32.ラスボス


   32



 遙か彼方に窺えていた砂丘に、【天を冒涜せし者ルシファー】の肉体は叩きつけられた。爆発にも似た衝撃が起こり、砂丘は雪崩を起こすように崩壊していく。――闇の波動に打ち据えられたルシファーは全身が痺れ、動くことが出来ない。そのまま砂の崩壊に巻き込まれて暗闇に囚われ――ああこのまま死ぬのかと思った瞬間、光が射した。


 笑う烏丸ゴロウが、月の銀光を背景に、立っている。


 助かった――などという幻想はなかった。ただ、ルシファーの瞳からは涙が出た。もう分かっていた。先ほどの攻防で理解していた。絶対に敵わないと――勘違いしていたと。間違っていたと。勝てるとか勝てないという土俵の上には立っていなかったのだ。優位とか不利とか……そういう土俵ではなかったのだ。


 砂の檻から頭だけを出したルシファーに、ゆっくりと烏丸ゴロウは手を伸ばしてくる。その手はルシファーの角を愛でるように撫でたあと、髪の毛を掴んだ。次の瞬間には引き抜かれ――殺意。


 窮鼠きゅうそ、猫を噛む。


 追い詰められたルシファーが鋭く手を振ったのは無意識だった。ほとんど無防備に近かった烏丸ゴロウの喉元に鋭利な爪を食い込ませ――喉笛を引きちぎってやろうとした瞬間にルシファーの手は止まる。


 喉元に触れた指が、石化していく。


 理解が、及ばない。


 なにがなんだか分からない。ただ右手の先が石化していく。指がすべて石になる。……は? 「は?」。声に出る。疑問符。浮かぶより先に手首まで石化が進む。咄嗟にルシファーは腕を引く。それでも石化は続く。心臓がうるさいくらいに搏動はくどうする。手首から前腕が石になっていく。――混乱。パニック。なに? これはなに? どうして? なんだ? なにをされた? ルシファーは烏丸ゴロウを見る。怯える瞳。子犬の瞳。


 まるで理不尽な叱られた方をした子犬のような目で、烏丸ゴロウを。


 烏丸ゴロウは、微笑んでいる。


 その表情は――ゾッと、ルシファーの背筋に、悪寒が、走った。


 まるで、まるで、まるで、虫。


 命の価値を知らない、死への恐怖もない、まだ物心がついてすぐの、幼子おさなご


 子供が、自分よりも小さき、卑しき、虫を、甚振るときの、表情。


 働き蟻を踏み潰すときの表情。草葉で羽根を休めていたトンボの首を跳ね飛ばすときの表情。無防備な蛙の口に花火を突っ込むときの表情。無力な毛虫を枝先でつついているときの表情。逃げだそうとする蝉を狭苦しい虫かごにいれているときの表情。大量のザリガニをバケツに入れて振っているときの表情。


 まるで、同じ。


 ルシファーに向けられる烏丸ゴロウの微笑みは、同じ。


 石化は右肘で止まった。それ以上の進行はなかった。それでもルシファーは凍り付いて動けなかった。全身は石化してしまったように動けなかった。身体が冷たい。全身は氷像のようだ。まるで動けない。


 烏丸ゴロウはルシファーの頭をむんずと掴んで引き上げる。砂の牢獄からの脱出。それでも嬉しさはなく、むしろ、苦しさが――もう許してほしい。もう、もう、もう、解放してほしい。もう。


「ゆるし、て」

「ん?」

「ゆるして、ください……」

「なにを?」


 烏丸ゴロウは目を丸くして首を傾げた。その表情は本当に疑問を抱いているようだった。許す。なにを? 一体なにを? ああ。そしてルシファーは思う。これはべつに許すとか許さないとかの話ではないのか。べつに烏丸ゴロウは怒っているわけではないのか。


 ただ、ただ、ただ……、自分が、悪魔だから。


 悪魔と人間だから。だから。


「もう……もう、なにもしません。もう」

「?」

「もう、しませんから。だから、どうか」

「しませんって、なにを」

「……人間を、殺すような行為を。傷つけるような行為を」

「ああ。へえ」

「……ダンジョンにすら、立ち入りません」

「ふぅん」

「もう、なにもしませんからっ」

「でも、したじゃん」

「え」

「もう、殺したじゃん。人を」

「そ、れは」

「遅いよ」

「……」

「やっちゃいけないこと、したんだろ。ならもう、遅いんだよ」


 罪と罰。


「おまえがいまやるべきことは、許しを乞うことじゃない」


 許されることは、ない。


「足掻けよ、必死に」


 烏丸ゴロウが首を回して骨を鳴らした。さらに拳の関節を鳴らす。その仕草を見ながらルシファーは――膨大な魔素マナを体内で循環させた。もはや許されない。ならば戦うしかない。たとえ敗戦濃厚であったとしても……戦うことしか出来ない。烏丸ゴロウを、殺すことしか、救う道はないっ! そしてそれは悪魔の本懐だ。そうだ。己を奮い立たせろ。殺せ。殺すしかない。殺意をもう一度。憎悪をもう一度。なにより勇気を――烏丸ゴロウという名の天敵に挑む気持ちを、もう一度。


