35.とある悪魔の最期の肖像
35
ルシファーの魂は虚ろの世において削られていた。肉体から離れた魂はそのままダンジョンの完全崩壊に巻き込まれ、暗黒の球体に呑まれていた。意識は混濁し、考えるという能力は失われていた。ただ暗黒を彷徨い、その間に幾つもの試練を越えた。焼かれ、擦られ、落とされ、叩かれ、きっと虚ろの世の番人達は首を傾げたに違いない。
「この魂、しぶといな」と。
番人で対処しきれない魂は虚ろの世の最奥へと送られていく。そのトンネルにも似た道を進んでいくと、ルシファーの魂にも光が射していった。既に消えかかり、あと僅かで割れてしまうであろう核。そうなればルシファーは確固たる個ではなく、集合体のうちの均一化された一つに過ぎなくなる。そのまま地獄へと送られ、己がルシファーという存在であったことを忘れ、ただの亡者として、永劫にも近い時間を過ごすことになる。
己が親友と認めた、悪魔達とともに。
ああ――それも悪くない。悪くないじゃないか。ルシファーの魂はほんの僅かに光る。暗闇を行く。向かう先は分かっている。その先で何者が待ち構えているのかも分かっている。かつてまで、自分がやっていた役目だから。親友である【
悪くない。
こんな終わりも、もちろん、地獄に落ちた親友達はボクのことを覚えていないだろうし、ボクもまた彼らのことを忘れて亡者として苦しむことになるだろうけれど、でも、それでも、悪くないと思える。そこに、彼らがいるのであれば。
――ああ、だから。
虚ろの世の王城、その手前の部屋に通され、ルシファーは対面する。
――だから彼らもまた、愉快にボクに、別れを告げに来たのか。
「かわいそうっ、ルシファーちゃん!」
色濃くにおう、
淡い桜色のドレスに身を包んだ女の身体は肉欲的で、長い手足、その動きは流線的で、どこか視線を引き寄せられてしまう。悪魔の女はハートのついた尻尾をもてあそび、魂のみと化したルシファーに憐れみの視線を向ける。しかしその視線すらも扇情的で、ああ、さすがは色欲の悪魔と称されるのも分かる。
もしもルシファーにいま肉体があれば、どこか正気ではいられなかったかもしれない。
「こんなちっちゃくなっちゃって……。ほんとうに、かわいそう」
女が喋るたびに、狭い密室に甘い香りが
色欲の悪魔は、長い
「でもね、ちゃんと頑張ってるところ、見てたからね。ルシファーちゃんの、勇姿」
『……あの人間は、あまりにも危険だったよ』
「うん、うんっ。でも、ルシファーちゃんの戦い方も、悪くなかったと思うよ?」
慰めなのか励ましなのか。成熟した女の身体に宿っているのはどこか子供らしい態度で、ああ、もしかするとこいつこそ、烏丸ゴロウに近い存在なのかもしれない。いや。きっとそうだろう。烏丸ゴロウを殺せるとするならば、こういう悪魔なのかもしれない。
なにせ――この色欲の悪魔は、『人間を壊す』という意味合いでは、虚ろの世で一番の能力者でもある。
だからこそルシファーは、縋るように、念じる。
『ちゃんと、殺してくれないか? 烏丸ゴロウを』
「うんっ。だいじょうぶ、任せて。……でも、ルシファーちゃん。私ね、殺すとか殺さないとかね、そういう血なまぐさいのは好きじゃないの」
潤む瞳は可憐で、ともすれば悪魔ではなく、戦場で取り残されて立ち尽くす、不憫な少女の瞳にも思えてしまう。――そんなはずがないのに。こいつもまた、悪魔なのに。容赦のない悪魔なのに。人間なんて
恐ろしいのは、そんなことは分かりきっているというのに、同じ空間にいて、同じ空気を吸って、会話をしているうちに、だんだんと
色欲の悪魔は、かわいらしく膨らんだ唇に指を当て、困ったように言う。
「私はね、ルシファーちゃん。みんな、出来るなら、愛し合ってほしいと思っているの。愛し合って、愛の中で、命を絶ってほしいと思っているの。だってその方が、みんな幸せでしょ?」
