-3

その日の夜更けのことだ。


…ヒタッ…ヒタ…ヒタ


何の音だろう……


…ヒタ…ヒタ…ヒタ…

…ヒタ…

ヒタ…ヒタッ……ヒタ…ヒタ…ヒタ…

タ…ヒタ…ヒタ…

ヒタ…ヒタッ…ヒタッ……ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ

ヒタ…

ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ……ヒタ

…ヒタ…ヒタ……ヒタ…ヒタ…

ヒッ

タッ…ヒタ…ヒタ…ヒタ

…ヒタ…ヒタッ…ヒタ


ゆっくりと近づいて来る……。


音が気になって目を覚ました俺は、壁掛けの時計を見る。

午前3時半、さっき寝静まったばかりなのに……。

起き上がってみると、隣で寝たいたはずの棗が見当たらない。

「棗……」

名前を呼んだ瞬間、横から誰かに口をふさがれ、慌ててそちらを見る。

そこにいたのは、ロフトで寝たはずの聖だ。

「咲、喋っちゃダメ」

聖の手がガタガタと震えている。

俺は、目だけをキョロキョロ動かして、周囲の様子を確認する。

暗がりの部屋の中、棗は玄関のドアの前にいた。

じっと耳をすましているようだ。


……ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ……ヒタ…ヒタ…ヒタ。


先程までずっと聞こえていた音が、ピタリとやむ。


ピンポーン……


隣の部屋のチャイムが鳴る。


……タッタッ。


玄関にむかう足音がして、


ガチャ……ギィィィッ……


扉を開く音が聞こえてきた、次の瞬間だ。


「きゃああああああああああああああっ!」


物凄い悲鳴が聞こえてきて、三人はビクリとする。


「一体、何が…!?」


俺は、聖の手をどけて立ち上がり、玄関へ急ぐ。


「咲、ダメ!! そっちに行っちゃダメ!!」


「咲っ!!」


すれ違いざまに棗が手をつかんで止めようとしたが、迷わず玄関のドアを開けた。

「なんだよこれ……」

共有通路には、血でできた足跡が散らばっていた。


「いやぁああああぁぁああっ!!」


再び悲鳴が聞こえてきて、俺は隣の部屋へ飛びこむ。

「お願い……助けてっ……」

目の前には、長い髪を引っ張られ、床を引きずられる女の人。

その人を引きずっているのは、全身血まみれの何か。

特に顔は原形をとどめていないくらい、くちゃくちゃで……でも確かに、こちらを見て笑った。

――人間……なわけないだろ、アレは……バケモノだ……。

俺は、恐怖でその場に立ち尽くしていた。

助けに行くなんて、できない。

バケモノのようなソイツは、ベランダまで行くとピタッと足を止める。

「やだっ!!やめて…」

ソイツは女の人を軽々と持ち上げ、ベランダの向こう側へ投げ出す。

女の人は、髪をつかまれて宙づりの状態だ。



「倍返しがルールだもん。だから恐怖を倍返し…」



ソイツは、ニヤニヤと笑ってそう言った。

そして、掴んでいた髪を放す。

「……やめろっ!!」

俺は、ベランダまで走り、身を乗り出して手を伸ばした。

しかし、間に合うはずがない。


「きゃあああああああああああ……」


手を伸ばしたが届かず、女の人はそのまま落ちていき、塀の上の突起に串刺しになった。

身体には無数の穴が開き、部屋着のTシャツに血が滲む。

「ひいっ……」

ベランダに尻餅をついた俺は、ギュッと目を閉じた。

けれども、女の人の最後の姿が目に焼き付いて離れなかった。



***


あのバケモノみたいなヤツは、どこへ行ってしまったのだろう。

気がつくと、部屋中どこにも見当たらなくなっていた。

共用通路に出て呆然としていると、誰かが通報してくれたのか、警察がその場にやって来る。

駆け付けたのは、昼間聞き取りを担当してくれた渥美さんだ。


「昼間の……海老原君だったか? 大丈夫かい??」

「俺は大丈夫だけど……」

彼女を助けられなかった。

「話は後で聞くから、とりあえず着替えておいで」

