炎の歌

@aiyuh

第1話

プロローグ 緋色の炎に恋をして




 死がつめたく染みこんできた。

 ぼくは、雪山で迷っていたのだ。

 ぼくには癖があった。なにも考えず、ただひたすらにひとりで歩く、という癖が。

 その癖で、ぼくは山の中を歩いていた。いつもなら、歩き慣れていたはずの山。

 しかし、天候が急変した。いきなり吹雪いてきて、視界はすべて真っ白になり、雪などまったく積もってはいなかったのに、まともに歩けないほどに深く降り積もった。まだ秋なのにだ。当然準備などしていなかった。薄着だったし、手ぶらだった。雪にも寒さにも、まったく備えてはいなかったのだ。それでぼくは凍えていた。体を両手で抱くようにして、雪をかき分けて進んでいった。しかし、雪が深くてなかなか進めない。まっすぐに歩けているのかどうかもわからない。だが立ち止まれば凍え死ぬ気もして、ぼくは気合を入れて歩みを進めていった。だけど、それでも限界は来た。疲労が激しく、それ以上歩くこともできない。凍死しかかっていて、体から熱が奪われていくのがわかる。

 ぼくは、完全に遭難した。

 そのままだったら死んでいただろう。


 しかしぼくは――彼女に出会った。


 黒っぽい服。緋色の、頭頂部より後ろでくくった髪。同じ色の透き通った瞳。そして、屋根よりも大きな、緋色に燃え上がる翼だ。

 彼女は呆然とするぼくを抱きしめ、「もうだいじょうぶだぞ」と言ってくれた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 ぼくをやさしく抱きしめながら、そう何度もくり返す彼女。

 ――熱い。彼女の体温は、炎のように熱かった。その熱さで、彼女はぼくをあっためてくれた。体に熱が戻っていく。ぼくは安心して、長い息を吐いた。凍死せずに済んだのだ。

「もうだいじょうぶだからな。村に、帰れるんだ」

 彼女は言葉でもあっためてくれた。ぼくの心をも救ってくれた。

 ぼくは小さい子のように泣きだしてしまった。そのぼくにまただいじょうぶだと言って、ぼくをぎゅっと抱きしめてくれる彼女。ぼくが泣き止むまでそうしていてくれた――。


「じゃあ行くぞ。しっかりつかまってろ」

 それから彼女はぼくを背負って飛んだ。比喩じゃない。ほんとうに空を飛んだのだ。

 はじめて飛んだが、すぐに怖くなくなった。

 歌を聞いたからだ。彼女が歌ってくれたのだ。

 その歌に、ぼくは聞きほれた。彼女が口ずさんでいる歌にだ。

 流れるような物悲しい歌。それが彼女の口からあふれ出ている。

 歌詞などはないが、想いは伝わってきた。重い想いが歌から感じ取れた。

 そうして彼女は村の外まで連れていってくれた。村の入り口が見え、ぼくはホッとする。

 村の外。すこし離れたところで降ろしてもらった。なんだかぼくは、泣きそうだった。

 じゃあな、と言ってすぐに立ち去ろうとする彼女を、ぼくはあわてて引き留める。

「あの、ありがとうございました。あなたは命の恩人です」

「大げさだよ。大したことはしてない」

 お礼を言うぼくに、そっけない態度をとるそのひと。だが口もとはうすく笑んでいた。

「なにかお礼をさせてください。ぼくは死ぬところだったんだ」

「いいっていいって。子どもは元気でいればいいのさ」

「確かにぼくは子どもです。でもぼくは村で仕事もしてます。鍛冶屋の仕事です。道具や武器が壊れたら、ぼくがなおしてあげられます」

「道具には困ってないよ」

「そうですか。じゃあせめて。せめて名前を教えてください。ぼくは、ケンと言います」

「シスタークだ。じゃあな」

 そう言って手を振りながら飛び去っていく彼女――シスターク。

 そのときからぼくは、彼女を好きになったのだ。

 髪も瞳も翼も緋色。体温も熱く、その翼も燃えている、まるで炎のような彼女。緋色の炎のような彼女。

 そんな彼女に――ぼくは惹かれた。彼女の色が、熱さが、胸を離れなくなった。

 いつまでも彼女を忘れられず、いつでも夢で彼女を見ているのだった。






第一章 あなたのことが好きだった




 古代の日本。

 村の近くの雪山で。

 そこでぼくは――彼女に出会った。緋色の彼女――シスタークに出会った。

 そのときからぼくは恋をしていた。初恋だった。はじめての気持ちだった。

 そんな気持ちになるのははじめてだったから。だから自分の気持ちが、想いがいったいなんなのかがわからなくて。それで人に聞いてみて、そこでそれは恋だと指摘された。

 それでぼくは理解できた。恋とはそういうものなのだと。

 苦しくて儚くて、つらくて痛くて、胸が張り裂けそうで。

 彼女に会いたくてたまらなくて、会えなくてそれで寂しくて。

 いつでも彼女が気になって、どこかに彼女を捜してしまって。

 緋色に燃える翼があり、空を飛べる彼女の正体も気になって。

 もしかしたら人じゃないのかもしれない――それでも怖いとは思わなくて。

 彼女を捜したい――また会いたいと思いつつも、いまはそれもできなくて。

 彼女がもし、旅人だったら。もうどこかに行ってしまったとしたら。

 だったらもう二度と会えないのではないか。

 そう思うと、いまにも泣き出しそうになってしまって。

 いつでもいつまでも、いつになっても、ぼくは彼女を想っているのだった。


   1.


 出来上がった剣を振ってみる。

 まずまずの出来で、ぼくは満足した。

 ぼくは鍛冶屋だ。その毎日は忙しい。特にいまは、となりの村との戦争になっている。そのために武器が要る。強くて重くて頑丈な武器が。それを造るのは、ひと苦労なのだ。

 鍛冶小屋の隅。造ったばかりの剣が積み上げられている。切っ先から柄まで、すべてが鉄でできた剣。ぼくの作品だ。戦のために造ったものだ。包丁や鎌など、日用品の製作も依頼されている。だが戦の武器は急を要する。だから日用品を頼んだ人にはいまは待ってもらっている状態だ。しかし武器は強度が必要で時間がかかる。量もかなり要るのだ。

「できたか」

 赤く熱された鉄を鎚で打っていると、戦士長が入ってきた。筋骨隆々の大男だ。年齢はぼくの親父と同世代だが、息子のような歳のぼくを、ひとりの職人として見てくれている。

「全員分だから、まだまだ時間がかかるよ。そんなに余裕がないの?」

 全員とは戦士たちだけではない。いまはこの村ととなり村との全面戦争なのだ。ほかの職人も、農民も牛飼いもすべてこちらの兵隊だ。武器を取るのだ。急にはじまった戦争で、事前準備などもしていなかった。だからいまになってあわてて造っているのだ。

「そうだな。むこうも臨戦態勢なのだ」

「壊れた武器は拾えないの? 〝なおす〟だけなら時間は要らないけど」

「戦場はむこうの村の近くなのだ。とても拾ってはこれん」

「じゃあ仕方ないね。どうしたって、数をそろえるのに三日はかかるよ」

「そうか。ケンが言うなら、そうなのだろうな」

 ぼくの名前を呼ばれたが、そちらはむかずに仕事を続ける。そこで、ほかの戦士たちも鍛冶小屋に入ってくる。暑苦しい男たちが密集してきて、ただでさえ蒸し暑い鍛冶小屋が、さらに暑くなった気がする。ぼくの手もとを覗きこんできた戦士もいたが、それは小蠅のように追い払った。

「とにかく三日だな。頼んだぞ」

「突貫工事になるから高いよ?」

「お前の腕は信頼してる。言い値で払うさ」

 そう言って、ぼくの肩に手を置いて出ていく戦士長。ほかの戦士たちも後に続く。

 ぼくは長時間の仕事に備え、めしの準備をし始めた。


 ぼくの、特製の餅。

 それを熱湯で蒸しなおした。

 鍛冶に使う水。火であぶり、赤くなって柔らかくなった鉄を鎚で打ち、形を整えていく。そうして形ができた剣を水に入れ、冷やして固める。だがその水は赤くなった鉄の温度であっという間に熱され、熱湯になる。だから鍛冶小屋には、熱湯がいくらでもあるのだ。その湯を熱しなおし、その湯気でめしをあたためなおしていく。それから腹に詰めた。

 鎚を振るう。一心不乱に鉄を打ちこんでいく。そうしていると考えてしまう。

 彼女――シスタークのことを。

 あの日から、忘れられなくなった。ずっとずっと胸を離れないのだ。どこかにいないか。そう思って捜してしまう。また会えないか。そう思って山に出かけたくなってしまう。

 あれからそんなことばかりだった。友達のナギサによれば、それが恋なのだという。

 こんな気持ちになることはなかった。しばらくの間は、大好きなめしでさえも、のどを通らなくなったほどだ。それだけ想いが強かった。想いを募らせていた。

 またあのひとに会いたい。話がしたい。お礼も言いたいけど、それも彼女に会いたいがための口実なのかもしれない。彼女ともっとお近づきになりたい。それも、いまのぼくの素直な気持ちなのだ。そんなことを、未練がましくいまも考えている。


 それから三日後。

 突貫工事を終えて。

 ぼくは、鍛冶小屋の裏庭でぼーっとしていた。なにも考えず、夕陽を見ていた。無理をして疲れたときは、そういった時間が必要なのだ。でないと寝ても休まらない。

 となり村との戦争になった。そうでなくても、辺りは雪が降り積もっている。危なくて、とても山になど入れないだろう。いまから彼女を捜す、ということはできない。そもそも仕事があるし、必要ならぼくも戦争に加わらなければならない状況だ。あてどなく、人を捜す。それも、いるかいないかもわからない相手を。そんなわがままが通るはずもない。

 そう思っていたのだが。

「邪魔するよ」

 そう言って入ってきた人。それが――シスタークだった。ぼくは驚きのあまり、返事もできない。

「ほんとうに鍛冶屋だったんだな。若いのに立派だ。よしよし」

 そう言って手を伸ばし、ぼくの頭をなでるシスターク。彼女は女性にしては背が高く、背が低めのぼくよりすこし高い。なので頭をなでるさまは不自然ではなかった。そして、子ども扱いされるのが不思議に不愉快じゃないぼくがいた。つまりは心地よかった。

「ど、どうしたんですか?」

「米を買おうと思ってな。そういうときに、たまにこの村に寄らせてもらってるのさ」

「そうじゃなくて、なんでぼくのところに」

「ああそっちか。これをなおしてもらおうと思ってな」

 そう言って突き出してきたのは、彼女が脇に手挟んでいた棒だった。彼女の背たけほどある棒で、彼女は棒術使いのようだ。そして彼女は木ではなく、重たい鉄製の棒を使っているのだ。中の芯まで鉄の棒。普通の人には振れない。とんでもない腕力だ。戦士長より強いかもしれない。そもそも棒は難しい武器だが、極めれば、最強の武器にもなるという。それが彼女は、鉄製の棒を軽々と持ち歩いている。きっとすさまじい強さなのだ。

「でもこれ、微妙に曲がっちゃってますね」

「そうなんだよ。微々たるものだが、気になってな」

 ぼくは糸を垂らしてみた。小石をくくりつけた糸で、垂らすと糸は直線になる。それと見比べると、棒ははっきりと折れ曲がってしまっている。

「じゃあなおしますね……よっと」

「もうなおったのか? どうやったんだ?」

「ぼくの能力です。〝こわれたものをなおす〟という能力なんです。〝なおした〟ものをその道の達人のように扱えるようになる、という特性もあります」

「なるほど……大した能力だ。棒も、ちゃんとなおったようだしな」

 そう語り、棒に両手で力をこめたり、片手で軽く振りまわしたりしているシスターク。

「しかし、いい能力だな。一度折れたんだ、もろくなるのは仕方ないと思ってたんだが」

「逆むきに曲げて戻したりしたら、かえってやわくなりますもんね」

「そうなんだ。だから助かったよ。いくらだ?」

「命の恩人から、お金なんてとりませんよ」

「そうか? じゃあ甘えとくよ」

 そう言って、にっこりと笑うシスターク。

 ぼくはそれを見て頬が熱くなった。夕陽でごまかせていればいいのだけど。


   2.


 彼女を、送ることになった。ぼくから彼女に申し出たのだ。

 ぼくが付き添います。せめて、村の出入り口まで。ぼくはそう言い募り、彼女はそれを了承してくれた。そのときの彼女の寂しそうな薄い笑みと、無言でぼくをじっと見つめていた瞳が、ずっとずっと忘れられない。いったいどういう意味があったのだろう。

「はふはふ」

 彼女は露店で焼き鳥を買い、とても熱そうに食べていた。ぼくも同じものを口に入れる。

「ほれにひても、ふひひなほんはな」

「なに言ってるかわかりません。食べるかしゃべるか、どっちかにしてください」

「もぐもぐ」

「食べることにしたんですね」

 ぼくは苦笑し、彼女のとなりを歩きながら、彼女が焼き鳥を食べ終えるのを待っていた。一気に頬張り、その熱さにうろたえている。そんな彼女を、かわいいと思いながら。

「それにしても、不思議なもんだな、とさっきは言ったんだ」

 ようやく口の中のものを飲みこんで、そうしみじみと語る彼女。僕は彼女に問い返す。

「なにが不思議なんですか?」

「おまえの能力だよ。私の能力と不思議に似ている」

「あなたの能力とは?」

「自分の傷をなおす、という能力でね。そういう能力もある、と言ったほうが正しいか。ともかくすこし似てるなと思った。おまえのほうが、人の役には立ちそうだが」

「まあそれが仕事ですので」

 傷をなおす。それが彼女の能力なら、猛吹雪の中であの熱さだったことと、燃える翼はなんだったのだと思ったが、それは口には出さなかった。疑問ではあるが、それに対して文句があるわけではなかったからだ。むしろ、それさえも彼女の魅力だと思えた。そんなふうに思ってしまうことが、恋に溺れている、ということなのかもしれないけれど。

 村を出た。そこまでの約束だったが、ぼくは彼女をさらに送ると言った。彼女はそれを聞いて、じゃあ頼む、と言ってくれた。彼女はぼくなんかよりずっと腕は立つのだろう。ぼくの護衛など、ほんとうは必要ないのだ。しかし、それでも同行を許してくれたのは、彼女と居たいぼくの気持ちを汲み取ってくれたのだと思う。彼女はきっとそういうひとだ。

 村の外に出ると、急に雪が深くなった。ほとんど出歩いている人がいないので、地面の雪が、除雪されていないのだ。そんな場所でも、シスタークは軽い足取りで歩いていく。ぼくは、ついていくのが精いっぱいだった。彼女は米など、荷も背負っているのにだ。

「おい、無理はするなよ」

「平気です……平気ですよ」

 強がりを言った。嘘といってもよかったかもしれない。村では並んで歩いていた。外に出てからは、シスタークの後ろを歩いている。彼女の足跡をたどっていっても、深い雪の中を歩くのはたやすいことではなかった。

「めしがなくなった……」

 村から近い森の中に入り、やっと雪が浅くなってきたころ。彼女が、ひとり言のように言った。焼き鳥の刺さっていた串を見つめ、悲しそうな顔をしている。

「もうない……めしがない……」

「あの、これ」

 彼女がほんとうに悲しそうだったので、ぼくは持っていた餅を差し出した。後で熱湯を使い、蒸しなおして食べようと思っていたものだ。ぼくが作った餅で、つめたいままでもうまい特製のものだ。自信作だ。それを彼女に食べてもらいたいと思った。

「いいのか?」

「あなたに食べてもらいたいんです。ぼくが作ったものです」

「そうか。じゃあ、ありがたくいただくとするよ」

 そう言い、とてもうれしそうに餅をかじるシスターク。すこしして、口もとを押さえて驚いたような表情になった。

「ほう。鶏肉が入っているのか」

「ええ。合うかと思いまして」

「これは合うよ。うまいよ。鶏肉のうまみが、餅に染みている。ほかにはないのか?」

「今日は持ってませんが、魚肉を入れたものもあります」

「ここらで食うなら川魚か……それもうまそうだな。今度、食わせてくれ」

「わかりました。いつでもいいので、鍛冶小屋に来てください。ぼくは毎日いますので」

「そうかい。じゃあいつか、寄らせてもらうよ」

 すこし陰のある笑みを浮かべて、そう話すシスターク。もうここまででいいよ。彼女がそう言ったので、彼女とはそこで別れた。ぼくもそれ以上、言い募ってつきまとうこともしなかった。雪を踏みしめ、歩き去っていく彼女を、その姿が見えなくなるまで見送った。

 彼女はもう見えない。そこにいない。とっくに立ち去り、いなくなっている。

 しかしそれでもぼくはそこに佇み、未練がましくも、その方角をじっと見つめていた。


 彼女がまた来たのは、その三日後だった。

 悪いけど、毎日は来れない。この村は戦争中なのだ、よそ者の私も警戒されているとのことだった。

 彼女はぼくに、炭を届けてきてくれた。鍛冶に使うので、炭はいくらあっても足りない。しかもそれを、よく燃えるように加工しなければならない。通常の炭では、とても火力が足らないからだ。彼女はそれを見越し、加工してある炭を持ってきてくれた。

「いくらです?」

「めしの礼だ。代金など要らん」

「そう仰るのなら……すこし待っててくださいね。蒸しなおしたほうがうまいので」

「そうか。仕事中に済まんな」

「いえ、休憩中だったので」

 よく考えれば、鍛冶小屋に椅子はない。それを忘れていた。そもそも鍛冶小屋の中は、秋でもむっと暑いのだ。ぼくは鍛冶小屋ではいつも上半身裸で、それでも汗が滴り落ちるほどだ。彼女も暑いに違いない。

「庭で待っててもらえますか。そこなら暑くはないし、座るところもあります」

「そうか? じゃあ庭で待ってるよ」

「肌寒ければ、小屋の近くにいていただければ」

「いや、今日ぐらいなら、寒さも平気さ」

 そう言ってひらひらと手を振り、鍛冶小屋の裏庭へと出ていく彼女。しばらくしてから、ぼくはじゅうぶんにあったまった餅を持って彼女の待つ裏庭へむかう。

 裏庭には石があるが、彼女はそこに座ってはいなかった。鉄製の棒を脇に手挟んだまま、どこか物悲しくて寂しいあの歌を歌っている。はじめて出会ったときに、ぼくを背負って飛んでいるときに聴かせてくれた歌だ。ぼくはその歌にまた聴き入った。彼女の歌にまた聴き惚れ、そのまま彼女のそばで立ちつくしていた。夕陽の中で、ずうっとだ。

「いいにおいがするな」

 彼女がそう言い、ぼくのほうをむいた。とっくに気づいていたらしい。

「じゃあもらうぞ」

 そう言って、竹のかごから餅を手に取る彼女。餅が熱いと思い、箸も用意していたが、彼女は素手でそれをつかんだ。燃える翼をもっているぐらいだ、餅の熱さなんて、気にもかけないのかもしれない。だがそれにしては、口の中は熱そうにしている。猫舌なのか?

 餅は大量にある。めしがない、と彼女を悲しませたくはなかったからだ。味つけなども、それぞれ微妙に変えてある。それに雪が溶けて春になれば野草も採れるので、味はさらに増えることになる。それを彼女に伝えると、じゃあ春が楽しみだなと言ってくれた。

「仕事はどうだ? はかどってるか?」

「これまではすごく忙しかったんですが、山は越えたって感じですね。戦争がはじまって武器が足りなくなると、一気に需要が増えるんですよ」

「そうか。いまは季節外れの雪が降り積もって、戦も膠着状態のようだな」

「なのでいまは、主に日用品を打ってます。包丁や鎌などですね。縫い針も、鉄のものを要求してくる人がいますよ。細かい刺繡をしたいのだとか」

「ほう、鉄の縫い針か。私にももらえるか?」

「はい、明日になると思いますが」

「わかった。さっき言ったように、毎日は来れん。三日ほど経ったらまた来るよ」

「じゃあ待ってます。針なら場所を取らないので、ずっと保管しておけますよ」

「いや、それは悪いから、なるべく早めに取りに来るよ」

 そう語り、魚肉の入った餅を咀嚼する彼女。食事中でも彼女は座らない。ずっと立ったままでいる。警戒しているのかもしれない。ぼくと、この村をだ。

「これは鶏肉でも魚肉でもないな。何の肉だ?」

「イノシシです。やわらかめの部位をもらいました。かたい場所なら、すりつぶします」

「なるほど。工夫してるんだな」

「なにかを造るのは好きなんですよ。鉄以外にも、木や石も扱います。仕事でもです」

「そうか。すりつぶしたものも一度食べてみたいな。だがやはり、最初に食べた鶏肉のが好きだな。最後にとっておこう……」

「好きなものはとっておくのですね」

 ぼくも、彼女といっしょに餅を食べていた。しかし味など憶えちゃいない。

 暮れなずむ夕陽を見つめる彼女。どこか遠くを見ている彼女。そんな彼女の眼ばかりが記憶に残っている。

「……ふう。かなり食べたな。こりゃ飛べんかもしれん」

 彼女は以前、ぼくを背負って飛んでいた。餅をいくら腹に詰めても、ぼくより重いとは思えない。彼女の言葉は冗談だったのか。それを測りかね、ぼくは返事に窮した。

「さて、そろそろお暇する。また送ってくれるか」

「喜んで」

「助かる。私はよそ者で、この髪と眼だ。どうしても目立つんでな。村人の同行は助かる」

 言われてはじめて気がついた。彼女の容姿が普通ではないこと。そしてそういう人を、奇異な目で見つめたり、ときには非難したりする人がいるということも。ぼく自身、あのとき彼女に助けられていなければ、そっち側だったかもしれない。人は異端をはじくのだ。

「そういった意味でも、助かるよ」

「なにがですか?」

「おまえの接し方だよ。私に普通に接してくれているだろ? ヒトの、普通の暮らしってやつを、私もしている気分になる。はじめてだったが、それも悪かないと思ってる」

「恩人に失礼なことはできない。それだけですよ」

「恩などもう返してもらったさ。めしは、命の源だ。うまいめしには、それだけの価値がある。味もないものをただ食うだけ、腹に詰めているだけってのもむなしいものだしな」

「命を助けられたんだ、命でしか返せないと思ってます。べつに死ぬ気はありませんが。ですから、めしなんていつでも言ってください。食べに来てください。待ってますから」

「待ってる、か。うれしいよ。私には過ぎた言葉だ。はじめて言われたかもしれん」

「そうですか……」

 待っている。生きていれば、普通に使う言葉だと思う。

 こちらから言うことも、むこうから言ってくることもある。そのはずだ。

 彼女は孤独なのだろうか。

 友人や家族。同僚や師弟。そういった人がいないのだろうか。

 ぼくにはいる。いまは父ひとりだが、家族がいる。同世代の友人もいる。ナギサなど、鍛冶小屋に仕事を手伝いに来る人もいる。忙しすぎるときに、技術の要らない単純作業を手伝ってもらうのだ。そういう意味では、同僚もいる。そして父がぼくの鍛冶技術の師だ。ぼくは、そういった人らに囲まれている。

「――あなたは」

「家族はいないよ。友人もいない。ずっとひとりきりだった」

「ぼくがいます」

「そうだな。友人はできたのかな。ヒトと友人になれるなどと、考えたこともなかった」

 ヒト。他人という意味でそう言ったのか。それともそれ以外の意味があるのか。それは、わからなかった。訊いてみる勇気もなかった。

「なあ、ケン。家族って、いいものか?」

「はい。腹の立つこともありますが、とてもありがたいと思うときもあります」

「なるほど。いい感情ばかりではないか」

「だけどそれも、感情をむき出しにできる相手、ということなのだと思いますね」

「そういうことか。他人なら、遠慮や気遣いの壁があるものな」

「ケンカしても仲直りできる。そういった信頼もありそうです」

 家族の話。それを彼女は聞きたがった。だからぼくは、それを話した。

 彼女はぼくの話を、寂しげな笑みを浮かべて聞いていた。

「そうか。家族のためと思えば仕事も頑張れるか」

「父さんは鍛冶の仕事をぼくに任せ、畑仕事をやってます。ですがすこしつらそうです。隠してますが、腰が悪いのですよ。だからぼくが、鉄を打たなければならない」

「そういった強さもあるのだな。情は弱さだ。惰弱につながる。そう思っていたが」

「それでひとりなんですか?」

「それもあるかもな。しかしどんなヒトも、私を残して死んでいく。それがわかりきっていたから、ヒトとのつながりは持たないようにしてきた」

 そうじゃないかと思っていた。彼女がヒト、という言葉を使うときのこと。

 きっとそれは、ぼくらが鳥や魚という言葉を使うときと同じなのだ。彼女は、ヒトではない、ということだ。そりゃそうだ。ヒトが、飛べるはずがないのだから。

 彼女は神か、妖か。それはわからない。訊けるはずもない。

 だがどうでもいい、という気がした。彼女は彼女だ。それは、変わらないのだから。

「さて……ここまででいいよ」

 とっくに村の外に来ていた。森に入るところ。そこで、彼女にそう言われた。

 ぼくはふと、気になったことを訊いてみる。

「あの、どこに住んでるんです?」

「山奥だよ。そのほうがいいんだ。誰も来ないからな」

「そうですか」

「危ないから、山には入るなよ。狩人でも、山奥までは入らないだろ?」

「そうらしいですね。方向感覚がとても狂いやすいとか……でもそんなところに住んでて、あなたは平気なんですか? 誰か人の目があったほうが、なにか起こったときに」

「なにも起こりゃしないさ。私は病気にはならんし、前に言ったように、傷もすぐなおる。だから、平気だよ」

「でもそれでも、なにか不測の事態が起こるかもしれない。なにかあったらぼくを頼ってください。あなたのために、なにかしたいんです」

「その気持ちはうれしいがね……」

 下をむいてうつむいて、陰のある、笑みとは言えない笑みを浮かべるシスターク。

 ぼくはそんな彼女の両肩を引っつかむ。

「ぼくは、あなたのためならなだってできます。あなたのためなら空だって飛べる。いや、ぼくじゃなくてもいいです。誰でもいいので、なにかあったら誰かを頼ってほしい!」

「そうだな。けど、私が頼れるのはおまえだけだよ。私を助けようなんて奇特なやつは、きっとおまえしかいないからな。だからなにかあったらおまえを頼るさ」

 だからもっと頼もしい男になれ――。

 シスタークはそう言ってぼくの胸を拳で軽く突き、手を振りながら歩き去っていった。


   3.


