第31話
結局、キルクトーヤは寝付けなかった。それはそこが大岩の陰になっているとはいえ屋外であり、キルクトーヤは屋外で寝泊まりしたことがなかったからだ。地面は硬く、時折風が吹いて砂が舞う。
夜半、キルクトーヤは野営地を抜け出した。
杖を振る。杖先に小さな灯りがうまれる。キルクトーヤはその灯りを頼りに歩いた。
それほど遠くに行くつもりはない。野営地が見えるところで腰を下ろした。少しだけ息抜きをしたかった。
キルクトーヤは空を見上げた。空は満天の星空である。彼は指を一本立てて、五つの星を繋げていく。夜空の真ん中に、星の神の瞳が浮かび上がった。こちらを見守っているやさしいまなざし。キルクトーヤはほっと息を吐いた。
牢獄のグランドルは強力な魔族だ。キルクトーヤに戦闘経験はほとんどない。あってもせいぜい学校が捕えている下級の魔物くらいだ。
しかし、ジークは未来に生きてキルクトーヤに会いに来た。大丈夫。きっと勝てる。根拠のない自信が彼の胸に沸き上がって来ていた。彼は杖を撫でた。
キルクトーヤは教書の内容を思い出す。戦術学では魔族と戦闘になったときの心得を学んだ。何度も叩き込まれたその文言はすらすらと暗唱することができるほどである。
「戦闘は基本的に二人以上で行うべし。理想は騎士二人と魔術師二人。魔術師のうち片方は回復魔術を操る」
教書に記された状況とはあまりに違う。キルクトーヤは拳を握る。
「もう一人は魔術探査を展開し、決して魔族に背後をとられないように立ち回る……」
ここまで言って、自分が魔術探査を展開していないことに気が付く。魔術探査とは自分を中心に微弱な魔力を飛ばし、その反射でもって範囲内の生き物を把握できる初歩魔術である。
キルクトーヤは杖を振って魔術探査を展開する。同時に、強力な反射があった。魔力を持った生き物が存在している。――キルクトーヤのすぐ傍に。
振り返る。言葉がでない。夜の闇の中、キルクトーヤの杖先の小さな灯りに照らされて、長身の男が立っていた。その男の頭にはふたつの角が生えている。――魔族だ。
キルクトーヤが事態を把握して動くより先に魔族が右手をかざした。
「遅い。未熟すぎる」
その声が聞こえると同時に、キルクトーヤの五感が遮断される。
牢獄のグランドル。操る魔術は“暗闇の茶会”
キルクトーヤは暗闇の牢獄に捕らわれた。
*
――闇。
キルクトーヤはひとり闇の中にうずくまっている。右手は杖を握りしめ、幾たびも振るった。しかしその杖先に光は宿らない。正確には、宿った光がキルクトーヤに届かないのだ。グランドルが作り出す牢獄の奥では目も耳も意味をなさない。
完全な暗闇である。キルクトーヤは両手を見る。目と鼻のさきにあるはずの手が見えなかった。手で頬に触れる。感触だけはわずかに残っている。それも薄い紗越しに触れたかのような感覚だった。しかし、それも次第にあいまいになっていく。触れているのは自分なのか。ほんとうに触れているのか。目を開けているのか。閉じているのか。わからない。
闇の中で思考が溶け、理性が溶け、やがて自分が溶けていく。そんな感覚。
無意識に杖を握る手から力が抜け始める。あわてて力を入れる。落としたら最期だ。わかっている。わかっているのだが。
――いま自分はちゃんと杖を握れているのだろうか。
不安。それが頭に過ぎる。不安は胸の奥に巣食うと、あっというまに広がり、やがて恐怖となって思考を支配する。
――暗い。怖い。
思考が乱れだす。キルクトーヤはきつく拳を握り、歯を食いしばる。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
――怖くない。大丈夫。冷静になれ。
暗闇はキルクトーヤを怯えさせる。暗闇の中にいつもあの男の姿を見てきた。しかし。
――関係ない。ナハトはいま関係ない。
キルクトーヤはいままでにないほど集中していた。ジークが言っていた。グランドルの牢獄の中ではわずかに聴覚が残る、と。
――集中しろ。音を拾え。
この暗闇の中にはグランドルがいる。その音を聞き逃してはいけない。キルクトーヤは聴覚を研ぎ澄まし、その音を待った。
音はキルクトーヤのすぐ近くで鳴った。それはグランドルが動いた音だったのか、キルクトーヤの恐怖が引き起こした幻聴だったか。それはまさしくキルクトーヤが恐れる音だった。
キルクトーヤは確かにその音を聞いた。こつん――銀の杖が床を叩く音を。
途端に脳裏にナハトの姿が現れ、キルクトーヤに卑下た笑みを向ける。張りつめていた糸が切れるように、キルクトーヤの理性が爆ぜた。彼は悲鳴を上げ、杖をめちゃくちゃに振るった。
*
何の魔術が発動したのか、発動しなかったのか、キルクトーヤにはわからない。ただありったけの魔力を込めて杖を振るい続けた。途中、キルクトーヤの左肩が裂けた。キルクトーヤの術式が暴発したのか、グランドルの攻撃を受けたのか定かではない。しかしキルクトーヤはそれには構わず杖を振るった。
精霊と契約していない見習いの魔力はそれほど多くない。そうして魔力が尽きたとき、キルクトーヤは両ひざをついた。彼の精神は摩耗し、肉体は疲労していた。
しかし、最後の力を振り絞ってまた詠唱をはじめて杖を振り上げる。
その時、彼の背中に何者かの手が触れた。
「キルクトーヤ」
名を呼ばれる。
「よくやった」
声はそう言うと、キルクトーヤの手から杖をはたき落とす。
キルクトーヤは動かなかった。――動けなかった。
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