閑話 猫舌は李の月を舐める

 李月7月のある日、シェオがチマを起こそうと寝室へ足を踏み入れると、そこに見慣れた膨らみはなく、灰色の毛並みをした猫が一匹寛いでいた。

「?」

 状況を飲み込めなかったシェオは、一度部屋から退出しては再度入室し、改めて寝台を確認する。

 小綺麗な銀灰色の毛並みに、何処となく気品を感じる佇まい。顔も、…チマに見えなくない造りをしており、シェオはチマが猫になってしまったのだと確信した。

「お、お嬢様っ!どうして猫に…!」

「ふしゃーっ!」

 よたよたと歩み寄ってきたシェオに向かって、猫は背を上げ尻尾を膨らませながら威嚇いかくをする。

「私のことをお忘れですかお嬢様!?落ち着いてください、侍従のシェオですよ」

 宥めるようににじり寄るも、警戒を露わに威嚇される状況は変わらず、最後には部屋の隅へと逃げ去ってシェオを睨めつけていた。

「安心ですよ、お嬢様。私が危害なんて加えるはずがありません、落ち着いてくださいな」

「落ち着くのはシェオの方よ。何で猫相手に漫才してるの…」

「へっ?」

 声の方へ振り返れば、湯桶と布巾を使用人に用意させたチマの姿。シェオはチマと猫を繰り返し見ては、胸を撫で下ろすように一息吐き出す。

「…。」

「…。」

「いやぁ、お嬢様が猫に変わっておらず安心いたしました!」

「どうやったら人が猫になるのよ…」

獣貰神じゅうせいしんアークティニディアは狩猟の為に獣性を得て、半神半獣の姿になったってあるじゃないですか。夜眼族やがんぞくのお嬢様が獣性を得たら猫になってしまうのかと」

「ご先祖様に失礼な…。まあいいわ、とりあえずあの子を綺麗にしてしまいましょう」

「大丈夫ですか?結構威嚇してきましたが」

「問題ないわ。お出でなさいな」

 チマが声をかけると灰色の猫はスススッとチマに駆け寄ってきては抱きかかえられ、隣に立っているシェオへ軽く威嚇する。

「ところで、この猫さんは何処の誰ちゃんですか?」

「さあ?鳴き声がすると思って窓の外を見たら目が合っちゃったのよ。元は綺麗にされている風があるから、何処かで飼われている子じゃあないかしら。一旦綺麗にしてから、日のある内に周囲を当たってもらうわ。使用人の皆が綺麗にするから、大人しくしててね」

 怪我こそはないが、体毛に植物の種子が引っ付いていたり、枝が絡まったりと中々に大冒険をしてきた事が伺える様子。シェオが寝台に視線を向ければ、葉っぱや土が残っていることから、最初はもっと酷かったのだと察する。

 猫は基本的に水に入ることを好まないので、使用人たちが布巾をお湯で濡らしてから身体の汚れを落としていく。

「んに」

「おはようマカロ。この子はお客さんだから、お行儀よくね」

「…。」

 マカロは非常に大きい体格をしているので、灰色の猫はピッと身体を硬直させていたのだが。

「ぬぁ」

「にぃ」

 マカロは温厚な猫ということもあり、緊張した空気は直ぐに解かれていく。

 お互いに挨拶をすればマカロはそのまま通り過ぎていって、チマの寝室で横になり惰眠を貪っていく。

「仲良くしてくれてなによりよ。然し、この子は何処から来たのかしらねぇ…。ふふっ、ちんまりとしていて可愛いわっ」


 それから日が過ぎて。

「飼い主は見つからないし、連絡も来ない、と」

「ええ、そうなのです。あの子も何処かへ帰る素振りを見せず、居着いてしまいましたし、小綺麗な野良だったのかと話していたところでして」

「ふぅん。帰る場所がないのならウチで暮らしてもらっちゃおうかしら」

「マカロとも仲が良く、一緒にお昼寝をしている姿を見かけましたので、良いかもしれませんね」

「なら名前が必要だけど、…ロニャで」

「承知いたしました、他の使用人にもロニャの名を伝えておきます」

「お願いね。そうそう、もしもロニャが何処かへ行くようなら引き止めないであげてね。流離さすら旅猫ろびょうなのかもしれないから」

「流離う旅猫というと、御伽噺メルヘンの」

「そう、カリントのね。何処からともなく表れて、数日世話になったら幸福だけを置いて何処かへ消えていくってお母様が話してくれて。もしもそうだったら素敵だと思うのよ」

「うふふ、そうですね」

 『流離う旅猫』はカリントのあちらこちらに伝わる伝承に近い御伽噺で、地方ごとに内容が違うのだが一貫し「何処からともなく猫が現れ、世話を焼いた家主へと去り際に細やかな幸福を与えてから、何処かへ消えていく」というもの。

 猫に似た容姿の夜眼族の多い国だから、同族に近しい猫を大切に扱おうという意味合いも籠もっているのだろう。

 チマと使用人が楽しげに笑みを浮かべて御伽噺について語っていれば、ロニャが寄ってきはチマの脚に擦り付いてくる。

「ちょうどいいところに、貴女の名前はロニャよ」

「うにゃ」

 そっと無理のない体勢で抱きかかえれば、ジッとチマの顔を見つめた後に欠伸をして、徐々に徐々に目を細めては気持ちよさそうな寝顔を露わにしているではないか。

 マカロという先輩猫も存分に可愛がられているのだが、やはり新顔は特別可愛く思えてしまうようで、二人は満面の笑みである。


 夏のある日。

「あのー…、お嬢様」

「どうしたのシェオ。…探し物でも?」

「探し物というと語弊ごへいがあるのですが、今朝からロニャの姿が見られないと皆が言っておりまして。お嬢様の私室や寝室にいないのかなと」

「今日は見てない気がするわ。…明日も見かけなかったら、旅に出てしまったと考えましょ。本当に流離う旅猫だったのかもね」

 結局、翌日にもロニャは見つからず、彼女は旅に出てしまったのだとアゲセンベ家の者たちは納得していく。

 そんなに長い間の仲ではなかったとはいえ、旅支度を整えてあげられなかった事を小さく悔やみながらも、ロニャの旅路に幸福が多からんことを祈っていく一同であった。

「酸っぱ。…ラング・ド・シャですもものジャムを挟んでいたの…。……、ふむ。これはこれで有りねっ!」

 少し静かになった私室でチマは菓子を食み、呑気に漫画を読み進めていく。

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