28.烏丸ゴロウは壊れている


   28



 気づけば砂を触っている。しかし砂は手のひらから零れ落ちていく。いくら砂を握ったところで結果は変わらない。熱された砂は――悪魔の手のひらから、逃げるように地面へと零れた。


 烏丸ゴロウを、見る。


 視線は合わない。彼は悪魔から視線を外して遠くを見ている。なにを見ているのか? 振り向いてみれば分かる。砂嵐が発生して、空が汚れていた。……ふと聞こえてくるのは口笛だった。口笛は天才的に晴れやかで、メロディがはっきりしていた。音程にも濃淡があって、表現が達者だった。……これは遊びの領域なのだろうか?


 烏丸ゴロウは自然体だ。そこに恐怖もなければ、怯懦きょうだもない。


 ならば恐怖を抱いているのは、誰か。ああ――回転式拳銃リボルバーを握る手が、震えている。それは悪魔にとってはじめての経験でもあった。いや。そもそもおかしな話だった。どうして震えなければならないのだ? どうして、まるで猛獣を前にした羊のように絶望的な気分で息をしなければならないのだ?


 圧倒的な優位を築いていた。敗北の二文字はありえないはずだった。本来であれば。常識であれば。普通であれば。


 けれど現状を、誰がで語れるだろうか。


 悪魔は先ほどまでとはまるで違う重さの回転式拳銃リボルバーを握りなおした。最初に握ったときはまるで重さを感じなかった。一発目を烏丸ゴロウの額に的中させたときも同様だ。むしろ回転式拳銃リボルバーは軽くなったような気さえしていた。二発目。平然としてまるで落ち込むこともない烏丸ゴロウの様子にすこし驚きつつも、しかし自分の勝利を疑っていなかったから、問題はなかった。回転式拳銃リボルバーの重さも変わらなかった。


 けれど、三発目から様相は変化していった。ゲームが終わらない。それも当然だ。終了条件は二つに一つ。烏丸ゴロウが悪魔になるか。自分が名前を晒すか。しかし――しかし、普通であれば、常識であれば、本来であれば!


 悪魔の想像上では、一発で決着するはずだったのだ!


 というより、ロシアン・ルーレットの続行は当然のものとして、それは自分主導で行われるもののはずだったのだ!


 想像上では――撃ち抜かれたショックで放心状態となる烏丸ゴロウの姿があった。彼は傷つき、苦しみ、恐れ、震え、悪魔に対して縋るような目線を送ってくる。ああ、かわいそうに。そして頭からとめどなく流血し、痛みと呪いへの絶望感で冷静さを失った烏丸ゴロウは、情けなく哀願あいがんしてくるのだ。あるいは命乞いをしてくるのだ。「もう勘弁してくれ」と。けれど悪魔は首を横に振る。すると烏丸ゴロウは瞳を潤ませる。顔を白くさせる。唇をわななかせる。そうしてまた、悪魔に頭を下げながら頼み込む。


「ゲームを終わらせてくれ!」と。


 ――もちろん悪魔は終わらせない。終わらせるつもりなんて存在しない。けれど、悪魔は悪魔的に契約を持ち掛けるつもりではあった。それは単純明快な契約。最初の願望通りの契約。


「友達になってくれるなら、終わらせてあげるよ?」


 ――友達という名の契約。絶対的な縛り。もちろん人間が想像するような友達ではない。そこには越えることのない壁が存在する。烏丸ゴロウは友達という名目で悪魔に服従するのだ。悪魔の命令から逃げられなくなるのだ。逆らえなくなるのだ。そういう契約を――本来は、悪魔側から持ち掛けて、ロシアン・ルーレットを、終わらせるつもりだった。


 想像上では。


 そして本来であれば、普通であれば、常識であれば、なによりもであれば、その想像は現実のものになっていた。



 なっていた、のに……。



 いま、血だらけの烏丸ゴロウは、まるで疑問符を浮かべるかのように首を傾げた。


 その表情が物語っていた。



「はやく撃てよ」



 と。


 ああ。勘違いしていた。誤解していた。見誤っていた。分かった気になっていた。十年以上前から一方的に存在を知っているから。なによりも調べてきたから。魔物の目を通じて。悪魔の口を通して。でもまるで分かっていなかった。まるで烏丸ゴロウという人間を、理解していなかった。


 それは致命的に遅い、気づきだった。


 そうだ。


 ――怖くないのだ! この怪物は! まるで死を恐れていない! まったく破滅を恐れていない! 毛ほども呪いを恐れていない! なによりここまで絶対的に優位に立っているというのに――微塵も悪魔を恐れていない! それがなにより異常だ! ありえない!


