2章 犬と老婆 その2
その昔、お婆さんは犬を飼っていた。
名前は、なな。
毎朝の散歩はとても楽しく、お婆さんは行くたびに、ななに何度も語りかけていました。
「今日はご機嫌じゃのう♪」
「雨が降らんくて良かったな♪」
「何かおった?あぁ、そりゃカナヘビじゃのう♪」
「今日はもう少し歩くかのぉ♪」
孫のいないお婆さんにとって、ななは、家族同然の存在だった。
「どしたん?」
「何か見つけた?あっち?」
「今日は元気ない?」
「あぁ、お前の気持ちが理解できればのぉ」
お婆さんは、ななの気持ちを少しでも理解したかった。
だから、いつも問いかけた。
痛い所はない?
お腹空いた?
寂しくない?
ワン!と吠えるだけ、それとしっぽの振り方で、何を思っているのか、ななの気持ちを考えた。
そんな感じで、5年間毎朝、いつも楽しく散歩へ出かけた。
ところが、ある日。
お婆さんは散歩が終わった後の、ななの様子がおかしいことに気づいた。
ほとんど動けず、息が荒く、口元から泡を吹いていた。
「なな!?ななぁ!!しっかり して!大丈夫!?」
お婆さんは、ななを抱えて大慌てで山を降りましたが、山を降りる途中で、息絶えてしまった。
お婆さんは悲しみのあまり、動かなくなったななを、抱えてその頭を撫でながら、どうして……どうして……と何度も何度も嘆いていた。
すると、お婆さんの隣を大きな散布用の除草剤タンクを担いだ業者の人が通りかかった。
除草剤タンクが目に入った瞬間、お婆さんは確信した。
山道は、雑草が多く生えている。
ななは、あの除草剤が撒かれた草むらの中を通ってしまったのだ。
そう気づいた所で今更遅い、何も考えずに除草剤を撒いた業者も許せなかったが、何よりもそれに気づけなかった自分自身が許せなかった。
後悔だけがお婆さんを飲み込んだ。
あの時、お前の気持ちに気づけていればこんな事には、ならなかったのにな。
大丈夫?痛い所は無い?
毎日の問いに意味は無かった。
だって、ななの気持ちなんて、一生分からないから。
お婆さんは山の中にあるそれなりに大きな木の根元に、ななを埋葬することにした。
何もしてあげれられなくてごめんね。
そう思いながら、何時間もかけて丁寧に埋葬した。
そして木の幹に名前を掘った。
ここがななの墓。
お婆さんが泣き腫らした顔で手を合わせる。
なな、疲れたでしょ?安らかに眠ってね。
後悔は無かった……後悔は無かった……後悔は…………いや後悔しかなかった。
どうして!?
お婆さんの中でこの事実は信じたくなかった。
信じない信じない!ななはまだ死んでない!
埋葬したななを掘り返そうとした。
その時、記憶は改ざんされた。
ななはこの山で行方不明になったと。
いつの間にか、お婆さんの真実を僕は本人から聞いていた。
ななの墓の前来た瞬間、お婆さんは自分から語り始めていた。
僕はただ黙って聞いていた。
お婆さんの面は完全に無くなっていた。
全て思い出したようだ。
ななは、既に亡くなっていて、その原因は除草剤が散布された草むらを通ったことによる、中毒死だ。
「何で、今まで忘れておったんじゃ……」
これが、面が無くなった瞬間なのか。
僕も同じように真実を知った瞬間、絶望していた。
だからこそ、かける言葉が見つからない。
「……」
ダメだ。きっと何を言っても真実を受け止めるには時間がかかる。
例え受け入れられなくても、苦しいけど時間をかけて、真実を直視し続けなければ、実感できないだろう。
お婆さんは、ななが死んだのは自分のせいだと、ななの墓の前でうずくまっている。
何度も謝りながら。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
あれ?だとしたらおかしな点がある。
僕が見た犬は、ななじゃなかったのか?
野犬?いや、だったら首輪をしているのはおかしいし、あの犬は人に慣れた様子だった。野犬では無いだろう。
あれ?それじゃあ、お婆さんが探していた、ななはまだ生きてる?
いや、生きてるはずがないんだ。だって、ななはお婆さんの目の前で亡くなった……はず…なのに、どうして?
ななの墓の影に、一匹の犬が見える。
首輪にメダル、僕が追いかけていた犬、ななだ。
お座りをして、墓の影からこっちをじっと見つめている。いや、僕ではなくお婆さんの方を見ていた。
「お婆さん、なながいますよ」
「話したはずじゃ、ななは死んだと、ななは……なな!?」
徐々に顔を上げていったお婆さんは、墓の影に居る、ななに気づいた。
「あぁっ!?」
驚いたのかお婆さんは、しりもちついてその場から後ずさりした。
「ま、まさか!?ありえん!ななはワシの目の前で動かなくなったはずじゃ!」
何が起きてる?
もし、お婆さんの話が本当なら、あそこにいる、ななは、幽霊犬だとでも言うのか?
いや、そんなはずは無い。僕は毎日会社に行く途中、この山道でななとすれ違っていた。
「なな……きっとワシを恨んでおるんじゃな」
「え?」
「ワシは、ななを見殺しにした。あの時何も出来なかったワシに、強い恨みを抱いておる」
「そんな……」
恨んでる?
