2.この世はすべて遊びで出来ている
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夕焼けの川面で白鳥の群れが鳴いていた。白鳥という綺麗で高貴な印象からはかけ離れた騒がしい声だった。なるほど引きこもって外の世界に出ていないから新鮮だ。俺はおもむろにベンチを立って両手を広げる。風を浴びながら精一杯に叫んだ。
「キョエー! キョエー!」
「……なにしてんすか、先輩」
「キョエー! キョエー!」
白鳥の鳴き声の真似だった。白鳥たちは俺の鳴き声に驚いたように羽根を広げてばたつかせる。水面で飛沫が散った。俺も負けじと両手で
しばらく遊んだ。遊んだあとに飽きた。俺はいきなり
「で? 助けてほしいっていうのは?」
「な、なんか……。相談した相手を間違えたかもしれないっす」
「話せよ。聞く体制は出来てるから」
「……その。これは話すより見て貰った方が早いと思うんすけど」
テレサはなぜかそこで照れたように頬を赤くさせる。髪の毛と同じくらい白い肌だから血色の変わりようはよく分かった。いきなり日焼けしたのだろうか? なんて馬鹿なことを考える。テレサは視線を周囲へと転じた。
前方には川。背後には夕焼けの土手が走っている。買い物帰りだろう自転車が通ったり犬の散歩をしているお年寄りがいたりと
「すいません先輩。ちょっとここだとあれなんで……」
「?」
「ちょっと」
「なにがちょっとなんだよ」
「ちょっと」
質問に答えることなくテレサは俺の袖を掴んで立ち上がる。そのまま俺を公園から連れ出して――向かうのは橋の下だった。
人はいなかった。周囲からの視線も外れる場所だった。ちらりと足下に視線を向けるとビールの空き缶やペットボトルのゴミが散らかっている。もう長いこと放置されているゴミだった。一体こんなところになんの用があるのか。
テレサはいきなり上のジャージを脱ぎだした。
「……悪いテレサ。俺とおまえってそういう関係性じゃないだろ?」
「っ。違うっすよ! そういうんじゃなくて!」
「大丈夫。いまの俺の交友関係は狭いから。誰にも言わないよ。精々SNSに書き込むくらいだ。新進気鋭のD級探索者テレサ! 橋の下で男を誘惑! って見出しでな」
「書き込むなぁ!」
いや。なにかとてつもなく大きなストレスが掛かったのかもしれない。嫌な出来事によって精神状態が不安定になってしまうのはよく聞く話だ。うむ。俺は同情を禁じ得ない。一体テレサの身になにがあったのか? 考えると涙が出てきた。
俺は大粒の涙を流しながら言う。なるべくテレサの刺激にならないように。
「大丈夫。大丈夫だテレサ。俺がおまえを全肯定してやろう」
「き、気持ち悪いっす……」
「いきなり脱いでも大丈夫だ。ただ、相手は選ぼうな、テレサ」
「選んでるっすよ、普通に」
「俺はおまえをそういう目で見れない……」
「そういうんじゃないですって! よく見てくださいよっ! ここ! 谷間の下!」
とんでもない痴女だな。
俺はテレサの変わりようにやはり大粒の涙を流す。ちなみに俺は引きこもりニートで、テレサは新進気鋭のD級探索者。一体どのような接点を持っていままで関係が繋がっているのか? と問われれば、それはゲーム以外の何物でもない。ああ。実をいうと昨日もゲームをしていて約束したのだ。今日の夕方に会うことを。
俺は後悔する。そしてやっぱり泣く。きょえ、きょえ……。嗚咽も出てきそうになった。どうして俺はゲームでボイスチャットを繋げながらにテレサの様子に気がつけなかったのだろうか? もはや先輩と後輩の垣根を越えた、親友と呼んでも差し支えない間柄だというのに……。
「見てくださいよっ! 先輩! 見てっ! これ他の人に見られたらどうするんですかっ! 泣いてないで見て! 先輩!」
「……すまんテレサ。俺がもっと早く気がついていれば」
「ちょっとぉ! 泣いてないで見て! 私が泣きそうになるっすよ! もう! ねえ! 見て!」
「おまえがこんな痴女になることはなかったのに……」
「痴女じゃなぁい! 胸の下! 胸の下を見てって言ってるんすよ! ねぇ! わざとっすか! 先輩! わざと!?」
「俺は本気でおまえを心配しているんだ! テレサ!」
「っ。……急に良いこと言ったみたいになるなっ!」
そして俺は痴女ことテレサに屈服する。別に見たくもないけれどテレサの露わになった上半身に視線を向けた。白い肌が陶器のような滑らかさを持って雪山のように続いていた。そして、視認は一瞬だ。豊かな胸の下に刻まれた『黒い紋章』。
俺は瞬時に泣き止む。
そしてテレサは俺の表情の変化をもって、脱いだ服をまた着直した。
白鳥がいつの間にか泣き止んでいた。空がいつの間にか墨色に染まりつつあった。夕陽の炎は遠い遠い山の稜線に沈みつつある。いつしか夕焼けは黄昏に変わっていた。
しばしの沈黙の後に俺は言う。
「テレサ」
「うす」
「どこのダンジョンだ?」
「……青森の
「時期は?」
「一ヶ月前に」
なぜそのときに俺に相談しなかったのか? という問いかけは無意味だろう。俺は何者だ? 俺はただの引きこもりニートだ。もう六年も家に引きこもってろくに身体も鍛えていない脂肪の塊に過ぎないのだ。そんな人間にテレサがなにを言えるというのだろう。なにを頼れるというのだろう。なにも頼れないに決まっている。
けれど――いまになって俺に頼ってきた。その意味はなにか? 簡単だ。
俺以外に頼れる人間がいなくなったのだ。
つまりは、誰の手にも負えなくなった。
「呪いだな。呪いの紋章か。ダンジョンに棲み着いた、悪魔による」
「うす」
「まだ身体は大丈夫か?」
「……なんとか。微熱がずっと続いてるくらいっすね。夜になると気だるさも、ちょっと」
苦笑するようにしてテレサは言う。その胸中は分からない。どんな感情でテレサは言っているのだろうか? 俺は頭を掻きながら言う。
「よくランニングしてるな、毎日。自分でどうにかするつもりなのか」
「立ち入り禁止ダンジョンに指定されちゃったっすからね。誰も協力はしてくれないっすよ。ならもう、あとは自分でダンジョンを攻略して、最深部の悪魔を殺す以外にはないっす」
「そうか」
テレサの胸部に刻まれているのは悪魔の呪いだった。それは治療しなければ決して完治しない、ある種の致命的な病気に近い。呪いは時間を掛けてゆっくりと宿主を蝕んでくる。やがては発熱から倦怠感へ。倦怠感から麻痺へ。麻痺から昏睡へ。昏睡から死へ。
とはいえ治療方法は簡単だ。
呪い手の悪魔を、殺せばいい。
「強敵っすよ。たぶん、変哲もない魔物が悪魔に突然変異したんでしょうね。そのままダンジョンの主として居座ってるって感じっす。攻略難易度が未知数なんで、いまは立ち入り禁止になってるっすけど――A級くらいの難易度はあるかも」
「そうか」
ふと、俺は右手に持った空のペットボトルを上に放り投げた。橋の天井にぶつかってしまうくらいに勢いよく。そして俺は言う。
「つまり、楽勝だ」
落ちてきたペットボトルは俺の肩に乗って止まった。この世はすべて遊びで出来ている。楽勝で当たり前だった。
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