、七色の光が世界中を包み込み、世界は静寂を取り戻したという。


 こうして、長く続いた戦争はようやく終わり、代わりに「紋章魔術」という奇跡が世界に降り注いだ。人々はこの奇跡に感謝し、平和の時代が訪れた。要するに、「喧嘩はよくないね」という、おとぎ話のような教訓が残ったわけだ。


 統一歴2025年――現代

 それから2000余年。世界は大きく姿を変えた。今では都市開発が進み、鉄筋コンクリートの建物が空を突き抜け、アスファルトの道路が無数に敷かれている。発動機や電気エネルギーの力を借りて、技術は飛躍的に発展した。だが、それでもなお、魔術はこの世界で特別な地位を保ち続けている。


「紋章魔術」は依然として、世界の中で重要な役割を果たしている。現代において、優れた魔法使いたちは社会のあらゆる場面で活躍している。治安維持部隊や役所の職員に至るまで、公的な業務に従事する魔法使いたちは、その力によって他の人々よりも優遇された生活を送ることができる。


 統一議会は、その頂点に立つ魔法使い集団である。彼らは世界の秩序を管理し、魔術の力を基盤に社会を動かしている。魔法使いが上に立つこの世界では、それが当然とされている。魔術が存在する限り、この秩序は揺るがない。

 だから、また世界樹の実が実れば世界は今度こそ変わる――。

 そう信じるやつらが、蠢き始めていた。

「オラ、ロストはとっとと焼きそばパン買ってこいやぁ!!」


 どげしっ。

 不良の生徒に勢いよく蹴飛ばされた少年が、ひぃひぃ言いながら教室を飛び出していった。背中を丸め、逃げるように走るその姿を、まるで小動物でも見るかのように教室中の笑い声が響く。


「ひゃはは、タクくん容赦ねーっ! あははは!」

 タバコを片手にした取り巻きの生徒たちが、くだらない冗談を飛ばしながらゲラゲラと笑い声を上げる。彼らにとっては、これが日常であり、何も特別なことではない。


「いやいや、ロストなんてのは社会のゴミなワケ。つまり俺らボランティアで掃除してやってんのよ! ぎゃははははは!」

 側頭部を刈り上げ、耳にはやたらと目立つピアスをつけた不良が、ゲラゲラ笑いながら太ももを叩いていた。その笑い声は、教室全体に響き渡る。クラス全員が、何も疑問を抱かないかのように、その光景をただ見つめている。


 ――えーと、つまり、紋章魔術が使えない人間は「ロスト」と呼ばれ、社会の最底辺に位置しているってわけだ。才能を持つ者と持たざる者。この明確な構図の中で、俺たちロストはどうしようもない存在として扱われている。太古の王様たちが、もっと平等に紋章を配ってくれていたら、こんな世の中にはならなかったのかもしれない。


 そんなことを、ぼんやりと考えていた時だった。


「おい、テメェもロストなんだって?」


 不良の一人が、俺に目を向けて声をかけてきた。ガラの悪い笑顔を浮かべ、あからさまに侮蔑を込めた目つきで俺を見ている。


「……だとしたら?」


 俺は軽く応じたが、心の中ではすでに諦めが広がっていた。今さら何を言ったところで、相手の態度が変わるわけじゃない。そんなことはわかっている。結局、この社会ではロストはいつも下に見られる。


「パシリにしてやるよ。ロストのくせに生意気な顔しやがってよ」

 薄暗い路地でも廃墟でもなく、ここは普通の教室だ。それも、授業中のはず。だが、そんなのは関係ないらしい。不良たちは、この空間を自分たちのもののように支配している。


「力尽くでやってみろよ」


 俺は冷たく言い放った。どうせ、勉強なんてする気もない。相手が何を言おうが、どのみちこの関係が変わることはないのだから。少しばかりの反抗心だけが、俺の中に残っていた。


「で、先生。これってどっちの勝ちですか?」


 クラスの魔法使いの一人が、担任の教師に向かって尋ねた。教師はその声に苦笑を浮かべながら、教室の後方に目をやった。そこには、机や椅子が散乱し、床には倒れたままの俺と不良生徒が横たわっていた。


「うーん、両成敗かな」

 教師は軽く肩をすくめながら答えた。どこか投げやりなその態度に、俺はまた一つ諦めの感情を覚える。


 不良生徒と俺は、教室の冷たい床に這いつくばったまま、鳴り響くチャイムの音を聞いた。いつもと変わらない日常が、またここにあった。


「お前……本当にロストか……?」

 不良生徒が、内出血で腫れ上がった顔を拭いながら、俺に問いかける。俺もまた、唇が切れて血が滲んでいた。


「まぁ、一応……」


 自嘲気味に答えながら、俺はゆっくりと立ち上がった。何かが変わるわけじゃない。俺は相変わらず「ロスト」のままだ。


 ここは鴨野橋魔法高校一年F組。魔法使いのなりそこないと、底辺の魔法使いたちが集まる教室だ。俺はその中でも、さらに底辺に位置している。魔術の才能がなければ、ここでの発言権は無い。


