羊たちの愁傷
006
騒がしい大学の食堂の片隅で苦い顔をしているそばかすの少年の横に、ふと影がかかる。
「奥村、待った?」
「あ、千崎くん」
朗らかに微笑んだもう一人の少年は、すみやかに奥村と呼ばれたその少年の隣に座り、来ていたシャツの第一ボタンをはずして大きく息を吸い込んでいる。
「もしかして、課題?」
「そう……。明後日までなんだけどね。全く進まないんだ」
奥村が、胸の前で指と指とを合わせては離しながら、千崎に向かって苦笑した。課題の題には、現時点で自分が興味を持っていること、という漠然としたものだけがそこにある。
「たぶん、先生としては自分が研究したいことはなにかということをしりたいんだと思うんだけどね。でも、あんまり僕、そういうの考えたことなくて」
「まあ、まだ一年生だからね。俺ら」
彼らの縁は、今に始まったものではない。一度結ばれた縁は、それがどんなに薄くなってしまおうとも、残り続けるものなのだろう。
千崎はそれを、奥村との縁でひしひしと感じていた。
千崎と奥村は中学生の頃に同じ学級で同じ時を過ごして以降、進学した高校は別のところであった。時折、連絡を取ることがあっても、それ以上の出来事は起こらなかったのである。それが不思議なことに、同じ大学に進学したというのだから、そういう不思議な縁というのは間違いなく存在しているのだろう。
「そういえばこの前、三島から連絡来たよ」
「三島くん? 懐かしいね。元気にしてるのかな」
「元気にしてるみたいだよ。ただ、三島の性格だと友達作りが大変そうなのかもしれないね。俺たちの様子が気になるみたい」
「そっか……。でも、三島くんって結構な大学に進学したんでしょう? それなら、類は友を呼ぶかも」
「もう少し様子見、かな?」
千崎は、度が付くほどに真面目で愛想のよくない眼鏡をかけた友人の姿を思い出してかすかに笑みをこぼした。奥村は、だんだんと色づいていく記憶をたどって、背の高い不器用で優しい少年の姿を思い出した。
「河野くんは、どうしてるのかな?」
顎に手を当てて、じっと考え込んだ千崎は三月ごろにあった時の会話を思い出す。
「私大に入ったって話は聞いたけど……。なんでも、彼がいうにはぎりぎりまで遊んで暮らせる存在でいたいんだって」
「働きたくないんだ……人生の夏休みってやつ?」
「そうかも」
懐かしい顔ぶれの中、少し前から何かを悩んでいるような、小動物をほうふつとさせる少年の消息が、奥村は気になっているようで、自身の服のしわをのばしながら、少し声のトーンを落とした。
「一宮くんは? あんまりお話聞かないけど……」
「いろいろな悪縁を断ち切りたいからって、遠方の大学にいったみたい」
「そうだったんだぁ……」
「でも、俺たちが集まるときがあったらすぐに飛んでいくから絶対呼んで、って念を押されたよ」
奥村は、千崎のその言葉に安心した様子で、ほっと溜息をつく。
「そっか。みんななんだかんだで、一応生きているみたいでよかった」
「生きてるみたいって……」
奥村の心配事が変に深刻で驚いた千崎は、くすっと笑った。
「大丈夫だよ。俺たちは、ちゃんと友達だから。困ったときには素直に助けを求められるさ」
「……それを千崎くんの口から聞けるの、僕はうれしいよ」
彼らが、中学三年生のころ。
ある一人の男子高校生の不登校をめぐって彼ら五人の中がこじれそうになった時があった。しかし、それでも彼らは友達であり続けたのだ。同じ空間と同じ時と同じ悩みを共有したものとして。
いつかそれが「思い出」などという安っぽい言葉で片づけられてしまうことがあっても、そこでより固く結ばれた縁は、消えることはない。少年らは、きっとまたあの頃と同じように、集まるのだろう。
「大学生の夏休みって、長いんでしょう? みんなを誘ってどこかに遊びに行きたいね」
「そうだね。久しぶりにグループチャットにメッセージでも送ってみようか」
「うん……!」
「なんなら、オンライン上でなにかできるかもしれないし」
「ちょっとそれ、楽しそうかも!」
彼らにとって、この四年間はかけがえのないものになるんだろう。
もっとたくさんの縁を縒ってそうして自分をより紡いでいく。
奥村は、自分が一番大切にしたいと思っていた縁が、みなにとっても大切な縁であったことを実感して、うれしく思い、そしてわずかに目が潤んだ。
「……そうやって、ずっと続いていくといいな」
独りつぶやいた声は、誰にも届かない。
「さて、俺も課題進めようかな。とはいっても締め切りまではまだ余裕あるんだけど」
「千崎くんのそういうところが本当にうらやましいよ、僕」
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