僕はななを見つめてみた、ななは純粋な目で首を傾げている。
唸ったり、吠えたり、怒っている様子はまるでない。
そもそも、自分が毒で死んだことに気づいているのだろうか?気づくわけが無い。
そうだ、恨んでいるわけが無い。
「ななはあなたの事を恨んではいないと思います」
「あんたに何が分かる!?」
ななは、お婆さんに恨みを持ってきたんじゃない。
「ただ、あなたに会いに来た。それだけですよ」
「なんでそう思うの?」
「僕はこの山に、真実と向き合うために来ました。真実はななの首についているメダルを見れば分かるんです。それでずっと、ななを追ってきました」
「は?」
「僕は認めたくない真実を否定し、心の中に閉じ込めて、忘れようとした。だがそれは無理だった。真実はどれだけ目を逸らしても、逃れられない。だから僕は真実と向き合うことにしたんです、それがどんなに残酷だったとしても」
「ワシに、この真実を受け止めろと言うのか?」
「そうです」
「…だとしても、なながワシの事を恨んでなかったとしても、ワシは……ワシの犯した過ちを決して許すことは出来ん。あそこにいる、ななに触れる資格さえ無いんじゃ」
過ちが後悔となり、お婆さんを絶望させる。
どうすれば、お婆さんの心に救いをもたらすことができるだろうか?
目の前には、今もななが行儀よくお座りして、じっとこちらを見つめている。
ななは、ただお婆さんを待っているんじゃないか?
ただお婆さんに会いたくてここにいるんだ。
自分が死んだとしてもお婆さんに会いたかったんだ。それなら。
「そんな事は無いです。ななは、お婆さんに会いたかっただけなんですよ。それでも自分の行為が許せないのなら、今は一緒にいれなかった時の分まで、可愛がってあげてください。それが、ななへの報いになります」
「……」
「ななも、きっとそれを望んでいます!お婆さん、あなたはずっと、ななの事を思ってきたじゃないですか!今ならきっとあなたの思いは届きますよ」
「ななぁ!!」
お婆さんは、ななに駆け寄っていった。
不確かな事も多い。
それでも、ななは、ななだ。
お婆さんが、真実と向き合い、目の前にいる、なな(幽霊かもしれないけど)と一緒にいた時と同じように撫でてあげれば、お婆さんはこの先きっと、ななの分まで生きていける。
そう思った。だから、僕はお婆さんを後押ししたんだ。
ななは、お婆さんの事が大好きだ。
お婆さんも、ななのことが大好きだ。
離れていても、心は1つだ。
そんな、僕の甘い考えは、次の場面でぐちゃぐちゃにかき消された。
お婆さんは、ななに抱きつくように両手を広げ、近づいた。
ちゃりん♪
すると座っていた、ななもお婆さんに近寄り、その純粋な目のまま、口の中に隠していた凶悪な牙を覗かせ、口を開く。瞬間。
ガブッ!!
っとお婆さんに襲いかかってきた。
首元を噛み付かれたお婆さんは、堪らず後ろに倒れ込んだ。
「お婆さん!」
僕は飛び跳ねるようにお婆さんに駆け寄った。
そんな!どうして!?
ななは、お婆さんを恨んでるはずは無い!
「ぎゃああああ!」
「離れろ!」
僕は、お婆さんからななを振りほどこうとしたが、ななは狂犬のようにお婆さんの首元に齧り付いて離さない。
ななの目は血走り、首元の刺さった牙がグリグリと傷口を広げる、お婆さんの鮮血がどんどん溢れてくる。
「やめろっ!」
その光景に耐えられなかった僕は、思わずななを蹴飛ばした。
逃げていく、ななの事など気にも留めず、お婆さんが無事なのか確かめずにはいられなかった。
お婆さんは、ななに噛まれた首元から血が止まらない。
お婆さんを抱き起こして、何度も呼びかける。
「お婆さん!お婆さん!しっかりしてください!」
「…これで…………ええん…………じゃ」
「喋らないで!傷口を抑えて!」
僕のせいだ。
僕が勝手に解釈して、抱き締めてなんて、身勝手なこと言うからこうなった!
分かったつもりになっていた。
真実を受け入れれば、全て解決できるって思っていた。
だが、現実は違う。
お婆さんは、ななに噛まれて虫の息だ。
早く助けないと、このままでは死んでしまう。でもこんな傷どうすれば!?
「ありが……とうな」
「お婆さん!」
「あんたの言う通り……じゃった…………ワシも真実を……受け入れる…………だから、あんたも………………………………………………真実を……追い………………かけ…………て」
「お婆さん!?お婆さん!」
お婆さんは、ぐったりして倒れ込んで、動かなくなった。
いや嘘だろ。
狂犬に襲われて、お婆さんが……お婆さんが死んだ?
最初からおかしかったんだ、死んだはずの、ななが僕の前に現れて、お婆さんの元へまるで誘われるかのように向かってしまった。
僕はメダルを、真実を追いかけただけなのに。
どうしてこんなことに…。
ちゃりん♪
その時、後からメダルが落ちる音が聞こえた。
なながやって来た。
そう思って後ろを振り返った僕は、その有り得ない光景に、固まってしまった。
「なんで…で、電車!?」
そんな!山の中だぞ!
どこから来たのか、はたまたどうやって来たのか。
線路も何も施されていない山奥に、1両の電車が突然現れたのだ。
地方を走るローカル線の電車だ。車に乗り始めてからは乗ることは無くなった。
幾ら目をこすっても間違いなく、僕の目の前には電車が、停まっている。
これは現実なのか疑った方がいいレベルだ。どう考えても夢だ、それか幻覚を見ているんだ。
僕がそうやって疑っていると、電車の窓に明天(あす)の姿が見えた。
明天はメダルを、指で弾いて空中で回転させながら、こちらを凝視している。
明天の手元など見えないはずなのに、そのメダルには鮮血が付着しているように、見えた。
賽銭箱に落として、ななの首輪に付いていた、血塗られたメダルが。
「まだ、見られてますね」
電車の中で明天がそう、言っているように聞こえた。
明天、僕はお前に聞きたいことが山程ある。
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