【2】

-1

ベチャ…ベチャ…


真っ暗な部屋の中、何かが近づいてくる音が聞こえる。


ベチャ……ベチャベチャ……。


「ねえ……」


背後から誰かに呼ばれたのはわかった。けど、振り返りたくない。

だって、血の臭いがするんだ。


「ねえ、あたしだよ……詩織だよ……」


名前を聞いた途端に、頭の天辺からつま先まで、サーッと血の気が引いていった。

その場から逃げだそうとした、その瞬間だ。


「……ねえ、なんで逃げんの!」


思い切り肩をつかまれ、振り向いた。


そこにいたのは……。


「うわあああああああああああ……」


***


悪夢に魘されて、ハッと目が覚めた。

手も足も、身体中が汗でぐっしょりだ。

ベッドから起き上がり、辺りを見回す。

いつの間にか朝になっていて、散らかったままの部屋に、俺ひとりになっていた。


あの後、棗と聖はおじさんとおばさんが迎えに来て家に帰っていった。

俺の実家は遠いし、気軽に訪ねられる親戚もいないから、仕方なく自分の部屋に戻るしかなくて。朝まで数時間だけベッドに入ってみたのだけれど。あの光景が頭から離れなくて、全然眠れなかった。

警察も夜通し捜査でうろうろしてたし……。


ブーッブーッブーッ……


またスマホが鳴り出して、ビクリとした。

もう本当に勘弁してくれよ。


『着信中 店長』


テラスの店長だ。

朝早く……といっても、もう10時過ぎだが、何の用だろう。


「もしもし……」

寝ぼけながらも電話に出る。

「海老ちゃん、おはよう。あのさ、義成と連絡とれないかな?」

「義成? 普通に電話したらいいじゃないですか?」

「いや、それがさ、電話に出なくて」

義成は、詩織と一緒にテラスで働いていたバイト仲間だ。

「まだ寝てるんじゃないですか? それか、大学に行ってるのかもしれないですよ」

「それならいいんだけど。あんなことがあったから心配でね。お店の休業の連絡のついでに、元気かどうか確認しておこうと思って」

「義成なら、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

そう言うと、店長のため息が聞こえてくる。

「海老ちゃん、実はさぁ……最近、詩織と義成もめてたんだ。ちょっと前なんだけど……」

「えっ? 何ですか?」

詩織の名前を聞いて胸が痛んだのは、罪悪感からだろうか。

「店長? あの……」

「いいや、やっぱりもう、これ以上は聞かないでくれ。海老ちゃんには話さないって詩織と約束したから。ごめんね、それじゃ」

詳しく話を聞こうと思った矢先に、店長は電話を切ってしまった。

あんな言い草されたら気になるし、義成のことも少し心配になってきた。

俺は、すぐに出かける支度する。



急いで大学まで向かうと、門の前に生徒たちが集まっていた。

今日は休校になったらしく、そう張り紙がされていた。校内は立入禁止だ。

どうしようか迷っていると、その場にやって来た双葉に声をかけられる。

「あっ、海老ちゃんだ。ねえ、棗見なかった? 電話もでないし、メールも返事ないし」

「いや、昨日いろいろあって。たぶんまだ家にいるんじゃないかな」

大学には来ていないにしても、連絡がないのはちょっと気がかりだ。

棗は、いつもメールの返信は3分以内にはしてくるのに……。

なんだか胸騒ぎがする。


ブーッブーッブーッ……


四六時中鳴りっぱなしで、忙しいスマホだ。


『着信中 渥美』


渥美さん!? 何の用だろう。

「はい、海老原です」

「海老原君、落ち着いて聞いてくれ。たった今、そちらの学内で働いていた佐藤義成さんの死亡が確認された」

電話を出てすぐ、スマホを落としてしまいそうになった。


「嘘だろ……」


――義成が殺された?


「お願いだから落ち着いてくれ。実は、第一発見者が……」


電話をきった俺は、双葉に言う。

「双葉、ごめん。あとで説明するから」

急いで、渥美さんのもとへ向かうことにした。



渥美さんに呼び出されたのは、数駅離れた場所にある、とあるアパート。

その一室が、義成が借りていた部屋だ。

何度も何度も、これが現実じゃない事を祈った。

現場には、たくさんの警察関係者が集まっていて、その中に渥美さんを見つけた。

「…渥美さん!!」

俺が大声で呼びかけると、渥美さんは手を振りこちらへ駆けてくる。

「悪いな、こんな所に呼び出して。俺じゃ何も話してくれなくて。車の中で待たせてあるから、話を聞いてやってくれないか?」

すぐさま車に向かい、窓越しに中を確認した。

俺は、勢いよくドアを開ける。

「棗、おまえ何やってんだよ!!」

棗は、縋るような目でこちらを見る。

「咲……」

「どうしてここにいるんだ? 何があったか話してくれ」

問い詰めようとすると、棗は俯いてしまって、

「言えない」

たった一言そう言うと、それきり黙り込んでしまった。

こうなってしまったら絶対に話さないだろう。

棗をその場に残して、渥美さんの所へ戻る。

「駄目でした。アイツ、ああ見て頑固なんで。一度口を閉ざしたら、絶対話しませんよ」

「しかたないな。一応、先にある程度の話は聞いたし、今日は連れて帰ってくれ」

他の刑事に呼ばれて、渥美さんがその場を離れようとする。

「あの、渥美さん。義成は……」

俺は、義成について話を聞こうとして、言葉を口にするのを途中で止める。

「……いえ、何でもないです」

義成のことは、何も聞かずに帰ることにした。

これ以上ショックを受けたら、きっと身がもたないと思ったからだ。

人が……知り合いがしんだのに、自分の心の心配をしてしまえる自分が、なんだか怖い。

ちょっと前までは、誰かが死ぬたびに心が痛んだのに。何人もの人間が目の前で死んで、生死に関する感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る