「ではでは入りやがれなのです」

「相変わらず丁寧なんだか口が悪いんだか……」

 シスタークと別れてから、ぼくは村の端にある洞窟を訪れていた。

 そこには神さまを祀る祭壇があり、いまの代の巫女さんもそこにいるのだ。

 そこにある銅鏡が壊れたということで、ぼくは巫女さんに呼び出されたのだ。

 村にはさまざまな職人がいるが、父が引退したいま、鍛冶職人はぼくひとりだけ。

 そして巫女さんのひとりと幼なじみでもあるので、ぼくは彼女の呼び出しに応じた。

 ぼくを呼んだ巫女さん。長い黒髪がつややかで、しかし変わったしゃべり方をする。

 名を、ナギサという。ぼくの幼なじみで、親友で、たまに仕事も手伝ってもらう。

「ではではケンにお願いするのです」

 そう言って、ヒビの入った銅鏡を手渡してくるナギサ。ぼくはそれを両手で受け取り、そして返す。

「なおったよ」

「わおわお。相変わらず早いのです。いったいどうやったのです?」

「能力、としか」

「ケンはよくよくそう言ってるのです。でもでも具体的にどうしてるのか訊きたいのです」

「どうって……持ってみて、元の形を想像して念じるだけだよ」

「そうですかそうですか。不思議不思議なのです」

 話しながら、祭壇の中央に銅鏡を置くナギサ。ぼくは仕事を終えていたが、なんとなくナギサとふたりで居た。

「どーせなら手伝え手伝えなのです。ケンは、字は書けるのですよね?」

「書けるよ。まあ、手伝うのはかまわんけど」

「ではではそこの木簡に書いてけなのです。ありがたい、神さまのお言葉なのです」

 この洞窟には神さまがいるという。そしてナギサは、その神さまとつながるという力を持っている。それが彼女の能力とのことだ。そうして彼女は、預言を行う。神さまからのお言葉――預言により、未来のことの示唆――予言を行うのだ。その予言は一度も外れたことがない。しかし神さまとつながることは、かなりの力を使うのだとか。それで彼女の消耗が激しいので、預言してもらうのは、村にとって非常に重要な事柄に限られていた。

「毎年のことですが、冬になって風邪の流行る季節になれば、体の弱っているお年寄りと子どもが何人かは亡くなるのです。なのでその予防として口と鼻を布で覆って、手を洗うことを徹底するのです。それで風邪の毒が、すこしは広まりにくくなるのです」

「っと、全部書いたよ」

「ではでは、続きも頼むのです。こっからが重要なので。となり村との戦は、こちらから攻めれば勝てるとのことです。雪はもう止むどころか、真冬まで降ったりしないのです。だから雪が溶けてから攻めればいいようです。となり村は、南の山に砦も作っているので、そこから攻めるべきなのです。でないととなり村を攻めたときに、背後を衝かれるから、らしいです。そこには少数ですが、常に一定の人員がいるようなのです」

 南の山は低い山だ。森もあまり複雑ではない。シスタークがいるのは北の山で、山自体非常に大きく、森も地形も複雑だ。だから狩人も奥には入らない。ぼくはそこで遭難した。

 そしていまはまだ秋だ。あのときぼくが予測できなかったように、この時期に雪が降るなどと、誰も予想していなかったのだ。ナギサも神さまに訊いていない。彼女の預言は、こちらからこれはどうだ、と訊くものらしく、そもそも訊いてないと知りようがないのだ。それで真冬のように雪が降り積もったが、ナギサによると、一度はそれが溶けるらしい。その間に、となり村との問題は解決できそうだった。つまりは、戦に勝てそうなのだ。

「近いうちに異常気象が起こることもないのです。異常な大雪ももうこれっきり、ということらしいのです。まあ冬になれば、またあれぐらいは積もるのでしょうが」

 そう言って、銅鏡に覆いをかけるナギサ。

 占いは、もう終わりのようだ。それから彼女に促され、ぼくは洞窟の外に出た。

 もうとっくに日は暮れていて、その肌寒さにぼくはふるえた。


 翌朝。

 染み入るような寒さの中。

 ぼくはまた洞窟を訪れていた。しかし仕事が理由ではない。

「おはようです、ケン。お待たせお待たせなのです」

 動きやすい服装で出てきたナギサ。手には槍を持っている。それが彼女の得物だ。

 先端を軽くし、柄を細く長くしてある特別製の槍。女の子で、体格も小さく腕力のないナギサでも扱いやすいよう、特別に造ったものだ。相手を突き殺すというよりも、手傷を与えて戦意を奪うためのもの。戦士長の助言だった。

 その槍を素振りする。ぼくも、もっと太くて重たい槍でそうした。そうやってナギサと二人で、仕事の合間を縫って鍛錬をする。ぼくがもっと時間を造れたら、毎日鍛錬できるのだけど、そうはいかなかった。

 素振りを終えると、槍を訓練用のものと持ち替え、ナギサと軽く打ち合った。駆け引き。動く相手の急所を的確に狙う。それでいて、相手に狙いを悟らせない。そういった技術は、実際に打ち合わなければ身につかない。ナギサは体格や腕力で不利でもある。その不利をどう跳ね返すかも、彼女は学ばなければならない。

 戦は男のもの。それが常識だ。だが戦は試合ではない。弱い者が狙われることもある。若い女の子なら、狙われる理由もひとつ多い。男が常に、そばにいてやれるとも限らない。だから身を守るすべを身に着けたいと、ナギサのほうから言い出したのだ。それでぼくがときどき相手をしている。

「どおりゃあ! ぶっ殺すのです」

「訓練だからね」

 ナギサの突き。のど元、眼、足の甲。急所でかつ防御しにくいところを狙ってきている。ぼくの教えたとおりだった。そのぼくも、戦士長にいろいろ教わっている。

「我が槍の錆にしてやるのです」

「訓練だって」

 ぼくはもともと技量が高い。器用なほうだし、ぼくの〝あらゆるものを瞬時になおす〟という能力には、〝なおしたものを扱えるようになる〟という特性もある。剣をなおせば剣の、弓矢をなおせば弓矢の、それぞれの達人になれるのだ。

 その技術があってもなお、筋力や体格などの差で、大人の戦士たちには勝てないのだが、そのほうが、教えるのにはむいていると思う。剛腕によるゴリ押しなどは、教えられても真似はできないからだ。しかし技術や駆け引きであれば、学ぶことができる。

「出会え出会え、くせ者じゃなのです」

「君ひとりじゃん」

 ナギサが槍を振りまわす。頭、膝、足首など、鎧も筋肉もないところを、的確に打ってくる。そのあたりには鎧もないので、彼女の力でも、手傷を与えることはできるだろう。しかしぼくは、彼女の槍の突きも薙ぎ払いも振り下ろしもすべて槍で払いのけた。ぼくは達人並みに槍を扱える。ものすごい強打でもなければ、ひとつも余さず防ぐことが可能だ。

「我が家に代々伝わる槍を喰らうがいいわ、なのです」

「さっき造ったばっかりだよ」

 今度はこちらから攻撃を仕掛けた。胸や腹、太ももを狙った。鎧を着ていても、戦士の突きなら貫通してしまう。そして体の中心に近いところに重傷を負えば、その傷が急所を外していても死に至ることがある。衝撃や出血、痛みなどでだ。と、戦士長に教わった。

「なかなかやるな、なのです」

「当たってばっかりじゃん。実戦なら死んでると思うよ」

 槍と槍とではとても勝負にならない。ぼくはかなり手を抜いていた。

 互いの槍の穂先は丸めた布で、したたかに突いてもそれほど痛くはない。ぼくはさらに、その布に汁を染ませていた。小さな木の実を絞った紫色の汁だ。突きが当たれば当たった個所に汁が付着する。ナギサはすでに汁まみれで、ぼくはきれいなままだった。ナギサが細く軽い槍を扱っていてもそうなるのだ。実戦なら、それが血になる。この訓練はそれがつぶさにわかるので、鍛錬のときは必ず行っていた。

「それじゃあそろそろ、ぼくの武器を変えよう。君だって、いろんな武器を相手するのに慣れとかないとね」

「わかったのです。今度こそやったるのです」

 長い棒。木の剣。斧を模した棒。そういった武器もぼくは扱える。ぼくには、なおして扱う、という能力があるので、扱える武器は、実は村で一番多いのだ。

 棒からいった。あのひとも、シスタークも扱うであろう棒術。変幻自在の攻撃ができて、さまざまな距離で戦える。強力な武器だが、実戦では、ぼくでは体格や腕力が足りない。金属の刃や穂先がないので、殺傷力が低すぎるのだ。戦士を相手にするなら、だけど。

「ふん。まるで相手にならないのです」

「君がね」

 棒術には活殺自在、という特性もある。ナギサの体の急所。それを何ヵ所かペチペチと叩き、次は剣に切り替えた。次は斧。その次は盾への対処を学ばせる。

 ナギサは実は、距離感に長けている。槍の長さを最大限利用し、自分にとって遠すぎず近すぎずという距離を保って戦えるのだ。だから剣や斧が相手なら、武器の長さの違いで優位に立ち回れる。ぼくも予想してなかった強みだった。

「ではでは訓練はここまでなのです」

「それを決めるのはぼくだよ。言うつもりだったけどね」

「ふひぃ」

 言うなりばったり倒れるナギサ。よほど疲れていたのだろう。

 ぼくも汗をぬぐいながら、後片付けをしはじめた。


 昼すぎ。

 軽くめしを摂ってから。

 今日は鍛錬が昼までかかった。いつもはもっと早いときもあるし、日が暮れてしまってあきらめたときもあった。それを考えれば今日は、わりと早めに終わらせられたほうだ。ナギサは洞窟の前の広場で、大の字になって荒い息をついている。鍛冶仕事に慣れているぼくは、日の出から夕暮れまでは動きつづけられる。体力にもまだ差はあった。

「ケン。話があるのです」

 息を整え、汗まみれの髪を撫でつけながらナギサが言う。いつになく真剣な様子だ。

「あなたの恋のことなのです」

「ぼくのこの気持ちが恋だ――そう言ったのは、君だったね」

「そうなのです。でもでも私は、話を聞く前から知っていたのです」

「というと?」

 そこで言いよどみ、下をむいてしまうナギサ。ぼくは彼女の次の言葉をじっと待った。決してせかしたりしてしまわないよう、細心の注意を払ってだ。

 そして彼女が言い放った。ぼくの予想しない、思ってもみない言葉を。


「ケン――私はあなたが好きなのです。ずっと前から好きなのです」


 衝撃的なことを言い、微笑する彼女の頬を、涙の粒がすべり降りていった。

「まずは、ごめんなさいなのです。あなたの許可も得ずに、あなたのことを占ったのです」

「どゆこと?」

「ケンの様子がこれまでと違う。それがわかって、気になったのです」

「…………」

「だから占って、あなたの心を見てしまった。勝手に覗き見てしまったのです」

 平常通りにしていたつもりだ。いつもどおりだったはずだ。だが、それでも見抜かれていた。きっと占いの力を使う前から、彼女は感じ取っていたのだ。ぼくの、心の変化を。想いの芽生えを。ぼくになにかが起こったのだと、彼女は確信していたのだ。

「ケン。あなたはあの緋色のひとに惹かれたんですね」

「うん、そうだ。あの日命を救われてから、ずっとずっと意識してる――」

「知っているのです。私もそうなのです。あなたをずっと意識してた――」

 そう言って、なりふりかまわずといった感じで、ぼくにむかって飛びついてくるナギサ。ぼくの胸に顔を押しつけ、ぼくの服を引っつかんで、嗚咽の声を漏らしている。

「ナギサ。君は、そんなにつらい思いをしてたのか」

「わりと複雑なのです。ケンには幸せになってほしい。それも本心なのです。だけど心のどこかには、フラれたケンを慰めて、ケンの心の隙につけ入るべきだ、と思ってる部分もあるのです。要は自分勝手にも、ケンの不幸を願ってるのです。そのどちらがほんとう、というわけでもないのです。どちらも私の本心なのです」

「わからなくはないよ。ぼくもあのひとにつきまとってしまいそうだ」

「私は実際につきまとっていたのです。あなたが拒絶しないのをいいことに……あなたを独占したい気持ちが強くて、ほかの女の子に嫉妬したりもしてたのです」

「迷惑ではなかったさ。君が嫌いってわけじゃないんだ」

「そう言ってくれるのですね。だから惹かれたし、だからつらいのですけど」

「シスタークさんに会う前だったら――」

「私は勇気が出なかったのです。結果は同じだったのですよ」

 ナギサはそうこぼしてぼくから離れ、駆け去っていく。

 ぼくが追っていいものかどうか。それがわからず、ぼくはその場に立ち尽くしていた。


   4.


 冬が近づいている。

 しかしあたたかくなってきた。

 あの異常な寒さが終わったのだ。秋なのに、真冬のように雪が降り積もった異常気象。それが終息し、積もった雪も解けてきた。そうして閉ざされていた山道も、次第に通れるようになってきた。となり村にも、南の山の砦にも、みんなで行けるようになったのだ。

 それで、村の有力者たちによって決定された。いよいよとなり村に攻め入るのだ。

 ナギサの占いで、攻めれば勝てると示されている。彼女の占いは、一度も外れたことがない。村の有力者たちもそれを知っていて、重要な決定をするときの判断材料にしているはずだ。

 勝つ方法、必ず勝てる方法を知っていて、それを選ばないバカはいない。村の会合でも、反対はひとりもいなかったらしい。勝てる戦ということで、経験を積ませるために、村の若い者たちも戦闘に加わることが決まった。その中には、ぼくも含まれていた。


 もともとぼくらの村があった。

 この辺りにほかの村はなかった。

 だがそこにとなり村ができた。ぼくらの使う川の上流にだ。彼らはその川の水を使い、その川に汚物を流した。ぼくらは水を使えなくなったのだ。

 ほかにも川はある。だがずっと遠い。遠くまで、水汲みに行かなければならなくなる。こちらに何の利もないのに、そういった労苦が増えることは納得できない。できるはずもない。してはならない。ぼくらは、となり村の人たちの奴隷ではないのだ。

 だから退去を要求した。その交渉が決裂すると、遠くの川への水汲みは、そちらの村が行ってくれと言い求めた。こちらからすれば、当然の要求だ。だがそれも突っぱねられ、そればかりか使者が追い払われるようになった。むこうは屈強な開拓者ばかりで、弱みを持つこちらの村には戦で敗けないと踏んでいるという。ナギサの占いで知れたことだった。

 だから戦になった。命のかかった戦だ。こちらは、水がなければ死んでしまう。汚物で汚染された水を飲めば、飲んだ者は病気になってしまう。となり村の連中は、それを肯定したのだ、殺してでも、排除しなければならない。明確な敵なのだ。

 ぼくらの軍はふたつに分かれた。となり村を襲う本体と、砦を襲う別動隊にだ。ぼくは別動隊に入れられた。武器の損耗があったときになおしてほしい。そういった理由だった。

 南の山。砦への道。雪は解け、山中を駆けられるようになっていた。ぼくらはそこを、忍び足で通り抜けていく。悟られないよう、大きな音も私語も厳禁だった。

 敵の見張り。砦の門の前に、右と左にひとりずつ。そいつらを戦士長とぼくで、弓矢を使って射殺した。ひとりにつきひとつの矢。理想的な射撃だった。外した矢がないので、敵にはまだ悟られていない。

 砦の壁は、ちゃちなものだった。大柄な戦士長がそれを蹴倒し、道を造る。ぼくらは、そこから侵入した。そうしてそこで、焚き火を囲んでいるとなり村の連中と眼が合った。

「声をあげろ!」

 戦士長の声。ぼくらは力の限り大きな声を発した。それから剣を手に斬りこんでいく。砦や森で戦うことを想定し、ぼくらは剣や斧を扱っている。乱戦むきの武器だ。

 敵の戦士。罠かと思うほど狙いが見え見えだった。こちらの初動にも対応できていない。ぼくはあっさりとそいつを突き殺した。鎧のないのど元に、剣の切っ先が分け入っていく。その気持ち悪い感触を反芻している余裕もなかった。次がいたからだ。その次の戦士も、ぼくはたやすく突き殺していた。今度は鎧のない脇から、心臓を狙って突いたのだ。

 そのあたりで勝負は決していた。敵は戦意を失ったのだ。逃げ散る敵を、追い討ちしていくことになった。逃げる者を殺す。それも吐き気がしたが、ぼくは淡々とこなした。

「よし、次は本隊と合流だ。連中の村に強襲をかけるぞ!」

 戦士長の後に続き、ぼくらの村の本隊へ。彼らはぼくらの村ととなり村の中間あたりにいた。その後は戦士長がまた先頭になって、となり村へとむかっていく。だがその途中で、ぼくらは連中と遭遇した。ヤツらの畑。そこに盾を並べて待ちかまえていたのだ。

「はっ……無視だ無視」

 戦士長はそれを見て笑い、進路を変更した。道を進むのではなく、けもの道すらもない森の中を突き進んでいったのだ。戦士長の進路は正確で、見事にとなり村の裏へと回れた。となり村を囲む城壁。村そのものが城になっている。しかしそれもちゃちなものだった。戦士長はそこに肩からぶつかり、壁を破壊してみせた。ぼくらはそこから斬りこんでいく。

 となり村の城内はほとんど無人だった。待ちかまえていた者たちで、ほぼ全員だったのだろう。ぼくらは留守を預かる敵兵を斬り殺し、あっという間にとなり村の城を占領した。

「敵は後ろだ、とって返せ!」

 敵がこちらに気づいた。盾の陣列を解いてこちらに攻めかかってくる。ほんとうなら、こちらがとなり村に攻め入るはずだった。そのために攻城戦の準備もしてきている。だが現状は、こちらがとなり村で防衛戦を行っていた。門を固く閉じ、城壁の上から矢の雨を降らせるのだ。石や丸太など、重い物を落とすこともする。高さがあるからなせることだ。

 矢も重い物も、城壁の上にたんまりあった。むこうが戦で使うつもりだったのだろう。だがこちらに村を奪われ、立場が逆になったのだ。むこうはもちろん、攻城戦の準備などしていないだろう。だからいたずらに村を攻め、犠牲を出すということになった。弓矢で撃ちあったりもしたが、高所を取り、隠れる場所もあるこちらのほうがずっと有利だった。

 だがさっき戦士長がたやすくブチ破ったように、城壁そのものはちゃちなものだ。薄い木の板なので、体当たりでも蹴りでもぶっ壊せる。やがて数ヶ所から敵に侵入された。

 しかしその穴は小さい。ひとりずつしか入れない。そこに攻撃が集中した。真上から、重い石や木材を落とす。ひとりを包囲して、ずらりと槍を並べて突く。半円状に包囲され、頭上からも攻撃されるという状況に、ヤツらはたまらず後退していった。こちらの防備の穴を、うまく活かせなかったのだ。

 それからぼくは、城壁の上から降りた。そのまま城壁の穴へと駆ける。そこでぼくは、能力を使ってみた。城壁の穴をなおそうと試みる。そしてそれは、うまくいった。城壁の穴は元通りになって、なくなった。「妖術か?」そんな声が、城壁の外から聞こえてくる。むこうの村には、能力者もいないのかもしれない。ぼくらの村にも、ぼくとナギサの二人だけだ。先代の巫女さん、ナギサのおばあちゃんは能力者ではなく、預言はしていない。神さまの言葉を聞けるのは、ナギサだけなのだ。それもなんらかの能力なのだろう。

 城壁の穴はすべて塞いだ。だが同時に、門がブチ破られた。門は大きい。数人が同時に入ってこられる。そこではひとりを包囲するというわけにはいかず、激しい乱戦になった。ぼくもそこに加わった。だが殴りあいに加わるのではなく、弓矢による援護にとどめた。

「行け、突っこめェ!」

 戦士長の声。数人の戦士が丸太を抱え、門のほうに突っこんでいった。丸太は、城門や城壁を破壊するために持ってきたもの。攻城兵器のひとつだ。丸太は何本もあり、それを抱えている戦士たちの集まりもいくつかあった。その集まりが突進して丸太で突くたび、敵の列が破壊されて大きく押され、後退させられている。そこに矢や投石も集中し、敵はたまらず後退していった。門の奪取。それを、あきらめたのだ。

 敵が、門から離れていった。いまのうちだった。ぼくは破壊された門扉に駆け寄ると、あっという間にそれをなおした。敵の中から、どよめきが起こる。

「どうだ! 俺らが守る限り、城は落ちねえぞ! この村でも、俺らの村でもだ!」

 戦士長が叫ぶ。その声で、敵はさらに動揺したようだ。それから数人が逃げていくと、それで敵軍はもろくも崩れ去った。ポロポロと逃亡兵が出はじめ、止まらなくなったのだ。追撃だ、と叫ぶ戦士長。数の減った敵軍はぼくらの突撃を止められず、壊乱していった。また逃げていく敵を追い討っていくかたちになった。敵兵を、背中から斬り殺すのだ。

 戦いは勝利に終わった。敵軍は、二度と立て直せないほどの傷を負った。もう二度と、ここらに村を造ろうなどと思わないだろう。ぼくらはとなり村から武器などを収集した。それから必要そうなものをすべて集めきると、城壁や家屋をすべてつぶしてひとところに集め、敵兵の死体ごと放火して去っていった。ぼくは、山賊退治の経験はある。しかし、これほど大規模な戦ははじめてだった。援護ではなく、自ら敵を斬り殺したこともだ。

 村に帰ると、宴が行われた。戦った戦士たちの全員に、家畜の肉が振るまわれた。

 あれほどのことがあったのに肉を食っている自分が、ぼくはなんだか不思議でもあった。


   5.


