第2話

 キルクトーヤが通っているシュタイナー学校は国で唯一の魔術師養成学校である。入学者は多く、毎年二百人以上の子どもたちが魔術師を夢見て集まって来る。

 王都エクメーネにあるこの学校に彼が通えたのは幸運だった。彼は幼い頃から精霊を視ることができ、その才に気が付いた実母が国に届け出をしておいてくれたのだ。そのおかげで、両親を亡くし、養父に引き取られていた彼のところにも入学許可書が届いた。

 養父との関係に苦しんでいたキルクトーヤはこれ幸いと全寮制であるこの学校に逃げ込んだ。それからもう三年が経とうとしている。帰る場所がないキルクトーヤははやく一人前の魔術師になろうと必死だった。


 キルクトーヤは厨の隅で朝食を済ませたあと、いくつかの肉とミルクを片手に厨の裏口から外に出た。そこでは早くも野良猫の一家がキルクトーヤの来訪を心待ちにしていた。キルクトーヤは彼らに肉とミルクを与えた。母猫と子猫たちはにゃあにゃあと鳴きながら肉を食べ、ミルクを飲んだ。キルクトーヤは目を細めて野良猫一家の食事を見守った。忙しいキルクトーヤの、つかの間の休息だった。

 しかし、ゆっくりしているほどの時間はない。キルクトーヤは数回猫の背中を撫でたあと、ぱっと身をひるがえした。授業が始まるのだ。


 息を弾ませて、キルクトーヤは講堂に駆け込む。するとすぐに友人のネルケが声をかけてきた。

「おはよう。一限目の小試験、勉強してきた?」

 ネルケはくるくると渦巻くこげ茶の髪にぷくりとした頬をしている。

「いまからするよ」

 キルクトーヤは慌てて教書を開く。

「夜勉強しなかったのか?」

 別の友人が心配するように言う。

 キルクトーヤは目をこすりながら答えた。

「夜は講堂掃除の仕事。朝は厨の仕事。いまから授業開始の鐘が鳴るまでが勝負だよ」

 友人は苦笑した。

「相変わらずだなぁ」


 アルカンタ学校に入学し魔術師見習いとなった者は、授業を受けながら割り振られた師のもとで修行に励む。見習いとしての修行期間は最短で三年、最長で八年と決まっていた。大半の者は四年目で卒業を認められる。

 キルクトーヤと友人たちは入学して三年目だった。あと三カ月もすると四年目となる。卒業を認められる者がでてくる頃だ。この時期の授業の内容は復習ばかりである。そういうこともあって、小試験前だというのに、見習いたちにはどこかゆるい雰囲気が漂っていた。


 教書を少しだけ眺めたあと、ネルケと友人たちはおしゃべりをはじめた。

「新聞読んだ?」

「読んだよ! ジーク騎士が戻ってきたんだって?」

 ジークというのはいま話題の青年騎士である。新聞は目見麗しく、剣の天才だという彼の話でもちきりだ。

「ひとめ見たいなぁ」

「牢獄のシュヴァルツを倒した英雄だもんな」


 八二〇年六月、国境に牢獄のシュヴァルツと呼ばれる強力な魔族が現れた。その討伐のために五十人の騎士と魔術師からなる討伐隊が編成された。ジークもそのうちのひとりであったが、彼は討伐隊が壊滅したあと、たったひとりでシュヴァルツを打ち倒し、いまや英雄と呼ばれるようになったのである。

 キルクトーヤも天才騎士の噂話をちらりとは聞いていたが、それほど興味がなかった。彼にとってはそんな他人の栄光よりも、このあとの小試験で高得点をとる方が魅力的であった。キルクトーヤは黙って教書に目を落とす。

 友人たちのおしゃべりは続いていく。


「叙爵式があるんだって。一ヶ月後。楽しみだなぁ」

「へえ。騎士の上の位を?」

「次は子爵になるんだって。いっきに貴族様の仲間入りだ」

「ジーク騎士って孤児の生まれなんでしょう? すごい話だよ」


 キルクトーヤは教書をめくる。小試験はもう習った範囲から出題されるとはいえ、いつも発展的な内容をふくむため油断はできない。

 顔をあげずに勉強を続けるキルクトーヤをちらと見てから、ネルケが大きな声で言った。


「そういえば、ブルートが腕環をもらったって」

「え?」


 ブルートというのはキルクトーヤの同期で一番優秀と目されている見習いの名である。

 キルクトーヤは思わず顔を上げてブルートを見た。ブルートはいつも講堂の一番前の席に座っている。黒髪で襟足を狩り上げている彼は教書を広げて何事かを書きつけているところだった。

 その彼の手首で銀が揺れている。それは鈍く光を反射してキルクトーヤの目を焼いた。


 同じく彼を盗み見した友人たちが口々に言った。

「わ! ほんとうだ」

「いよいよなんだね」

「成績優秀者はちがうよ」


 銀の腕環は彼のもとに精霊が訪れたということを示す。精霊とは自然界の魔力を集めることができる存在だ。その姿は魔力をもって生まれた者にしか視ることができない。精霊は気まぐれに見習いのもとに現れ、「精霊の試練」を課す。

 「精霊の試練」とはその名の通り、精霊が見習い魔術師を試すものである。試練の内容は精霊によって、また見習いによって異なる。精霊が見習いの「足りない部分」を試すのだとも言われていた。

 この精霊の試練に合格すれば、見習いは試練を課した精霊と契約を結ぶ。そして精霊が集めた魔力を使って強力な魔術を展開できるようになるのだ。精霊の試練に合格すること、これが一人前の魔術師となる条件である。


 それはキルクトーヤが待ちに待っているものだ。

 キルクトーヤは内心歯がみした。先日、キルクトーヤが師事しているレーアムト老師は言った。


 ――お前が精霊の試練を受けるには、あと六か月くらいは必要だろうな。


 六ヶ月。一日一日を必死に過ごしているキルクトーヤにとって、それは永遠に思えるほど長い。

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