30.人が生まれ変わるために必要な二つの絶対


   30



 六階層において儚樹シラズは配信コメントの知識に救われた。


 ひとりでは決して生存することは出来なかっただろう。ましてや別のロッカーを探し当てることすらも不可能だっただろう。当たり前だ。儚樹シラズはあくまでも受験生のひとりに過ぎないのだ。自覚している通り、まったくの無力な少女だった。無力な女子高生に過ぎなかった。


 だから新たなロッカー、七階層へと続く道を発見したときの喜びはひとしおだった。もしもここがダンジョンでなければ小躍りしていたかもしれない。そしてロッカーのドアを開けると同時に意識は切り替わる。頭の中に浮かぶのは名無し男のことだった。彼は無事だろうか? 彼はまだ七階層にいるだろうか? もしもいなかったとしたら。そして私だけが七階層に……いや、無駄な想像はやめよう。そうなったらそうなったときに考えればいい。幸いにして、配信を見てくれている人達が付きあってくれているのだから。


 喜びと不安、期待と臆病、相反する感情を抱きながら、ドアを閉める。


 七階層。


 砂漠だった。


 そして――気配があった。いや。それが気配であることをシラズは理解できなかった。ただ広大な砂漠、魔物がまったく見当たらない砂の大地が茫漠と広がっていた。加えて、ほんの僅かに、皮膚が痺れるような感覚。


 目には見えない産毛の先が、ほんの僅かに、あぶられるような感覚。ちりちりと、焼かれ、痺れ、焦げるような、感覚。しかしそれはあくまでもほんのすこし。ほんのわずか。ちょっとだけ。そよ風でも吹けば簡単に誤魔化されてしまいそうな違和感。だからシラズは気がつかず、同時に灼熱の太陽を仰いで、思う。


 ああ、太陽が熱すぎるのだ。日焼けの感覚かもしれない、と。だから自身の感覚に深追いはしなかった。そのままシラズはコメントに頼る。もはや頼ることに遠慮は存在しない。そもそも頼ることでしか生存は不可能なのだ。かつシラズは自分の無力さを知っている。


 だからコメントという集合知に頼り、砂漠を進み、名無し男の痕跡を追って、勇気を出して――勇気を出したような気になっているだけで自分はまだ本当の勇気を知らない弱者だと気がつくことになる。



 本当の勇気とは、


 誰かから与えられるものではなく、


 自分の心から、


 絞り出すもの。



 自分ひとり、孤独の産物。



 砂の丘を越えて眼下に広がった光景を視認した瞬間に儚樹シラズは自然と伏せていた。それは優秀な探索者が凶悪な魔物を認識した瞬間に取る体勢と似ていた。本能だった。訓練によって染みついた習性的行動ではなく、本能。


 空白の脳。


 その脳味噌の皺を沿うようにしてじわじわと空白を埋め尽くしてくるのは――生存本能。まずい――あれはだめだ。あれはだめ。あれはだめ。あれは見てはいけないもの。あれは関わってはいけないものっ! ふと記憶の淵から甦ってくるのは薬物に手を出して前後不覚となっている者達だった。


 シラズがこれまでに関わってきた人間達というのは決して善人だけではない。金を稼がなければならないという状況の必然性ゆえ、多くの悪党とも関わってきた。そのときの記憶が甦る。自分がいま一体なにをしているのか、どういう行動をしているのか、なにを言っているのか、そんなことすら分からずに粘液質な唾液を垂れ流し、頬をへこませ、筋肉を削げ落とし、目は虚ろ、生きる喜びを喪失してしまった者達、人間であることを辞めてしまった者達が、甦る。


 シラズの身体は自然と丸まっていた。火傷してしまいそうなほどに熱い砂に覆われようとも構わず、いや、実際にシラズの肌は浅く火傷していた。本来の感覚であれば飛び上がっていただろう。痛みを怖がって身体を伸ばして立ち上がっていた。けれど、痛みよりも恐ろしいものがあった。いま自分が感じる痛みがとても小さなものに思えてしまうほどの現実があった。


 シラズは砂に埋もれる中、顔を上げて、丘の下に広がる光景を見る。


 変装をやめた、名無し男。


 その対面に座るのは――悪魔。


 悪魔だ。悪魔。それは本能的に察することが出来た。まるで人間のような容姿をしている。仙台の街中を歩いていても違和感はないかもしれない。けれど、気配が、まるで、違う。すぐに分かる。人間ではないと。即座に分かる。魔の者であると。人間の天敵であると。そうだ。悪魔とは人間の天敵なのだ。そして、どこの動物世界に、天敵を天敵であると察せられない種族がいるだろうか? いつの時代もどの世界であろうとも、天敵は天敵であるとすぐに分かるものなのだ。


 悪魔は悪魔であるとすぐに分かるのだ!


 名無し男が悪魔と対面している。しかも、血だらけで。ああ。血だらけだ。名無し男は血だらけになっている。恐ろしい。恐ろしい恐ろしいっ。いまをなにをしているのだろうか。座り込んで。いや。そんなこと考えなくても分かる。分かるじゃないか。



 名無し男は、悪魔に、殺されそうになっている……!



 きっと殺されそうになっている! きっと敗勢! きっと劣勢! もうどうにもならない状況! 血だらけで表情は窺えない。けれどきっと恐怖しているはずだ。怖がっているはずだ。怯えているはずだ。なにせ絶体絶命なのだから。いままさに悪魔に殺されそうになっているのだから!


 きっといまは、甚振いたぶられいるようなものだ。


 時間をかけて、じっくりじっくり、悪魔に甚振られている……!


 きっと怖い。きっと……きっと私よりも怖い。そうだ。私はいま、怖がっている。生きたいと思っている。まだ距離があるのに心は即座に逃げるべきだと判断している。でも、もっと近い距離にいる名無し男は――名無しさんは、もっともっともっと怖いに決まっている!