 冬になっていた。

 また雪が積もっている。

 だが戦や畑仕事と違い、鍛冶屋の仕事は冬でも雪が積もっても休めない。年中無休だ。むしろぼくの畑仕事がない季節だからと、注文が殺到したりする。いまの間にと農機具の修理も依頼される。なおすのなら一瞬だ。能力がある。だが今年は大きな戦もあったので、武具の修理にも追われた。能力を使いすぎると疲れるのも、はじめての経験で発見だった。

 そうして仕事がひと段落すると、ぼくはナギサに会いに洞窟に行った。あの告白以降、ぼくは彼女と話していなかった。それをなんとかしなければと思っていたのだ。ナギサがぼくを拒絶するなら、それはそれで仕方がない。仕方がない。仕方がないのだ。

「ついについに来やがったのです」

「ぼくは敵かよ」

「強敵なのです」

「そうかい。じゃあいまから襲っちゃうぞ」

「きゃーなのです。ケンはけだものなのです」

「男はみんなそうだからねえ」

「ケンも例外ではないのです」

 口に手を当て、クスクスと笑っているナギサ。冗談のようなことを言えたのだと思い、ぼくはなんだかホッとした。

「奥さん聞きまして? ひどい男の子がいるらしいわよ?」

「誰が奥さんだ」

「なんでも泣いてる女の子をほっといて、戦に行っちゃったらしいわよ?」

「ごめんて。フッたぼくが追いかけていいのかどうか、わかんなかったんだよ」

「そこは追いかけてきてほしいのです。それが女心なのです」

「あ、もう井戸端のおばちゃんはやめたのね」

「そこで女の子を抱きしめてちゅーでもするのが、男の甲斐性なのです」

「それは……ダメだろ」

「引っかかんなかったですか。二股なんてもってのほかなのです。そのひととつきあっていなかったにしても、心そこにあらずでつきあうなんてダメなのです」

「そりゃそうだろ。仁義にもとるし、よけい傷つけちゃう」

「それがわかってんならいいのです。許してやるのです」

 そう言って笑みを浮かべるナギサ。すこしの涙と、強がりを含んだ笑顔だった。


「――で、どんなひとなのです?」

 そう質問し、身を乗り出してくるナギサ。

「答えてもいいの?」

「訊いてるんだから答えやがれなのです」

「見た感じでは、ぼくよりもすこし年上かな。とてもやさしいひとだよ。あの異常気象の中で遭難していたぼくを、助けてくれたんだ」

「人間なのですか? あの猛吹雪の中で人を助け出す。並大抵のことではないのです」

「そうだね。彼女は翼もあったし空も飛んだ。人にそんなことができるとは思えない……」

「でも悪い人ではない……それは間違いないと思うのです」

「それはそう。あのひとは、ぼくが鍛冶屋だということも知らなかった。打算で助けた、ということではないはずだ」

「なにか占ってみるですか?」

「いや、いい。知りたければ、あのひと自身に語り聞かせてもらうべきだ」

「それもそうなのです。そのために来たのかと思ったのですが」

「話の流れで彼女のことを語っただけで、ぼくはナギサに会いに来たんだよ」

「そうですか。ではではぶっ飛ばす必要はないのです」

「君は相変わらず、丁寧なんだか口が悪いのか……」

「私は私なのです。――で、そのひとのどこを好きになったのです?」

「……言葉にしにくいな」

「いいから話しやがれなのです」

「話したくないわけじゃないよ。ただこう、感覚的なことなので言語化しにくいんだ」

「なるほどなのです」

「えっと彼女は、とても熱いひとだった」

「ド根性! みたいな?」

「そういう意味じゃなく、ほんとうに体温が熱かったんだ。あのときぼくは猛吹雪の中で山で遭難して、凍死する寸前だった。そのぼくを彼女は、ギュッと抱きしめてあっためてくれた。それでぼくは死なずに済んだし、そのときの恐怖も引きずってないんだ」

「なんとなくわかってきたのです。熱いのは、そのひとの体も心も、ということなのです?」

「そういうこと。あのときはほんとうに怖くてね。でもあのひとに〝だいじょうぶ〟って何度も言われて、救われたんだ」

「それは、それ以上ない言葉かもしれないですね。〝だいじょうぶ〟とは」

「そうなんだ。恥ずかしながら、その言葉で安心して泣いちゃってね」

「同じ目に遭ったら、私だって泣くのです。ぴーぴー泣いて、周りを困らせるのです」

「そっか。泣いちゃうと、周りが困るってこともあるか。でもあのひとは、困った顔などしなかったな……」

 話していると思い出してくる。あの熱さを。その言葉を。そこにこめられた、限りないやさしさを。抱きしめられて背中に感じた手のひらの感触。そこまでつぶさに思い出せる。小さい子のように泣いたことも抱かれたことも、不思議に恥ずかしくはなかった。

 鼓動が高鳴る。胸が張り裂けそうになる。それが恋なのだという。あのひとに会いたい。でも会えない。それがつらくてつらくて仕方がない。いつでも鍛冶仕事で忙しいぼくは、何日もの間知り合いと会えない、ということは珍しいことでも何でもない。でもぼくは、つらくて寂しくて仕方がない。あのひとに、一日でも会えないのがつらいのだ。ぼくは、それだけ寂しがっていて、あのひとを追い求め、捜し求めている。

「ケン――ケン!」

「っと、ごめん。ぼーっとしてた」

「まったくもーなのです。ほんとにまったくもーなのです。ケンはまったくもーなのです」

「悪かったって。で、なに?」

「いえ、訊きたいのですよ。ケンはそのひとと、どうなりたいのかを」

「どうなりたいとか、考えたこともなかったな。会いたくて会いたくて仕方ないんだけど」

「会いたくて仕方ない、ですか」

「うん。毎日会いたいと思う。ううん、それどころじゃない。あのひとと別れた瞬間から、もう寂しくてたまらないんだ」

「それは重症なのです」

「そうだね。どうにかしないといけないのかも」

 だがどうすればいいのか、どうすれば〝なおる〟のかはわからなかった。ぼくの能力も、肝心なところで役に立たない。

「ケン――ひとつ言っとくのです。ちゅーこくなのです」

「んー?」

「ケンはそのひとに、想いを伝えるべきなのです。べつに、いまでなくてもいいのです。もっともっと親しくなってからでもいいのです。たとえ彼女にフラれるにしても、なにも言わないままで終わるよりはずっといいはずなのです」

「言わないと、後悔する?」

「言っても後悔するかもなのです。でも私は、言わなかったことをと後悔しているのです。だから――」

「だから、ぼくに忠告してくれてるんだね」

「その通りなのです。やさしいやさしいナギサちゃんに感謝しろなのです」

「感謝はしてるよ。いつもしてる」

「いつも?」

「うん。ぼくなんかと友達でいてくれてありがとうって」

「私もケンと友達になれてうれしいうれしいなのです。感謝してるのです」

 笑みを深めてそう語るナギサは、ほんとうは、泣きたかったのだと思う。

「でも、なにを言えばいいかわかんないな」

「言葉なんてなんでもいいのです。思いのたけを、そのままぶっつけるのです」

「いや、ぼくはテンパりやすいからな。ちゃんと考えとくよ」

「意見が欲しいなら、聞いてやるですよ?」

「うん、頼む。こんなこと、誰にも言えないから――」

 それからぼくは、ナギサとなんてことない話をして、それから別れた。洞窟を後にした。以前のままの関係。それは取り戻せたように思う。ナギサが痛くてつらい思いをこらえ、そうしてくれたからだろうけど。

 ナギサ。村の巫女さん。ぼくの友達で幼なじみ。幼いころからずっといっしょだった。そうじゃない自分など考えられない。物心ついたころから、ずっとずっといっしょなのだ。欠けてはならない自分の一部とさえ思う。欠けたらきっと、心の決して小さくない部分を、ゴッソリともっていかれるような気がする。

 その彼女が――ぼくを好きでいてくれた。すごくうれしかった。シスタークへの想いがなければ、飛び跳ねて喜んでいただろう。ナギサのその気持ち――恋心に引きずられて、ぼくもナギサを好きになっていたかもしれない。両想いになれたかもしれない。

 しかし――そうはならなかった。ぼくはシスタークと出会い、彼女を好きになっていた。ぼくとナギサの想い。それは交わることなく、すれ違った。

 はじめてではなかった。ナギサを泣かせたことだ。しょーもないいたずらで怖い思いをさせたり、噓をついて気を引いたりしたこともあった。だがそれで泣いたとしても、その直後にはケロッとしていて笑っているような、そんな泣き方だった。それもすべて小さいころのことで、ある程度大人になってからのことではなかった。必死にこらえてこらえて、それでも涙が抑えきれない。そんな泣き方をさせたのははじめてだった。これまでにないことだった。

 これは、ぼくの罪だ。一生背負っていかなければならないことだ。

 ぼくはナギサを――幼なじみの女の子を泣かせたのだから。


 洞窟からの帰路。

 またぼくは癖が出ていた。

 ひとりで歩く、という癖だ。門番の人に声をかけ、村の外に出させてもらう。炭にするための木を集める。そんなふりをした。それを口実にした。ほんとうは、理由などない。ただひとりで歩きたい。それだけだった。

 しかしもう雪は深い。ぼくは道から外れないようにした。狩人の人や、森に薪を集めるためにむかった人。そういった人が踏み固めて造った道。そこを通り、森へむかった。

 日が、暮れかかっていた。空はまだ夕陽で明るいが、足もとはもうぼんやりとした闇に包まれている。

 そろそろ帰ろう――そう思ったときだった。


 うつぶせに倒れているシスタークを見つけたのは。


 緋色の髪。間違いない。だがその髪が、彼女の体が、血だまりに浸りこんでいる。血の量は明らかに致死量で、彼女が死んでいるのは明らかだった。

 ぼくは駆け寄る。彼女にふれた。

 彼女の体は、雪のようにつめたい。あの温度が、熱さが感じられない――。

 彼女を抱き起こす。そうして彼女に呼びかける。シスタークさん! シスタークさん! 

何度も呼んだが彼女は答えない。息。していない。脈。感じられない。

 彼女が――死んでいる。

 ぼくはそれをまざまざと見せられ――ありったけの力で絶叫した。


   6.


 彼女が死んでいる。

 ぼくはそれを確かめた。確かめてしまった。

 しかしそれをぼくは受け入れられず――何度も何度も名を呼んだ。

「シスタークさん! シスタークさん!」

 涙で視界がにじんでいく。嗚咽が漏れ、声がかすれる。しかしぼくは、それでも彼女に呼びかけ続けた。限りなく大きな声で。声が大きければ大きいほど届く。そう信じているかのように。

「誰がやった! 誰に殺された!」

 叫んだ。ひとりで。そう思っていたが――ぼくの言葉に答えた者がいた。


「殺ったのは吾輩だ。主君の命で、その女を仕留めた……」


 振り返る。立っていた。全身が黒装束の男。影が地から立ち上がったような男。

「その女は不確定要素だった。その女さえ殺ってしまえば、あとは人間しかいない……」

 その男の顔は黒い布に隠されていて見えない。だが声の調子で嗤っているのがわかった。

「貴様ァ!」

「おまえもその女の仲間か? まあどのみちここらの人間は皆殺しだが」

「なんだと……?」

「生きた人間はリィスさまの生餌となる。そして死体は、吾輩の操り人形となるのだ」

 その男の声に合わせ、その男のむこうから、わっと大勢の人が現れる。血の気がなく、体中が傷つき、少なくない血も流している。とても生きているとは思えない状態の男たち。その中には、ぼくがこの手で斬り殺した男の姿もあった。

「――となり村の連中か」

「その通り。戦で大量に手に入った……焼かれた者は使えぬが、野垂れ死にが多くいてな」

「おまえは死体を操るのか」

「そうだ。吾輩は死体術師。迫害され、住処も追われた吾輩だが……リィスさまに拾っていただき、力を尽くすことになった」

「リィスとは誰だ? なんだ?」

 ぼくの問いに死体術師はすぐに答えず、カラスの鳴き声のような不快な笑い声をあげた。

「答えろ!」

「リィスさまは神だ。吾輩と同じく、かつてこの地を追われた神だ。その邪悪さによって、ほかの神々に放逐されたのだ。いうなれば、〝邪神〟といったところか」

「その邪神が、ぼくらに何の用だ!」

「言ったろう。生餌だと。リィスさまに限らず神や妖は、ヒトの感情を力にする。神なら畏敬、妖なら敵意などだ。リィスさまは邪悪な神……ゆえに、ヒトの恐怖を喰らうのだ。そして死の瞬間の恐怖の力は、莫大なものだという。その力を得ることが目的だ……」

「ぼくらの村を襲う気か!」

「そうだ。そのつもりだった……しかしその緋色の女がずっと張りついていた。その女を排除しなければならなかったが、その女に隙はなかった。長い間、ずっとな。だが最近、その女の弱点に気づいた。愚かな人間どもと同じ……情に厚い、という弱点にな」

「彼女になにをしたァ!」

「子どもの死体を使ったのよ。死体とわからぬ新鮮で傷のないものを使い、真冬の雪山で遭難したと見せかける……そうして彼女に助けさせて、お礼にと眠り薬の入った食べ物を食べさせた。毒は効かなかったが眠り薬は効いた。あとは、刺し殺すだけだった。少年よ。おまえのおかげでその女の弱点に気づけた。礼を言うぞ」

 足もとが崩れ去るような絶望感。ぼくは立っていられなくなって、ひざをついた。

 彼女の弱点――それは、ぼくだった。ぼくが弱点を造り、弱点そのものになり、それを死体術師に知られてしまった。ぼくが雪山で遭難し、彼女に助けられたとき。その姿を、死体術師は見ていたのだろう。それが死体術師に知られ、彼女の弱点になってしまった。彼女が遭難した子どもを放ってはおけないと知っていたから。ぼくが教えてしまったから。だから彼女は殺された。ずっとずっとつかず離れず、何の褒章もないのに、ぼくらの村を守ってくれていたのに――。

 しかしぼくは、立ち上がった。新たな目的ができたからだ。そうしなければならない。そのことに気づいたからだ。

 彼女は守ってくれた。ぼくらの村を守ってくれていた。それが彼女の目的であるなら、誰かがそれを受け継がなければならない。誰かが村を守っていかなければならないのだ。

 それを――成し遂げる。彼女の代わりに。それがこれからのぼくの目的だった。

「吾輩に勝てる気か?」

「ぼくは敗けない! 敗けてはならない! 彼女の代わりに村を守るんだ!」

 彼女の代わり。だがそうでなくても、村には大切な人たちがいる。ナギサも戦士長も、父もほかの友達も知り合いの大人たちも。村の人々は、ぼくの顔見知りばかりなのだ。

「おまえも愚か者だな」

「愚かなものか。そういったつながりこそがヒトの力なのだ。だから、死体などを操っていい気になってるおまえは、村の赤ちゃんよりも弱い」

「言わせておけば……!」

 死体術師が腕を上げ、そして振り下ろした。死体の群れがわっと押し寄せてくる。その死体たちは、それぞれ武器も持っていた。あの戦で逃げ散ったとなり村の連中が、山中で道に迷い、野垂れ死にしたのだろう。だから死体といえども、戦士のものばかりのようだ。

 その死体から突き出されてくる槍。それをぼくはたやすく奪い盗っていた。ナギサとの訓練が生きたのだ。軽く速い一撃を、素早くかわす訓練をしていたからだ。

 その槍を構え、ほかの死体と対峙する。死体の数は多い。ぼくひとりで殺しきれるのか。そう思ったが、その不安は表に出さなかった。そういったものを出した者から死んでいく。敗けていく。それも、ぼくが戦で得ていた経験だった。

 死体がわっと押し寄せてくる。だが槍や剣、斧や盾などを持った者がばらばらのままで入り混じっている。だから戦うに当たって、それほど苦戦はしなかったのだ。死体術師は、戦のやり方をあまり知らないらしい。敵はたくさんいるのだ、槍を隙間なく並べる、盾を押し並べて壁を造るなどされていたら、ひとりでは手も足も出なかった。

 しかしあまりにも数が多い。そして死を恐れないので、敵の顔の前で槍を振るなどしてひるませる、などの手段が効かない。死体ゆえに、浅い傷など気にもかけない。痛みなど感じていないのだ。そのうえで多数の死体がいるので、いちいち止めもさしていけない。だからなかなか敵を減らせないでいた。

 だからぼくは死体術師を狙った。乱戦の途中で、いきなり槍を投げつけたのだ。それは死体術師の意表を突いたようだ。死体術師は、それにまったく備えていなかったのだ。

 しかしぼくは、外してしまった。槍は死体術師の肩に当たった。これでもう、警戒して飛び道具など当たらなくなってしまっているだろう。千載一遇の好機を逃したのだ。

「殺せェ!」

 死体術師が怒る。死体が押し寄せてきた。武器もバラバラ、連携もない、死体の群れ。だが死なない。いくらも数を減らせない。のど、胸、頭部を突いても、死体はまだ動く。そして槍を扱っていても、なかなか突くことはできない。抜くときに隙ができるからだ。しかし柄でぶっ叩いても穂先で斬っても、死体はまったくひるまない。痛がりもしない。だからぼくは、槍ではなく剣を選んだ。敗けない戦い方をするなら、長さのある槍だが、相手に勝つのなら剣だ。剣なら突き以外の攻撃――斬撃の殺傷力が高い。槍より短いが、その分懐に潜りこんで扱うこともできる。敵も自分も危険が大きい。そういった武器だ。

 死体の群れ。ぼくは自分から距離を詰め、その手や足を斬っていった。思った通りだ。いくら痛みがなくっても、手足を断ち斬られたらどうにもならない。武器も持てないし、立ってもいられない。そして目をつぶせば、生きているときと同じく見えなくなるようだ。そうしてぼくは、次々と死体を無力化していった。

「はっ!」

 しかし死体術師が、息を吐くような笑うような声を吐き出す。すると死体の傷が癒える。もとに戻ってしまうのだ。だが一度に複数を戻せる、というものでもないらしい。死体をなおせるのはひとつずつ、ということのようだ。ゆえに、ぼくが無力化するのが早いか、死体術師が死体をなおすのが早いかという競争になった。

「ふっ!」

 疲れてきた。だがぼくは気合を入れなおし、さらに速度をあげて、死体を斬って無力化していく。息が苦しい。大きく吸っている間がないのだ。死体は間断なく、途切れることなく攻め寄せてきて、ぼくをまったく休ませてはくれない。そうして次第に疲労が溜まり、一撃で手足を断ち斬れないことも増えてきた。完全に分断しない限り、死体の手足は動くようだ。そしてもげかかってぶらぶらしているような状態でも、死体術師が戻してしまう。疲労の激しいこちらのほうが、すこしずつ不利になってきた。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 だがぼくは、ありったけの力で雄たけびを発した。声をあげればその瞬間だけ、体力が最大限あったころの力を出せるのだ。剣。次第に切れ味が鈍ってきた。死体の腕。ぼくはそれを肩から断ち斬り、その手から斧を分捕った。長期戦なら、打撃力のある斧のほうがいいのかもしれない。死体の傷も、きれいに断ち斬れる剣のものより斧の荒々しく無残なもののほうが戻しにくいようだ。そうしてぼくは、斧を扱って戦うことにした。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 息ができなくてあえぐ。くらくらとめまいがする。そんな状況からぼくは立ち直った。疲れきっていても動ける。激しい鍛錬や仕事をしていると、そんな体を造れるのだ。そのうえ体力というものは、使い果たしたと思ったところでもう一度不思議に蘇る。そうして息を吹き返したぼくに、死体術師はひるんでいる。死体斬りと死体修復の競争も、次第にぼくが有利になってきた。戦える死体が、減ってきている。

 斧。死体の頭をカチ割ったとき、根もとからポッキリと折れた。頭を割った死体から、剣を奪い盗る。そうしてその死体の首を刎ねた。その死体の頭部。体。その両方ともが、動かない。じたばたもがく、ということをしない。首。刎ね飛ばせば死体も殺せるのだ。その事実に気づいたぼくは剣を扱い、死体の首を次々と斬り刎ねていった。

「チッ……気づいたか。これでは温存などしていられんな」

 死体術師が指をパチンと鳴らす。するとぼくめがけて突っこんできた。ツキノワグマの死体だ。死体の群れに囲まれていて、ぼくはその猛烈な突進をかわすことができない。

「ぐっ……」

 剣を両手で押し出すようにして、衝突そのものはどうにか防いだ。だがそんなもので、大きなけものの突撃を止めきれるわけがない。

 ぼくは大きく吹っ飛ばされ、背後にあった崖の斜面を転がり落ちていった。


   7.


 ハッと目を覚ます。

 意識が飛んでいたようだ。

 背中が痛い。したたかに打ちつけたようだ。それで息が詰まり、意識が飛んだのだろう。だが打ったのが頭や腹でなくてよかった。そのどちらかなら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。背中でこれほどの衝撃なら、脳や臓物にそれを受けたときに、大きな傷害になっていた可能性があるからだ。

「そうだ……村が襲われるかもしれないんだ」

 ようやく思考も戻ってきた。あわてて立ち上がる。するとそこで、眼が合った。そこに立っている死体とだ。その死体はぼくを見ながら、しかし何の反応もしない。その死体は腕や首が曲がっていて、骨が折れていることがわかる。木の枝も突き刺さっているので、ぼくと同じく崖を転げ落ち、しかしぼくと違って、途中で木に叩きつけられたのだろう。それで体中の骨が折れているのだ。

 しかし。その死体は立っているのになんの反応もしない。ぼくが目の前にいるのにだ。目の前で手を振っても体を突いても、なんの反応も返さないのだ。ぼくに気づいてない、ということではないだろう。おそらく死体を操る、というのは、人形を動かすようなものということなのだ。死体に命を吹きこむとか、そういったことではない。だからこの崖の下では、死体はぼくに襲いかかってこない。死体術師が見てないからだ。

 ぼくは崖を迂回し、元居た場所に戻っていった。死体術師に見つからないようにしてだ。死体の群れ。ぼくはそこを通り抜けていって、死体術師を捜した。死体の群れの中には、けものの死体もある。ツキノワグマやオオカミは、ヒトよりずっと強いのだ。それが死体であれば、なおさらだろう。恐れもひるみもしないけものなど、ヒトの身では戦いようもない。

 それは死体術師の切り札だったのかもしれない。しかし死体術師がぼくに気づいてないいまは、ただのデクの棒だった。死体が動きもしないいまのうちに首を刎ねたかったが、こらえ、死体術師を捜す。

 だが、周囲の死体が動きはじめた。すべての死体が、ひとつの方向に歩きだしている。むかっているのはぼくの村だ。いよいよ村を襲う気なのだろう。

 ――させてたまるか。そう思い、ぼくは死体術師の探索を急いだ。

 急がなければ。死体の群れが村を襲えば、何人もの犠牲者が出るだろう。そのときその死体を使われたら、ぼくたちは同じ村民同士で戦わなければならなくなるのだ。いわゆる同士討ちになってしまう。だがその仲間殺しをできず、殺されてしまう人もいるだろう。そうなればまた死体が増える。死体術師の手駒が増える。そのくり返しで、次々と死体が増えていく、死体術師の戦力が増していくということになりかねない。だから決して村を襲わせてはならないのだ。戦うことそのものが、死体の群れを増強してしまうのだから。

 ぞろぞろと歩いていく死体。ぼくはヤツらを押しのけながら駆けていった。一刻も早く死体術師を見つけなければ。そうしてどうにか殺さなければ。村のため。みんなのため。そのためにぼくは疾駆している。死体術師を捜索している。だが森の中では遠くを見通すことができない。しかしいるはず。死体は勝手に動かない。必ず近くで操っている。

 しかし村が見えてきた。このままでは村が襲われる。

 ぼくは、死体術師を不意討ちで仕留めることをあきらめた。

「出てこい、死体術師! ぼくはまだ死んでないぞ!」

 叫んだ。死体術師にぼくがまだいることを知らしめるため。すると周囲の死体が一斉にしゃがんだ。立っているのは、ぼくと死体術師だけになる。死体術師は意外と近くにいた。その顔は相変わらず見えないが、ニヤニヤと嗤っていることがわかった。

「驚いたな。まだ生きていたとは。だが勝てると思うか? これだけの数の死体に……」

「ぼくは敗けない! おまえには敗けない! あのひとが守ろうとしたんだから!」

 ――敗けない。腹の底から声を発した。力の限り叫んでいた。

「ぼくは死んでもおまえを倒す! おまえの好きにはさせない。村は襲わせない!」

「やってみろ……できるものならな!」

「うおおお!」

 死体術師に斬りかかる。そこに立ちはだかるけもの――ツキノワグマとオオカミの死体。あれが本物並みの強さなら、ぼくには到底勝てない相手だろう。しかしあれは死体なのだ。あの死体自体が意志を持ったりものを考えたりしているわけではない。死体術師が操っているだけなのだ。そこに勝機はある。

 握った砂。それを死体術師に投げつける。死体術師が声をあげてしゃがみこんだ。砂が目に入り、視界が効かなくなったのだ。周囲の死体が止まる。けものの死体もだ。そこでぼくは、近くの死体から剣を奪い盗り、ツキノワグマとオオカミの首を刎ねた。さらに、死体術師へ斬りかかるぼく。しかしほかの死体が立ちはだかった。

「吾輩を守れ!」

 死体の群れ。眼が赤く光っている。死体術師が操っているのではない。命を吹きこまれ、意志を宿して動いているのだろう。死体はずらりと槍を並べている。隙がなく、容易には斬りこめない。死体自身に意志があるので、ちゃんと戦い方を知っているのだ。これで、簡単には勝てなくなった。多数の利。集団の強み。それをしっかりと活かしているからだ。

 だがぼくは、ひるまず突っこんだ。槍の穂先。その手前まで駆け、その勢いのまま前に転がる。前転だ。そうしてずらりと並んだ槍をかいくぐり、死体の群れに肉迫していく。そうなると、一気にぼくが有利になった。接近戦でも槍は扱えなくはないが、やはり長い分だけ取り回しが悪い。そしてこれだけ密集していては、味方同士でも衝突してしまう。ぼくは周りがすべて敵だ、片っ端から斬ればいい。一方で敵は、味方を攻撃しないように気遣う必要がある。そして意志があるいまは、気遣っている分だけ、もたついたりもする。その分だけわずかではあるが、ぼくのほうが有利だった。

