雪の名残は恋模様
霜月夜空
change of seasons
第1話 邂逅
窓を開けると、爽やかな木枯らしが吹き込んできた。すっ、と頬を撫でる
「さっむ!」
「おい、閉めろよ
非難めいた声がした。目線を上げると、両腕を抱え込むようにして、寒さに体を震わせた友達が、恨めしそうな目で僕を見下ろしていた。
「はいはい」
僕は溜め息を吐いてから、言われた通り窓を閉めた。流れ込んだ冷気の層が断ち切られ、世界が二つに分かれた。校庭に立ち並ぶ木々の落葉が、地面を琥珀色に染め上げる外の世界。対して僕がいるのは―
「なぁなぁー、トイレ行かね?」
「ナイス
いつもと変わらぬ日常。生暖かいストーブの香りが充満する、教室の中の世界。
「秋久は来ねーの?」
「あ、行く行く」
航からの呼びかけに、僕は慌てて席を立った。
「それでさー、前に受けた模試が微妙でさぁー。親父の機嫌取らないとなんだよ」
「うわぁ…医者の息子って、やっぱ大変なんだな」
「航でも微妙だったって、その模試ムズすぎじゃね?」
男子トイレを出た僕たちは、教室に帰るまでの長い廊下を歩いていた。会話の中心である
「どったの秋久?なんか今日、元気ないじゃん」
突然、僕の方を振り返った航が、怪訝な面持ちで尋ねた。
「いや、別に。休憩の時くらい、勉強以外のこと話せば?」
僕の放った言葉に、みんなは一瞬目を丸めた。そしてすぐに、ドッと笑いが巻き起こる。
「なんだよ。さては最近、勉強サボり気味なんだろ?」
「でも秋久、この前の学診よかったじゃん!」
「いいなー、俺も英語さえできればなぁ……」
三者三様の反応を示された。まあ、結局受験トークからは抜け出し切れてないんだけど。
僕は苦笑いしつつ、窓の外に目を向ける。風に揺れる紅葉。11月も今日で最後だというのに、ひらひらと宙を舞う淡いオレンジは、本格的な冬の訪れを拒んでいるように見えた。じきに迎える高校入試から、目を逸らそうとしている僕と同じように。
「だから、現在完了は『have+過去分詞』だって何度も…ってうわぁ!」
突然、航が叫んだ。びっくりした僕は、勢いよく顔を上げた。
「……ごめん」
「いや、こっちこそよそ見してたわ。すまん」
どうやら、前方から来た女子生徒と航が、軽い衝突事故を起こしたらしい。幸い怪我はないようで、すぐにその女子生徒は、航の横を通って歩き出した。
視界の端に、冬服のセーラーが映る。すれ違う間際、僕は、そっと自分の視線を、女子生徒の顔の位置にずらした。
「あ………」
僕の喉から、声が漏れた。
そこには、かすかな驚きと、ほろ苦い過去の記憶が、交じっていた。
「
思わず目が釘付けになってしまった僕に、一瞥もくれることなく、去っていく少女。
僕は、その少女の名前を、本当に、久しぶりに口にした。
「……なんだあのボッチ」
徐々に小さくなっていく女子生徒の背中を見て、ぽつり、航が言った。
「宮村って、ほんと影薄いよなぁ」
「だよな。でも、意外と顔は可愛くね?」
他の二人も、まるで耳打ちでもするような小さな声で、話し出した。
「…秋久さ。中二の時、宮村と隣の席だったよな」
突然、航が言った。僕は驚いて「えっ」と短く声を上げた。
「へぇー。じゃあさ、宮村の親父の噂って、やっぱ本当なの?」
友達の一人が、僕に向かって尋ねた。
「…知らねえよ。てか、いつまで引きずってんだよ、そんなホラ話」
「ホラ話ってことは、やっぱ何か知ってんのか?」
僕の言葉尻を捉えたのは、航だった。さらにそれに加勢するように、他の二人も『そうだそうだー!』と圧を掛けてくる。いがいがと胸に不愉快なものを覚え始めた時、幸運にも、授業開始を告げるチャイムが鳴った。
「やっべ!遅刻遅刻!」
ばたばたと走り出す友達。その後に続きながら、こっそりと安堵の息を吐く。
「ちっ……」
前を行く航が、つまらなそうに舌打ちをするのが見えた。
*
中二の時、宮村雪乃の両親が離婚した。プライベートな家庭の事情をどうして僕が知っているかと言うと、ある日突然、『田中雪乃』から『宮村雪乃』に、苗字が変わったからだ。
思春期真っ只中―しかも、大した娯楽も存在しない片田舎では、他人のスキャンダルは格好の話のネタになる。『宮村の両親が離婚した』という情報は瞬く間に学年中に広まった。加えて、あらぬ憶測や歪んだ解釈を生み出す者まで出てきた。
やれ宮村の父親はギャンブル依存症で、ヤクザに多額の借金を作っただとか、やれ母親の方は女手一つで宮村を育てるため、夜な夜な水商売に勤しんでいるだとか。
けれど残酷なことに、噂は時に、真実以上の力を持つ。
蛙の子は蛙。ロクデモナシの子はロクデモナシ。そんな嫌悪と偏見に満ちた決めつけを、幼い僕たちは信じた。
『……馬鹿ばっかり』
ある日、登校してきた宮村が、自分の机を見下ろして言った。視線の先には、下品な落書きがあった。誰かが悪戯したのだろう。もはやいじめと変わらなかった。
『…消すの、手伝おうか?』
一人、濡れた雑巾で机を擦る宮村を見て、僕は声を掛けた。寒い朝、宮村の手は真っ赤で、僕の胸は緊張で一杯だった。
