29.異端の感性、天賦の才


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 烏丸ゴロウの口がなにを告げたのかを悪魔はすぐには理解できなかった。――しらずさん。シラズサン? とはなんのことだ。なにを言っている? もしや詠唱のようなものだろうか?


 まさか、こちらがいかさましたことに気がついたのか? 気がついたから、烏丸ゴロウでさえ詠唱が必要なほどの、巨大な魔法を発動させようとしているのか? こ、怖い! ……いや。しかし、大丈夫。大丈夫なはずだ。悪魔が悪魔である限りの絶対的なことわりがあるのだから。どんな人間のどんな攻撃でさえ弾いてしまう、名前を知られていない悪魔ゆえの絶対的な能力があるのだから。


 【未知ゆえにアンノウン】という名の、能力スキルが。


 【未知ゆえにアンノウン】は危機を避ける。悪魔にとっての命の危険を。そしてそれは烏丸ゴロウを完全封殺するに相応しい能力スキルでもあった。なぜなら烏丸ゴロウは存在そのものが危機だから。いわば全身が悪魔にとっての危機。ゆえに烏丸ゴロウは指一本すら自分に触れることはできない――本来であれば。


 だが一体、この状況にあって、ことわりというものをどれだけ信用できるだろうか? にどれだけの力がある? まるでないじゃないか。相手は怪物。理屈や理論の通じない怪物。ゆえに、この状況にあって理に縋るなどというのは愚の骨頂もいいところだ!


 突然、烏丸ゴロウが謎の動きを繰り出す。シラズサンという詠唱を繰り返しながら腕を上げて頭の上で振り出した。奇妙な動きだ! そして悪魔は【未知ゆえにアンノウン】のほかにも魔素マナを練って障壁を張る。圧倒的なガード。これならば……いや、いやいやいや、いや、待てよ?


 待て。落ち着け。


 そして悪魔は思い出す。そもそもこの勝負――後付けでルールを追加したじゃないか。しかもそれは烏丸ゴロウが持ち出したルールだ。現状では暴力という点で悪魔に敵わないからと、だから滅茶苦茶な決着を避けるためと、追加されたルールがある。契約がある。


 ロシアン・ルーレットが進行中、一切の暴力を禁止する。


 悪魔の思考は急速に冴えわたって現状を安全と理解した。そうだ。いくら烏丸ゴロウであろうとも契約は絶対だ。契約というのは片方の力ではなく相互の力によって成されるものだから。絶対。これは絶対! ゆえに、安全。


 ――ボクは安全だ! 烏丸ゴロウがなにをしようとも安全だ! どんな攻撃も暴力なのだから! 安全! 問題なし! 大丈夫!


 そして悪魔が胸を撫で下ろした瞬間、対面にいる烏丸ゴロウの瞳――その黒い瞳が、人影を反射した。というのを認識すると同時に悪魔は素早く振り返っている。地平線まで続くかのように思える砂漠。灼熱の気候。遠くに見える蜃気楼。砂嵐。砂塵。


 そして、人間。


 人間……? 


 まだ遠い。けれど悪魔の目にははっきりと映る。小さな人間がいる。そしてその人間に向けて烏丸ゴロウは手を振っていた。シラズサン――それが詠唱ではなく名前だと認識するのに時間は掛からなかった。


 一体どこから? いや。ここはダンジョンだ。人間が入ってくる構造になっている。さらにあえて悪魔は最深部ではなく七階層というところにまで出張ってきた。そして侵入してきた人間で遊んだ。殺した。食った。魂さえも齧って生命の根源的なものの絶叫さえも聞いた。ただ、己の愉悦のために。


 と――ふと気がつくと自分が殺した人間たちの死体が消えていた。それはまるで間違い探しのようなものだ。無意識の隙をくかのような芸当で、烏丸ゴロウがなんらかのタイミングで死体を消したのだ。あるいは消したように見せて砂の中にでも埋めているのか。それがいつなのかは分からない。なぜなのかも分からない。ともかく死体が、忽然と姿を消している。


 そして明らかに困惑を露わにしている、その気配の小さき、まさに卑小とも呼称すべき人間に対し、烏丸ゴロウはあっけらかんと言った。



「ちょうどよかった! シラズさん、ちょっと助けてくんね?」



 一体こいつ、なにをほざいているんだ……?


