31.VS 【天を冒涜せし者】


   0



 太陽が、落ちる。


 幻想的、動線。


 反対の空から、月が昇った。


 儚樹シラズはその光景を呆然と眺めることしか出来ない。もはや思考は存在していないから。自分がいまなにをしているのかも分からないから。ただ、やるべきことをやった。果たすべきことを果たした。その実感だけが胸に込み上げていた。それで名無し男を救うことが出来たのかは分からないけれど――自分に出来ることは、すべて、やった。


 危機的状況は変わらないのに、安堵を覚えてしまうのは、どうしてなのだろう?


 頭の上に手が乗った。見上げると名無し男が立ち上がろうとしている。頭がやさしく、それでも乱暴に撫でられる。シラズは砂を見た。砂が、冷えていくのを感じる。頭から感触が消える。見上げたときには、名無し男は、月の銀光を気持ちよさそうに浴びていて。


 月の、影。


 悪魔は身体を大の字に横たえながら、ゆっくりと月に向かって、浮上していく。


 それはあまりにも不可思議で、同時に美しく、肌が、自然とあわ立っていく。


 口を間抜けに開いたまま、シラズはよく分からない状況を、よく分からないものとして受け止め続けることしか出来ず、やがて視界の先で悪魔の浮上は止まった。


 横たわっていた身体がゆっくりと起き上がっていき――気がつけば悪魔からは黒い尻尾が伸び、頭からは角が出て、瞳は黄色く濁る。悪魔はどこにも焦点の合わない瞳で虚空を睨みながら、言った。


「我が名は」


 大地が、鳴動する。


 乾いた風が、吹き付ける。


 砂嵐が、至る所で巻き上がった。


「我が名は――」


 ああ、


 きっと、


 きっと、


 ここで私は、



「我が名は【天を冒涜せし者ルシファー】。人を、滅ぼす者なり」



 ここで私は、死ぬのだろう。


 圧倒的な絶望と危機。悪魔がこちらを見据えた瞬間にシラズは己の死を悟る。それは予感ではなく確信だ。運命を悟るにも近かった。ここで死ぬ。間違いなく死ぬ。殺される。しかし不思議なことにシラズの心に恐怖はない。むしろいさぎよい諦めだけがあった。きっと、楽に死ねるだろうから。一瞬で死ぬだろうか。それこそ赤子の腕を捻るより簡単に、私は殺される。


 同時に理解するのは動物世界ではごく日常のものである天敵との遭遇の感覚だった。人間はなぜか生態系の頂点に君臨したような気になってその感覚をうしなっている。けれど本能には刻まれている。遙か太古から、人間は一つの動物に過ぎなかった。忘れてしまっているだけで、刻まれてはいるのだ。埃をかぶり、まるで喪われたような顔をしながら。


 諦め。


 諦念。


 悪魔がこちらを見据え、牙を剥きだしにした瞬間――シラズは意識を手放す。それは生理的な現象だった。絶望と危機を前にしたときの、儚樹シラズという存在の固有DNAが導きだし、肉体に働きかけた、シラズにとっての生理的現象――気絶。


 そして。


 意識が遠のいていく最中。


 高速で流れ続ける、コメント。


 もはや聞き取れない、音声。


 そのうちの一つが、やけにゆっくりと、意識を手放すシラズの耳に、入った。



【いまからKが悪魔を殺戮すると聞いて、飛んできた!】



 シラズがカメラの画角を調節したのは、偶然か必然か。



   31



 【天を冒涜せし者ルシファー】は多幸感と全能感と無敵感に肉体を支配されていた。名を名乗るというのは【未知ゆえにアンノウン】を解除して隙を見せることに繋がるが――しかし同時に窮屈さから解き放たれることをも意味する!


 ルシファーは、わらった。


 もはや烏丸ゴロウに対する畏怖など微塵もなかった。ルシファーは未だ砂漠の地に立って呆けたような表情でこちらを見る烏丸ゴロウに視線を下ろす。――ああ。ボクは一体なにを怖がっていたんだろう? こんな小さな人間のなにを怖がっていたのだろう? まるきり弱そうじゃないか! なにも怖がる必要なんて最初から存在しなかったんだ! 対策なんていらなかった! ただ力で圧倒的にねじ伏せればいいだけだった! なんでボクは墓穴を掘るような真似をしていたんだ! まったく!


 なにも怖がる必要なんてないじゃないかっ!


