第9話

 それからしばらくの間、キルクトーヤに平穏な夜が訪れていた。キルクトーヤの目は光を取り戻し、深く刻まれていた隈は消え去っていた。キルクトーヤはよりはつらつとして、勉強に、修行に、そして学費を稼ぐのに大忙しの毎日を送った。


 キルクトーヤは毎夜ペンをとった。手紙を書くのだ。宛先は、この平穏な夜を与えてくれたジークである。キルクトーヤはジークが言う「命の恩人」ではない。しかし、いまではジークはキルクトーヤの恩人である。

 彼の夢には今度はジークが出てくるようになった。夢の中の彼は美しくキルクトーヤに笑いかけてくれた。


 ある日、授業の終わりを告げる鐘が鳴ったあとで後ろの席のネルケがキルクトーヤの背中をつついた。

「キルクトーヤ、何それ? 見たことない本だね」

 振り返ると、ネルケがキルクトーヤの手元を指さしていた。キルクトーヤはその手元の図書の表紙を彼に見せてやる。

 それを見て、またネルケが問う。


「星座図鑑? もしかして、星読みの魔術師を目指すの?」

「ううん。そういうわけじゃないんだけど……もらったから」

「ふうん? 誰から?」


 その問いに、返事はなかった。ネルケが覗き込むと、キルクトーヤは頬を赤く染めていた。ネルケは仰天した。少し前、新聞がそれを書き立てたときは彼も大騒ぎしてキルクトーヤを問い詰めたものだった。しかし強く否定され、またそれ以後動きがなくて、もうすっかり何もないのだと思い込んでいたが――。


「え、もしかして……ジーク騎士?」


 キルクトーヤは何も答えないが、赤く染まった耳が答えである。

 ネルケは身を乗り出した。


「えー! お熱いね! 贈り物? じゃあやっぱり恋人なんだね!」

「ちょ! そ、そんなんじゃ……!」

 慌ててキルクトーヤは否定するが、ネルケの妄想は止まらない。

「二人、やっぱり結婚するんだね? 新聞には嘘ばかり書いているんだと思っていたのに、そうでもないんだね? 子どもの頃の約束で結婚かぁ……吟遊詩人たちに歌われそうだねぇ……。なんで教えてくれなかったのさ? 僕ら友達だろう?」


 捲し立てるように言われて、キルクトーヤは参ってしまった。キルクトーヤは弱弱しく言う。


「図鑑はもらったけど……その、友達として、連絡を取り合っているだけで……」

「え? なになに、どういうこと? 連絡を取り合っている?」


 しまった、と思ったときにはもう遅い。ネルケはキルクトーヤの腕を掴み、詳しく話すまで話さないと目で語った。

 キルクトーヤは意を決し、親友にことの成り行きを説明した。いきなり求婚されたこと、新聞に載ったこと、手紙をもらったこと、返事を書いたら贈り物をもらったこと、そしてそれ以来手紙のやりとりをしていること。

 ネルケは仰け反って大袈裟に驚いて見せた。


「ええ! 文通! それって立派な恋人じゃないか!」

「ちょ、声が大きいってば……!」


 キルクトーヤはネルケの口を抑え、そして付け加える。


「恋人じゃないよ。手紙の内容もふつうだよ。何を食べたとか、何をしたとか……。それに、図鑑をもらったときから会えていないし……」


 キルクトーヤの声はどんどん小さくなっていく。


「会えてないの?」


 ネルケが目を丸くして尋ねると、キルクトーヤは泣きそうな顔で頷いた。会いに来てくれと言えるような関係でもないし、かといって気軽に会いに行けるような人物でもない。キルクトーヤはジークがこれから自分との関係をどうしたいと考えているのかわからなかった。

 しかし、ネルケはあっさりとジークの意図を読み解いた。


「ああ、叙爵式があるから、忙しいんだね。手紙があるだけ十分じゃない?」

「え?」

「ジーク様が子爵に叙爵される式典だよ。……新聞読んでないの? たまにはちゃんとしたことも書いてあるんだよ?」


 ネルケが懐から新聞を取り出す。広げられたそこには『明日いよいよ叙爵式。シュヴェルト子爵誕生へ』と書かれていた。ジークが子爵となり、スコッチウェッド領とメルク領の一部を割譲され、あたらしくシュヴェルト領が誕生するという話だった。


「……そうなんだ」


 キルクトーヤは目を丸くしてその文字を追った。確かにそのような話を友人たちがしていた気がするが、英雄譚の中心人物など自分の人生には関係がないと思っていたのだ。

 ネルケはあきれたように肩をすくめ、それから尋ねた。


「いっしょに見に行く?」

「え?」

「叙爵式だよ。式典の前には儀杖隊の行進もあるし、屋台も出るよ。ジーク様も馬車で大通りを行かれると思うから、ひとめ見えるんじゃないかな。いくらキルクトーヤが仕事ばかり入れているとはいえ、少しくらい遊びに行く時間はあるでしょ?」


 その誘いに、キルクトーヤは躊躇った。胸の中には行きたい気持ちと、行きたくない気持ちがあった。その天秤は、わずかに前者に傾いた。


「……うん」


 キルクトーヤが小さく頷くと、ネルケは両手を叩いて喜んだ。


「キルクトーヤと街に出るのは初めてだね!」


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