第3章 郷士と手代

 その時、主人が戻ってきた。

「主、今日はこれで失礼する」

「は、下村様、もうお帰りで……何卒、御用人様には、よしなに……」

主人は金子の包みを控えめに差し出し、ペコペコと頭を下げている。下村は包みを受け取り袂に入れると、

「御用達を望んでいるのは、この店だけではない。そうしてほしければ、それなりの『心がけ』が必要というものだ」

と言い残して外に出た。うめはまだその場に平伏していたが、ふと、黒い扇が置き忘れられているのに気付いた。

「下村様、お忘れ物……」

とその扇を拾い上げて、驚いた。

(重い……!)

それもそのはず、表裏が鉄で出来ている鉄扇だったからだ。うめはそれをしっかりと袖に抱え、下村の後ろ姿を追った。


 外に出たところで、下村がうめに気づいた。

「なんだ」

うめは鉄扇を差し出すと、

「お忘れ物です。普通の扇子かと思って持ったら……重いのですね」

と言った。下村はそれを受け取ると、

「武家の娘のくせして、鉄扇も知らんのか」

とうめを見た。うめは驚いて、だが小声で聞いた。

「えっ?……なぜ…旦那様にお聞きになったのですか?」

すると下村は眉一つ動かさず答えた。

「そんなもの、お前の動きを見ればわかる。町娘の振りをしたいのなら、もっと隙のある動きをすることだな」

(私の動きで、武家娘だとわかった……?)

うめはまっすぐに下村を見つめた。これはうめの癖のようなものであったが、見つめられてたじろいだのは、下村の方だった。下村は思わず目をそらし、手の中の鉄扇を見た。

「これは、飾りではない。武器だ。刀を抜かなくても、十分相手を痛めつけられる。武家娘なら、そのくらい覚えておけ」

下村はそう言って踵を返すと歩き出した。うめは反射的に頭を下げたが、

(やっぱり似てる……勘の鋭いところが、歳三さんに。あの人も、私が武家の出だと気づいていたと言った……)

と思っていた。


 そこにバタバタと足音がして、若い男が走ってきた。

「お……おうめ……!」

うめが振り返ると、一見して旅先から戻ったばかりだとわかる若い男が、息を切らして立っていた。ホコリ臭いにおいが辺りに漂った。

「歳さん!……そんな格好で……お客様に失礼よ」

うめはあわてて、その男を下村や他の客から隠そうとした。

「おめぇ、嫁入りの話があるって……!?あの侍か?無理やり承諾させられたんじゃねぇだろうな!?」

男は相当な剣幕で、後ろ姿の下村を睨みつけていた。下村はその声に一度立ち止まり、ちら、と男の顔を見た。切れ長の目をした役者のような顔立ちの男であったが、その視線には相手を威圧する力があるように見えた。男は、この呉服問屋の手代を務める、多摩の豪農土方ひじかた家の四男、歳三であった。


 下村はそのまま通りの反対側にわたり、歩いていった。

「歳さん、他のお客様に御迷惑よ。早くお店の中に入ってちょうだい!」

うめはそう言いながら、ふと通りの向こうを見ると、下村がこちらの方を見ているのがわかった。うめは下村に軽く会釈をし、そして歳三の方を向き直った。


 「歳さん!」

うめはキュッと唇を引き締め、歳三を見つめた。歳三も、うめのこの表情にされたのか、静かになった。

「歳さん、私はなんにも聞いていません。嫁入りの話なんか出ていません。あのお武家様は、旦那様のお客様です。私は少しお話相手をしていただけです」

うめに諭され、歳三は少し落ち着いたようだ。店の裏手で足を洗い、着物を着替えながら、歳三はうめに聞いた。

「じゃあ、厨房の女たちが話してたのは、嘘だってのか?水戸の侍におめぇを嫁入りさせて、そのつながりで御用達になろうって話は……」

歳三が聞くと、うめは目を丸くして歳三を見つめ、そして笑った。

「歳さん、私は厨房の下働き。私が水戸様のご家中に嫁ぐわけないでしょう?」

ふたりが話しているところへ、女中頭の女がやってきた。

「その話、まんざら嘘でもないんだよ、おうめちゃん。旦那様は、あんたをお武家に行儀見習いに出そうとしているんだよ。お武家の生活になじんだところで、どこかに嫁に出すつもりなんじゃないかい?」

今度はうめの顔色が変わった。

「ど、どういうことですか?」

女中頭は、店のある事情について話しだした。


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