 ただ、この何もない日々が続くだけだ。少なくとも、そう思っていた。


「で、それからどうなったの?」

 放課後、正門前で待ち合わせていた幼馴染の真田みくが、興味深そうに問いかけてくる。彼女のメガネの奥から覗く目つきが、まるで楽しんでいるかのように光っていた。


「どうもこうもないだろ、喧嘩両成敗。仲良く反省文で終わりだよ」

 俺は包帯を巻いた手をポケットに突っ込んだまま、少し疲れた声で答えた。自嘲気味に笑いながらも、真田の目の前で弱音を吐くのはなんだかしゃくだった。

「なんだ、また荒れてみるのかと思った」

 くすくすと微笑みながら、真田は俺の隣を歩く。三つ編みの髪をなびかせ、どこか余裕のある笑顔を浮かべている。幼い頃から変わらない、その飄々とした態度に、俺はいつも振り回されてきた気がする。


「死にたくなるようなこと言うなよ」

 俺はため息混じりに言った。だが、真田の返答はいつも通り軽いものだった。

「百々目は、死ねないでしょ」


 彼女の声は冷静で、どこか挑発的だった。俺の目を見つめながら、ふっと薄く笑う。その言葉が、まるで俺の内面に潜む何かを知っているかのようで、不快な感覚が背筋を駆け抜ける。


 相変わらず嫌になるほど整った顔立ちだ。まるで作り物のように完璧で、感情の読めないその表情に、俺はどうしても居心地の悪さを感じてしまう。


「……。うるさいな」


 俺は目を逸らし、歩みを速めた。何も言い返せず、ただ彼女から逃げるように前を向く。


「あはは」

 真田は軽やかな足取りで俺の前に回り込む。彼女のステップは軽く、まるで世界の重さなんて全く感じていないかのようだった。


「ところで、百々目、こんな噂を知ってる?」

 にこにこと地味な眼鏡の向こうから真田が語り出す。

「……興味ないけど、聞くよ」


 俺が諦めたように答えると、真田は目を細め、噂話を語り始めた。


「この街には、『悪の秘密結社』が存在するらしいよ」

 声を落としながら、彼女は慎重に言葉を選んでいた。まるで誰かに聞かれたくないかのように。


「それは、テロリストみたいな派手なものじゃなくて……静かに、秘密裏に動いている。彼らはこの街、いや、この世界を飲み込もうとしているんだって」


 真田の言葉は、一見すると冗談のように聞こえるが、その声にはどこか冷たい響きがあった。それに俺は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ背筋が凍るような感覚を覚えた。


「で、その秘密結社は、魔獣を利用して魔法使いを襲うらしいの。そして、魔術の力を吸収して自分たちのものにしていくんだってさ」

 真田の顔には笑みが浮かんでいるが、その内容は決して笑い事ではない。俺の中に、わずかながらの不安が芽生えた。


「馬鹿馬鹿しい話だ」

 俺は鼻で笑ってみせた。だが、内心では、何かが引っかかっていた。


「治安維持隊の人も実際に襲われてるんだって」

 真田はふっと微笑んでそう言った。まるで他人事のように、それでもその微笑みには何か隠された意図があるように感じられて、鼓動が徐々に早くなる。


「――まぁ、噂だけどね」


 その言葉が妙に軽く聞こえるのは、真田があえて軽く振る舞っているからだろうか。


「噂っていうか、怖い話とか都市伝説かよ?」

 俺は少し冷めた調子で応じた。まだ確証もない。噂の出どころもわからない。

 だけど妙なシリアスさの語りに、平静を装っていた。


「そうとも言うかもね」

 真田は笑顔を崩さずに答えた。


 夕焼けが徐々に街を赤く染め上げていく。俺たちの影が長く伸び、沈む太陽に吸い込まれるように消えていく。


「いや、そうだろ」

 俺は苦笑いを浮かべながら、再びいつもと変わらない日常に戻ろうとした。だが、真田の言葉の裏に隠された不安が、心のどこかに引っかかっている。


 真田のいつもの笑顔。夕暮れの中、それだけが変わらずに見えて、安心したような、どこか違和感を覚えるような、奇妙な感覚が残った。

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