黒き鉄扇と白き梅花の追憶
葵トモエ
序 遺品の鉄扇
私の名は『内藤 良』という。明治3年9月に公布された太政官布告第608号「平民苗字許可令」で届け出た姓名である。それまでは、『りょう』と周りには呼ばれており、ある時期は、『玉置良蔵』という名で呼ばれていたこともある。その名前で届けなかったのには理由がある。
戊辰戦争末期、箱館新選組の記録に、
『玉置良蔵、明治2年の初めに胸の病で死亡』
と残っている。そう、公式には、私はすでに死んでおり、その名を使うことができないのだった。
『内藤』というのは、母方の苗字である。母は武家の娘であったが、主家の騒動に巻き込まれて父親が切腹させられ、内藤家は断絶した。母は『うめ』という名で、江戸の大伝馬町の呉服問屋の下働きとして働きながら、残された家族を支えるうち、その店の手代であった男と恋仲になり、私を身ごもった。だが男の実家は多摩の豪農であり、母との仲を認めなかったため、母は男に黙って姿を消した。行き倒れ同然だった母は、神奈川宿のある寺の住職に助けられ、私はそこで生まれ、母が病で亡くなるまで約六年間暮らしたのだ。
母が死ぬまで愛し続けた男、私の父。その人物こそ、私が新選組に入るきっかけとなり、蝦夷までその背中を追い続けた、土方歳三であった。
戊辰戦争当時、会津で新政府側の兵士を殺害した者として私には捕縛命令が出ていたようだ。私を箱館から逃がすため、土方歳三は、ある薩摩の人物に依頼し、私を死んだことにした。私は薬で眠らされ、知らぬ間に箱館を出されていた。私は箱館で病院の医師見習いとして働き、多くの患者を治療したが、その記録はすべて他人の手で書き変えられ、消去されていた。
自分の生きた証を父によって消され、絶望に打ちひしがれた私は、生きる屍だった。私を救ったのは、高幡村の医師である養父、日野本郷名主である佐藤彦五郎夫妻、そして、新選組時代からの私の師である、松本良順先生だった。回復した私は名を変え、良順先生が早稲田に開院した『蘭鋳医院』という病院を手伝うため、日野を出ることになった。
それは早稲田へ引っ越すために母の遺品を整理していたときのことだ。私は袋の中に、黒い『鉄扇』を見つけた。父の物だろうか……?私は彦五郎先生に聞いてみた。だが、彦五郎先生は笑って、
「その頃は、歳はまだ鉄扇など持っていなかっただろう。そんな身分じゃなかったよ」と言った。
「おうめさんのお父上の扇なんじゃないのかい?神奈川の住職さまに聞いてみたらどうだい?引っ越す前に、あんたの無事な顔を見せて差し上げなね」
そう言って勧めてくれたのは、彦五郎先生の妻で父の姉、おのぶさんだった。決心した私は、神奈川の寺を訪ねた。
「お入り」
住職はそれだけ言うと背を向け、歩き出した。約2年半前、父の後を追い冬の蝦夷に向かおうとしていた私に、住職は、戦地に赴くのを辞め、新たに人生を生きよと諭した。だが私は結局蝦夷に渡ったのだ。その後は文をしたためることも無く、生きて戻ったことも知らせず、恩知らずと思われても仕方のないことだ。ここには、来ないほうが良かったのではないか……?
もう
『戻ったら、必ず顔を見せるのじゃぞ……』
私はふと、あのときの住職の言葉を思い出した。すると住職は立ち止まり、
「お前が生きて、ここに戻ってくれて、本当に良かった……りょう……!」
と呟いた。その目には、涙が光っていた。
「…住職さま…!」
私は暫く動くことが出来なかった。私を待っていてくれた眼差し……日野だけではない……私の生きた証は、ここにもあったのだ、と思えた。
私が持ってきた鉄扇を、住職はかなり長い時間見つめていた。そして、
「それは、お前の母がお前を生んだ時、そばについてくれていたお侍様のものだ」
と答えた。住職はこう付け加えた。
「お前の名は、そのお侍さまがつけたのだ。お前は高幡村の義父上さまから、『良』という字をもらったようだが、最初にあてられたのは、この字だよ」
住職が書いた文字は、
『涼』
だった。
よく見ると、扇の要のところに、小さく文字が彫ってあるようだ。『下』という字に見える。持ち主の名前だろうか?
私はその鉄扇を手に取った。
(この鉄扇は、私の知らない、もしかしたら、父すらも知らない、母の過去に繋がっているのだ……)
歳三とうめ、そして鉄扇の持ち主……りょうの知らない過去が今、紐解かれる。
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