 首。刎ね飛ばす。密集している敵。それを斬り崩した。すると集団が壊れてバラバラになった。そうなると、集団の利を生かせない。一対一を何度もくり返すだけになるのだ。剣をなおし、剣を極めたぼくなら、そこらの戦士に敗けることはない。実戦経験のなさが弱点だったが、それもこの前のとなり村との戦でそれを克服した。一日中続く鍛冶仕事で体力もついている。だからたやすくは敗けなかった。

「ちっ……なにしてる、取り囲め!」

 死体術師の指示。視界は回復したようだ。通常の死体がぼくを包囲している。

 赤い目の死体。その意志を宿した死体。それは、数に限りがあるようだ。おそらく力の消費が大きいのだろう。でなければ出し惜しみせず最初から使っている。そしていまも、その死体だけでぼくを囲むはずだ。しかし死体術師はそうせずに、通常の死体で包囲網を造っている。死体術師になにかあれば死体も戦えない。そういった重大な弱点があって、しかもそれを敵であるぼくに知られているのにだ。

「カハハハハ! もう勝ち目はねえぞ! 完全におまえを囲んだからだ!」

「デクみたいな人形がいくらいてもいっしょだ! おまえごときに敗けはしない!」

「はっ、威勢はいいみたいだな。だがそれは勇敢じゃなくただの無謀だ!」

「勝ってもいないのに勝ちを確信する。それは油断、軽率というものだ!」

 ぼくはそう言うが早いか、死体術師に剣を投げつける――ふりをした。思った通りに、死体術師を死体たちが庇って立つ。そこに死体が集まっていった。そして反対側の包囲は薄くなった。そこにぼくはぶつかっていって、死体を押しのけて包囲から逃れた。死体に隠れて、死体術師からは見えない場所。抵抗などない。そう踏んだのだ。その通りだった。そうしてぼくは死体の群れの包囲から抜け出し、赤い眼の、意志を宿した死体を斬殺していった。赤い眼の死体も、ほかの死体と同じで首を刎ねれば死ぬのだ。通常の死体術師が動かしている死体を斬るのと、なにも変わりなかった。そういった死体より、やや強い。それだけだった。

 そうしてぼくは、死体と戦いつづけた。コツもつかんだ。大勢の、死体術師が操作している死体の群れ。その中に紛れていると、死体術師からは見えず、おおざっぱな攻撃しかされない。赤い眼の死体しか攻撃してこない。だからぼくは、通常の死体はあえて攻撃はせずに残した。そうして死体の壁を造り、その中に隠れ、赤い眼の死体とのみ戦うのだ。そしてそうして戦っていると、次第に赤い眼の死体が減ってきたようだ。やはり、通常の死体と違って力の消耗が激しいのだろう。それが次々と斬られていき、新たに生み出すということができなくなってきたのだ。しかしこの戦い方は、ぼくの体力の消耗も激しい。どちらが先に力を使い果たすか。そういう勝負になってきた。

 そのころになるとぼくは、あえぐような息をしていた。不思議に蘇る体力。もうひとつ体に蓄えていた体力。それさえももう使い果たそうとしている。

「集まれ、集まれェ!」

 だがそこで、死体術師の前に死体が集まりはじめた。なにをする気かぼくはわからず、いったん距離を取った。そこで見たもの。死体が折り重なってぐちゃぐちゃに混ざりあい、巨人になっていくさまだった。死体の合体。そんな技まで、死体術師は持っていたのだ。やがて家をもまたぎ越すような巨人が、ぼくにむかって咆哮した。

「来い!」

 叫び返すぼく。死体が合体している間に、すこしは息を整え、体力も取り戻していた。だから、まだ戦える。戦えるのだ。村のために。みんなのために。そして、シスタークが守ろうとしたものを守るために、そのためにぼくは戦うのだ。力の限り。命を賭して。

 巨人が踏みこんでくる。巨大なだけではなく、異様に手足の長い巨人。武器がないが、あの手足が武器なのだ。あれならどこにでも届く。だからぼくは、巨人の意表を衝いた。槍を並べられたときと同じく、巨人の足もとで転がって距離を詰めたのだ。そして足首に飛びつき、剣で何度も斬りつける。すると巨人は体勢を崩して転んだ。倒れこんだのだ。その顔の上に飛び乗るぼく。そうして剣でめった刺しにする。刺す。刺す。刺す。

 そうして巨人を穴らだけにすると、巨人は元の死体の群れに戻った。

「バカな……吾輩の切り札が!」

「あれが切り札だったか。じゃあもう終わりだな」

 そう言って死体術師に歩み寄るぼく。もう死体はない。巨人が分解された死体も、もう動くことはないようだ。いまはもう、ぼくと死体術師しかいない。この状況で使わない、ということはありえないからだ。

「じゃあ――死ね」

 死体術師の目の前。そこで剣を振り上げるぼく。そのまま振り下ろそうとする。しかしその剣がピクリとも動かない。動かなくなった。なにかにつかみ取られたかのように。

 ぼくは振りかえってその剣を見やる。

 すると剣には、キラキラと光る糸のようなものが、無数に巻きついて絡みついていた。


   8.


「リィスさま!」

 死体術師の声。歓喜の声。

 するとこの糸はリィスのものか。死体術師があがめる神――邪神リィスのものなのか。

 邪神リィス。そいつは夕陽のなかにいた。紅い光のなかにいた。まるで鳥のような嘴。いや、顔全体がつるはしのようになっているのか。体全体はおおむねヒト型。だが両手は剣のようなものになっていて、背中からは金色にキラキラと光る無数の糸が伸び、ぼくの剣を絡めとっている。背は先ほどの巨人ほど大きくはないが、ぼくよりはずっと大きい。大男の戦士長より、頭ひとつ分大きいぐらいか。それぐらいの体躯だ。

 そうしてリィスは、ぼんやりと紅く光る眼でじっとぼくを見つめてくる。顔の前にあるただひとつの眼――気味悪くも美しい単眼。それがぼくを捉えて離さない。その一つ目に凝視されて、ぼくは身じろぎひとつできなかった。

『おまえか。我々の敵は』

 邪神の声。それでハッと我に帰るぼく。剣を動かそうとする。だがピクリとも動かない。ものすごい力で絡め囚われている。剣先を、石に突き立てたかと思うほどだ。

『敵は、排除する』

「ぼくがおまえらの敵なんじゃない。おまえらがぼくらの敵なんだ!」

『違う。おまえたちが我の敵だ。人間は我の生餌に過ぎん。だがこの村の者たちは、我を山奥に封じ、身動きできぬようにした。生餌の分際でだ。到底許せぬ出来事よ』

「エサ扱いしてるからだろうが! ぼくらは、人間はエサじゃない!」

『生餌は生餌よ。しゃべることさえおこがましいわ!』

 そう叫び、ぼくの剣を解き放つ邪神。

「うおおおっ!」

 ぼくはすぐさま斬りかかった。その頭蓋を叩き割ろうと振り下ろす。しかし剣のような両手に阻まれた。続けて斬撃をくり出すも、すべて軽く防がれている。

『ヒトが神に勝てるものか!』

 そう言って単眼を光らせる邪神。その背中から、糸を束ねた触手が無数に伸びてくる。それを払いのけ、突きかかるぼく。しかしぐるんと視界が回った。ぼくはいつの間にか、仰向けに倒れている。足首。そこに糸の触手が巻きついていた。足を払われ、転倒したということなのか。

『終わりだ!』

 邪神の右の突きおろし。それをぼくは身をひねってかわし、それから剣を突き上げた。邪神の胸に剣は突き立ち、邪神がかん高い悲鳴をあげた。

 攻撃が――効いた。邪神に、神に効かせられたのだ。それならば戦える。ぼくでも戦うことができるのだ。

 それも、不十分な体勢での、大した威力でもない刺突が効いている。効かせられるが、非常に頑丈、ということでもない。ヒトとさほど差のないもろさだ。

 ぼくの足を放し、後退する邪神。ぼくはそこに斬りかかるが、数体の死体に邪魔された。死体の首。瞬時に三つ刎ね飛ばす。だが四体目は首を守っているので頭蓋を断ち割った。そうすると動かなくなった。脳をつぶしても死体は死ぬのか。攻撃の選択肢が広がった。五体目。頭上と首を防御している。なので眼の穴を刺し貫いた。糸の切れた人形のように、その死体が崩れ落ちる。

 死体が五体。だがほとんど一瞬で片づけたので時間はかかっていないはず。しかしそのわずかの間に、邪神が体勢を立て直していた。剣のようになった両手を交互に突き出して攻撃してくる。それをぼくは、払いのけながら後退した。

 二刀流の相手ははじめてだった。だが、複数体の死体を相手取るよりはたやすい。敵が複数いると、真横や背中など、死角になっているところからも攻撃されるからだ。それに比べれば、二本がともに真正面にある二刀流の相手は、まだ困惑しなかった。

 剣では互角。すると邪神が糸を束ねた触手を伸ばしてくる。それを跳びすさってかわし、ぼくは剣を投げつけた。邪神がかまえる。だが目的は邪神ではない。邪神のななめ後ろにいた死体術師だ。邪神の後ろで油断していた。ぼくは、そこを衝いたのだ。

 今度こそ投擲は命中した。死体術師が動いていなかったから当てられたのだ。その胸を投げつけた剣で刺し貫かれ、倒れ伏す死体術師。これまでに殺して殺して殺しつくした。死体の群れを殺しつくした。そうして次第にわかるようになった、あれは、死んでいる。もう二度と動くことはない。ようやく死体術師を仕留めたのだ――。

 その光景を見ておののく邪神。ぼくはその間に死体の持っていた槍を拾い上げてかまえ、邪神めがけて突き出した。何度も何度も突きをくり出す。頭部、足、肩、腹。さまざまな場所を狙って突きまくった。それを必死になって払いのけている邪神。そうしていると、次第に邪神が弱ってきた。胸の傷。それがどうやら痛むらしい。

 ぼくは同じところを狙って槍を突いた。だが当たる、と思った瞬間に槍は絡めとられていた。ぼくの体も拘束されている。下を見ると、地面から無数の糸が生えていた。邪神の背中から伸びた糸。地中を通し、見えないようにしてこちらに伸ばしていたのか。ぼくは槍も体も絡め縛られ、身動きひとつできない。やがて槍は離れたところに放り棄てられ、ぼくは縛られたままで邪神のもとへ近づけられていった。


『――滅びよ!』


 邪神の突き。それをぼくはかわせず、胸部に受けた。なにか異様なものが、体の中まで入ってきている。すこしすると、そこが猛烈に熱くなった。火傷したのかと思ったほどだ。

 痛みが強すぎると熱く感じる。ぼくは誰かに教わったことを思い出していた。

「どけェ!」

 だが声が聞こえた。どこかで聞いた声。その声と同時に、邪神の体が炎上した。緋色の炎に包まれている。邪神は悲鳴をあげ、その炎から逃れた。そこに緋色の火の弾がふたつ三つと降りそそいだ。邪神は糸を束ねた触手を使い、その火の弾を払いのけている。

 邪神がぼくから離れた。なにかが抜けていく感覚。邪神の右手。剣のようなその手が、ドス黒い血にまみれている。体の深いところの血は黒いといわれている。ぼくはあれで、腹を刺し貫かれたのか。それでいま、腹が熱くてたまらないのか。

「すまない――間に合わなかった」

 また声が聞こえた。ずっと聞きたかった声――シスタークの声。ぼくは立っていられず、その場に膝をついた。その前に立っているシスターク。ぼくの前に立っている。

『我の邪魔をするな!』

 邪神が糸の触手を伸ばす。緋色に燃える翼を使って、その触手を焼き払うシスターク。ぼくを――庇っている。それがわかる。でも動けない。立ち上がることができない。

 やがて横むきに倒れるぼく。その視界の中で、シスタークが戦っている。連続で緋色の火の弾を放ち、邪神に浴びせかけていく。邪神は剣のようになった両手を使って、一発、二発と火の弾を払いのけたが、三発目をまともに喰らった。そうして邪神がひるんだ隙に、四発、五発と火の弾をぶっつけていくシスターク。

 邪神はたまらず悲鳴をあげて――空を飛んで逃げていった。金色の炎を背中から発し、雲を引いて逃げ去っていく。すさまじい速さで、あっという間に見えなくなった。

 シスタークはそれを追わずに、ぼくのほうへと駆けてきた。それからぼくの前にひざをつく。そのままぼくを抱きあげた。

 こんなに好きだったひと。あんなに捜し、追い求めていたひと。

 ぼくはいま、そのひとと居る。そのひとの腕の中に抱かれている――。


   9.


 ――熱い。

 彼女の体は、やはり熱かった。

 しかし、腹の熱さとは違う。違っている。その熱さは苦しくない。むしろ心地よいのだ。

「すまない。私が間に合っていれば――」

 悲しそうな眼をして、心底済まなそうな声で、ぼくに謝ってくるシスターク。

 いったいなにを謝ることがあるのだ。ぼくは、そう思った。

「いいんです。ぼくは、本望だ」

「なにを言うんだ」

「村を守れた。あなたが生きてた。だから、これでいいんです」

 咳きこむ。彼女の頬に血が飛び散った。もう腹の熱さは感じない。ただ、シスタークの熱さだけを感じている。死。それが近づいているのがわかる。だが死は、もっとつらくて暗い、つめたいものだと思っていた。しかしいまはあたたかい。熱いほどに。燃えそうなほどに。だからぼくは、死が迫っていても、つらくはなかった。

「シスタークさん。どうか、どうか聞いてください」

「なんでも聞くよ」

 陰のある眼のままで、無理やり笑みを浮かべる彼女。ぼくも彼女に笑いかけてみる。

「あなたに見合わないのはわかってます。ぼくなんかじゃ釣り合わないのもわかってます。でも、それでもぼくは」

 声が出なくなってきた。体から力が失われている。それでもぼくは、声を張り上げた。


「あなたのことが好きだった――」


 告白した。

 今わの際に。

 最後の最後に、ぼくはその想いを伝えた。

 彼女がなにか言っている。だが聞き取れない。もう聴覚も失われたのか。

 そして目も見えなくなってくる。最後に見えた彼女の表情。いまにも泣き出しそうで、ぼくは笑っていてほしいと思った。願った。

 ――暗い。つめたい。彼女の熱ささえ、もう感じられなくなったのか。

 そうしてぼくは命を手放し、死の底へと堕ちていった。






















第二章 生まれる前から好きだった




 おぼろげな夢を見る。

 毎晩毎晩、夢を見ている。

 ――誰かの夢。誰かの記憶。緋色のそのひと。熱いそのひと。

 そのひとの夢を、ぼくは毎晩見つづけている。幼いころから、ずうっとだ。

 その記憶も夢もあいまいだ。顔も思い出せない。声も思い出すことができない。

 それでも確かに出会ったはず。前に彼女と出会っていたはず。

 だがどこで出会ったのだろう。いつ、どうやって出会ったのだろう。

 出会ったことは確かだ。間違いない。そう確信をもって言えるのに――肝心なことは、思い出すことができない。

 忘れられない。胸を離れない。

 そのひとの記憶。緋色の記憶。

 それが胸の奥に宿っている。熱く熱く、宿されている。

 彼女はいったい誰なのだろう。どこの誰で、ぼくとはどういう関係なのだろう。それがわからず、しかし彼女を忘れることもできず、ずっとぼくは苦しみ、悶えていた。記憶を揺り起こしてはその熱さに耐えかね、ずっとずうっと泣き叫びそうだった。


   1.


 武士の時代。従者であるぼくの毎日は忙しい。

 体力のある姫君に、ずっとついていなければならないからだ。

 ぼくは姫君――ナギサ姫の従者だった。幼いころからそうだった。乳姉妹のいなかった姫君の、その代わりだったのかもしれない。ぼくは姫君とともに生まれ、育ったのだ。

 この村を治めるお武家の方――地頭さま。そのご息女であられる姫君は、屈強な益荒男(ますらお)

たる地頭さまによく似ていて、非常におてんばで体力もあった。風邪ひとつ引いたことはなく、いつでも野山を駆けまわっていた。

 その姫君につき従い、護衛もしなければならないぼくも、当然山を駆けずりまわった。南の山は低いからと、雪が積もっていてもひた駆けていた。ただ駆けるだけではなかった。狩りもする。それも大物ばかりを獲るのだ。姫君の趣味だった。

 彼女は料理も裁縫もせず、武芸に明け暮れ、男顔負けの腕前で狩猟も行っていた。その腕で、彼女はツキノワグマさえ仕留めたこともある。そうやって彼女は、大人の男並みに目方のあるツキノワグマを、軽く担いで山を歩くのだ。ぼくがこの場で解体しようと提案しなければ、村まで担いでいったかもしれない。それほどの人だった。


 姫君のことは、地頭さまも気にかけていた。

 矢がなくなるまで。彼は姫君にそう言い渡したのだ。

 しかし矢は、使いまわせる。なくしてしまわない限りは、何度でも使うことができる。通常ならどこかに当たって曲がったり、矢じりがなくなったりしてしまう。でもぼくなら、それを〝なおす〟ことができた。壊れたものを手に取って念じるだけで、完全に元通りにしてしまえるのだ。

 それで姫君の狩りには、限りがなくなった。

 何度でも矢を使い、扱えるようになったからだ。

 そのことをぼくは地頭さまに謝罪したが、彼は苦笑しながら言い渡したことは変えぬ、と言っていた。ぼくを気遣い、そう言ってくれたのかもしれない。そういった鷹揚なお方なのだ。その度量で村の住民にも、郎党の方々にも慕われている。そんな人なのである。

 そしてそのやり取りを、姫君はどこかで聞いていたようだ。それからはますます狩りに興じるようになった。本職の狩人たちと違い、泊まりがけで出かけることはなかったが、それでも朝から晩まで狩りに明け暮れていた。

 しかし狩りというものは、若い女の子がひとりでできるほど、たやすいものではない。ウサギやキジなど、わりと難易度の低い目標もあるが、それでは姫君は満足しないのだ。眼もくれないほどだ。難易度の高い、それも大物を獲ようとする。そしてぼくは、それに毎日つきあわされているのだ。

「そっち行きましたよ!」

 その狩りでぼくはいつも勢子の役割を担わされている。獲物を狩るため、弓矢を持った人――姫君のほうへ獲物を追い立てる役だ。声を出したり、音を鳴らしたりして、けものを威嚇して逃げさせるのだ。

 今回の獲物は鹿だった。鹿はこちらに牙をむくこともあるので、かなり危険ではある。しかし心配するそぶりを見せるだけでも姫君は怒る。私は子どもなどではない、一人前の武士なんだと眼をむいて怒りをあらわにする。女の子なのだ、体格も腕力も、一人前とはとても言えないのだが、それを言っても姫君は怒る。そして暴れる。地頭さまを通じて、姫君に言っていただいたこともあるが、それでも姫君は、自分は一人前だと言い張るのだ。

 今回の狩りは失敗だった。鹿が姫君の近くに現れ、彼女を押しのけるようにして進んでいったからだという。鹿の突進をかわしている間に、まんまと逃げられたようだった。

「私は臆病なのかな。獲物が近すぎると、弓を引けんのだ」

 と姫君がうつむいて言う。ぼくはあわてて助け舟を出した。

「弓とはそう言う武器でしょう。それに、けものはそれだけ危険でもあります。たとえば多数の兵を並べて槍を突きだす。そうでもしなければ、けものとの接近戦は危険すぎます」

「おまえでもか?」

「ぼくでも、誰でもですよ。地頭さまは体格に優れた、筋骨隆々の大男ですが、それでもけものとの接近戦などなさらないでしょう。人間相手とは、勝手が違いすぎるのです」

「そういうものか……まあそれならいい。それで、あの鹿の後は追えるか?」

「雪の上に足跡は残ってますが、今日明日で追いつく、というのは不可能ではないかと」

「むうう、そうかそうか。ではでは獲物がなにもないではないか」

「獲物を獲ることだけを考えるなら、罠猟も視野に入れたほうがよいかと」

「でもでも私は弓でやりたいのだ。私は空を飛ぶ鳥でも射殺せるのだぞ」

「それは知ってます。見事な腕前だと思いますよ。ですが狩りというのは、獲物とうまく出会えるかどうかがカギです。はっきり言ってそれは運です。仕方がないと思いますよ」

「獲物のほうが逃げている、ということはないか?」

「あると思います。視界が通らない森の中でも、音、におい、気配などで察知していると思われます。察知されなかったときは、風むきなどがよかったのでしょう。いつもぼくも風むきには気を遣っているのですが、けものほど鋭くはないのかと」

「つまりはそういった敏感さ、鋭さで敗けているということだな」

「おそらく。狩人の人に話を聞けば、同じような答えが返ってくるかと」

「ではではどうすればよいのだ? それでは一生獲物を獲れぬぞ」

「けものの中にも、鋭いのと鈍いのがいるでしょう。あとは、あえて位置を教えるというやり方もあるかと。いつも通り、ぼくがけものを追い立てるやり方ですね」

「なるほど。気づかれてしまうのを逆利用するのだな」

「ぼくらは村のしきたりに従い、山に入るときは必ず体を洗っています。服も洗濯をした、においのないものを着ています。姫君が音を立てず動かなければ、においも音も、気配もないという状態にできるかと」

「待ち伏せをする私に気づかれなければ、狩りはうまくいくのだな?」

「ですが再三申し上げている通り、姫君が危険でもあります。姫君のほうに、気の立ったけものが突っこみますので。ぼくは、反対です。ぼくが待ち伏せるほうが安全かと」

「でもでも私は弓で射たいのだ。的では満足できぬしな」

「わかりました。では木の陰などに隠れ、けものの突進を受けぬよう」

「わかったわかった。ではではそうしよう。おまえの言う通り、身を守ることを優先する」

「お願いします。気が気じゃないんですよ」

「心配性だなあ」

「当然の気持ちかと」

 姫君がいくら体力があるといっても、女の子の体格だ。矮躯だ。ぼくもまだ子どもで、体格も大きくはないが、それでも姫君とかなり差はある。姫君は、この村を治める武士という支配階級で、農民のぼくらよりもずっといいものを食べているが、それでも男と女で体格の差はある。骨格から違うのだ。そして当然だが、大きくて重いほうが打たれ強い。ケガもしにくい。戦うか逃げるか。そのけものの判断も、違ってくるだろう。

 弓の腕は、姫君とはほとんど互角だ。差などあってないようなものだ。ぼくは、昔から持っている不思議な能力で〝なおした〟ものを何十年も修行したかのように扱えるようになるが、そのぼくと姫君は五分なのだ。とんでもない技量と言っていい。狩人の人たちも、ぼくと姫君の腕には舌を巻いていた。それがあるから、狩りが許されている。そういった側面もあるのかもしれない。なにかあっても、その腕があると切り抜けられるからだ。

「ではではケン、なにを狩ろう」

「ぼくとしては、危険の少ないウサギやキジを狩りたいのですが」

「それではつまらぬ。誰でもできるではないか」

「ですがこの時期のけものは、エサが少なくて凶暴で」

「だからこそ狩りがいがあるのではないか」

「ぼくは地頭さまに直接、姫君の従者に任命されました。従者というのは、対象の護衛も兼ねているのですよ」

「私に護衛は要らぬ。どんな敵も、この弓で片づけてくれよう」

「賊が多数いたらどうします。地頭さまほど強かったら……」

「父上並みなら勝てぬなあ。怖い怖いのだ。おとといも、素っ裸で廊下を歩いて怒られた。危うく漏らすところだったぞ」

「裸で漏らしたら大惨事でしたね……というか姫君、恥ずかしくないのですか」

「夜中だったので、誰もおらぬと思ったのだ。おしっこに起きたのだが……」

「ああ、それですね。夜中に物音がしたら、誰もが賊を疑うでしょう。そして地頭さまは、この村で一番腕が立ちます。警戒して見に行ったのですよ」

「それで起きておられたのか。というか、私が起こしてしまったのだな」

「狩りのときのように歩けば、人を起こさないで済むかと」

「なるほど、狩人に教わった忍び足だな。ではでは次からそうしよう」

「服は着てくださいね」

「うむ、そうする。私だって、見られるのは恥ずかしいのだ」

 そう言って頬を掻く姫君。

「ところで姫君、日が暮れてきましたが」

「なぬう? 獲物が獲れておらぬぞ。狩りに出かけて手ぶらで帰るなど、とても許されることではない」

「狩人でも、そういうことはありますが」

「うるさいうるさい! 狩りに来たのだから獲物を獲るのだ。それは絶対なのだ。今晩の鍋に新鮮な肉がない。それも許されざることなのだ」

「まあ凍らせておいた肉は、すこし味が落ちますが」

「そうなのだそうなのだ。私は血の滴るような肉が食べたいのだ」

「……わりと奥のほうまで来ましたので、帰りながら探しましょう」

「そうだな。見つけたらすぐに殺(と)るのだ。見敵必殺なのだ」

「悪逆非道な賊を討伐するときみたいなこと言いますね……」

「ではでは行くのだ! なるべく蛇行して帰って、早く早く獲物を見つけるのだ!」

 そう言って駆けだしてしまう姫君。あわてて後を追うぼく。

 姫君は右に左に進路をそれて、なかなか村へ帰ることができなかった。


   2.


