結婚生活

成阿 悟

結婚生活

 わたしたちの結婚生活は、あまりにも穏やかで、まるで一幅の静かな絵画のようだった。

 時は、まるで緩やかな川面のように、ただ静かに流れる。

 朝、夫の良治りょうじは仕事へと出て行き、夕方には変わらぬ笑顔を携えて家に戻る。

 そして、私たちはいつも通りの夕餉ゆうげを共にする。

 まだ子宝には恵まれていないが、それが何かを欠いた日々だと感じたことは一度もなかった。

 私はいつしか、良治との間に、平穏以上の何かを求めることなど考えもしなくなっていた。

 

 けれど、季節が巡るごとに、良治の様子が少しずつ変わり始めていることに気づいた。

 最近の良治は、身だしなみを整え頻繁に出かけるようになった。

 それまではこんなことなかったのに、と思うと胸がざわつくのだ。

 言葉にならない違和感が、どこか遠くを見つめる彼の瞳に、そして不意に家を出る彼の背中に潜んでいた。 

 何かを隠しているかのような、ほんのわずかな仕草が、小さな波紋のように、わたしの心にさざなみを立てた。

 問い詰めたい、でももしも私の考えが間違っていたら? ――そんな迷いが胸に広がるたびに、私は彼の顔をじっと見つめてしまう。

 それでも疑いは消えるどころか、ますます深まっていくばかりだった。

 ある日、彼は廊下の薄暗い隅に身を潜め、誰かとひそやかに電話をしていた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥に眠っていた不安が、一気に目を覚まし、ざわめきと共に私を飲み込んでいった。

 良治が誰かと密会している?――そんな疑念が頭を離れず、やがてその思いは静かに膨れ上がっていく。

 疑いは、いつしか確信にも似たものへと変わり、私の中で一つの決意を生み落とした。

 彼の後を、こっそりと尾けよう――その時、私はそう決めた。

 

 土曜日の朝、良治は「ちょっと出かけてくる」と言い残し、静かに家を出た。

 その後ろ姿が見えなくなる前に、私はそっと後を追う。

 彼の足は駅へ向かい、やがて駅前の大きな雑居ビルの中へと吸い込まれていった。

 私は遠くからその様子を見つめながら、心の奥でざわつくものを抑えられずにいた。

 どれほどの時間が過ぎただろう。

 やがて良治がビルから出てきたとき、彼は一人だった。

 誰かと一緒に出てくるのではないか――そんな予感を胸に抱いていたが、彼はただ一人静かに歩き出した。

 しかし、その姿が一層、何かを秘めているように見えてならなかった。

 私は寄り道をして、彼が先に家へ戻る時間を与えた。

 そして、その夜、ついに私は彼を問い詰める覚悟を固めた。

 良治が何を隠しているのか、私の心の中で膨らむ疑念を、どうしても確かめずにはいられなかった。

「今日、誰と会ってたの?…… 良治、何か隠してるよね?」

 その言葉を口にした瞬間、彼の顔に一瞬驚きが走り、その後、視線が静かに落とされた。

 短い沈黙が流れる。

 私の心の中では、疑念が確信に変わろうとしていた。

 やがて、良治の震える声が静かに室内に響いた。

「……ごめん。本当は、ずっと言わなきゃいけなかったんだ……」

 その言葉を聞いた瞬間、私は確信した――。

 けれど、次に彼が口にした言葉は、私の胸を冷たく刺すような驚きへと変えた。

「実は……俺、難しい病気が見つかったんだ。今日はその治療の相談をしていたんだよ……」

 その瞬間、世界からすべての音が消え去り、時間さえも止まったかのように感じた。

 部屋の中はただ静寂に包まれ、私の胸には言葉にならない衝撃が渦巻いていた。

 何を言うべきかもわからず、頭の中は真っ白になり、私はただ、彼を見つめることしかできなかった。

 良治は涙をこらえるように、震える声で続けた。

「きみを心配させたくなくて……ずっと隠してた。でも、もう限界だった……」

 その言葉に、私の胸は強く締めつけられた。

 彼がこれほどまでに一人で苦しんでいたのだと、今さらのように気づき、無意識のうちに彼を抱きしめていた。

 私の心に押し寄せていた疑念や不安が、一つ一つ霧のように溶けていくのを感じた。

 良治の温もりを感じながら、二人の間に漂っていた冷たさが静かに消え去っていく。

 その時、わたしのポケットの中でスマートフォンがかすかに震えた。

 そっと画面を確認する。



<明日、また会える?>

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結婚生活 成阿 悟 @Naria_Satoru

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