 助ける? つまり助けを求めている? いま烏丸ゴロウは追い詰められているのか? 余裕の態度をしているように見せて、それは見せかけているだけで、実際は追い詰められている? 苦しめられている? ……いや、違う。違う。違う! 甘い幻想を抱きそうになった悪魔は即座に否定する。違う。


 こいつ、ただ、巻き込もうとして言っているだけだ……! いやもしかすると本当に助けてほしいのかもしれないが、それはあくまでもほんの僅か、ほんの少し、ちょっとだけ困っているから、人間にたとえるならば両手が塞がっている状況で靴紐がほどけてしまったから、まあ両手にある荷物を下ろせば自分で結べるけれど、まあ面倒だし、とりあえず親しい人間に甘えてみるような、そんな、感覚で。



 そんな感覚でこいつ、明らかに場にそぐわない卑小すぎる人間を、この場に呼びやがった……!



 愕然とする悪魔に対して、そのシラズさんと呼ばれた卑小な人間は勇気の一歩を積み重ねてくる。意味が分からない。なぜ? この状況が分からない――というより、悪魔がただ生きているだけで醸している気配の強大さに気が付かないほどに卑小なのか? 蟻が決して象の全体像を拝むことが出来ないように、この人間も悪魔が悪魔であると認識できないのか? この状況を、ただ遊んでいるだけのように思えているのか?


 違う。


 砂の丘を登りきり、こちらに向かって下りてこようとするシラズという人間は、震えていた。明らかに怯えていた。実年齢よりも何十も歳を重ねてしまったかのように、顔つきも老け込んでいた。膝の笑い方など酷いものだった。遠目からでも足が覚束ない状態であることが分かる。自然と内股になっている。肩が大きく上下して、呼吸が定まっていないことも明白だ。怯えている。恐怖している。顔も――泣いているではないか! 涙を流しているではないか!


 けれど、近づいてくる。


 遅々として、近づいてくる。


 顔をしかめ、見様によっては泣き鬼の形相ぎょうそうで、このまま近づいてくれば心臓が凍り付いて死んでしまうのではないかという様子で、それでも、近づいてくる。


 一歩、一歩、灼熱の砂漠を踏みしめて、近づいてくる。


 なぜ――? なぜ。なぜ。なぜ。悪魔にはその根源にある原動力が分からない。なぜ卑小な人間がまだ一歩一歩を積み重ねることが出来る? なぜ? これは勇気ではなく蛮勇ではないか。あるいは状況を認識できないほどに頭が悪いのか? 一歩。一歩。一歩。死ぬかもしれないのに。壊されるかもしれないのに。それこそ羽虫が蜂の巣に突っ込んでいくようなものだ。あるいは大量の蜘蛛が生息する巣窟に、それが蜘蛛の巣であると分かっているのに、突っ込んでいくようなものだ。


 烏丸ゴロウとは別ベクトルの、理解不能。


 ゆえに悪魔は、一度シラズから視線を切り、どこか楽し気にしている烏丸ゴロウに、言う。


「どんな状況に持っていきたいんだい? きみは」

「いまより面白い状況」

「なにが面白い? きみは悪戯に犠牲を増やそうとしているだけじゃないか」

「? なにが犠牲になるんだよ」

「あの卑小な人間だ!」

「犠牲になるわけないじゃん」


 晴れ渡る空を仰いで「雨が降るわけないじゃん」とでも口にするように烏丸ゴロウは言った。言葉には確信が秘められていた。それは断言にも近しかった。


「だってゲーム中、暴力は禁止だしさ」

「……なら、あの人間をこの場に近づけさせて、なにをするつもりだい?」

「いい経験をさせてあげようかなって」

「なに?」

「ロシアン・ルーレット、やめない?」


 提案は唐突かつ一方的に過ぎる。悪魔は生まれてはじめて言葉を失うという経験をする。肯定も否定も、口からは出てこない。


「違うゲームにしようぜ。もちろん暴力禁止のルールは適用したまま」

「……ふざけているのか?」

「ふざけてないよ。ただ、もっと面白いゲームを思いついた」

「ふざけてるだろうがっ」

「でもうすうす気が付いてるんだろ? おまえも。……もう、俺はほぼ負けないぜ。まあ魔素マナの弾丸で死んだら負けってことになるだろうけど、その前に俺、おまえに当てるしさ」


