羊たちの感傷
004
とある魔術師は、静かに落ちる翠雨のごとく、病に苦しむ人々が生き延びる可能性を広げていったのだという。
そんな物語を、昼下がりの図書館の片隅で読みふけっていた一人の物書き……であった男は、先を先をと望んで次のページを開こうとして、そしてやめた。
本を読むには、今日は暗すぎる。
そう、男は行き場を失ってしまって、途方に暮れていたのだ。
傘を持ってくるのを忘れたから、今は家に帰るのも引ける。図書館の高い天井を見つめていることしかできなかった。壁にそびえたつ本棚には所狭しと本が立ち並んでいる。紙をめくる音や、水浸しの靴でカーペットを踏みしめる音、受付のカウンターでキーボードをたたいたりマウスをクリックしたりする音……静かであるが故に聞こえる音の大合唱は、えも言われない感傷があった。
魔術師は、復讐と良心の間でずっと葛藤し続けていた。しかし、一人の罪も無きいたいけな少女と彼女の助けたいと願った母親、その家族の姿を見て、良心に生きることを決意する。だがそれは同時に、罪を抱える者を無条件で許すことでもあった。
それは、正しいことだったのか、男にもわからない。
だが魔術師にとっては、復讐に生きるよりも、良心に生きる方が幸せであるのは、明らかだった。それは、彼の生きがいであり人生の師でもあった母親と、母の言葉がそう言わせるのである。
〝お前の正義を果たしなさい〟
ひどく重たい言葉だが、雨で流されることのない心にとどまり続ける言葉だった。言葉は、そうやって他のどんなものよりも、時には命よりも価値のあるものとして、心臓を貫いてしまうほどの鋭さをもって人に届けられるのだろう。
男は立ち上がって、図書館を出ようとする。
少し喉が渇いた。併設されているカフェにでも行こうかと、そちらの棟へ本をもったまま向かうことにした。
適当に開いている席に座らせてもらい、アイスティーを注文する。
そうして顔を上げると、男は学生服を身にまとった兄妹を見た。
「お兄ちゃんはね、もう少し自分の感性を疑った方がいいよ! この前、家族で出かけるよって言った日に、白タンクトップにライダージャケットと、サングラスにとげとげのアクセサリーで出てきた時は、もう妹やめたいっておもったもん」
「別にこまらせてないからよくねー? 俺を表すいいファッションだと思ったんだがよぉ……」
仲の良い兄弟だな、と男は微笑する。
「だからってあれはない! 独り暮らし始めるまでには何とかしてよね!」
「んー、考えとっかぁ」
「返事はハイっ!」
「は、はい」
語気の強い妹ではあるが、兄もそれに負けるわけではなく、対等な立場で互いを思いやっているような優しさがその会話からにじみ出ている。悲しいことに、男には兄弟はいないし、対等に思えるような家族もいなかった。だからこそ、自分でも無意識のうちで心に思ってしまう。
うらやましい。
なんて醜い言葉だろうと、自嘲する。
軽やかな声とともに運ばれてきた水滴のしたたり落ちるアイスティーに映る波打って定まらない自分の姿を覆い隠すように、中断していた物語の歩みを進める。
言葉は海みたいだ。
眺めればきれいだと思うし、でも泳ぎ方を知らなければおぼれて息苦しくなってしまう。その海に飛び込むのには知恵と経験とそして勇気がなによりも必要だ。泳ぎ方を覚えるとはきっとそういう事なんだろう。泳ぐことが出来るようになれば、そこには自分が知らなかった世界が無限に広がっている。
流されて、溺れてしまうことのないように。
言葉は自由、ときに残酷で、なによりも美しく醜い。
だから、軽率に自分を殺してしまう言葉が思いついてしまうのだろう。男は、静かにグラスを持ち、喉に潤いをもたらした。
「そういえば、お前が図書館に行きたいなんて珍しいよな」
「なにそれー。私だって行きたくなる時あるし」
「それだけならわざわざこんな遠いとこくる必要なくね?」
「……先生に、試験対策の意味でも長い文章を抵抗なく読めるようになりたいですーって相談したらおすすめされた本がこの図書館にしか置いてなかったからよ。それ以上の理由はないし」
男は、すこし文字の海から顔を出して、兄妹たちの話に聞き耳を立てる。
「ふーん。で、それなんて本なわけ?」
今どきの子にしては珍しいな、と男はふと思った。文字を読むことに抵抗がある子ばかりで、そういう子は一生触れようとしないものなのかと偏見を持っていたが、それは改めなければならないのかもしれない。
「えっとね……これ!」
妹はそうして、兄の目の先に図書館のバーコードのついた本を置いた。
「湯村凛? だれだ?」
男は、ず、と音を立て、ストローから口を離した。
「きかれても、私は詳しく知らないもん。先生が教えてくれただけだし。有名な人だからお名前は知っているけど……」
妹は、眉尻を下げ大きくため息を吐いた。
「親が有名な湯野蓮太郎っていう小説家で、本名は湯野凛太郎ってことしかわからないみたい。もう、存在しないみたいだしね」
「へえ。と、いうことは生涯が謎に包まれた作家ってことかぁ。面白そうだな!」
「物語を読むということは、他人の生きる世界に飛び込んでみる体験なって先生がいってたから。そういう気持ちで読んでみよっかなって思ってるよ。お兄ちゃんもどう?」
男は、空になったグラスの結露をぬぐい取り、そのまま席を立ちあがり、もうその席を振り返ることはなかった。
雨は、まだ止んでいないみたいだった。
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