あのときは他に何も考えられなくて気づかなかったけれど、隣の部屋まで行くときも、今も裸足だった。

そのせいか、足や手に血がべっとりついていた。


これって……通路の血の足跡の……。


思い出したら気分が悪くなって、急いで部屋に戻ると浴室へ駆け込み、シャワーで血を洗い流した。

そんな俺を、棗と聖が離れた場所から見つめていた。

浴室から出た俺は、ふたりに声をかける。

「……おまえら、アイツに気付いてただろ?」

俺が起きるより前からふたりは起きていて、おまけに身を隠すような仕草をしていた。

「あれは何だったんだ? どうして、隣の人が殺されたんだ?」

けれど、ふたりは何も答えようとしない。

代わりに、ブーッブーッブーッ……と、スマホが鳴り始める。

――こんな真夜中に?

「俺はマナーにしてないよ」

「私も」

…ってことは、俺のスマホか。

部屋に戻った俺は、スマホを探して着信を確認する。


『着信中 甲田詩織』


なんだろう、こんな時間に……。

通話ボタンを押す。


「もしもし……」


「海老ちゃん、助けて。次、殺されるの、きっと私だよ」


何がなんだかさっぱりわからない。

「は? なんのことだよ!?」

「呪われてるの……さっき、章吾に会ったの」

「章吾って……」

章吾は、昼間テラスで殺された生徒だ。

「そんなわけないよな? 見まちがいだろ?」

「あれは絶対、章吾だった。私が彼女に、香奈に話しちゃったから。だって……」

詩織はパニックを起こしているのか、何を言っているのかさっぱりだ。

「今、ここに昼間の刑事さんがいるから、そのことをちゃんと話すんだ」

そう言い聞かせて、そのままスマホを持って部屋を後にする。


通路へ出たところで、他の住人に話を聞いていた渥美さんを見つけた。

「渥美さん、友達が助けを求めてきてて……昼間の事件に関係があるみたいで」

俺は、スマホを渥美さんに渡す。

「もしもし……」

電話に出た渥美さんが、こちらを見る。

「誰も話してこないぞ」

「えっ!」

スマホを受け取り、詩織に話し掛ける。

「詩織、詩織!? どうした?」

電話の向こうから、何か変な音が聞こえてくる。

とても楽しそうに、誰かが鼻歌を歌っているのか?

嫌な予感がした。

「渥美さん、なんか変だよ」

俺がもう一度、スマホを渥美さんに渡そうとした瞬間だった。


「――仕返しに来たよ」


電話の向こうから、男の声が聞こえてきた。


「章吾……いやあああああああああっ……」


悲鳴は詩織のものだった。


「詩織? おい、詩織っ!」


必死に詩織を呼んだが、返事はなく……ツーツーツー。

電話は切れてしまった。

「甲田さんの家にも、すぐに捜査員を……」

渥美さんは、そばにいた他の刑事と相談を始める。

わけがわからず、俺はその場で立ち尽くすしかなかった。



詩織の身に何が起きたのか……それがわかったのは、電話が切れてから30分ほど立った頃。

「もしもし、渥美だ。どうした!?」

電話を切った渥美さんが、俯き加減でこちらを見て言う。

「甲田詩織さん、今、死亡が確認された」

みんな、無言だった。


――詩織の家に行かないと……そう思った。


けれど、それを渥美さんが止める。

「……行かない方がいい……ここよりも、酷いそうだ」

その言葉に、落胆の色を隠せなかった。


「そっちは、工藤君でいいのかな? ちょっと話したいんだが……」

「はい」

渥美さんが棗を呼び寄せて、聞き取りを始める。

「キミはずっと海老原くんの部屋にいたんだよね? 犯人を見ていない?」

棗は少し迷ったような顔をして、渥美さんを見上げる。

「……何を言っても驚きませんか? 信じてもらえますか?」

棗の眼はまっすぐで、キレイで。

渥美さんは気後れしてしまったのか、ふいっと視線をそらす。

すると、その様子を見た棗もそっぽを向く。

「やっぱり、お話できません」

棗もそうだけど、聖も……一体、ふたりは何を隠しているのだろう。

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