 頭の中を、影がよぎる。

 いつも見ている、緋色の影だ。

 眠り、夢を見ているとき。記憶をめぐり、その底をさらっているとき。そういったとき、思い浮かぶ影がある。その影は緋色で、熱くて、女性であることもわかる。きっとどこか遠い場所で出会ったひとなのだ。幼いころのことかもしれない。

 だが忘れられないのはなぜだろう。なぜこれほどに焦がれているのだろう。

 毎夜その影を夢に見る。だがその影は、いつでも遠いところにいる。そのひとのことはなにも知らない。どんな顔かさえも。なんという名前かさえも。いったいぼくとはどこで出会ったのか。緋色がどこから来たのかも、なぜ熱いなどという印象を抱いているのかも知らない。わからない。

 だがなにも知らないのに、なにひとつわからないのに、それなのにぼくは、そのひとに焦がれ、そのひとを追い求めている。そのひとの影を、緋色の熱い炎を、いつもいつでも忘れられないでいる。山の中の川のむこう。深い森の木のそば。夕陽の沈んでいく山の陰。そういった場所に彼女がいないかを、ずっとずっといつまでもどこまでも捜し求めている。


 早朝。

 まだ暗いうちに目を覚ます。

 農家の朝は早いが、ぼくはそれ以上に早起きだ。姫君が、いつでも早起きするからだ。祭りの日にだけ、いつもは朝起きられない幼い子が早起きできるようになるようなものか。とにかくそんな感じで、いつも姫君の朝は早い。それに合わせなければならないのだ。

 まずは、獲物を仕留めるための弓と矢。獲物の解体用の短刀も持つ。それに、護衛用の太刀も。弓と矢も、護衛用には役立てるだろう。姫君を護衛するのが、ぼくの役目なのだ。

 それからさまざまな物を持ち、地頭さまたちの住まう屋敷へむかうと、その前で姫君が待っている。彼女はぼくの姿を認めると、笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。

「おはようございます、姫君」

「よしよし。ではでは行くのだ!」

 今日も南の山へとむかう。北と東西の山は地形も複雑で森も深く、本職の狩人たちでもめったに立ち入らない。姫君は行きたいようだったが、それは地頭さまに禁じられている。南の山は狩人たちも毎日通っていて、遭難の危険性も低く、山登りの難易度も高くない。ぼくらのような子どもが入るには、うってつけの場所だった。

 狩りは、それほど嫌いではなかった。そして、山を歩くのは好きだった。だから姫君に同行するのは、実はそんなに苦痛ではない。むしろ楽しかった。

 だが楽しければ苦労しない、ということではない。自分で自分のことを山猿などと呼ぶ姫君についていくのは大変なのだ。弓矢ひとつの彼女と違い、ぼくは最低限ではあるが、荷を背負ってもいる。その分体力も要るのだ。

「今日はけっこう降ってますね」

「むうう……雪が降ると、足跡がかき消されてしまう」

「吹雪かなければいいのですが」

「そうなると寒いしなあ」

「いえ、遭難の危険が高まるので。雪が深くなれば、ただ歩くだけでも大変ですし」

「そうなのか」

「霧が出てもそうですね。方向がわからなくなるので」

 南の山の森には、狩人たちがつけた印がある。木の傷と紫の紐だ。だがそれも、吹雪や霧で視界が悪くなれば見つけられなくなってしまう。自分の手元さえも見えない。そんな状況も起こりうるのだ。特に冬の山で起こりやすく、そうなれば死も間近に迫ってくる。ぼくも一度遭難している。いつどこで遭難したかは思い出せないが、そのときは自力ではどうしようもなくなり、誰かに救助してもらったのだと思う。どこの誰に、どうやってというのは思い出せない。きっとかなり幼かったのだ。

「さて……ここなら誰も聞いていないな」

 南の山の頂上付近。姫君にせかされ、今日はここまでやってきた。しかし、この場所にたどり着いてから、姫君がおかしなことを言いだした。彼女は周囲をすべて見渡せるこの場所で、しきりに周囲を警戒している。

「ケン。言いたくないかもしれない。でもひとりで抱えこんじゃダメだ」

 そんな姫君はぼくのほうをむいて、笑みを深めてそう語る。諭すように、そう語る。

「ケン。おまえは以前、私の相談に乗ってくれた。どうしても狩りがしたい私のためにと、父上に訴え出てくれたのは知ってる。陰ながら見ておったのだ。おまえのほうから、私の護衛を申し出たのだろう? 私をひとりにしないという条件で、私の狩りは、父上からも認可されているのだろう? 父上のほうから言い出したように言っておったが……」

「バレてたんですか。まあ、女の子に泣かれちゃね」

「だから今度は私の番だ。おまえはなにを悩んでる? たまに心ここにあらず、といった様相になるよな。そんなときにおまえは、いったいなにを考えてる?」

「そんなに顔に出してましたか」

「私にはわかるんだよ。人の想いや気持ちがな。昔からそうだったんだ」

「すごくカンが鋭いのか……それとも能力かもしれませんね。ぼくのみたいな……」

「かもしれん。とにかくわかる。おまえに捜しものがあるんだって。おまえが必死だってことも。おまえの捜しものは、なんだ? ――誰だ?」

 胸を衝かれる。強烈に痛む。張り裂けるほどに。内側から破れそうなほどに。それ以上黙っていられなくて。秘密にしておけなくて。ぼくの口は、勝手にしゃべりだしていた。

「誰かは、はっきりしないんです」

「はっきりしないとは?」

「よく憶えてないんです。ずっと昔だったのか幼かったのか……よくわからないんですが」

「それでもおまえは憶えてる――いや忘れられないと?」

「そうなんです。毎晩そのひとを夢に見てる。いつでもどこかにいないかと捜してしまう。ずっとそんな状態で――そのひとに会いたくてたまらなくて。顔も名前も知らないのに……」

「そうか。よくわからんというか……不思議なもんだな」

「ええ。自分でも変だ、おかしいというのはわかってるんですが」

「おかしいとは思わんが、変わってはいるな。なあケン――それは、恋なのか?」

「わかりません……女性だとは思うのですが」

「そうか。女性か……」

「でもそれも、漠然とそんな印象があるだけで。ほかには緋色、熱いという印象があり」

「緋色か。そういう着物でも着ていたのかな。だとしたら、雅なものだ。熱いというのはなんなのだろうな。鍛冶でもやってたのか……?」

 鍛冶。その言葉もぼくの胸を突き刺した。これまでに何度も聞いている。これまでに、何度も何度も聞いていて、一度も意識したことなどなかったのに。鍛冶は、なにか彼女とかかわりのある言葉なのか。だが彼女が鍛冶職人なのかと問われれば、それは違うと思う。どうもしっくりとこない。それどころか、このぼく自身が鍛冶職人だった、そんな気さえしてくるのだ。ぼくは生まれてこの方農民で、近ごろ姫君の従者になった。それ以前に、鍛冶などかじったことさえない。そのはずなのに――。

「それで、おまえはどうしたいんだ?」

「どうしたい、ですか」

「なにかあるだろ?」

「ええ――会いたいですね。ずっと捜してるんで。もっともそれは気持ちだけで、なにも具体的なことはしてませんが」

「会って、どうするんだ?」

「……それは考えてませんでしたね」

「ずいぶん考えなしだなあ」

「会いたいってことしか、頭にありませんでしたね。でも会ったのなら話もしたいです。できれば名前も聞きたい」

「まあそうだな。名前ぐらいは知っとかんとな。ところで」

 そこで姫君は言葉を切り、なぜだか横をむいた。

「――私のことも、名前で呼んでくれていいのだぞ?」

「ナギサ姫、と?」

「そうじゃなく――いや、いい。なんでもないのだ。どのみち将来は――いやそれも私の考えすぎだな。とにかく、そのひとの捜索に、私も手を貸すぞ?」

「いえ、姫君のお手を煩わせるわけには」

「私はどのみち狩りをする。獲物の捜索範囲は、広げてもいいと思うのだ」

「……そう言いつつ、ほかの山に入ろうというんじゃないでしょうね」

「そ、そんなことはないぞ?」

「声裏返ってるし」

「お、おまえの手伝いをしたいというのはほんとうだ。でもほかの山に入りたい、という気持ちもあってだな」

「まあ、わかります。ぼくだって狩りをしたり、山を歩いたりしたくないと言ったら嘘になりますし。そうしながらもあのひとのことが気になる、というだけのことで」

「だろう? ほかの山で狩りもしたいし、おまえの手伝いもしたいし。どっちもほんとうなのだ。本音なのだ」

「ありがとうございます。でもなんの当てもない捜しものに、偉い人を巻きこむわけにはいきません。どこかで、女性で緋色というのを見かけたら教えていただけると助かります。ですが、それ以上を望むわけには」

「……まあ、そうかもしれんな。それ以上は頼ってはくれぬか……どのみち私は、天候が崩れない限りは山で狩りをしている。ことのついでに、捜しておいてやろう」

「助かります。ぼくは大した物を持ってないので、働きで返させていただきます」

「うむ」

 話しているうちに昼になっていた。姫君が、音の鳴った腹を押さえた。

「ケン、なんか持ってるか?」

「餅を」

「あの鶏肉が入ったヤツか。くれくれ」

「どうぞ」

 冬の山は明るい。木々に葉がないからだ。まして山の頂上付近は木々も低く、まばらであることも多い。この南の山の頂上は見通しもよく、よく昼めしを食べる場所だった。

「むはひはは、よくほほにひはな」

「ちょっとなに言ってるかわかんないです」

「ごくん。昔から、よくここに来たなと言ったんだ」

「そうですね。もっと年上のお兄ちゃんたちや狩人たちに連れられてきました」

「二人ではじめて来たのはいつだったかな」

「狩りの認可を受けてからだったかと。それまでは、二人で山に入ることはなく」

「そうか……そうだったな。二人ではじめて狩りをした日に、ここまで来たんだったな。じゃあ意外と最近なのか。はじめてここに来たのも、二人で狩りをしはじめたのも」

「そうですね。毎日やってるんで、長い間やってるような気がしますが」

 もう習慣になっている。朝早くに起きだすことも。もう体が慣れきっている。丸一日、野山を駆けずりまわることも。

「ケン、ありがとうな。あのときも、いつもという意味でも。おまえのおかげで、狩りの許可が下りた。おまえのおかげで、毎日狩りに出かけられている。ありがとうな」

「いえいえ。姫君には狩りしかないと、みなわかっておりますので」

「そうなんだよな。みなが知ってるんだよな」

「ああ、姫君にはわかるのでしたね」

「なんとなくな。思考の表層、むけられた視線や言葉に含まれているもの。それが私には、たちどころにわかってしまうのだ」

「悪用はしないでくださいね」

「しないしない。ケンがおなごの脱ぎかけが好きだとか言わんから」

「言ってるじゃないですか……」

「あはは、誰にも言ってないから安心しろ」

「頼みますよ……」

 懇願するぼくの背中をバシバシと叩き、大笑いしている姫君。ぼくはすこしだけ彼女が憎らしくなってきた。

「言いふらしたら怒りますからね」

「怒って、どうするんだ?」

「姫君のつきそいを辞退させていただきます」

「なに……? そ、それではおまえと狩りができぬではないか!」

「言わなきゃいいんですよ、言わなきゃ」

「もしかして、怒ってる?」

「さあねえ」

「……すまぬ! 調子に乗りすぎたのだ。謝るのだ。だから――」

「っと、すいません。ぼくのほうこそ、脅かしすぎましたね。もう怒ってないですよ」

 ぼくはなるべく穏やかにそう言って、姫君の頭をそっとなでる。するとすこし涙ぐんでいた姫君が、ぎこちなくも笑みを浮かべた。

「まったく、本気にするところだったぞ」

「半分本気でしたがね。でもまあ、ぼくもやめたいわけではないので」

「……ほんとうみたいだな」

「ああ、読んだのですね」

「おまえのことは悪く思ってないが……すこしだけ憎らしくなってきた」

「あはは、ぼくもそう思ったんで、ちょっと怒ってみせたんですよ」

 ぼくと姫君は、互いに顔を見合わせる。それからどちらからともなく、笑った。


   3.


 それからの狩りは、すこし変わった。

 より広範囲を駆けまわるようになったのだ。

 ぼくが、人を捜している。緋色のひとを。それを知り、姫君が狩りのついでにそうしてくれているのだろう。ありがたいことだった。

 そうしてぼくらはさまざまな場所へ行った。新たな場所へ行くこともあった。南の山のむこう。これまでだったら山頂から見下ろすだけだった場所。そこにも行った。狩りも、続けていた。だがなにも獲らず、ただそこらを駆けまわるだけ、という日も多くなった。緋色のあのひとの捜索。姫君が、力を貸してくれているのだ。獲物が減ったなあ。そんなことを口にしながら。あえてそのことは口には出さず。ただただ手を貸してくれている。そういった日々が続いていた。南の山のむこうは、地形が複雑だった。滝。崖。深い谷。岩がゴロゴロしていてとても歩きにくい場所。そういう難所が何ヶ所もあった。

 だがそこに姫君は踏みこんでいった。そういった難所の攻略を、楽しんでいるふうでもあった。険しい場所の突破。山歩き。そんな感じの趣味を見つけたようだった。はじめはあのひとの捜索が目的だったのだろう。だがいまはそれよりも、そういった難所の踏破を目的としているようだった。だがそうしながらも、あのひとの捜索も忘れていないようだ。常に辺りを見渡して、なにかを捜している様子だったからだ。

「山に住んでるなら、水のそばだよなあ」

「そうかもしれませんね。それは、思い至らなかったな」

「ではでは水辺を捜そうか」

「助かります。ありがとうございます」

「なに、日ごろの礼だよ。恩返しさ。私の狩りに、つきあってくれてるんだからな」

 そう言って川沿いを歩いていく姫君。小川を、上流からたどっていった。水源の洞窟。池になっている場所。小さな滝。細い谷川。さまざまな地形を歩き、踏み入っていった。

 そうして行き当たった。大きな滝だ。崖が高すぎ、取っかかりもないので降りられない。すこし滑っただけで、命にかかわるからだ。そこからぼくらは引き返し、水源の洞窟へと入っていった。地下水が小川になっているのだと思ったが、洞窟を抜け、泉になっている場所へ到達した。きれいな泉だった。そこが水源だったのだ。とても美しい場所だった。

 そして――いた。

 緋色の髪。頭の後ろの高い位置でくくっている。それがぼんやりと光っているかのよう。女性にしては背が高く、すこし低めのぼくよりもわずかに高い。そんな彼女が具足を身に着け、棒を右脇に手挟んでいる。そうしてぼくらに背をむけて、泉のほうをむいている。

 ようやく会えた。夢のあのひと。緋色のあのひと。ずっとずっと捜し求めた、長いこと焦がれつづけていた。そのひとに、やっと会えたのだ。

 ぼくは思わず駆けだしていた。あのひとのもとへ。すぐ近くへ。

 歌。それが耳に入ってきた。その歌もぼくは、聞いたことがある。どこで彼女と会ったのか。どこでその歌を聴いたのか。それも思い出せないが、その記憶は、確かにあった。思いこみではない。その先も知っている。その先をぼくは、思い浮かべることもできる。

 やがてその歌が終わる。するとそのひとが振りむいた。彼女の顔。美しい顔。それと、髪と同じ緋色の瞳。先ほどの歌と同じように、どこか物悲しさや寂しさをたたえた瞳。

 ――はじめてではない。はじめて見た。そのひとのさまざまな表情も思い出せる。だがはじめて目にした、という思いが、感触が胸を離れない。いったいどちらなのか。それがわからない。わからなくなった。

「どうした? 道にでも迷ったのか?」

 思いがけない、やさしい声。その言葉で察した。この場所は、彼女の秘密の場所なのだ。とても深い谷川に沿って歩き、洞窟を抜けなければたどり着けないこの場所。彼女は人に会いたくないのかもしれない。会いたくなかったのかもしれない。

「すいません、無断で踏みこんで。でもぼくは、ぼくらはあなたを捜していたんです」

「私を?」

「ええ――ずっとずっと、ぼくはあなたを捜していました」

「そんな馬鹿な……憶えているはずがない。忘れているはず。思い出せないはず……」

「ぼくも、詳しい記憶があるわけじゃありません。緋色のなにか。熱い感じ。そういったあいまいな印象しか憶えてなくて」

「そうか――でもわずかでも憶えていて、しかも捜してくれていたのか」

「こっちの一方的な想いというか、都合ですが」

「いや、うれしいよ。まるで奇跡だ。私のことを、わずかでも憶えててくれたんだからな」

 そう言って、にっこりと笑む彼女。だがその笑顔は、なんだか泣きそうにも見えた。


 姫君は、ひとりで帰っていった。

 用事を思い出した、などと言って。ぼくを気遣ってくれた。きっとそうなのだろう。

 緋色の彼女と、そんな姫君を見送った。姫君の背中が見えなくなるまで、ずっと黙って見送りをしていた。

 そのあと緋色のそのひとは、横たわった丸太の上の雪を払い、ぼくにそこに座るように促した。ぼくはそこに腰を下ろしたが、彼女は座らない。ずっと立ったままでいる。

「あの、名前を聞いてもいいですか」

「それは憶えてなかったか。シスタークだ。シスタークだよ、ケン」

「シスタークさんですか」

「変わった名だろう? ここらでは聞かない名だ」

「でもいい名前だと思いますよ。それよりぼくの名前は知ってて憶えててくれたんですね」

「まあな。記憶力には、自信があってな」

 そう言い、小さな横笛を取り出すシスターク。そのままそれを演奏する。さっきの歌と同じ曲だ。その美しい旋律が、ぼくの中に染み入っていく。

「吹いてみろ」

 やがてその曲が終わると、彼女は笛を差し出してきた。

「ぼくは、楽器はまったくできなくて」

「〝なおせば〟いいだろう。壊しちまっていいよ。なおしたら、扱えるだろう?」

「知ってましたか。じゃあやってみます」

 壊す。なおす。それでぼくは、その笛を扱えるようになった。さっそく演奏してみる。さっきの曲を、ぼくも奏でてみる。それにしても。彼女はどこでぼくのこの能力のことを知ったのだろう。いつぼくは、彼女に能力を見せたのだろう。教えたのだろう。

 この能力に気づいたのは、そう昔のことではない。記憶がおぼろげだったのだ、彼女と知り合ったのはかなり昔で、ぼくが幼いころのことだと思っていたが、実はそうではないのかもしれない。だがそれなら、顔すらも忘れていたのが引っかかる。

「あの、ぼくとあなたはいつ、どこで、どうやって出会ったんでしょう」

「……さあな。いったいどこだったか……」

 これは姫君でなくとも、どちらかといえば鈍いぼくにもわかった。――彼女はなにかを隠している。ぼくに、嘘をついている。だからといって、追求しようとは思わないけど。隠したいなら隠したままでいい。そう思うのだ。いつどこで、どうやって出会ったのか。それは知りたいことだけど、彼女を困らせてまでそうしたいとは思わない。

 彼女に促され、ぼくはまた笛を吹いた。ぼくは歌を歌えないので、この笛の演奏が唯一、ぼくにもできる音楽活動だった。そしてそれに合わせ、シスタークが歌う。重なる旋律。ともに奏でる音と歌。まるで夢のような時間だった。それほど幸せなときを過ごした。

 やがて曲が終わる。辺りがしんと静まり返る。だがぼくは、さっきの曲の余韻に浸っていた。浸かった湯のあったかさがいつまでも残るように、その幸福感も残っていた。

「また、やろうな」

 そう言って笑みを浮かべる彼女。彼女もうれしかったのだと知って、ぼくはまた喜びに浸った。浸かっていた。


 帰り道。

 ぼくは彼女に送ってもらった。

 近道を教える。そういった口実だった。その近道にわかりにくいところはなく、口頭で説明するだけでじゅうぶんだったはず。でも彼女は、ぼくを途中まで送り歩いてくれた。

 その途中で、彼女の腹が鳴った。彼女はすこし赤くなっている。そのあたりは、姫君とすこし違うようだ。

 ぼくよりずっと年上かのようにふるまうシスタークの、年相応の少女らしい反応。

 それを目にして、ぼくはなんだかうれしくなった。

「めし食べます?」

「なにか持ってるのか?」

「手づくりの餅です。狩りで獲物を獲れなかったときのため、持ち歩いているのですよ」

「――鶏肉の入ったヤツか」

「そうですが……」

「じゃあくれ」

「どうぞ」

 鶏肉入りの餅。それを造るようになったのは最近だ。最近になって、唐突に思いついたものだ。それをなぜ彼女が知っているのか。ぼくと彼女はいつどこで、どうやって互いに知り合ったのか。それが、ますますわからなくなった。

「やはり、うまいな。米に鶏肉のうまみが染みている」

「そう思って、造ってみたのですよ」

「これはいいよ。鶏肉が好きなんでなおさらだ」

「また造りましょうか?」

「いいのか?」

「しょっちゅう造ってるんで、ちょっと余分に造るだけですよ。余ったら食べりゃいいし」

「そうか。じゃあ頼むよ。楽しみにしてる」

「じゃあまた来てもいいですか?」

「ここに来るのはいいよ。お気に入りの場所ではあるが、私の土地でもないしな。ただ、うまい具合に私がここにいるかはわからん。私の住んでいるところを教える気はないし、私がここを訪れたときにしか会えないと思う」

「ではまあ、たまに立ち寄るんで、もし会えたら」

「そうだな。たまに立ち寄って、それで会えたら。そのときでいいだろう」

 それ以降もぼくたちは、ぽつぽつと話をしながら歩いていった。近道を教える、という口実だったはずなのに、南の山を登り、頂上に達して、下り坂になってもともに歩いた。

「じゃあおまえのところは、父親とおまえだけなのか」

「ええ。ですから畑仕事は任せきりです。まあ頑健な父なので、心配はしてませんが」

「いまはそうだろうな。だがどんな者も年老いるぞ?」

「それは」

「そうなってから、若いころの無理が祟ったりするんだ」

「そういうことがあるのですか」

「ああ。だから、気にかけておけ。大事な家族なのだからな」

「わかりました。だけどぼくには仕事がありまして。姫君の護衛は地頭さまに命じられたことなのですよ。ぼくから言い出したことではあるのですが」

「そうか。じゃあなにか、土産でも持ち帰ってやれ」

「そうします。小動物でも獲りますよ」

 それ以降、シスタークは話さなくなった。ぼくのほうを、見てもくれない。彼女は空を、遠くはるかむこうを見つめている。

 彼女はいったいいまはなにを思い、なにを見つめているのだろう。すこし涙ぐんだ目で、ずっと遠くを見つめている。やはりその瞳は寂しそうで、ぼくはどうにかならないのか、どうにかできないのかと思っていた。


   4.