 ルシファーが、咆哮を上げた。


「それでいい。そっちの方が、面白いよな」


 天敵ラスボスが、一言。


 石化した右腕を振り上げる。烏丸ゴロウの鼻先を掠めた。さらに前傾姿勢――突進。咆哮を上げ、口から吐き出すは地獄から呼び出した、光熱こうねつの炎。魂そのものを傷つける灼熱は、しかし凍てつく冷気によって形そのものを残して氷と化す。巻き込まれる前にルシファーは跳躍し、己の名の根源――堕天を、目醒めさせた。


ちろ」


 囁きは闇夜にけ、夜空に呼応した。


 ――星が、堕ちた。


 時間の停止。瞬きのあと、無数の流星群が背後にあった。気配を感じた。瞬き。砂漠の地に降り注ぐのはまばゆい光の軌跡――無数の槍だった。大気が鳴動し、世界が震える。この世にあまねくすべての生命が輝きに照らされ、命を燃焼し、魂を昇らせる。必死の、魔法。


「死ね、烏丸ゴロウ」


 呟いた瞬間、視界が暗闇に染まった。


 あまりにも唐突で、突拍子がなく、理解不能で、反応も出来ず――やがて遅れて、ルシファーは現象を理解する。


 あんなにも神々しく輝いて砂漠を照らしていた光の流星群が、すべて、消滅したのだと。いきなり暗夜あんやに逆戻りしたために、目が役立たずになり、なにも見えなくなったのだと。


 気づいたときには遅かった。


「こうか?」


 背後。


 振り返ると同時に大きく口を空けた烏丸ゴロウが目に入る。咄嗟の回避行動、空中からの落下。烏丸ゴロウの口から吐き出されるのは、光熱とは真逆――闇の炎。深淵に染まった炎はルシファーの髪を焦がし、一気に距離を取ったルシファーをなおも焼き尽くす! 髪先から一気に燃焼を広げて顔面を! 首を! 鎖骨を! 腹を! 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ! どれだけ掻き消そうとも消えず、魔法でも消せず、のたうち回ってルシファーは砂に全身を擦りつける! 炎はやまない! 熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いッッ!


「あと、こう?」


 深淵から呼び出されたとしか思えない闇の炎が、烏丸ゴロウの一言でかき消える。呆然と、全身の痺れの意識を向けるしかないルシファーは、そして夜空を仰ぎながら悟る。


 己の終わりを。


 夜空の遙か先、ゆっくりと、ゆっくりと、そう見えるだけで実際には高速で迫ってくる小惑星があった。ルシファーの全身は焼け焦げて使い物にならず、ただ迫り来る終焉を眺めるしか出来ない。小惑星は暗夜の大気に焼かれ、黒い炎を纏って、ルシファーの頭上に迫り来る。


「よし。ありがとな、ルシファー。ほら。六年前に殺した悪魔の魔法とか【能力スキル】とか、忘れててさ」


 ――ああ。悪魔は、どっちだ。悪魔はこいつだ。ボクなんか悪魔じゃない。可愛いものじゃないか。ボクなんて。どっちが悪魔なんだ。どっちが悪党なんだ。そうだ。立場が違うだけだ。


 人間からしてみれば英雄なのだろう。


 けれどこっちからしてみれば――こいつこそ、ラスボスだ。


 まあ、そんなこと、出会う前から、それこそ十年前から、分かっていたけれど。


「おまえのお陰で、新しいこと、覚えられたよ」


 小惑星の巨大な影がルシファーを飲み込んだ。もはや散るまで僅か。死ぬまで僅か。ルシファーは最期のときに回顧する。己の人生を。――けれど思い出すことは一つ。ただ一つ。圧倒的な王のこと。父のこと。虚ろの世の、支配者のこと。



「【悪魔の王サタン】様」



 最期の呟きに、烏丸ゴロウが、ぴくりと、反応した。



「この、出来の悪い息子めの、最期のわがままを、聞いていただけないでしょうか」



 小惑星が、堕ちる、寸前。



 見えた烏丸ゴロウの表情は――。



 ルシファーは、一矢報いた思いで、微笑む。



「烏丸ゴロウに、死を」



 【悪魔の王サタン】の、父の、王の、気配が――身近に!



 あたたかさ。



 おわり。



 し。




『よく頑張ったね。出来損ないの、駒にすら相応しくない、最期の最期まで役立たずだった――それでも愛しい、我が子よ』




 ルシファーの死と同時に、ダンジョンという名の一個世界の、完全崩壊が始まった。



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