 もちろんいままでだって傾向はあった。それは【業火の悪魔インフェルノ・デビル】から聞いた話でも、【双子の悪魔デビル・デビル】から聞いた話でも、【空虚の悪魔ルーザー・デビル】から聞いた話でも分かっていた。でも、それはあくまでも優勢だからだと思っていた。自分が圧倒的に優勢で強者の側に立っているからだと。つまり。


 烏丸ゴロウはあくまで、自分が勝ちつつある状況だからこそ、悪魔を恐れていないのだと思っていた。自分が優位性を獲得しているから、悪魔を恐れないのだと。けれど、違った。それはまるきりの誤解だった。


 関係ないのだ。


 関係ないのだ。


 関係ないのだ!


 烏丸ゴロウはどんな状況であろうとも恐れを知らないのだ。不利であろうと有利であろうと態度は変わらないのだ。きっとつま先で蹴るだけで死んでしまうアント・スライムと、【悪魔の王サタン】の子とまで呼ばれた自分とでも、まったく態度は変わらないのだろう。そしてきっと、あとほんのもうすこしで死んでしまうというような絶体絶命の危機でも、変わらないのだろう。



 つまり、



 烏丸ゴロウは、



 壊れている。



 そうだ。壊れている。烏丸ゴロウは壊れている! 正常な人間であれば誰しも持っている――いや、これは人間ではなく悪魔も含め、つまりは命を持っているものであれば誰しも宿しているはずの、宿さなければいけないはずの、なにか、根源的で、かつ、魂のようなものに近しいもの。生き物が生き物である限りは絶対に失ってはいけないもの。欠如させてはいけないもの。それが――ない。欠けている。失われている。いや。壊れている。壊れているのだ!


 ならば――ならばもう、当初の目的など、どうでもいい! 悪魔にする? 呪い? 友達? いまはもう、どうでもいい! いまはもう――悪魔は縋るような気持ちで回転式拳銃リボルバーの銃口を押し当てる。血がいまだにタラタラと出続けている額に押し当てる。せめて痛むように。せめて苦しむように!


 引き金に、指を沿わせた。


 悪魔の願いは、悪魔の望みは、悪魔の祈りは、一つだ。


 ――死んでくれ。


 死んでくれ。死んでくれ。死んでくれ。死んでくれ! 頼むから死んでくれ! もう死んでくれ! 当初の目的や想定なんてものはもう墓場に捨ててやる! どうでもいい! こんな壊れたやつと友達? 馬鹿みたいだ! こんなの通じない人間に呪い? 馬鹿じゃないのか! そんなことよりもいまは実利――この瞬間に起こる最大風速――つまりは、死。死だ。死以外には存在しない! 死ね! 死ね! 死ね! 死んでしまえ! ここで撃ち抜かれて死ね!


 死ね! 烏丸ゴロウ!



「やっと、面白くなってきたな」


 

 ――不発。



 理解するまでに、一秒。認識するまでに、三秒。「ひ」と虫が鳴くような声が出たのは、引き金を絞って五秒後だった。


 血の気が一気に引いていく。ただでさえ白い顔がさらに青白くなっていくのが分かる。心の中は悲鳴でも絶叫でもなくだった。圧倒的な空白が心を支配する。脳を支配する。無。無。無。無。しかし次第に水が――あるいは空気のようなものが、密閉された空間に入り込んでくる。それは瞬く間に空間を満たして悪魔を圧迫させた。窒息させた。


 息が、苦しくなる。


 その正体は――恐怖。


 怖い――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いッ!