 強くなりたい。

 漠然とした思いだった。願いだった。

 だがそれが強くなった。あの日――シスタークと再会した日からだ。彼女を守る。そのつもりなのだろうか。よくわからない。強くなりたいと思っていたが、それがあの日から、強くならなければならないという焦燥に変わった。より強く、より切迫した思いだった。だからぼくは、狩りに加わったのかもしれない。最も手近な闘争だからだ。

 狩りが終わった後。そのときぼくは毎日、重たい木刀を素振りしている。弓矢、太刀、薙刀などを、ぼくはなおしたことがある。それで達人のように扱うことができる。だが、それだけで最強、ということにはならない。筋力が足らないからだ。ぼくは体格も小さく、細身でそれほど腕力もない。つばぜり合いなどで力比べになれば、ぼくは敗けてしまう。弓も命中精度は高いものの、やはり腕力が足らず、強い弓は引けないし連射もできない。だからその筋力をつけるために、ぼくは重たい木刀を素振りし、岩を引きずってひた駆け、大人の体重ほどもある砂袋を頭上に差し上げたりしていた。

 ずっと前から、訓練はしていた。だが最近になって、ますます打ちこむようになった。すべては、あの日からだ。あのぼくにとっては特別な日――シスタークとまた出会えた日。あの日からぼくは、強くなりたい、強くならなければという焦燥に駆られるようになった。おそらくは、シスタークを守るために。そのためにぼくは、武器を手に取った。

 シスターク。彼女とぼくはいつどこで、どうやって彼女と出会ったのだろう。それが、わからない。だがほとんど憶えてはいなかったのに、最近出会ったばかりだという証拠はいくつも出てきた。なにかをなおす能力は、もっと幼いころにも使っていたのか。鶏肉を入れた餅も、ぼくが思っているのよりも昔から造っていて、最近になって思い出しただけなのか。そういった記憶の齟齬があり、ぼくが記憶違いをしているだけなのか。

 そうではない、と思う。そんな気がする。だがそれも、根拠がない。感覚的なものだ。なにか根本的なところから思い違いをしている気がする。ほんとうに彼女と会ったことはあるのか。そんな疑問さえ思い浮かんだ。会ったといっても、一方的に見ていて懸想しただけで、彼女はぼくのことなど知らないのではないか。そう考えてしまった。そう考え、もしそうならどうしよう、と不安に苛まれたりもした。しかし思い返してみれば、彼女はぼくの名前を知っていた。どこかで聞き、それを憶えていてくれた。それならば、いつかどこかで会ったのに間違いはないのだ。彼女が前からぼくを知っていたのは、また聞きや伝聞などでもない。人に聞いても、顔と名前は一致しないからだ。彼女はぼくの名前を、確信をもって口にしたのだと思う。

 どこかですれ違っただけ、大勢のなかのひとりだっただけ、ということもないだろう。しっかり話などもしたはずだ。自己紹介などもしたはずだ。シスタークは、鶏肉の入った餅のことまで知っていた。いっしょにめしぐらいは食べているはずなのだ。

 また会いたい。そう思っている。また会える。その約束もした。あの洞窟を抜けた先の泉の広場に立ち寄り、たまにでも会えることがあったら。その程度ではあるが、それでも、約束は約束だ。あのひととの約束がある。ぼくがまた会いに行くことを、あのひとも了承してくれた。ぼくのことを、嫌ってはいないはずだ。そのはずだ。きっとそうだ。

「精が出るな」

 訓練中、そう言ってぼくに水をくれたのは姫君だった。ぼくは彼女が差し出した竹筒に飛びつく。すこし塩味のきいた竹筒の水を、一気に飲み干した。

「父上が、おまえのことを褒めていたぞ。仕事の後にも訓練をする。熱心でよいとな」

「そんな……ぼくはぼくの都合で、父さんの手伝いもせずに勝手なことを」

「いまは冬で、日の堕ちるのも早い。暗くなったら農民は出歩いてはいかんと定められているし、真っ暗では畑仕事もできまい」

「まあそうなんですが」

 治安の維持のため、暗くなってからの畑仕事は、固く禁じられている。しかしぼくは、昼間は狩りをしていて訓練ができない。だから狩りから戻ってきたのちに訓練することを、特別に許可してもらった。地頭さまはぼくに対し、娘が世話になっているからと言って、暗くなってからの訓練を、認めてくれたのだ。ぼくがやっているのは、力をつけるための訓練ばかりなので、暗くても行える。そのほかに訓練をするにあたっての障害はなかった。

「ケン、訓練が終わったらうちに来い。また鍋をするぞ」

「助かります。うちの食費も浮くし、いいものを食べられれば力もつく」

「その通りだ。おまえは私の護衛なのだ、頑健でなければいかん」

 強くなりたい。そういった渇きにも似た思いがあった。だがそれにあたっては、いまの状況はうってつけだった。姫君の護衛という名目で、山を駆け、弓を使い、いまのように訓練をすることもできるからだ。何の理由もなく、山に入ることはできない。こうやって訓練などしたら、不穏分子として処罰されるかもしれない。農民は非常時には農兵になるとはいえ、普段は武器の携行もあまり推奨されていない。

 なおす能力で、ぼくは武器の扱いにも長ける。狩りで体力もつけられる。訓練で、力もつけられる。強くなるのにあたって、ほんとうにうってつけの環境なのだ。

「じゃあ行きましょうか、姫君」

「もういいのか?」

「訓練はちょうど終わりだったので……後片づけは、めしの後でいいですし」

 それもそうか、と両腕を組んで納得する姫君。ぼくは彼女に手を引かれて、地頭さまと姫君が住まう屋敷へとむかった。


 姫君が出かけられない日。

 体調が悪かったり、屋敷でなにかを習っていたり。

 そういう日は、ぼくはひとりで山に入った。けものの調査。それを口実にして。

 だがほんとうの目的は、シスタークに会うためだった。いつもいつもぼくは、あの泉のある広場へむかっていた。

 そして、十度目でやっと会えた。緋色の彼女――シスタークにようやく会えた。彼女は素振りをしていた。重い鉄の棒だ。彼女は棒術使いのようだ。でもそれを、ぼくはいつかどこかで見ていた気がする。相変わらず、それがいつどこでというのは思い出せないけど。

「よう」

 素振りをしながら、彼女が言った。ぼくはどうも、と挨拶を返す。

「ちょっと待ってろ。すぐ終わる……」

「わかりました」

 待っている間に、ぼくも素振りをした。腰に佩いていた太刀。それを、鞘をつけたまま振り上げて振り下ろす。いまは息が白く煙るほど寒いが、すぐに汗が噴き出してきた。

 やがて彼女が素振りを終えると、ぼくも訓練を終えた。彼女もぼくも、竹筒に口をつけ、ごくごくと水を飲んだ。汗をかいて水を飲むと、生き返ったような気分になる。

「待たせたな。鍛錬を怠ると、すぐになまるのだ」

「いえ、ぼくも日が暮れてから、いつも訓練していますので」

「そうか。殊勝なことだ」

 ――あなたのためだ。あなたを守るためだ。それは、言えなかった。

 誰が敵なのか。いったいぼくは、なにと戦えばいいのか。ぼくはここに至ってようやく、そのことに気づいた。賊かなにかに、彼女が襲われたことでもあったのだろうか。

 彼女には、また餅を手渡した。鶏肉のものと、魚肉のもの。彼女は雑炊をごちそうしてくれた。指さきに緋色の炎をともし、枯れ枝に燃え移らせて焚き火を起こす。それから、

その火に鍋をかけて雑炊をあっためる。雑炊には米とウサギの肉、野草などが入れられていて、それが味噌と卵で味つけされている。食べてみたが、眼をみはるほどうまいというものではない。だが体にじんと染み入るような、そんなやさしい味だった。

「さて……食い終わったし、後片づけをしようかね」

「ぼくも手伝いますよ」

「いや、いいよ。もう用事は終わったんだし、村に帰ればいい」

「あなたと居たい――そう言ったら、迷惑ですか?」

「迷惑ではないよ。物好きなこったな」

 振り向いてそう言いながら、かすかに笑みを浮かべる彼女。ぼくはその笑顔を目にしてホッとする。彼女の機嫌を損ねてはいないか。ここに来てから、そればかりを気にかけていたからだ。そんなことばかりが気になり、ずっと頭を離れないのだ。

「あの、シスタークさん」

 ぼくは意を決して彼女に呼びかけた。彼女はなんだ? とやさしい声で答えてくれる。そんな彼女に、ぼくは村に来てほしかった。家に来てほしかった。ぼくの生きてく場所に、彼女に居てほしかった。彼女の居場所も、造ってあげたかったのだ。

「ぼくの家に来ませんか。めしをごちそうしたいです。鶏肉入りの餅だって、出来立てのほうがずっとうまい」

「いや、いいよ」

「では、鍋ならどうですか? 大物を獲ったときなど、村じゅうに鍋が振るまわれます。ぼくらで獲ればいいんですよ。大勢で食べるとうまいし、祭りのようで楽しいですよ」

「やめとくよ。私は怪しまれる。こんな目立つ容姿じゃなくてもね。だから平穏な村に、わざわざ混ざりにいくつもりはない」

「それは」

「おまえにも、思い当たることはあるだろう?」

 旅人や旅芸人、近隣の村の狩人など。そういったよそ者を忌避する人はたくさんいる。露骨に拒絶しなくても、遠巻きに見ていて近づかない、といった人も多い。誰もが異物を受け入れるわけではないからだ。それが村社会というものなのだと思う。

「じゃあ……」

 じゃあ、とそう口に出しながらも、ぼくはその先を考えつかなかった。そんな情けないありさまをさらしているぼくに、彼女はやさしく笑いかけてくる。

「ケン、またここに来い。すれ違いも多いだろうが、私もここに来る頻度を上げるよ」

「では、また会えますよね」

「ああ。また会おう。私も知り合いができてうれしいんだよ。また会えるのを、楽しみにしてる。――じゃあな」

 そう言って彼女は火の始末をし、まだ熱そうな空の鍋を抱えて歩き去っていった。

 ぼくはその背中が見えなくなるまで、彼女をじっと見つめていた。


   5.


 その後。ぼくは山の調査をして戻った。

 けものの動向。冬眠していないツキノワグマがいないか。そういったものを調べ上げ、それから小動物などを獲って帰った。獲物はすべて、地頭さまに差し出した。地頭さまの管理する森で獲ったものだからだ。後になってから、ぼくの取り分をもらえばいいのだ。

 訓練もする。重たい木刀を振り、岩を引きずって走り、大きな砂袋を頭上に差し上げた。それをひたすらくり返す。その直後に肉を口にすれば、かなり筋力が向上するのだ。肉を食えば、それが肉になる、ということなのだろう。そうしてぼくは、筋力を鍛えた。

 それから姫君に呼ばれ、地頭さまの屋敷にむかった。そこで、鍋料理が振るまわれる。庭で大きな火が焚かれ、そこに大きな鍋が置かれる。狩りで獲った肉が入れられた鍋だ。狩りに参加したぼくも、それを食べる権利がある。それがぼくの取り分、ということだ。具体的にどの程度の量というのはいつも定められてはいない。食べられるだけ食べさせてもらえるのだ。庭には地頭さまを護衛する郎党の方々もいて、それぞれ思い思いに食事をしている。

「ちゃんと食っておるか」

 地頭さまがそう言い、肩に手を置いてきた。わしには息子がおらぬからな。地頭さまは前にそう仰っていた。なぜぼくを大事にしてくださるのか。それを聞いたときだった。

「これは地頭さま。ありがたーく、いただいております」

「うむ。子どもは大きくならねばならぬからな。大人より食わねばならぬのだ」

「でもぼくはもうそろそろ、背が伸びなくなったようです」

「そうか。食わねば大きくなれぬが、食えば大きくなれるというものでもないしな」

「仕方ないです」

「ままならぬのう。まあそれなら、今度は骨太になるがよいわ。しっかりと食え」

 そう言って、ぼくの背中をバシバシ叩いて去っていく地頭さま。姫君より数倍痛い。

 しかし大事にされている証でもあり、ぼくはなんだかうれしくもあった。


 家の庭。

 いつも訓練を行っている場所と時間で。

 心気を澄ませる。精神を統一する。そうしてぼくは、太刀を扱った。太ももほどもある生木を一撃で断ち斬る。それは成功した。これは、一種の技のようなものだ。力より技で斬るのである。なおす能力でぼくは、その技に長け、その技を極めている。

 地頭さまを護衛する郎党の方。村人の中でも屈強な人。どんなに大きく重い獲物でも、ツキノワグマでさえも担いでくる狩人。そんな人たちでも、これほど太い木は斬れない。

 だが地頭さまは、ひと抱えもある丸太でさえ断ち斬ってしまう。ぼくもやってみたが、半ばまで刃を食いこませたところで止まってしまい、丸太を断ち斬ることはできなかった。地頭さま相手でも、技で劣っているとは思わない。ぼくと地頭さまの間には、力においてそれだけの差があるのだ。力を何倍にもするのが技だからだ。

 それからぼくは、薙刀も扱った。太刀より破壊力のある武器で、同じ生木を断ち割る。真上から、さっきの斬り口に斬り下ろし、生木を根っこまで真っ二つにした。

 技の衰え。なにかを忘れ去ってしまう。ぼくはそれを危惧していて、たまに武器を借り、こうして試し斬りをしている。弓と矢は狩りのときに試せる。姫君は、小鳥や小動物には目もくれない。だがぼくは、そういった標的のほうがよかった。小さくて当てにくいので、技を試すにはうってつけだからだ。

 ――強くなりたい。その気持ちはより差し迫っていた。切迫していた。焦りに近かった。だからぼくは、できることをすべてやっている。狩りで体力をつけ、訓練で筋力を鍛えて、こうして技も衰えないようにしている。あとは実戦経験を積みたいと思ってはいるものの、都合よく敵などいるはずもない。いざ実戦で敵と戦うとなったらぼくは、腰を抜かしでもしないか。それがいまは心配だった。


 それからぼくは、また太刀を扱った。

 さっきの生木を、細かく斬って薪にしたのだ。

 せっかくなので、有効活用させてもらった。あとは乾かして水分を抜けば薪になるし、こうして薪割りをしておけば、父さんの労苦もすこしは減らせる。

 以前は、剣を扱っていた。そんな気がする。両刃の片手剣だ。それに比べれば、太刀のほうがずっと強い。両手で扱うものだし、それを見越した重さと長さで、おまけに反りがあって圧し斬りやすくなっているからだ。斬れ味でも、打撃力でもまったく違う。片手で扱う、刃に反りもない剣では、敵の斬れる場所が限定されてしまうし、そうなれば相手に読まれやすくなってしまう。斬れ味の高さには、相手にこちらの狙いを悟らせないという強みもあるのだ。どこを狙われているのかわからないと、どこを守ればいいかわからない、ということだ。攻撃力が高いと、相手の防御も打ち崩しやすいのだ。

 それにしても。シスタークに出会ったときといい、剣を手にしたときといい、いったいぼくはいつのことを思い出しているのだろう。それがわからない。おそらく剣のことも、シスタークと再会したことで思い出したのだ。シスタークの熱さ。剣の手触り。ぼくは、いまはそんなことまでつぶさに思い出せる。きっと同じ時期のことで、その二つは互いに関係している。シスタークと会ったときに、たぶん剣も扱っていたのだ。

 しかし剣などどこにあるのか。そういったものの存在は知っているが、太刀が接近戦のかなめであるいま、なぜ剣などを扱っていたのか。疑問は尽きない。だが調べようもない。鍛冶職人の人に聞いてはみたが、剣など打ったことはないという。ぼくが生まれる前から鍛冶職人だった人だ、剣を打ったのならその人のはず。だがその人は、違うと言う。

 古い物を拾ったりして扱った。おそらくそんなところだろう。だが丸腰で出かけたのは、ずっと小さいころのことだ。ぼくは、この手に剣を握っただけではない。それを何者かにむかって扱った記憶さえあるのだ。首を刎ね、頭蓋を断ち割った感触でさえも、この手に残っている。ぼくは以前に、剣を扱い、敵と戦ったことがあるのだ。いったいどこの誰が、なにが敵だったのかは、わからないけれど。


「ご苦労。毎日よくやる。感心感心」

 訓練を終えると、そう声をかけられた。

 地頭さまだ。いつの間にか背後に、庭の入り口にいた。ぼくはあわてて頭を下げる。

「ケンよ。そなた、弓は扱えるか?」

「はい。一度〝なおした〟ので。強弓でなければ、ですが」

「そうか。馬術は?」

「鞍をなおし、乗れるようになりました。なおした鞍を試す際に、乗る必要があったので」

「それでよい。そなたはナギサの護衛でもある。技が多いことに越したことはない」

「そう言っていただけると助かります」

「弓は扱える、馬にも乗れるか。ならば、馬上弓は?」

「わかりません。やったことがないです」

「そうか。では試してみよ」

 薄暗くてわからなかったが、地頭さまは騎馬を引いていた。地頭さまに似た屈強な馬だ。鞍と手綱もつけられていて、いますぐ乗れるようになっている。

 地頭さまはその馬を引いて歩き、ぼくを村の外まで連れ出した。ぼくはおずおずと従う。村の外には郎党の方々がいて、数ヶ所でたいまつを持って立っている。

「乗ってみい」

「はっ」

 地頭さまに言われたので、ぼくは鐙に足をかけ、素早く鞍の上にまたがった。

「では扱ってみよ」

 そう言って、地頭さまが、たいまつの灯りを指さした。いや、その隣だ。その隣にある巻き藁の的を、地頭さまは示したのだ。彼に弓と矢も手渡され、ぼくはそれを扱ってみる。巻き藁の的の、十歩ほど横。そこを騎馬で駆け抜けざまに矢を発した。それから腿を締め、騎馬を棹立ちにして止める。矢は、的の中央に刺さったようだった。はじめての馬上弓。だがそれもぼくは扱えるようだ。鞍と弓をなおし、その扱いには長けている。その二つを組み合わせるのははじめてだったが、単体の技でなくても、ぼくの能力は通用するようだ。

「よしよし、見事である」

 腕組みをして、笑顔でうんうんと頷いている地頭さま。ぼくは彼の真意を悟れず、どうしていいのかがわからない。話は通してあったのだろう、郎党の方々が的と騎馬を引いて歩き去っていく。彼らは地頭さまにたいまつの一本を手渡し、立ち去っていった。

「ケンよ、わしはおまえに話があるのだ。二人きりでな。すこしの間だ、つきあえ」

「はっ」

 近くの手頃な岩にドカッと腰を下ろし、その隣をポンポンと叩く地頭さま。せっかくの申し出だが、そこに座るというわけにもいかず、ぼくは彼の真正面に跪いた。

「まあよいわ。そなた、ナギサをどう思う?」

「姫君ですか。活発で明るく、いっしょに居て楽しい相手です」

「そうかそうか。悪く思ってはおらんのだな」

「そのようなことは」

「正直に言ってよいのだぞ。人同士だ、合わぬこともある」

「正直に言っています。姫君とは歳も近く、好きなこともよく合うようで」

「そうだな。あやつは狩りなど、男の仕事を好んでおる」

「そのことを気にかけておいでで?」

「いや。いまさらだわ。それにわしは、あやつに嫁入りは求めておらぬ」

「ということは」

「そう、婿を迎え入れらなければならぬ。でなければ我が家が絶えるでな」

「それもそうですね。ひとり娘ですし」

「で、どうだ?」

「? なにがです?」

「ナギサのことだ。おまえなら、あやつを任せてもよいと思うのだが」

「ぼくが婿入りですか? ぼくは農民ですが……」

「農民と武士。その境はあいまいである。それにそなたほどの腕であれば、成り上がりもできよう。手柄をあげ、武士になるのだ。そうすれば身分の障壁はないのだぞ?」

「……考えたこともありませんでした。ぼくが、武士だなんて」

「まあ、そうであろうな。だからいますぐ決めよとは言わぬ。しかし、そなたもナギサもそろそろ決めねばならぬ年ごろ。努々気にかけておいてくれ」

「わかりました。考えておきます」

「近々、山賊どもの討伐がある。そなたも参加せよ。実戦経験のない者に、わしの愛するナギサを任せられぬでな。そなたが婿に入ればあやつも――」

「ちょっと待ったァ!」

 滔々と、上機嫌で語っていた地頭さま。そこに割りこんできたのは、姫君だった。顔を真っ赤にして、両手を振りまわしてわめき散らしている。

「わ、私が婿取りなど……」

「そなたは跡継ぎ。わしの孫を生まねばならぬ」

「それはそうですが、しかし!」

「こやつでは不満か? それとも思い人でもおるのか? なんでも申せ」

「あう……」

 らしくなく顔を両手で覆い、困り果てている姫君。地頭さまは、ニヤニヤしている。

「せっかくだ、真面目な話をしようか。ナギサよ、おまえも将来のことを考えねばならぬ。わしは後妻をとらなかったし、子はおまえひとりゆえにな。だが、ほかの村から婿をとるより、見知った相手のほうがよかろう? ケンの腕なら、成り上がりも難しくはなかろう。そなたが思うより良縁なのだ。わしも、ケンの人となりであればよく知っておるしな」

「はうう……」

「まあ、急ぐ話ではないわ。いきなり言ったことでもあるしな。ケンにも言うたが、努々忘れるでないぞ。ようく考えておけ。そなたがいったい、どうしたいのかをな」

 そう言ってぼくにたいまつを手渡し、姫君の肩に手を置いて歩き去っていく地頭さま。ぼくは姫君が落ち着くのを待って、それから屋敷へと送っていった。


   6.


 賊の討伐。

 それが決定された。

 いままでは、見送る側だった。父さんが農兵として、軍に加わっていたからだ。しかし今日は、今日からは違う。今日はぼくの初陣だ。ぼくの家からは、ぼくが軍に入るのだ。

「賊は、北の山奥の廃寺に潜んでいる。今日はそこに奇襲を仕掛ける。三方向からだ」

 村の広場にぼくら農兵と、郎党の方々が集められる。そしてその前に立ち、地頭さまが状況を説明してくれた。

 数日前から、賊は潜伏していたようだ。しかし熟練の狩人が、その情報をつかんでいる。賊はかなりの数がいて、だから見つけることもできたようだ。発見することはできたが、戦うにあたっては数が多いのは厄介でもある。だが少数であれば、いかに熟練の狩人でも見つけ出すことはできなかったかもしれない。なんだかままならないなとぼくは思った。

「賊は取り囲んで始末する。皆殺しとはいくまいが、できるだけ漏らさず殺める」

 ぼくは、ふるえてしまわないように必死だった。初の実戦。それも、戦い慣れた山賊が相手だ。山賊の中には、正規の訓練を受けた者、つまり元武士が少なくないのだという。後を継げない次男、三男が出奔したりして食っていけなくなり、山賊に身を落とすのだ。そういった者は個人的にも強いし、集団の動かし方も知っている。生半可な相手ではないのだ。ぼくは技に長けているが、力任せに押されたりしたら劣勢になる。そういった者が、どれだけいるかわからないのだ。数多くいる山賊の、全員が武士、という可能性もある。しかし戦わなければならない。村が、姫君が、父さんや大切な村人たちが襲われてしまうかもしれないからだ。あのひとも危ないかもしれない。シスタークも――。

「部隊は三つに分ける。おまえは西、おまえは東、わしは南から進行する」

 山賊がいるのは北の山だ。地形が険しく急峻なうえ、非常に迷いやすい森があるので、熟練の狩人以外は近寄らない。そういった場所だから、山賊も隠れ潜んでいるのだろう。しかし森が深くて視界が効かないので、居場所さえ知っていれば知られずに近づくことも可能だった。ただし雪の音は消せないので、近づけるといっても、矢の距離までだ。

 そして、ぼくの名も呼ばれた。地頭さまの率いる本隊だった。初陣だから、地頭さまの目の届くところに入れられたのかもしれない。ぼくは彼の跡継ぎになるかもしれないのだ。

「賊は、奇襲によって仕留める。ゆえに、音を立ててはならぬぞ。しゃべるのも禁じる。足音も立てぬよう、狩人の歩き方を真似るのだ。狩人には道案内もしてもらうし、弓矢を扱って戦闘にも参加してもらう。斬りこんだりはさせぬがな」

 狩人はけものの毛皮を着こみ、いかにも狩人といった格好をしている。鎧も持っているはずだが、味方にわかりやすいようにしているのだろう。

「賊は山奥の廃寺に住み着いているようだ。だが相手が寺に立てこもったりしていても、火をつけることはまかりならぬ。廃寺は深い森の中なので、山火事を引き起こす可能性があるからだ。明るい昼間に行くので、灯りも必要はない。ないとは思うが、賊が火を使うことがあれば、燃え広がる前に速やかに消火せよ。飲む水を使ってもだ」

 今日は長距離行軍になるので、携行食や竹筒の水を持っていくことが許可されている。

「今回は賊を三方向から包囲し、矢と礫を雨のように浴びせかけて仕留めていく。ゆえに、包囲が完成するまで絶対に攻撃してはならぬ。包囲が完成すれば鏑矢にて合図するので、それを待つように。鏑矢が鳴った後は、賊にたんまり浴びせてやれ」

 それでは出発、と地頭さまが号令を出す。すると狩人たちが歩き出した。それに続いて、郎党の方々が続く。地頭さまは、その後だ。彼のみが騎馬に乗っている。その後に、我々農兵がついていった。ぼくは地頭さまと同じ部隊だ。彼の後を追いかけていった。

 山中の行軍。それは、山歩きに慣れたぼくでもきついものだった。そもそも普段と違い、全身に鎧を着こんでいる。農兵は、それぞれ重い盾も持たされている。盾の陰から、矢を射るためだ。それはぼくも例外ではなく、あえぎながら盾を担いで歩いていた。

 夜明けとともに出発した。途中、何度も休息を取った。道案内は狩人の人たちだけど、ぼくらに行軍の速度を合わせてくれているのだろう。でなければ置いていかれている。

 そうして昼すぎに廃寺の近くについた。北の山の手前だ。森の中に拓かれた場所があり、そこだけ木がなく、空が見えている。その広場の中央に寺はあった。とても大きな寺だが、人はその中に入りきれていない。寺の外には、半端な武装をした賊どもがたくさんいた。やる気のない見張り以外は、火を囲んで輪になったりしている。あれなら寺に立てこもる、ということはできないだろう。賊の全員が入ることはできないからだ。

