第8話

 それからもキルクトーヤはいろいろな仕事をしてまわって、部屋に戻ったのは日もどっぷりと暮れてからだった。夕食はいつものように厨の隅で済ませた。

 ひと息ついて、魔術師の杖を取り出す。いまからはキルクトーヤの修行の時間である。

 軽く杖を振って、呪文を唱えると魔術が展開される。風が集まり、キルクトーヤの体が少しだけ浮く。宙に浮いた足を一歩前へ踏み出すと、途端にその魔術は切れてしまう。キルクトーヤの体は再び床に戻される。

 何度かそれを繰り返したあと、キルクトーヤは呟いた。


「駄目か……」

 前に進むことがどうしてもできなかった。床に座り込んだまま、キルクトーヤは腕を組んだ。

 キルクトーヤたち三年目の見習いは二日間授業を受け、一日休み、三日間老師とともに魔術の修行を行い、また一日休むという日々を繰り返している。

 明日は魔術の修行を行う日だ。キルクトーヤがレーアムト老師に課されているのは「飛行魔術の習得」であった。ここのところずっとその修行をしている。体を浮かすところまではできるのだが、動かすとなると別の制御が必要になるようで、どうしてもうまくいかなかった。

 魔術は操作、生成、治癒の三つに分けることができる。飛行魔術はこのうち操作に分類されるものであるが、キルクトーヤはどうもこの操作系魔術が苦手であった。

 キルクトーヤはしばし唸ったあと、また飛行魔術の練習を再開した。何度も浮かび、何度も落ちた。


 何度目かの墜落のとき、ついにキルクトーヤは仰向きに床に倒れ込んだ。

「うーん」

 魔術を展開させるには魔力を使う。魔力は生まれたときに付与されている。使えば消耗し、休めば回復する。キルクトーヤはそのまま両手足を投げ出して呼吸を整える。

 床はひんやりとしていて、疲労した体に心地よい。


 窓の外に星が見えた。秋の夜空は澄んでいた。指を一本立て、星から星へと星座をなぞる。

 ふと、ジークからもらった星座図鑑のことが頭に浮かんだ。それは机の上に無造作に置かれている。


 キルクトーヤは椅子に座って、星座図鑑を開いた。図鑑はその表紙も美しいが、中も精緻に描かれていた。見開きいっぱいに夜空が描かれた頁などは、まるで小さな夜空を閉じ込めたかのようだ。


 何を探すわけでもなく、ただ子どもが絵本を眺めるようにどんどん頁をめくっていく。その手が、とまる。図鑑の中に一枚の紙が挟まっていたのだ。二つ折りになったその紙を広げると、手書きの文字が並んでいた。それは昨夜見たジークの筆致である。


――この五つの星をつないだ星座は神の瞳と言われている。夜に怯える必要はない。夜の間、我々は神の瞳に見守られている。


「神の瞳……」


 図鑑の頁には見開きいっぱいに星空が描かれていた。漆黒に、五つの強い輝きの星。キルクトーヤはその星と星を指でなぞってつなげる。

 夜の空に、神の瞳が浮かび上がった。


 ――夜に怯える必要はない。


 ジークの低くて優しい声が聞こえた気がした。

 窓を開けて、星を見た。秋の夜空の真ん中。そこには確かに神の瞳があった。神はこちらを慈悲深く見守っている。

 それは見習いたちが授業で習った星の知識とはあまりに違うものだ。迷信に似た民話なのだろう。しかし、その話はすとんとキルクトーヤの胸の真ん中に落ちた。


 その夜、キルクトーヤは久々に悪夢を見なかった。


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