夜明けと共に眠るなら

夜明朝子

001

 彼は一人である。

 いつかやってくる黎明を待ち望んで、誰もいない喫茶店の窓際にある一つのテーブルを占めている。目の前に、空っぽになったティーカップと、万年筆、古い洋書のようにも見えるがその中身は白紙ばかりである偽物の本、それから便箋と封筒が置かれているが、彼はそれに見向きもしていなかった。

 ぼんやりと窓の外を見ていた彼は、ふと何かを思い至ったかと思えば、また表情を曇らせて、小さくため息をついた。指でテーブルをトントンとたたき、唇を噛みしめているが、それは何も生み出さなかった。

 ……本当は、兄に向けての謝罪文のような、あるいは先生に提出する反省文のようなものを書こうとしていたのだが、うまくそれを文字に書き起こすことはできないでいる。正直になることのできない自分を心底愚かだと密かに自虐して、傍らになぜか居座っている一匹の羊の頭を撫でた。

 さて、いったいどうしたものか。

 どうせこんなものを書いたところで、兄から何かしらの反応が返ってくるわけでもあるまい。時間の無駄になることはわかり切ったことではある。いったい何が原因で犬猿の仲になったのかはまったく思い出せない。些細ないさかいが原因であったかもしれないし、兄をひどく傷つけてしまったことが原因かもしれないし、はたまた生まれた頃から憎まれていたのかもしれない。

 そっと立ち上がって、カウンターの方へと向かい、今度はコーヒーでも淹れようか、と数々のコーヒー豆の入った瓶が並べられた棚から、一際残量の少ない便を取り出した。徐に、適当な場所で放置されていたミルを手に取り、メジャースプーン二杯分を救い入れる。先にドリップポットに飲用水を入れて火にかけて、コーヒーサーバーにペーパーフィルターをセットしたドリッパーを落ちないようにして、湯が沸くのを待つ間にと、ミルのハンドルを回し始めた。

 カウンター越しに、窓の方を見れば、あまりにも間抜けな顔をした自分の姿が映る。まだ夜は明けそうにないほど暗く、自分の姿は疲労の色もにじみ出ている。

 あまり濃いのは好きではない。粗挽きくらいが自分にはちょうど良いのだと、心に言い聞かせながら、引き終えたコーヒー粉をフィルターの中へと移し、コンロの火を止めながら、とっくに小気味いいほど蒸気の音を鳴らしているドリップポットを手に取った。全体がしっとりとするくらいに湯を垂らして、少しの間、蒸らしている。心安らぐようなコーヒーの匂いにすこし力が抜けていくのを感じながら、少しずつ、湯を足していった。

 朝になるまでにはどうにかしなければ、と思いつつなかなか食指が動かないものだ。ずーっとこうして呆然と時間を浪費していたい。少しの時間を経て淹れ終えたコーヒーは、新たなカップに移して、どうしよう、どうしようと、上辺だけで考えながらもとの場所に戻った。

 冷めるまで、と思って眺めていた濁り水に移る自分の姿を見ているうちに、だんだんとそれが歪んで別の人間を映し始めて、少しばかりのけぞった。

 そうか……いいことを思いついた。

 例えば、可愛い羊たちの生きた人生という物語を綴ってみるのはどうだろうか。それが、自分の生きざまともつながり、それを書いているうちに伝えるべき言葉を見つけられるかもしれない。彼はそう思ったのである。

 そうと決まれば、彼の行動は早かった。

 古びた万年筆を手に取って、中身のない本を開く。静かにその本のページをなぞりながら、少しの時間思案して、そして彼は一行目にこう記したのであった。


 ――羊たちの哀傷――

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