 そうしてどうやって歩調を合わせたのか、味方のほかの部隊もここにたどり着いていた。事前に説明されていた通り、三方から取り囲んでいる。彼らは賊どもに気づかれないよう盾を置いていき、戦闘態勢を敷いて合図を待っている。ぼくも担いでいた盾を設置した。その陰から、様子をうかがう。賊どもがこちらに気づいた様子はない。見張りもたるんでいて、周囲に気を配ってはいないようだ。その間にぼくたちは、戦闘準備を着々と進めていく。やがて、すべての兵が配備し終わったようだ。むこうの人が、親指を立てている。

「よし、放て」

 地頭さまの声。鏑矢が上空に放たれ、笛のようなかん高い音が鳴り響く。それと同時に、ぼくらは一斉に矢を放った。完全に油断しきっていた賊どもに、矢を浴びせかけていく。

「撃て! 撃ち続けろ!」

 一斉射撃の後は、それぞれが撃っていくだけだ。狙いに自信のない人は、とにかく量を撃って弾幕を張る。ぼくは腕に自信があるので、時間をかけてでもじっくりと狙いを定め、ひとり一射で確実に仕留めていった。盾と木に隠れているので、敵の矢は当たらない。

 ――こんなもんか。

 ぼくはそう思っていた。思っていたより怖くない。反動もない。狩りのときと同じだ。淡々と射殺していく。それだけだ。遠いから、手ごたえがないのかもしれない。じかに、この手で太刀などで殺せば違うのかもしれない。とにかくいまは、撃つだけだった。

「矢を止めよ! 突撃する!」

 地頭さまの声。ぼくらは矢を撃つのをやめた。賊の数人が、斬りこみ隊を結成していた。寺の戸板を盾にし、こちらに突っこんでくる算段だったのだ。しかしそこに、地頭さまとその郎党たちが突っこんでいった。地頭さまは大鎧を着こんだ重騎兵だ。その突撃力を、少数の歩兵で止められるはずもない。賊の斬りこみ隊は、土の塊を砕くように粉砕された。

「引き返す! 援護せよ!」

 地頭さまたちが、引き返してくる。ぼくらはまた矢を扱い、それを援護した。賊どもに矢を浴びせかけ、地頭さまたちを追わせないのだ。

「なにしてる! 撃ち返せ!」

 賊のほうから声がした。それで混乱していた賊どもが立ち直り、こちらに矢を射返してくる。ぼくの耳もとを矢がかすめていった。ぼくが隠れている盾にも矢が突き刺さった。死。それを間近に感じられて、ぼくはふるえあがりそうになる。

「上だ! 腕に自信がある者が射よ!」

 地頭さまの声。廃寺の屋根や木の枝の上に、大勢の賊が登っていた。高さを稼ぐことで、撃ちあいを有利にするつもりなのだろう。ぼくはそいつらに狙いを定めた。

 ひとり目。弓を引いているそいつの、のどに矢は吸いこまれていった。そいつがのどを押さえて倒れ伏す。二人目。今度は矢を放った直後を狙った。胸の真ん中に矢が突き立つ。それから三人目、四人目と射貫いていった。ぼくは、強弓を引けない。腕力が足らない。だが狙いの良さなら敗けない。賊が高い屋根の上に居ても、矢の一本たりともはずすことなく射殺することができる。しかし地頭さまは、一射で二人を射殺していた。ひとり目で矢が止まりきらずに貫通していき、その背後の賊までも撃ち抜くのだ。

 肩に衝撃。近くに石が落ちてくる。敵は投石も使って反撃してきた。矢を持っていない者がいたのか、それとも矢が尽きかけているのか。どのみちいい機会だと思って、ぼくはさらに矢を射返していった。やがてそれもしてこなくなる。矢も礫も飛んでこなくなった。賊の矢や石が尽きたのだ。賊は武器を薙刀や太刀に持ち替え、こちらに斬りこんでこようとしている。そこに矢も射こんだが、薙刀や太刀によって払いのけられている。

「突撃!」

 しかし地頭さまがまた突っこんだ。今度は真正面からではなく横からだ。いつの間にか、賊の右側に迂回していたのだ。そのまま左のほうへ、賊の列を横切るようにして駆け抜け、賊を次々と斬り伏せていく。

「放て! 皆殺しにせよ!」

 そして地頭さまが通りすぎてすぐにまた射撃を再開した。賊どもが倒れていく。騎馬のほうに気を取られ、こちらへの注意がおろそかになったのだ。地頭さまの突撃によって、賊の数も減っている。つまりは賊ひとりへ降り注ぐ矢も増え、防御できなくなったのだ。

 やがてほかの方面でも、決着がついてきたようだ。賊どもは陣列を崩し、廃寺の中へと逃げこんでいった。そこに地頭さまが、火を放て、などと大声を発する。嘘、なのだが。すると賊どもがあわてて出てきた。ぼくたちは、そこに矢を射こんでいく。

「呪われろくそったれども! めしをたらふく食ってるヤツらめが!」

 賊どもがなにかわめいている。だが命乞いでも降伏の意思表示でもないとして、射撃を止めることはなかった。賊どもは味方の死体を使い盾にし、どうにか矢を回避している。「降伏するなら、罪を一等減じる! 死は免れるのだぞ!」

 やがて矢の連射をやめさせ、地頭さまが降伏勧告を行った。しかし、賊どもがその声に応じる様子はない。片手で味方から剥いだ鎧を盾にし、片手で太刀や薙刀を持ったまま、隙のない眼でこちらをにらみつけている。

「死に物狂いになられると厄介だな……南の包囲を開けろ!」

 南はこっちだ。ぼくはあわてて盾を担いで、西のほうへ駆けていった。ほかの人たちも盾を持って、西と東に分かれている。すると当然だが、そこから賊が逃げていった。その背中に何発が撃ちこむも、全員を射殺すことはできない。十数名が、逃げ去っていった。

「追え! 追撃するのだ!」

 そう言って、先頭に立って追撃しはじめる地頭さま。ぼくらはその後に続く。賊には、あっという間に追いついた。地頭さまがひとりを轢きつぶし、ひとりを頭蓋から断ち割る。ぼくもひとりに追いつき、その首を刎ね飛ばした。続いてもうひとりの頭を叩き割った。肉と骨を断ち斬る感触。それがずっとずっと手に残っていた。

「縛りあげよ!」

 残った賊どもに戦意はなかった。逃げようという気さえ、もう折れてしまったようだ。両手をあげて、何の抵抗もしない賊どもを、郎党の方々が捕縛していく。

「よくぞやった、新兵よ。このわしが、その活躍を見ておったぞ」

 興奮から、まだ息を荒げているぼく。その胸を、地頭さまが拳で軽く突いてきた。


   7.


 ぞろ、とその気配を感じた。

 とてもおぞましい気配だった。

 ほとんど全員がほぼ同時に、その気配のほうへ目をやった。賊どもがいたほう。廃寺があり、賊の死体が散乱していたあの場所のほう。そちらからそいつらはやってきていた。ぼくらが射殺し、斬り殺したはずの賊ども。――その死体だ。

 死体が動いている。生き残りがいた、ということでもない。胸に大穴が開いていたり、

腸(はらわた)が飛び出ているような者まで蠢いて動いているのだ。ぼくらは後ずさりする。そこに接近してくる賊どもの死体。不気味なうなり声が、静まり返った森に響き渡っていた。

「撃て!」

 地頭さまの声で我に返った。あわてて矢を撃ち放つ。死体が動いている。ヤツらは矢で射殺したはず。それなのに動いている。ありえないことだ。だがそれを、ぼくは以前にも見ていた気がする。こんなことが、前にもあった気がするのだ。相変わらず、いつどこでというのは思い出せない。シスタークと会い、剣を扱ったのも、もしかしたらそのときのことなのかもしれない。剣を扱い、人を斬ったのは、この死体の群れが相手だったのかもしれないのだ。

「撃て! 撃ち続けろ!」

 地頭さまの声。死体には、矢を大量に浴びせかけている。しかし、死体は止まらない。まったく止まる様子はない。死体は逆立てた毛のように、大量に矢を受けているが、それでも死体は突き進んでくる。痛みもないのか、ひるむ様子さえ見せない。やがて近づいてくる死体。ぼくはそいつの薙刀による斬撃をかわし、弓と矢を棄てて、薙刀でその肩口を斬りつけた。だが死なない。胸部。刺し貫いても平然としている。そして薙刀が抜けなくなった。死体が片腕で、ぼくの薙刀を押さえているからだ。そいつはそのまま持っている薙刀を棄て、腰に佩いた太刀に手をかけた。近すぎるので、太刀で攻撃しようとしているのだろう。しかしぼくも太刀を佩いている。それで斬りつけ、薙刀を手放して離れた。

「それっ!」

 地頭さまが叫び、突っこんでいく。騎馬で死体の群れを蹴散らしていった。だが死体はすぐに起き上がる。重装備の騎兵が突進していったのに、逃げるそぶりさえ見せなかった。地頭さまも突撃の際に反撃をされ、自身にも馬にも、無数の傷を負わされたようだった。

「地頭さま! 村まで退くべきではありませんか?」

「逆だ! こやつらの正体がわからぬ以上、村に近づかせるべきではない!」

 地頭さまが叫び、戻ってきた。死体に囲まれる前にどうにか脱したようだ。

「ここに防衛線を造れ! 決して通すでない!」

 地頭さまに命じられ、ぼくらはあわてて線を造る。さっきも盾を置いて、ひとつの線を造ってそこから矢を発した。側面や背後に回られないようにするためだ。どんなに優秀な兵士でも、側面や背後の敵とは戦えない。だからそうやってひとつの線を造り、その線を守って戦うのだ。そうすれば真正面の敵とだけ戦えるし、自分の真正面の敵と戦うことが、ほかの人の側面や背後を守ることにもつながる。単純な戦術だが、非常に効果的なのだ。しかしいまは、盾がない。追撃のために置いてきてしまった。矢もほとんど残っていない。ゆえに肉弾戦で、自分の体と武器で防衛線を造る必要に迫られている。だが死体の群れは、斬っても突いても死ぬ様子がない。――勝てない。殺される。ぼくは、そう思った。

 頭の中で、記憶が蘇る。

 剣を扱い、剣で戦ったときの記憶だ。

 あの手触り。首を刎ね、頭蓋を断ち割ったときの手ごたえ。意識したわけではなかった。その記憶をなぞるようにして、ぼくは太刀を振っていた。死体の首が、刎ね飛ばされる。ぼくが刎ねたのだ。そのことにぼくは、自分がやったことだと遅れて気がついた。死体の首と胴体。どちらも動かない。首を刎ねれば死ぬ。ぼくはどこかで知っていた。どこかで戦ったことがあるのだろう。ほかには頭蓋を断ち割るのだったか。さっそくやってみる。通常は、狙わない場所。人の頭蓋骨は固いし、敵が兜をかぶっていることも多く、ましてそのどちらもが丸みで滑りやすいからだ。だから斬り下ろしは肩口を狙うのが定石なのだ。そこをあえて、頭蓋を狙った。死体の頭部を叩き割る。すると死体はゆっくりと倒れて、動かなくなった。首を刎ねても、頭を割っても死体は死ぬ。死体が動かなくなるのだ。

「首を刎ねるか頭を割れ! そうすれば死体は動かなくなる!」

 地頭さまの声。ぼくがやったのを見ていたようだ。だがそれをなせる人たちばかりではない。同じところ――頭頂部に何度も何度も薙刀を叩きつけたり、太刀をノコギリのようにギコギコ引いてそれで斬ろうとしている人たちもいる。太い首を刎ねるのも、硬い頭蓋を断ち割るのも、並大抵の技量でできることではないのだ。ぼくだって難しい。

「集まれ、集まれェ!」

 地頭さまが馬上で旗を振りまわしている。すでに旗手もやられたようだ。ぼくらはその旗のもとに集まった。かなり兵が減っている。防衛線も、それほど機能しなかったのか。敵は不死身と思えるほど死なない死体なのだ、相手が悪かったのかもしれない。

「わしは死体に突撃する! あとに続けェ!」

 そう叫ぶなり、地頭さまは馬を棹立ちにさせて、すぐに死体のほうへ斬りこんでいった。ぼくらも後に続く。いくら死体でも、軽装歩兵が重騎兵の突撃など止められるはずもない。なぎ倒され、押されて後退していく死体の群れ。ぼくらはそこに突っこんでいき、倒れた死体を踏み越え、まだ立っている死体を斬り伏せていった。全力で薙刀や太刀を振るい、首を刎ねるか頭蓋を断ち割るかしていく。そうして周囲に立っている死体がいなくなると、今度は押し倒された死体を標的にした。頭を叩き割り、首を圧し斬って刎ね飛ばしていく。眼を狙うのも有効だった。頭蓋骨の眼の穴から刺し貫き、脳を破壊するのだ。

 そうしてぼくらは、近くにいた死体を殺しつくした。地頭さまという重騎兵を先頭に、死体に突進して押し倒していく。それで立っている死体と倒れた死体に分かれたところに、まばらになった立っている死体を殺していく。それから倒れている死体に止めを刺せば、周囲の死体を殺しつくすことができる。これならいけるか。そう思ったのだけれど。

 しかし――死体が集まりはじめた。ヤツらは一ヶ所に寄り集まり、次々と折り重なってぐちゃぐちゃと混ざりあって溶けあっていく。そうしてその死体の群れは、やがて一体の巨大な死体となった。まるで巨人だ。そういった巨人が、周囲の木々を押しのけて、音を立てて近づいてくる。その巨人が雷鳴のような雄たけびを発する。まるで大気がふるえているかのような、それほどの大音声の咆哮だった。

「うおおおっ!」

 しかし負けじと吠える声。地頭さまの雄たけびだった。彼は叫びながら巨人に近づき、その足を斬りはらう。巨人が振りかえり、拳をかまえる。しかし彼は騎馬で駆け抜けて、すでに走り去っている。巨人は振りかぶっていた拳を下ろした。

「こっちだ、化け物!」

 地頭さまが叫んだ。巨人は吠えながら地頭さまを追っていった。巨人は走れないのか、ずんずんと大股で歩くだけだ。だけどそれでも、ぼくらはついていくのがやっとだった。歩幅が違いすぎる。しかし騎馬ほど速くはないので、地頭さまは度々止まっては、巨人が追いついてくるのを待っていた。地頭さまが巨人を引きつけつつ走る。巨人がそれを追う。その巨人をさらに、あとからぼくらが追っていく。そういった三者三様の状態になった。巨人は追いながらも追われている。挟み撃ちの形だ。地頭さまの狙い通りなのだろう。

 そうしてぼくたちはたどり着いた。さっきの戦場――賊どもと戦った廃寺のところだ。これで地頭さまの狙いもわかった。弓と矢だ。それがここらには散乱している。賊どもははじめの一斉射撃でかなりの数がやられた。だから使っていない弓と矢が、そのあたりに転がっているのだ。一度使った矢も、曲がったり矢じりが取れたりしていなければ再利用できる。それが、地頭さまの目的だったのだ。

「拾いながらでよい、放て!」

 地頭さまの声。ぼくらは素早く弓と矢を拾い、巨人にむかって浴びせかけた。賊どもの死体が残ってなくて、弓矢は拾い集めやすかった。矢もほとんど新品だ。使うにあたって支障はない。眼。ぼくは巨人の眼を狙った。顔も大きく、普通の死体よりも狙いやすい。しかし巨人は、眼を射抜かれてもひるみもしない。そしてこちらに反撃してくる。巨大な手のひらを、ぼくにむかって振り下ろしてくる。ぼくは跳びすさってそれをかわすした。

「撃て撃て! 矢の続く限り撃ち続けろ! 頭部に矢を集中させるのだ!」

 数十人の兵が放つ矢を喰らいつづけ、まるでイガグリのようになっている巨人の頭部。そこにさらに、矢を射かけていく。だがそれでも巨人は死なない。刺さった矢の中には、頭部に深く突き立ったものもあり、脳まで達していそうなのにだ。やはり首を刎ねるが、頭蓋を断ち割るしかないのだろうか。

「ふっ!」

 そして矢が上空に集まっている間に、そのすぐ下を駆け抜ける地頭さま。騎馬を使い、巨人の足もとを走り抜けざま、巨人の足を斬りつける。地頭さまの剛腕。それに、騎馬の突進力も。それらが合わさった斬撃ですらも巨人を倒せない。――どうしてだ。以前は、ぼくひとりでも巨人を斬り倒せたはずだ。なにか違いがあるのか。場所。角度。斬り方。そうして考えて考えて、思い至った。ぼくは巨人の足もとに転がり、低い位置を斬った。地頭さまは騎馬に乗り、天井のような高さを斬りつけている。それが違いなのではないか。巨人の足の低い位置を斬れば、前のように転ばせ、倒すこともできるのではないか――。

「それっ!」

 どのみち矢は撃ちつくした。ぼくは弓を棄て、薙刀を手にして巨人の足もとへ滑りこむ。幸いなことに、巨人は地頭さまを追い、ぼくに背をむけていた。だからぼくは、たやすく巨人の足もとへ到達していた。それからそこを斬る。巨人の、足の腱だ。踵のすこし上。そこを斬りつけた。巨人がゆっくりと倒れてくる。ぼくはその場で地面に薙刀を突き立て、巨人が倒れてくるのを待った。石突を地面に押しつけ、刃を上に、巨人のほうにむけた。やがてその刃が巨人に突き刺さる。巨人は自らの超重量で、その薙刀に刺さりに行った。薙刀はその後頭部を貫通し、ぼくは押しつぶされる前に薙刀を手放し、横に逃れた。

「どうだ……」

 巨人は動かない。ぼくは後頭部の、頭蓋骨のないところに刃を突き立てた。その刃が、巨人の口から飛び出している。これで倒せたはずだ。脳も破壊したはずだ。だが巨人は、薙刀が刺し貫かれたままでゆっくりと起き上がった。しかしふらついている。殺すことはできなかった。しかし負傷させることはできた。何度もやれば、巨人を殺められるだろう。

「うおおおっ!」

 ぼくはありったけの力で雄たけびを発した。巨人も叫び、襲いかかってくる。その手を避けつつ、ぼくは太刀を抜いて巨人の足を斬りつけた。前から一撃。それから、後ろにも。巨人のもう一本の足の腱。それを斬り裂いた。巨人が今度はうつぶせに倒れこむ。そこにぼくは飛びついた。巨人の首。斬る。斬る。斬る。何度も何度も斬りつける。そうやってぼくは、巨人の首の骨を断ち斬った。そうすると巨人は叫び声をあげ、やがてバラバラの、元の死体の群れになった。その死体も反応はない。動いていない。――殺せた。ぼくは、巨人を殺してのけた。体の底から力が湧いてきて、ぼくはまた全力で雄たけびを発した。

「見事だ、ケン。やはりおまえは――」

 地頭さまの声が途切れた。ずん、ずんという音。足音のような音。それが聞こえてくる。次第に近づいてきている。そしてそれが、あっちからもこっちからも響き渡ってきた。

「……は?」

 さっきのヤツとほとんど同じ体躯の巨人。それが、複数いる。そうしてぼくらを囲んでいる。そしてそのうえで、周囲の死体が起き上がった。ぼくらの仲間。郎党や農兵の人。彼らの死体が起きて動いている。死体であれば、どんなものも操れるのか。その支配下に置けるのか。――勝てない。こちらは減る。むこうは増える。これでは戦いようがない。

「くっ!」

 それでも。それでもぼくらは戦わなければならない。大義名分もお題目もない。ただ、生き残るため。そのためには、戦わなければ生き延びられないのだ。

「足だ、足の腱を斬れ!」

 ぼくは腹の底から声を発した。ぼくに命令する権限などないが、そうしなければ、皆が生きて帰れないからだ。やがて地頭さまも同じ命令を発し、ぼくの言葉を肯定してくれた。果たして皆が、巨人の足もとに殺到する。巨人の拳や手のひらに圧し潰された人もいるが、大多数は生き延び、足を斬りつけて巨人を倒している。そして巨人を倒すことができれば、その高い位置にあった首や頭部に攻撃を加えられる。そこを大勢で斬りつけ、断ち斬り、叩き割っていけば、巨人を殺すこともできる。そうしてぼくらは決して少なくない犠牲を出しながらも、確実に巨人を倒していった。そして、すべての巨人を始末した。

「よし、よくやった! 皆、集まれ!」

 地頭さまが旗を振っている。ぼくらはそこに駆け寄った。


『――貴様が指揮官か。死にさらせェ!』


 雷鳴のようなその大音声。キィンというかん高い音。上空から、なにかが迫っている。そして地頭さまが悲鳴をあげた。嘴のような顔。紅い単眼。剣のようになった腕。

 以前戦った敵。死体を操る者の主君。そしてぼくを、殺したもの。

 邪神がそこに居て――地頭さまを刺し殺していた。


   8.


 すべて思い出した。

 すべてを。ぼくが鍛冶職人だったことを。

 死体の群れと戦った。死体術師もそこにいた。そして邪神に殺された。そうしてぼくは息絶えた。シスタークに抱かれて死んだ。彼女の熱い、とても熱い腕の中で――。

 ぼくは一度死んだ。いまなぜ生きているのかはわからない。一度死んで、生き返った。だから忘れていたのだろう。これほど好きなシスタークのことも、ぼんやりとしか憶えてなかったのだろう。しかし邪神の姿を目にして、ようやく思い出すことができたようだ。

「地頭さまを放せェ!」

 その邪神を取り囲んでいる、郎党の方々。あんな化け物を相手にひるむどこか、怒声をぶつけることさえしている。ぼくは、邪神を恐れていた。一度殺されたからだ。あんなに暗くてつめたく、奈落の底に陥ったような感覚。二度と味わいたくはなかった。

 それにしても。邪神は、変わっていた。より大きく。より派手に。そう変化していた。以前は、ぼくが死ぬ前は、大柄な男よりやや大きい程度だったが、いまは、家の屋根より背たけがある。大柄な地頭さまが騎乗したものよりも巨躯だ。以前よりも、ずっと大きくなっている。そして宝石でできた鎧を着こんだような、不思議な体になっている。

 やがて邪神が、地頭さまを放り棄てた。ぼくや郎党の方々があわてて駆け寄る。しかし地頭さまは死んでいた。胸に大穴が開いている。これでは生きているはずがない。怒り。ぼくの胸から底知れない怒りが湧いてきた。地頭さま。彼ほどの人が、男がぼくなんかを認めてくれていた。姫君の婿に、義理の息子にすることも検討してくれていた。それを、あの邪神は殺した。あっけなく。無造作に。それがぼくには、許しがたかったのだ。

「うおおおっ!」

 ぼくは咆哮し、邪神めがけて突っこんでいった。しかしたやすく吹っ飛ばされた。金の色に光る、糸を束ねた触手のようなもの。それで数十歩分はぶっ飛ばされた。やわらかい土の上に落ちてなければ、死んでいたかもしれない。起き上がる。邪神のほうを見やる。郎党の方々や農兵が、次々と斬りかかっては、ぼくと同じ目に遭っていた。その中には、木の幹にしたたかに叩きつけられた人もいる。あれは、助からない。死んでいるだろう。そうして邪神の近くの人が減ると、邪神は腕で攻撃しはじめた。剣のようになった腕だ。それで突き刺し、斬りつけ、叩き払っていく。戦いは一方的だった。虐殺だ。あの巨人と比較し、あまりにも強すぎる。こちらは邪神に、かすり傷ひとつも与えられていないのだ。

「距離を取れ! 矢で射殺すのだ!」

 郎党の誰かが命令を発して、矢での一斉射撃が始まった。ぼくも参加しようとするが、胸が痛くて動けない。肋骨が折れている。動くどころか、息をするだけで激痛が走った。しかし気合で起き上がる。ボロボロになって砕けた鎧も脱ぎ去った。身軽になり、ぼくは駆ける。それから矢を拾い、撃ちながら近づいていった。しかしどの矢も、邪神の触手で打ち払われている。そして邪神の触手が伸び、次々と味方を刺し貫いていった。やがてはぼく以外の皆が死んだ。離れていたぼくだけが生き残ってしまった。邪神が、嗤っている。

 だがそこに、緋色の火の弾が大量に降りそそいだ。邪神に浴びせかけられた火の弾が、大きな音を立てて爆発する。あまりにも大きな爆発で、遠くにいたはずのぼくでさえも、さっきより遠くに吹っ飛ばされる。死ぬ。そう思ったがどうにもならない。森の木々が、はるか下のほうにある。これでは水ややわらかい土の上に落ちても、死んでしまうだろう。

