羊たちの哀傷
002
友人が以前話していた、ヘッセの「少年の日の思い出」のことをふと思い出していた。飾りすぎて汚くなってしまった黒板を一人残った教室で静かに消しながら、有る一人の教師は、ぼんやりと友人の姿を頭に浮かべている。
――そういえば、しばらく連絡を取っていないが、彼女は元気だろうか。
溌溂な性格でありながら、たまに厭世的なそぶりを見せる変わった女性だった。裏表のない正義感にあふれた性格であったから、学校においては多少の苦労はあったことだろうと思う。しかし、彼女であればそれすら何も気にせず交わしてしまいそうな気がして、思わず顔をほころばせた。
その友人が、以前『少年の日の思い出』の話をしていた。
彼女が言う事には、教師に最も必要な素質は「許す」ことなのだという。中学生以来であるから、内容についてはうろ覚えな部分もあるが、その話では、主人公は取り返しのつかないことをしてしまい、エーミールという少年に謝罪するも受け取ってもらえず、主人公にとっての一生の傷となってしまう結末をたどっていたはずだ。
しかしながら、本当に取り返しのつかないことをしてしまったのは、主人公ではなくエーミールのほうなのだ、と彼女は言う。「許す」という行為は、その相手がいい方向に変化する可能性を認めてあげるという行為に他ならない。逆に言えば、「許さない」行為は、相手がいい方向に変化する可能性を完全に否定することともいえる、と。エーミールのとった相手を見限り、言葉にせずも態度で示した「許さない」という選択は、その後の主人公の未来を閉ざした行為で、それは彼の罪なのだと彼女は言っていた。だから、主人公はエーミールに飛びかからんばかりの怒りを見せる。それは、「自分は変われるのだ」という犯行の表れ……あるいは、諦めとなったのかもしれない。ついぞ主人公は、振り返るという行為をしなくなるのだろう。
「人を許すことのできる存在に私はなりたい」
彼女のその言葉は今でも教師の頭の中で、空に浮かぶ雲の如く漂っている。
教師はこれまで、何度もこの日を迎えてきた。
多くの生徒の名前を呼び、証書を受け取る姿を何度も、何度も、見てきていた。それでもなお、別れというものには耐えがたさを感じ、その日を終えるたびに、ひどく悲しい気持ちになる。
自分は、彼らを許して、そして導いてあげることはできただろうか。いつまでたってもその問いの答えは返ってこない。
数日前、教師は、おおよそ五年前くらいに担任として中学校から見送った一人の生徒とばったりと鉢合わせた。少しの時間であったが、言葉を交わしたことを思い出す。
彼は、優秀な子であったと思う。ただ、本人の願うような天才ではなかったことは、否めなかった。故に、何かを諦めたように一線を引いた立ち回りをしていた小さな背中をしていた記憶がある。しかし、そんな姿をもう思い出せないほどに社会に溶け込んだ彼は、心穏やかに微笑んで言った。
「俺は、先生のおかげで唯一といってもいいほどの希望を見つけられたよ」
「それは、良かったですね」
「先生があの時、俺に後ろを向くことを許してくれたおかげ」
「そんなことありましたか?」
ずっと言葉に関わる仕事をしていたいという彼が、物語を紡ぐことを生業とするには、一パーセントのひらめきが足りなかったのだろうが、それでも言葉と縁を切れなかった彼は、その後は、フリーの記者として仕事をしているらしい。
「もう先に進まなきゃいけない、っていう先入観でいっぱいになって、あらゆるものに敵意を向けてしまっていた時に、それを叱って、許してくれて。立ち止まって、戻ってもいいんだって言ってくれたおかげで俺は、俺の欲しかった未来を代わりに持ってくれる人と、出会えたんです」
「それは高校で、ですか?」
「そう!」
彼は、向日葵のように大きく花開いた笑顔で元気よく答えた。
「この人なんだけど……。名前は、折原文香さん。実は、あの一件があって以降自暴自棄になったりしていたんだけどさ。その時に見つけたんだ。かっこつけて言うなら、光る原石……みたいな」
彼が見せてくれたその画面には、ある出版社で新人賞を受賞した旨が記されているサイトページだった。
「俺の仕事は、人々が見たいものだけを見せてあげるような、薄汚い仕事です。やりがいもとっくに消え失せてしまっている」
教師はあの時、そんなことはないだろう、と言おうとした。しかし、何かを心に決めたような彼を前にして、口をはさむのは野暮だと、口を噤んだ。
「でも、この人なら。いつか俺の代わりに、見えない真実を描いてくれるんじゃないかって勝手に託してるんです」
まあ、向こうからすればいい迷惑かもだけど。
などと後ろ向きな言葉を交わすが、それは小説家たるものの仕事だ。そういう希望を投げつけることを、教師は悪いことだとは思わなかった。
すべての道を一人で歩むことは、できない。だから、他の道は他の人に託すのだ。そういうシステムにすることが許された時にもしかすると、勇み足で前へ、前へと自分の進むべき道を進めるのかもしれない。
願わくば、飛び去っていった彼らが、そうして生きていってくれますように。自分のスーツに付けられた「卒業おめでとう」と書かれた花を取り外して、教師は、教卓に置かれた色紙を手に取った。
【影谷先生へ】
花をかたどった色とりどりのメッセージカードで作られた〝花束〟は、彼の手元で、春の温かな日の光を受けて輝いていたのかもしれない。
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