 なら、どうする? ならどうすればいい? 私に出来ることは? 出来ることなんてない。なにも出来ないっ。息を吸う。息を吐く。ただそのいつもおこなっているような行動でさえも意識しないと出来ない。そんな状況でなにが出来る? なにが出来るというのだろう?


【逃げた方いい】

【まずい】

【やばい】

【逃げて】

【あれはやばい】

【逃げよう】

【引き返そう】

【血だらけの人は置いていった方いい 可哀想だけど】

【見捨てるが吉】


 呼吸にだけ集中する。そうすると隙間を縫うように音が聞こえる。コメントの声が。それでも具体的になにを言っているのかまでは分からない。


 ああ――ただ、思う。


 ただ――シラズは、思う。


 助けられた。名無し男には。何度も何度も助けられた。救われた。ダンジョン内部。きっと名無し男がいなければ自分は死んでいた。もっとはやい段階で死んでいた。だから、助けたい。出来るならば見捨てたくない。出来るならば……でも。


 でも、でも、でもっ、でもっ! 自分に出来ることなんてなくて。だから……だから。



【悪魔の胸に手を当てて、問いかけるでござる】



 シラズはコメントの内容を理解できてはいない。耳に雑音として入っているばかりだ。けれど――意識の範疇の外では聞いていた。理解していた。つまりは、無意識。無意識という名の意識では、流れ続けるコメントを、拾っていた。



【おまえの名はなんだ、と。お願いでござる】



 助けないといけない。助けないといけない。でも自分にはなにも出来ない。自分は無力だ。逃げたい。いますぐにきびすを返してこの場を離れてしまいたい。でも。でも。でも。逃げたくない。逃げてしまいたくない。だってずっと助けられたから。まだ一日にすら満たない短い期間だけれど、何度も助けられたから。汚いことに手を染めた自分なのに。裏切ろうとした自分なのに。救われて、だから逃げたくなくて、でも自分にはなにが出来るか分からなくて、なにも出来ないような気がしていて。



【彼を、救ってほしいでござるよ】



 儚樹シラズは立ち上がる。もはやそこに意識は存在しない。思考は存在しない。ただ行動だけがある。行動のあとに思考がある。無意識。かつ無思考。理解ではなく認識。広がる光景。恐怖より先に一歩。名無し男が手を振る。手を振って、きっと助けを求めているに違いない……! こちらに気がついて助けを求めていて、手を振ることでアピールしていて……怖い! 怖い! 怖い! 悪魔がこちらを振り向く。怪訝な表情? よく分からない。分からない。分からない。怖い。でも一歩、一歩、一歩。


 途中で名無し男がなにかを言う。


「助けて」


 というニュアンス。よく分からない。音はたくさんある。雑音。コメントの音声は流れすぎてよく分からない。視聴人数はどれくらいだ? 気にしていないのに気になる。桁が増えているような気がする? 1万? ではない。10万くらい。でもどうでもいい。もうよく分からない。ただ夢遊病患者のように――近づく。歩いていく。進んでいく。名無し男を助けるために。助け方は――? 悪魔の胸に手を当てればいいのか? そして問えばいいのか?


 名前を。


 シラズに意識は存在しない。無意識に。近づく。近づく。近づく。悪魔がこちらを睨み付けている。怖い。でも進む。やはり思考は存在しない。名無し男を助けたい。助け方もなぜか知っている。名前。灼熱の大地を踏みしめる。


 悪魔の気配が膨らんだ。放たれるのは邪悪な殺気。一瞬で失神か気絶。あるいは心臓が停止してしまうかもしれない殺気。でもシラズは感じ取れない。感じ取る余裕なんてない。もうなにも見えてない。いや。シラズには一つの物事しか見えていない。視界には一つのものしか映っていない――心臓。胸。悪魔の胸。


 ただそこに触れれば良い。タッチすればいい。そして一言だけ訊けばいい。問いかければいい。それだけでいい。それだけすればいい。よく分からないけれど。それだけすればいいんでしょ? それだけ……分からない。分からないままでいい。



「なんなんだ――なんなんだっ! 弱いくせに! 卑小なくせに! 止まれっ。止まれぇ! 殺すぞッッ! 殺されたいのか!」



 声が聞こえる。誰の声なのかは分からない。内容もやはり分からない。なぜならコメントによって掻き消されるから。コメントがなにを言っているのかも分からないけれど。でもとにかく一歩。進めばいい。進むだけでいい。楽に思える。怖いけれど。



【K・G!】

【K・Gだ!】

【伝説のK】

【天才!】

【変態ってKだったのか】

【救ってあげて】

【助けてあげて】

【頑張って!】

【K・Gこの状況で笑ってて草】

【めっちゃいい笑顔やん】

【ほんとに困ってんのかこいつ】

【むしろ悪魔の方が焦ってて草】

【よく分からんけど頑張って】

【頑張って】

【シラズちゃん頑張って】

【頑張れ】

【頑張れ!】

【頑張れっ!】

【頑張って!】



 勇気は、孤独の産物。


 追い詰められ、孤立し、外界を閉ざさなければ、生まれない。


 けれど、勇気だけでは、足りない。


 勇気だけでは、人は、進めない。



 背を押すものが必要だ。


 支えてくれるものが、必要だ。



 勇気と、応援。



 二つが揃い、人は――生まれ変わる。


 儚樹シラズは生まれ変わる。



「人間って面白いだろ? 悪魔」



 シラズの震える手が、悪魔の胸に触れる。


 悪魔は諦めたように、息を吐く。



「あなたの名を――あなたの名前をっ、答えなさいッ!」



 瞬間、太陽が落ちた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る