「やっぱ勝負はさ、お互いに必死じゃないとな」



 まるで必死さを感じさせない表情で、あっけらかんと烏丸ゴロウは言った。ふざけるなと悪魔は罵ってやりたかった。なにが必死だ? おまえのどこが必死なんだ? おまえは必死じゃないだろうが! おまえは余裕綽綽としているじゃないか! おまえは微塵も恐怖していないだろうが! 恐怖しているのはボクだけ! 恐れているのはボクだけ! おまえは自然体だ! おまえは必死じゃない! というかおまえはただ――そう。



 おまえはただ、楽しんでいるだけじゃないか。



 それを理解した瞬間、悪魔の身体から力が抜けるようだった。そして同時に悪魔は理解した。そもそもこのゲーム、勝ち目のない勝負だったのではないだろうか?


 当初は烏丸ゴロウを封じるためのゲームだった。その圧倒的な暴力性を封じるためのゲーム。ロシアン・ルーレットというルールで強制的に縛ることで烏丸ゴロウの脅威を無効化してやろうと思ってたくらんだ。でもそもそも、無駄だったのではないか。勝ち目はなかったのではないか。


 なにせどれだけ呪い、烏丸ゴロウが悪魔になったところで、自分が殺されれば、呪いそのものは無効化されるのだ。もちろん、悪魔にすることで縛ることは可能だ。相手を悪魔にするということは、隷属させるということにも繋がるのだから。


 けれど、烏丸ゴロウのことだから、きっと、意味はなかったのではないか?


 力が抜けそうになる。負けを認めそうになる。なんだか次には弾丸が当たってしまうのではないかという気にもなる。その予感は正しいような気がする。


 回転式拳銃リボルバーは力なく砂山に落ちる。


 烏丸ゴロウが拾い、そして、弾を籠めていく。


 そして――そして悪魔は。





 嗚呼ああ――嗚呼【悪魔の王サタン】様、お許しください。これよりボクは禁忌を犯します。契約を重んじる悪魔として、無法を犯します。きっとこの禁忌が成立してしまえばボクは悪魔ではいられなくなるでしょう。悪魔であったとしても力を失うでしょう。【悪魔の王サタン】様には相応しくない悪魔に堕ちてしまうでしょう。しかし、ボクはもともと堕ちたもの。ゆえに、堕ちることには慣れているのです。そしてもし、ボクがこの禁忌によって烏丸ゴロウに勝利し、悪魔としていられなくなったのであれば、あなた様がボクを処罰してはくれないでしょうか? いえ。それは望みすぎでしょうか。分かっています。ボクは、ボクの手で、ボクの魂を終わらせましょう。


 お許しください、【悪魔の王サタン】様。


 ご安心ください、【悪魔の王サタン】様。


 いずれあなた様の脅威になるであろうこの怪物は、ボクが全身全霊を籠めて、ここで殺します。どんな手を使ったとしても――その代償として、悪魔でいられなくなったとしても。地獄の業火で焼かれ続けるだけの亡者に成り果てようとも――ボクはいま、ここで、烏丸ゴロウを殺します。


 どんな手――たとえ、契約と規律を重んじる悪魔にとっての最大の禁忌、理外の無法――いかさまを行使したとしても!




 烏丸ゴロウが、弾倉を閉じる。


 瞬間。


 悪魔は弾倉内に入っていた魔素マナの弾丸を、消去した。


 それは悪魔が創造した回転式拳銃リボルバーだからこそできる、いかさま。


 烏丸ゴロウは、気が付かない。


 魔素マナには重さがないから、一度弾倉を閉じてしまえば、気が付かない。


 これでもう、負けはない。


 負けない。


 あとは殺すだけ。


 殺して――そして己は、報いを受けよう。


 悪魔としての最大の禁忌を犯した罪を受ける。それは悪魔の魂の剥奪だ。己の魂の焼却だ。けれど甘んじて受け入れよいう。そうしなければならないほどの――天敵だから。いずれはきっと【悪魔の王サタン】様の障害になりえてしまうほどの天敵だから。だからいまここで、たとえどんな代償を払わされようとも、殺しきる。


 悪魔は微笑む。


 瞬間。


 予想だにしない一言が、烏丸ゴロウの口元から、漏れた。



「あれ、シラズさん?」


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