前編 黒き鉄扇の追憶

第1章 夜更けの怪我人

 嘉永4(1851)年も暮れの頃、大伝馬町の呉服問屋の下働きをしていたうめは、店の後片付けを終えて、厨房の戸を閉めようとしていた。すると、ガタガタッという物音とともに、傷だらけの武士が転がり込んてきた。

誰かに追われていることは明白だった。自分とそんなに年の変わらないような若い武士を見て、うめは思わず、

「こっちへ。奥の空の瓶に隠れて!」

と、その武士を厨房の奥にやった。


 うめは知らん顔をして、裏口の前を掃いていた。草鞋の跡が残っていてはすぐわかってしまうからである。案の定、何人かの武士がバタバタとやってきた。

「女!!こっちに傷負った男が逃げでごながったが!?」

少し訛りのある言葉使いだった。

「隠すとためにならんぞ!!」

男たちはすごんだ。みな、刀を抜いたままで、鋒に血がついている者もいる。うめは怖かったが、ごくっとつばを飲み込んで言った。

「そ、そんな人なら、向こうの通りの方へ走っていきました……!」

うめが指差す方は、表通りだった。

「中を探せ」

とリーダー格の侍が言ったときだ。

「お待ち下さい!」

と、うめが声をあげた。侍がそちらを向くと、さっきまで青くなっていた女が、こちらを睨み返していた。

「何を!?」

侍は凄んだが、うめは毅然としていた。

「このお店は、元文の頃にはお上の御用達も務めたことのある、由緒正しき店です。その店に断りもなく踏み込んで来るとは、なんと理不尽な行いではございませんか?どちらの家中の方かは存じませぬが、お探しの方がいらっしゃらないときは、それ相応の責任をとっていただきますが、よろしいですか!?」

うめは、相手をまっすぐに見つめ、言い放った。それは、後ろめたい理由でやってきた相手を制するには十分であった。侍たちはたじろいだ。


 うめの声に、他の奉公人たちが気づいた。

「おうめさん、どうした?」

「誰かきたのかい?おうめちゃん」

奥の方から声がした。

「うぅ……っ、引け!表通りだ、行ぐぞ!」

と言って、侍たちは出ていった。うめは、ほっと胸をなでおろすと、奥に向かって、

「何でもありません。表の方で酔っ払いのいさかいがあったみたいです。大丈夫です。お起こししてすいません!」


 少し経つと、奥が静かになった。奉公人たちもそれぞれの部屋に戻ったようだ。うめは、小声で、

「もう大丈夫。出ていらしてくださいな」

と瓶に向かってささやくと、中から、ぬっと大柄の侍が出てきた。


侍は、軽く頭を下げると、無言で出ていこうとした。うめが、

「ちょっと待って。片袖がもげそうよ。それに怪我の手当をしなくちゃ」

と言うと、

「いらん」

とその侍は答えた。うめはクスッと笑い、

「そんな危なっかしい格好をして通りを歩いていたら、町方に捕まってしまいますよ。それに腕の傷、そのままだと良くないわ。応急処置ぐらいは出来るから」

と言って侍をじっと見つめた。相手を見つめるのは、うめの癖のようなもので、相手を信じているときに出る。


 うめに見つめられて、その侍は観念したように土間にどっかりと座り込んだ。

「そこでは冷えます。板の間に座ってください。それから着物を脱いで。繕いますから」

うめがテキパキと小声で指示すると、侍は大人しくそれに従った。まるで母親に諭されている子どものようだった。これには侍も苦笑いをし、

「お前は不思議な娘だ。こんな血だらけの侍を前にして、怖くないのか?」

と聞いた。するとうめは、

「この店にもあなたと似たような人が居ますもの。毎日、必ず怪我したり着物を破いたりしてくるのよ。まるで子供と同じ」

と侍の手当をしながら答えた。だがその顔は嫌がってはおらず、逆に嬉しそうであった。

「惚れてるのか、そいつに」

何気なく呟いたのだが、うめはハッとして顔を赤らめた。

「……弟みたいなものです。そんなんじゃ……」

否定はしたが、その言葉は弱かった。侍はそれを聞くと不快そうに立ち上がった。

「あ、まだ着物の繕いが……」

うめが止めたが、

「世話になった」

と着物を掴んで外に出て行った。


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黒き鉄扇と白き梅花の追憶 葵トモエ @n8-y2

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