 ルシファーは漆黒の羽根を広げた。次の瞬間には烏丸ゴロウに肉薄している。防御姿勢を取ったときには、もう遅い。ルシファーの足が突くように伸び、烏丸ゴロウの腹を押し込んで、そのまま飛ばした。踏ん張りも利かず、烏丸ゴロウは数十メートルも転がって――もちろんルシファーが逃すはずもなく、尻尾の先から放った魔素マナの光線を魔法へと変える。


 魔素マナの光線が、華が咲くように爆発して広がった。それは烏丸ゴロウの肉体にも問答無用で届き、その身体がけながら打ち上がる。夜空。ルシファーは既に、その肉体の傍に浮遊している。


「所詮、きみも人間」


 くの字に曲がった烏丸ゴロウの背中に、ルシファーはやさしく手を当てがった。


「怖がっていたのが、馬鹿みたいだ」


 膨らむ魔素マナは圧倒的なエネルギーと化して神々しく輝きを放ち、それは光の波動となって烏丸ゴロウを地面に叩き落とした。砂塵が舞い上がり、しかし光はまだ烏丸ゴロウを逃がさない。彼の背中を焼き尽くす。焼き尽くす。焼き尽くす。さらに光は拡散し、背中だけではなく全身が光に焼かれる。焼かれる。焼かれる。もはやその全身が見えなくなるほどに。


 光の波動を放ちながらに、ルシファーは息を吐いた。


 なんだ、これは?


 なにを怖がっていたんだ?


 ボクは。


 自分自身に呆れかえるような思いだった。


 自分の足下では光に焼かれる烏丸ゴロウがいる。姿は見えないけれど、きっと蛆虫のように這いつくばっていることだろう。もしかすると光から逃げようして、本当に蛆虫のように全身をもぞもぞと動かして移動しているかもしれない。だが、無駄だ。光の質量から烏丸ゴロウが逃げられるはずがないのだ。人間が逃げられるはずがないのだ。

 

 はあ。


 これのなにが強いのだ? これのなにが天敵なのだ? どこをとってもボクには敵わないじゃないか。いや。もちろんボクは油断しない。凄みがあったことは認めよう。ロシアン・ルーレットをしているときには確かな凄みがあった。つい十分前までの烏丸ゴロウは狂気じみていた。なるほど、かつてボクの親友達を葬り去ってきただけのことはある。あのときの烏丸ゴロウは――六年前の烏丸ゴロウなのだろう。その雰囲気の残滓だったのだろう。


 だが、実際は、どうか?


 ――衰えている。そうだ。衰えているのだ。考えるまでもない。自明の理だ。これまで烏丸ゴロウがなにをしていたのかは分からない。すくなくともダンジョンにはいなかった。引退したのだと、どこかの魔物から聞いた。拷問した人間の魂からも聞いた。探索者をやめてなにをしていたのだろう? ダンジョンから離れてなにをしていた? どうせくだらないことだろう。どうせ戦闘からは逃げていた。どうせ死線は潜ってこなかった。


 衰えて、当然。


 そして衰えれば、敵わなくて、当然。


 ルシファーはまた足下を見やる。光の波動。圧迫され、焼かれ続けているであろう烏丸ゴロウ。姿は見えない。移動している様子もない。もしかすると……死んだ? 死んだのか? 死んでしまった? いや、あり得る話だ。ルシファーは決して手を抜いていない。烏丸ゴロウがただの雑魚だと理解しても力を緩めることはしなかった。それは仮にもかつて天敵だった者に対する一種の敬意にも等しい。舐めることはしない。


 そしてルシファーは、死んだであろう烏丸ゴロウを確認するために、手の平を握り込んだ。光がやみ、突風が起きる。砂塵が巻き上がり、それは焦げた硝煙となって濛々もうもうと視野を狭めた。だがすぐにルシファーは指を鳴らし、風を起こし、白煙を遠ざける。


 目を細めた。


 焦げた、砂地。


 烏丸ゴロウらしき影は、ない。


 ……いない?


 燃え尽きた?


 灰になった、のか?


 

 とん、とん。



 と――肩を、叩かれた。


 振り返ることは、出来なかった。


 呼吸が、止まる。



 とんとん。



 肩をやさしく、やさしく、叩かれる。


 それでも、やはり、振り返ることは、できなくて。


 呼吸を再開させることすらも、できなくて。


 硬直するルシファーに、肩を叩いた人物は正面に回り、その姿を、表す。



 無傷の、烏丸ゴロウ。



 無傷……無傷? 無傷。無傷だ。無傷。なぜ。無傷? どうして。あれ。なにが。ボクは確かに……あれ。無傷?


「真似したんだよね。あくちゃんの。……あ。ルシちゃんの方、いいか?」


 言葉が出てこない。


「まあどっちでもいいか。ほら。さっきまで、小学生が鬼ごっことかでやってくる意味わかんねえ『ガード!』なみの絶対防御やってたじゃん? あれさ、真似してみたんだよ」


 言葉が出てこない。


「どう? うまかっただろ? エネルギーを吸い取る感覚っていうかさあ、限定的な掃除機になればいいんだよな! だろ? いや。掃除機とスライムの集合体だよな。つまりスポンジみたいな? これ言ってる意味、分かるかな」


 言葉が出てこない。


「ぜんぶ、しゅるわ~~~んって感じで、受ければいいって気がついて」


 汗が、出てくる。


「やってみたら、いい感じでさ」


 涙が、出てくる。


「おまえの攻撃で、実験したんだ」


 命乞いが、出る。


「ゆ……ゆるして」



「いや、俺さ、悪魔は絶対殺すマンだから」



 凍てつくほどの闇の波動が、【天を冒涜せし者ルシファー】を貫いた。


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