『いい。放っといて』
僕の申し出は、あっさり断られた。ぽっきり心を折られた僕は、
宮村とは、ただ、席が隣というだけだった。僕たちの間には、言葉も、視線も、微笑みもなかった。僕たちは、近いようで遠かったのだ。
それでも僕の意識の片隅には―いつも、宮村がいた。授業中、周りを気にしながらも、宮村の横顔を盗み見た。シャーペンを握る、白くて細い指を見た。かすかな息遣いに、耳を澄ませた。
そうした一連の行動は、何に起因するものだったのか。同情?憐憫?偽善?……おそらく、そのどれでもなかった。ただ、何であるかを理解することは、あの頃、どれだけ頑張ってもできなかった。
その感情に名前を付けるには、あの頃の僕には、難し過ぎた。熟れかけの果実のような不完全さと、触ると崩れる砂の城みたいな脆さを併せ持つ、僕には。
やがて時が経ち、宮村へのいじめは、終わった。それは幼児が、何度か遊んだ
そして僕たちは三年に上がり―僕と宮村は、別々のクラスになった。
「……って、なんでまた、宮村のことを」
放課後の廊下で、僕は独りごちた。両手にはクラス全員分のノートを抱えていた。今日が提出締め切りの、社会科の課題だった。運悪く日直だった僕は、こうして今、一人で重たいノートを職員室まで運ぶ羽目になっている。
「
そこまで呟いて、また、宮村のことを考えている自分に気が付く。
――なんで僕は、こんなにも宮村のことを。
……いや。実を言うと、その原因には、ちゃんと心当たりがあった。僕が必死に目を逸らそうとしているだけで、僕の心の奥底に、理由は転がっていた。
僕は、宮村のことが………
「いやいやいや!ないないない!」
僕はブンブン頭を振って、泡みたいな考えをかき消した。溜息を吐き、顔を上げると、いつの間にか、職員室の目の前まで来ていた。
*
「失礼しましたー…」
職員室から出た僕は、まずはじめに肩を回した。そうすることで、三十冊にのぼるノートの山を運び、高い負荷をかけてしまった腕の筋肉を
それから床に降ろしていた鞄を背負い、昇降口に向けて歩き出す。
「別にいらなかったんだけどな……」
下駄箱から取り出した靴を履いた僕は、自分の右手が握り締めている冊子に目を落とした。それは、僕が滑り止めとして受ける私立高校の、パンフレットだった。さっき職員室で担任の平尾に、『おまえ、これ貰ってなかったよな?』と渡された。そういや前にあった高校説明会みたいなやつ、お腹が痛くて欠席したんだった。多分、その時に配られたものだろう。
「さっむ……」
外に出た僕は、軽く身震いした。冷たい風が襲ってきて、僕は思わず顔を上向けた。さっきまで澄み渡っていた空は、厚い雲に覆われて、なんとも機嫌の悪そうな色合いに変わっていた。
「そろそろ、ネックウォーマー着けようかな……」
僕は呟き、手元のパンフレットに視線を戻した。私立入試は、年が明けたらすぐだ。この前まで文化祭だったのに、もう、僕たち三年生は受験に臨まなければならない。
とぼとぼ歩きながら、僕はパンフレットを開いた。行く気のない高校の情報が、次々と目に飛び込んでくる。…進学コースと特別進学コースって、何が違うんだ?
正門に差し掛かった頃。
びゅおおおっ、と、強い風が吹いた。晩秋の香りを色濃く乗せた風は、ちょうどパンフレットに挟まれるようにして入っていた、一枚の白い紙を奪い去った。
「あっ、ちょっ」
咄嗟に掴もうと腕を伸ばした。だけど紙は、僕の手をすり抜けて、舞うような軌道を描きながら、後方へと飛ばされていく。
「めんどくせえええ!」
僕は渋々、その場を駆け出した。視線は、校舎の方に飛んでいく紙を捉えていた。
すぐに追いつき、今度こそ、紙に向かって手を伸ばした。
「あれ……?」
ふっ、と目の前にあった紙が消えた。あれ?どこいった…?
「ちょっ、前見ろ!ぶつかる!」
「うっ…うわああああっ!」
僕は大慌てで、脚に急ブレーキをかけた。ざざざざ、と靴とアスファルトが擦れる音がした。下を向く。僕の胸の前に、怯えるような顔をした、黒い髪の女子生徒がいた。首には、赤い毛糸のマフラーが巻かれていた。
「何が『うわああああっ!』よ。馬鹿じゃない?」
「ごっ、ごめん。あやうく衝突するとこ……って!?」
その女子生徒の姿を捉えた瞬間。体中の筋線維が、ぎゅううっ、と一気に縮み上がった。喉の奥が
「み、宮村……」
そう。今、僕の胸の前に立つ女子生徒は―かつての隣人、宮村雪乃だった。
「はい、これ」
宮村は、僕の狼狽っぷりなど気にも留めず、飛ばされた紙を差し出してきた。紙が視界から消失したのは、どうやら、宮村が腕を伸ばして取ってくれたかららしい。僕が慌てて受け取ろうすると、宮村が急に「あ……」と空を見上げた。
「雪だ……」
僕は言った。宮村につられて見上げた空から、ひらりひらりと、白い欠片が舞い降りていた。それは、秋に舞い散るイチョウの
―秋の終わり。僕はまた彼女と、宮村雪乃と、出会ってしまった。
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