 いや、こっちには、暴かれていない、いかさまが――。


「なにより俺には、待ち続けるっていうことが出来る。いままでの早すぎる進行とは真逆の――撃たないっていう、選択が。それはめちゃくちゃ退屈だし、つまんないから、俺も絶対にやりたくないんだけど――どちらにせよ、おまえは負けることになる」


 待ち続ける。そうすればどうなるか? いずれシラズと呼ばれた人間のように、この階層に人間たちが押し寄せるだろう。武力を持った人間たちだ。集団だ。そいつらが準備をする。悪魔を殺す準備を。しかし、止めることは出来ない。なにせこちらから攻撃は不可能なのだから。暴力は禁止されているのだから。


 そして万全の準備が整った状態で烏丸ゴロウが敗北を認めれば、終わりだ。暴力の解放。烏丸ゴロウは一時的に悪魔になるだろうが、しかし人間達の集団暴力によって、悪魔は死に、呪いもすぐ解呪されるだろう。


 ロシアン・ルーレットには勝つが、戦いには負ける。


 そして、烏丸ゴロウはほがらかな笑顔で告げる。


「それにさ、もっと面白いゲームを思いついたなら、そっちにシフトした方がいいでしょ。やっぱ楽しいのが一番だし」


 ――そのとき悪魔が抱くのは怒りでも呆れでもなかった。もちろん悲しみでも喜びでもなかった。すべての感情が、まるでバケツで混ぜられた絵具の残滓ざんしのように攪拌かくはんされて、それはやがて黒という名の無になり、悪魔は、やっと、五秒ほどの間を空けて、言う。


「……ボクにとって面白いゲームとは限らない」

「シラズさんがここにたどり着くか否か」

「なに?」

「シラズさんが、ここまで歩いてこれるか、どうか」

「……それはゲームなのか?」

「ある意味ではゲームだろ?」

「なら、それのなにが面白いんだ。ボクにはまったく面白さが」



「おまえの生き死にが掛かってる」



 烏丸ゴロウの瞳が少年のように輝く。――いや。もとから少年のように輝いていた。けれどひときわに、澄む。さながらはじめて雨上がりの虹を見た幼子のように。あるいは憧れていた正義の味方と対面した少年のように。


 思考の停止した悪魔に、烏丸ゴロウは面白おかしく言う。


「シラズさんに、おまえの名を、聞き出してもらう」

「――な、にを」

「心臓に手を当てて、問いかけてもらう。おまえの名はなんだ、と。俺は触れられなかったけれど、シラズさんなら触れられる。勘だけど」


 その直感は――恐ろしいことに的中しているっ! 【未知ゆえにアンノウン】は危機を遠ざける。危機を決して近づけさせない。だから烏丸ゴロウは触れられなかった。けれど――卑小な人間であれば。


 己がまったく意にも介さないような、羽虫だと思ってしまっているような、卑小な人間であれば――!


「でもこれは、ちゃんとおまえに勝ちのあるゲームだ。ロシアン・ルーレットよりも、遥かに」

「ボクは――暴力以外なら、なにをしてもいいのかい?」

「いいよ。殺したり傷つけたりするような行為でなければ」

「受けよう」


 言うやいなやに悪魔は振り返る。またシラズという卑小な人間を視界の中央に収める。そして同時に思う――勝てる! これならば勝てる! ロシアン・ルーレットは勝てなかった! では敵わなかった! だが――理ではなくじつ! じつであれば勝てる!


 同時に悪魔は気が付く。烏丸ゴロウの最大の弱点。



 こいつは――勝ちよりも娯楽を優先している!



 異端の感性。



 天賦の才。



 ゆえに強く――だが、ゆえに、隙があるっ!



   0



【あれあいつあれじゃね】

【NGワードで打てないけどあれじゃん】

【あれだ】

【変態ってあれだったの!?】

【あれ!】

【K・G】

【Kだ】

【伝説のK】

【伝説だ】



【元S級探索者の、Kじゃん!】



 コメントが流れ続ける。音声となって耳にも聞こえる。けれど内容は頭に入ってこない。シラズはただ怖かった。ただ震えていた。ただ自分の安全が恋しかった。生きるということが素晴らしいということを実感していた。


 死を、身近に感じるから。


 砂漠。


 約百メートル先には、名無し男。


 そして――存在だけは知っている、聞いたことだけはある、化け物。


 悪魔。


 それでも――シラズは、足を進める。


 ――名無し男が、血に染まっているから。


 なにより、助けを、求められたから……!


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