表面上の言葉は魅力的だった。ある意味では正しいかもしれなかった。愛の中で死ぬ。幻想だとしても幸せかもしれない。あるいはルシファーにも、そんな未来もどこかの世界線には存在したのかもしれない。
色欲の悪魔は、理想を語る。これ以上ないほど、魅惑的に。
「私ね、烏丸ゴロウくんにはね、愛で、死んでほしいんだ」
言っていることは、まるで理解できない。
それでも――どこか、
肉体は既に消失しているはずなのに、魂の表面が、総毛立つような感覚に襲われる。
汗ばむほどに、密室の温度が上がっていることに、ルシファーはようやく気がついた。
「愛して、愛されて、愛のために、死んでほしいの」
『……どういう』
「私ね、すごいんだよ。ルシファーちゃんと戦う彼を見ててね、気がついたの!」
「彼、人を愛しているんだなぁって。どんな人でも平等に、自分を好きな人も嫌いな人も、自分に興味のある人もない人も、自分を知っている人も知らない人も、みんなみぃんな、愛してるんだなぁって。大事なんだなぁって。もしかするとね、彼は、私と相性ぴったりかもしれないよっ!」
弾ける笑顔は太陽のようで、だからこそ、彼女の纏う
色欲の悪魔は愉快に語る。まるで好きな人について語る、
「でもだからねっ、だから、人の中に混ぜちゃえばいいんだなあって。彼のことを、殺したいほどに愛している人を。ね。それってすごく素敵だと思うんだ、私。んふふ。ま、でも、ほら、私の息が掛かっちゃうから、人じゃないかもね? 悪魔かも。うん。眷属っていうかぁ、悪魔! 人の中に、混ぜちゃえばいいんだよ! そしたらほら、ハッピーじゃない? すごいハッピーエンドだよっ! 愛で循環して、愛で死ぬんだもん」
きゃっきゃと笑う、姿は愉快だ。
語る中身は、悪意に満ちている。
「彼は誰でも愛している。どんな人も愛している。そして彼を殺す人は、彼だけを愛している。――愛ゆえに殺し、愛ゆえに死ぬの。ねぇ、これって、とってもロマンティックだよねっ!」
つまりは――。
ルシファーは疲れ果てた気持ちで思う。
つまりは、人間社会に、既に、紛れ込ませているのだろう。
色欲の悪魔の息がかかった、人間を。
その人間達はきっと無意識、きっと、自分が操られていることに気がついていない。
それでも烏丸ゴロウという人間に異常な執着心、異常な愛情を向けて、そして、愛ゆえの憎しみ、殺意を抱いて――烏丸ゴロウを、背後から、刺す。
ルシファーの魂は明滅を繰り返す。そろそろ時間だ。色欲の悪魔という、自分と同じく【
烏丸ゴロウは――死ぬだろう。殺されるだろう。たとえば、それがダンジョンの中であれば死なないかもしれない。でも、外ではどうだろう? 人間はダンジョンの外では脆い。
ともかく、ダンジョンの外、いきなり背後から刺されるようなことがあれば――しかもそれが、自分に愛を向けているものだとするならば、隙を
ああ。
理屈では、死ぬ。
もしも肉体があれば、ルシファーは失笑を浮かべていたことだろう。色欲の悪魔が語る内容は完璧に思える。話を聞く上でなら確かに烏丸ゴロウは死ぬように思える。それも呆気なく。背後から刺されて簡単に。死ぬように思えるのに――同時に、あの男の死ぬビジョンというのがまったく見えないのは、ああ、毒されているのかもしれない。
「……ルシファーちゃん?」
手を伸ばす色欲の悪魔に、返事をする、余力はもう、残っていなかった。
意識が崩れ、自分という個が離れ、感覚が薄れ、色欲の悪魔の胸にかき抱かれる自分の魂を俯瞰して見て、それが自分の魂であることに気がつくのに時間を要し――視界はどんどん、昇っていく。虚ろの世の上にある――地獄へ。
ああ。
地獄か。
暗闇に、門が、見えた。
亡者の叫びが、近くに。
光はなく、遠い。
もはや自分の存在はなく、導かれる。
ここは、どこか。
熱い、熱い、苦しみ。
寂しさは、それでも、なくて。
ただ、そのか弱い魂は、亡者となって、囚われる。
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