――ダメか。そう思ったときだった。

「おっと。すまんな。私のせいで、死ぬとこだった」

 なにかにぼくはやわらかく受け止められた。そしてふわりと浮いていた。やさしい声。背中に感じるこの熱さ。ぼくは、彼女に救われた。シスタークに助けられたのだ――。

「降ろすぞ」

 シスタークはそう言い、ゆっくりと下に降りていく。やがて地面に降り立って、ぼくも自分の足で立った。ちゃんと立てている。ふらついたりすることもない。

「っと、ありがとうございます。また助けられましたね」

「今回は私のせいさ。自分で自分のケツを拭いただけだ。さて、あいつを片づけないとな」

 シスタークの火の弾。それをあれほど喰らっていても、邪神はすこしも傷ついていない。やがてシスタークが上空に飛びあがり、またしても火の弾の雨を降らせた。緋色に光る、当たると大きく爆ぜる火の弾。それが邪神めがけて浴びせかけられる。

 しかしそれを、邪神はすべて打ち払った。さっきもそうだったのだろう。邪神の体に、火の弾は一発も当たっていない。だが直撃はしていなくても、爆風の圧力や衝撃などは、その身に受けているはずだ。だが邪神は平然としている。その程度では、わずかな傷さえ与えられない、ということか。これでは絶望的だ。ぼくは、思わず腰を落とした。

「その様子じゃ逃げられんか。まあ逃げたところで、あいつは村を襲うだろうが……」

 ぶつぶつとつぶやきながら、またしても飛びあがるシスターク。今度は邪神にむかって高速で距離を詰めていく。そうしてすれ違いざま、巨大な火の弾を叩きつけた。しかし、邪神も無数の触手を伸ばし、それを複雑に動かして、その火の弾を粉砕した。その触手は複数あり、火の弾をあちこちにかき分けるようにして分解してしまった。それで火の弾は邪神に直撃しなかったのだ。いまの邪神は、防御にも長けているということか。

「ちっ!」

 舌打ちをし、再度手のひらに炎を集めるシスターク。だがそこに邪神がむかっていった。気がつくと目の前にいたのだ。あまりの速度に、ぼくも彼女も反応が遅れた。邪神の右の腕による刺突。それをシスタークはかわし、その顔面に炎を叩きつけた。邪神がひるむ。そこにさらに攻撃を仕掛けようとするシスターク。だがその体に、金色の触手が巻きつき、絡みついた。彼女が捕縛される。だが彼女は、触手を焼き払ってそこから脱していった。

 それからシスタークと邪神との空中戦が始まった。屋根のように大きな翼を広げ、その緋色に燃え盛る翼で飛び回るシスターク。金色の糸で三対の翼を形作り、背中から金色の爆炎を発して、その反動で飛行する邪神。その空中戦は、ほとんど互角の様相だった。

 速度で邪神がまさっている。しかし邪神は巨躯で巨重だ、その速度域では細かな動きはできないようだ。その逆にシスタークは、ちょこまかと動き回るのは得意なようだ。その動きで邪神を翻弄している。最高速度で敗けていても、なんとか喰らいついている。

 だが邪神は、六枚の翼を造ってもなお糸は有り余っているようだ。シスタークが邪神に接近すると、無数の触手で刺し貫き、捕縛しようとしている。それを嫌い、シスタークが邪神から離れた。それを追っていく邪神。そこからシスタークが逃げ、邪神が追っていくという状態になった。しかしちょこまかと細かな動きで逃げまわるシスタークを、邪神はとらえきれないでいる。

『ちょこまかと、うっとうしいわ!』

 やがて刺し貫く、捕縛しようとするのではなく、金色の触手を振りまわすようになった邪神。シスタークがそれをかわし、火の弾を叩きつけようとするが、その火の弾は金色の触手によって叩き斬られている。あの触手は刺すだけではなく、斬り裂く用途もあるのか。ますますシスタークが不利になった。接近戦では、到底勝ち目はない。

 しかし離れようとすると邪神は距離を詰めてくる。最高速度で敗けているのだ、距離を取る、振りきるということができないでいる。そうやって接近してくると、邪神は無数の触手を伸ばして攻撃してくる。シスタークはその攻撃を、直撃こそかわしているものの、いくつかの浅い傷を負い、すこしずつ出血しているようだった。

 ぼくはなにもできない。矢をつがえてはいるが、あれほどの高速で飛びまわる相手に、当てることなど不可能だ。何億回試しても当たりはしないだろう。近くをかすめて脅かすようなことさえできはしない。

 やがてシスタークが降りてきた。空中戦は不利と思ったのだろうか。しかし地上戦でも、そう違いがあるとは思えない。あの触手が理由だ。手数も多いし殺傷力も高い。大軍でも相手にしているかのようだ。だがそれは一個の意思によって動かされているので、統率を失ってしまうようなこともない。

 しかし地上にいるなら。それならぼくも、参戦できる。そう思い、ぼくはシスタークが降りたほうへむかった。すぐに邪神も降りていく。邪神が着地したのだろう、しかしその重量ゆえか、立っていられないほどの震動が起こった。ぼくは、よろけて近くの木に手をつき、なんとか倒れないでいられた。そして走る。シスタークのところへ。――今度こそ。今度こそ彼女を守る。邪神を討ち破る。そのためにぼくはひた駆けた。

 廃寺のあった場所。この森の拓けたところ。そこに二人は立っていた。そしてぼくは、その死体を斬った。シスタークの背後から忍び寄っていた死体だ。まだ死体術師がいる。この森のどこかに居て、奇襲の機会を伺っていた。そしてそれは成功しかけ、かろうじてぼくがそれを防いだのだ。

「ケン?」

「ぼくが死体と死体を操る者を」

「そうか。では、私の背中は任せたぞ」

 任せた。彼女からのその言葉に、ぼくは全身が燃え上がるような気持ちになった。心の底から、熱い熱いものがこみあげてくる。集中力が増した。楽しかったり、好きなことをしたりしていると、誰でもそうなるのだ。好きこそものの上手なれ、というヤツである。そうしていると、ぼくは見つけた。鎧を着こみ、陣笠をかぶったその死体。農兵のひとりにしか見えない。死体術師は、前回と違い、死体に擬態して死体の中に紛れていたのだ。しかし体勢が不自然だった。こちらを見ようとして、わずかに顔を起こしていたからだ。ぼくはそこに、矢を射こんだ。死体術師が悲鳴をあげる。さらに射こんだ。今度は悲鳴をあげない。もう死んでいるのだ。ぼくが死体術師を殺した。これで敵は邪神だけになった。後ろを振り返る。シスタークといっしょに、邪神と戦うために。そのためにだ。

 しかしぼくが見たのは、決着がつく瞬間だった。

 シスタークの火の弾の雨。それをものともせずに突進する邪神。シスタークの火の弾。それはさっきよりも弱々しかった。きっと力が尽きかけていて、だから空から降りてきたのだ。もう飛ぶ力が、ほとんど残っていなかったのだろう。そして残ったわずかな力で、邪神と決着をつけようとした。しかし邪神を撃ち滅ぼす力が、もう残ってはいなかった。そうしてシスタークは邪神に刺された。巨大な剣のような手で胸の真ん中を刺し貫かれる。あれでは生きているはずがない。――即死だ。邪神はゴミでも捨てるかのように適当に、シスタークの死体を投げ棄てる。彼女の死体は物のように転がっていって、そのまま糸の切れた人形のように横たわっている。動くことも、声を発することもなかった。

 ぼくは、キレた。怒りでわけがわからなくなった。気がつくと邪神に斬りかかり、その触手で吹っ飛ばされたところだった。しかしまたしても運がいいことに、またやわらかいところに落ちたのだ。今度は倒れた馬の上だった。地頭さまが騎乗していたもの。そこにぼくは、うまいこと着地して生き延びたのだ。かろうじて、いまの間は、なのだけど。

 しかしぼくはそこで見つけた。邪神が刺し殺した地頭さまの死体だ。ぼくはその死体をひっくり返し、その背中から弓を取った。地頭さまが使っていた強弓だ。ぼくにはもう、これしかなかった。思いつく限りの最強の武器。それを手に取るしかなかった。

 その強弓は、壊れていた。だから〝なおす〟ことにした。できた。半ばから折れていたその弓が、元通りになる。すぐに矢をつがえた。そして強弓を引くことができた。なぜか、できていた。そうしてぼくは気づいた。この強弓をなおしたから、この強弓を引くことができるようになったのだと。以前は普通の弓をなおしたから、その弓を引くだけの力しか得られなかったのだと――。

 そしてぼくは、その強弓で矢を放った。人の体を、二人分も刺し貫くほどの威力の矢。それが邪神の宝石のような鎧の上から突き立つ。突き立つ。突き立つ。

 邪神は矢が当たる度にうなり、後退していった。いけるか。ぼくは、邪神も弱っていることに気がついた。シスタークがそれだけ弱らせていたのだ。彼女の攻勢も必死な戦闘も、決して無駄ではなかったのだ。わずかに力及ばず、志半ばで倒れてしまったが、その後はぼくが受け継げばいいのだ。後を継いで、邪神を殺す。そうすれば、それでシスタークの無念は晴らせる。彼女の想いを、遺志を果たすことができるのだ。

 しかし矢を撃ちつくしてしまった。どの急所にも、眼やのどにさえも矢を突き立てたが、それでも邪神は死んでいない。邪神は、背中から伸びる糸を使って矢を引き抜き、それをへし折ってそこらに棄てている。ぼくは地頭さまの薙刀を拾った。これも普通のものより太くて重い。その刃こぼれをなおし、ぼくはそれで斬りかかった。邪神にむかい突進する。

 だが直感で横に飛びのいた。光。紅い光の矢が、ぼくがさっきまでいた場所を射抜いた。地面には、拳大の穴が穿たれている。あの赤い光が当たってそうなったのか。もしあれが当たっていたら、どてっ腹に穴が開いていただろう。そうなったら、即死だった。

 その光が何度も放たれる。その度にぼくは、横にかわすことを迫られる。このままでは攻撃できない。とても近寄れないからだ。矢を撃ちつくしたいま、いまのぼくには薙刀で斬りかかることしかできない。触手があって危険な接近戦しか、打開策がないのだ。

 このままではぼくの体力が尽きる。もともと賊と戦っていて、その後に死体とも戦い、それから巨人とも戦った。体力的には、かなり厳しい状況だ。すぐにでも尽きてしまう。そんな可能性が高い。

 だがそこで、緋色の炎が燃え上がった。シスタークの死体が、緋色の炎に包まれている。そうして彼女は、鳴き声を上げながら復活した。鳥のような、笛を吹き鳴らすような高い声だ。彼女は緋色の巨大な鳥となり――莫大な炎に包まれたまま邪神に突進する。一方で邪神は、極太の紅い光でそれを迎え撃った。彼女はその光で破壊される、刺し貫かれるといったことにはならなかったが、大きく押されて後退させられ、邪神から離れていった。

 しかしぼくは、それにかまわず距離を詰めていった。押し戻されるシスターク。彼女を押し流していく紅い光。それと入れ違いに駆けていく。

 邪神が気づいた。だが手遅れだ。――せめてひと太刀。ぼくはそう思っていた。そしてその本懐を遂げた。邪神に袈裟懸けの斬撃を浴びせて――邪神が悲鳴をあげたのだ。だがそこで、終わりだった。ぼくなどが、これほどの強敵に立ち向かえるはずもなかったのだ。ぼくはいくつもの触手で刺されて貫かれた。体の中に、異物が入ってくる感触。それを、ぼくは前にも味わっていた気がする。もう痛みも感じないが、それだけは感じ取っていた。

 ぼくは、倒れる。倒れていく。しかしその前に、視界が緋色に包まれた。緋色の炎で、邪神が焼き尽くされたのだ。そのためにぼくは斬りかかった。なぜだか生き返って蘇ったシスタークが、邪神の隙を衝けるように、邪神を攻撃できるようにと――。

 邪神は、悲鳴をあげて逃げていった。その様子が、なんだかゆっくりに見える。ぼくが倒れていくのも、なぜかゆっくりになっていた。


   9.


 ――熱い。

 体が熱いものに包まれていた。前も、前に死んだときもそうだった。ぼくは、抱かれている。シスタークの腕の中にいるのだ。熱い熱い、彼女に抱かれて横たわっている――。

「すまない。私がもっと強ければ」

 かすんでいく視界の中。その中で彼女が泣いている。シスタークが涙を流している。

 しかしぼくは、満足だった。また彼女を、そして村を守って逝けるのだから。

「歌って、ください。あの歌を……」

 血を吐きながら、咳きこみながらそう願った。彼女は無理やり笑顔を浮かべて、ぼくが言ったとおりにしてくれる。ぼくのその願いを聞き届けてくれる。

 歌。彼女が歌っている。以前よりすこしかすれた声で。

 ぼくは目を閉じ、その声に聴き入った。

 もう眠る直前のように、眼を開けていられなくなっていた。

 だがその声も遠くなっていく。熱い感触ももう遠くなってきて、体もなんだかつめたくなってきた。


「生まれる前から好きだった――」


 ぼくはそう告白して言い遺し、死の底に落ちていった。


第三章 次こそあなたを泣かせない




 雪の日になると、思い出す。

 まだ会ったことのない、好きなひとを。

 昔から、そのひとが好きだった。いったいいつからかもわからない、それほど昔から、ずっとずっとだ。ぼくはずっと昔から、そのひとを慕い、恋焦がれていた。

 まだ会ったことはない。それでも知っているそのひと。緋色の髪と瞳。燃えるような翼。熱い体温。すこし低めの声。そして、そのひとの熱いほどのやさしさを。

 どこでぼくは知ったのだろう。どこで彼女を知ったのだろう。

 それがわからない。これは、妄想なのだろうか。眼で見たものも、耳で聞いたことも、肌で感じたことでさえも、ぼくの造った記憶なのだろうか。

 でも、それでも気持ちは変わらない。ぼくはそのひとが好きだ。シスタークという名のそのひと。ぼくに名前を教えてくれたそのひと。ぼくを見つめ、ぼくに声をかけ、ぼくを抱きしめてくれたそのひと。

 そのときのことを、ぼくはずっと憶えている。いつになっても記憶に焼きついている。

 いつでも彼女を捜していた。いつも彼女に恋焦がれ、彼女に会いたいと思っていた。

 だからぼくは、雪山に入った。

 彼女の手がかり。小さな痕跡。そんなものでも見つけたいと思い、口実を見つけては、真冬の雪山に入り浸っていた。

 いつかどこかの遠い世界。そこで出会った、見知ったはずの彼女。

 そのひとに会いたい。いますぐ。なにを置いても。どんな障害があったとしても――。

 しかし、不安もある。

 彼女はぼくを憶えているだろうか。ぼくのことなど、忘れてしまっているのではないか。たとえ憶えていてくれたとしても、ぼくのことなど、どうでもいいと思ってはいないか。そればかりかぼくがつきまとったとして、迷惑に感じて、ぼくを拒絶するのではないか。

 彼女がぼくを――突き放すのではないか。

 そんな不安が、胸を離れないのだ。ぼくはそれを考える度に、泣き叫びたくなるような悲しみに包まれ、胸を掻きむしりたくなる。だがそれでも。それでもぼくは、あのひとに会いたいと思い、わずかな手がかりを捜している。彼女の残り香でもいい。彼女の熱さの、その残滓でも。すこしでも彼女を感じたいと思い、ずっとずっと捜し求めている――。


   1.


 ぼくの毎日は忙しい。

 猟のため、毎日山に入っているからだ。

 ぼくの父も含めて、多数の人が戦争に行った。露西亜(ロシア)との戦争だ。特に腕のいい猟師が兵士として連れていかれ、ぼくらの村には猟師が足りなくなった。それで子どものぼくが、冬の雪山に入ってまで猟をしているのだ。

 でもぼくにとっては、それはそれで都合がよかった。あのひとを捜すため。そのために山に入りたかったからだ。真冬の雪山。山の中。それぐらいしか、手がかりはないのだ。薄ぼんやりとした記憶の中から、わずかな取っかかりを見つけ出すしかない。それほどに乏しい情報を頼りに、どうにか捜し出すしかないのだ。

 猟のため、ライフルを持ち出す。父の持っていた、単発で黒色火薬の村田銃ではない。最新式の三十年式歩兵銃だ。これは五発の弾が入るうえに、無煙火薬を使うので、威力も高い。軍から民間に下げられる際は、銃身のライフリングも削り取られる。しかしぼくのなおす能力で、それも復元していた。軍で使う、そのままの威力と精度があるのだ。

 通常なら、銃はメンテナンスをしなければならないし、日ごろの摩耗は避けられない。それに弾代もかさむので、ずっとは使いつづけられないものだ。猟に使うにしても、多少腕のいい猟師程度じゃ扱えない代物だ。メンテナンス代に弾代。それが、高価だからだ。

 しかしぼくはそれをなおせる。完全に元通りにできるのだ。そしてこれは思わぬ副産物だったのだが、銃をなおすと、弾は満タンの状態になる。つまりぼくは、なおす能力さえ使っていれば、弾がなくならないということになる。なおす能力が枯渇しない限り、弾は無限に使えるのだ。弾代がかからないのだ、少々のことでは赤字にはならないし、大物を獲られれば大儲け、ということになる。だから害獣の群れを追い払うなど、弾がたくさん必要で手取りが少ない、といった仕事でも儲けになる。ゆえにぼくは、そういった赤字になりやすい仕事でも引き受けていて、それで村人たちの感触もよかった。若くして猟師になり、はじめは腕を疑問視されていたが、いまでは受け入れられていると思う。いまではシスタークを捜索するほうが本命で猟は口実だが、生活のため、仕事はしていかなければならない。ちょっとままならないな、などと思ってはいたが、猟は猟で悪くはなく、この生活を満喫していた。


「またなのかい」

 猟から帰還し、村に入ったとき。ぼくは、そう声をかけられた。幼なじみのナギサだ。彼女は少年のような容姿で、書生のような話し方をする。それが、彼女の個性だった。

 彼女はぼくを心配してくれている。危険を冒して真冬の雪山にさえも入り、あてどなく会ったこともないひとを捜しているぼくのことを。彼女には、事情をすべて話してある。彼女のほうから、しつこく聞いてきたのだ。ぼくは根負けして、彼女にすべて打ち明けることになった。だが話してよかったと思う。ひとりで背負うのはきつかった。だがすこし愚痴るだけで、ずいぶんと楽になったものだ。それに第三者からの助言を受けられるのも大きい。やみくもに捜していたぼくに、地図を見ろ、下調べをするべきだと言ってくれたのも彼女だ。それで、かなり助かったのだ。

「飽きないねえ」

「あきらめたくは、ないんだよ」

 ぼくはいつも、猟で獲った肉や毛皮などを、村の商店に卸している。ナギサの実家が、その商店なのだ。だから店に行けば会うことはできるのだが、彼女はいつも村の入り口でぼくを待っていてくれる。真冬のいまでもだ。村の中だ、山の中ほどではないにしても、吹きっさらしでとても寒いはずだ。再三やめるように言ってはいるが、やりたくてやっていること、と言って彼女はやめようとしない。

 ――君と同じだよ。そう言われてしまえばぼくは、それ以上はなにも言えない。彼女の気持ちも痛いほどにわかるからだ。ぼくがその気持ちに応えられないのもあって、ずっと続いてしまっている。

 商店に獲物を卸した。肉と毛皮を手渡して料金を受け取る。その料金で買い物をして、ぼくは次の目的地にむかった。村のはずれにある洞窟だ。そこには巫女さんがいて、村の神と交信をしているのだという。その巫女さんはこの地域の伝承などにも詳しい。それを調べろ、参考にしろと言ってくれたのもナギサだった。

「巫女さんのところに行くんだろ? 僕も行くよ」

 自分のことを、いつも僕と言っているナギサ。なんだかぼくとかぶっている。

「ナギサも話を聞きたいのか?」

「君のためにね。難しい話もあるだろう。あいまいな伝承もあるだろう。だから聞き手は多いほうがいいはずさ。難解な話を解読したり、あいまいな情報をつなぎ合わせたりする必要があるかもしれないからね」

「それは助かるけど……」

「その代わり、お礼を期待しているからね。デートでもいい。キスでもね」

「君の気持ちに応えるつもりはない。悪いけど……」

 ナギサには何度も告白されている。それも一度や二度ではない。しかしぼくには好きなひとがいる。想い人がいる。だからぼくは、それを拒絶した。彼女の気持ちには、応えることをしなかった。ならばせめて。せめて君と居たいんだ――彼女はぼくに、そう言った。ポロポロと涙を流しながらの懇願で、ぼくはそれを断れなかった。ほんとうなら、それも拒絶するべきだった。彼女の気持ちには応えられない。そうきっぱりと言って突き放し、彼女が次に進めるようにと突っぱねるべきだった。それをできなかったのは、ぼくの甘さなのだろう。やさしさからではない、ぼくの弱さから来る甘さ。それがあるから、いまもなおナギサを傷つけ、つらい思いをさせている。それがわかっていても、ぼくはナギサをほっとけないでいる。その一途な気持ちには応じられないのに、その気持ちを棄てさせるべきなのに、それができないまま、ズルズルといまの関係を続けてしまっている。

 巫女さんは、洞窟の中の祭壇の前に居た。ぼくらはその真正面で正座する。そうすると巫女さんが、しわがれた声で話しはじめた。彼女も歳だ。伝承を教え聞かせてくれるのも、次の世代に伝承を残す、という意味合いもあるのだろう。ぼくらは居住まいを正し、その話に耳を傾けた。

「この村には、伝承があるんだの。邪神と炎の鳥の伝承だの……」

 炎の鳥。その言葉が、ぼくの胸を強烈に突き刺した。しかしぼくは、顔に出さない。

「――かつて、この村の近くに神さまがおられた。その神さまは人の世の悪を吸い取り、人の世に平穏をもたらしてくださった。その神さまのおかげでいまも、この村は存続することができておるのだの」

「でもその神さまが」

「ああ、分裂した。神さまの中で悪の気が高まりすぎ、意志をもって神さまから離れた。それが〝邪神〟リィスだ。邪神は神さまの力のほとんどを持っていったという。神さまは大幅に弱体化し、力を奪った邪神は強大な力を手に入れた。そうして邪神は死体術師を、死体を操る呪法の使い手を仲間にして、この村を攻め滅ぼそうとしたんだの」

「それで、どうなったんですか?」

「邪神たちの野望が成就することはなかった。炎の鳥と剣(つるぎ)の勇者が連中と戦い、撃破して野望を阻んだのだの。炎の鳥はヒトの姿になり、まれに村を訪れることもあったというの。村で道具の修理や買い物をしていたとか。それでこの村のために戦ってくださったのかもしれぬの。その炎の鳥は、剣の勇者と仲が良かった、という話もある。とにかくそうして邪神たちから、この村を救ってくださったのだ。――ケン。おまえのその名も、その剣の勇者からとられているのだの。おまえも村のために働くのだぞ」

「親からその話は聞かされました。大事に思ってます」

「ならばよい。しかし邪神は、また復活するかもしれぬ。中世の時代――武士の時代にも、邪神は現れたそうだ。だがそのときも、炎の鳥と剣の勇者が戦った。村を治める武士と、召集された農兵のほとんどが殺されたほどの激戦になって、一度は村が滅びかけたという。しかし二人はまた邪神を撃破し、この村には平穏が訪れたのだとか」

「べつの時代にも、炎の鳥と剣の勇者が?」

「うむ……最初の二人の、その子孫なのかもしれぬの。あるいは流派かなにかのように、代々受け継がれてきたものかもしれぬの」

「でも、いまは」

「うむ。この村にいま、剣の勇者の後継者はおらぬの。炎の鳥の子孫か弟子は、どこかにおるのかもしれぬが……」

「じゃあまた邪神が現れたら」

「今度こそ村が危ういかもしれぬの。だがわたしは、こうも思うのだ。たまたまこの村にいた者が、村のために戦った勇敢な戦士が、その時代の勇者と呼ばれたのかもしれぬと」

「つまりは違う時代の二人の勇者に血のつながりや受け継がれてきたものはないと――」

「そう思う。誰かがそのとき勇者になった、というべきかの。だから三たび邪神が現れたときには、また村人の中から勇者が現れるかもしれぬ。ケン、おまえかもしれぬの」

「ぼくなんかじゃないでしょう。そんなに強くない」

 強くなりたい。その気持ちも、シスタークに会いたいという気持ちと同じぐらいに強く思っているのだけれど。

 それにしても。炎の鳥、というのはやはりシスタークを指すのだろうか。緋色の神と瞳。燃えるような、大きな翼。どれも、ヒトらしくない特徴ではある。彼女はヒトではなく、ヒトの姿をとった鳥だったのだろうか。だったら村に住んでいないのもわかる。ヒトではないから。だからヒトの群れには入れない。そう考えているのかもしれない。

 そして、もうひとつ思うのは。それは彼女が、炎の鳥がずっと生きているのか、ということだ。ヒトでないのであれば、その寿命も違うのかもしれない。何百年、いや何千年も生きているということなのかもしれない。だがそれも子孫や流派のように、シスタークという名を代々受け継いでいっているのかもしれないけど。

「しかしケンよ。おまえもこの村の一員。村の一部。この隔絶された村になにかあれば、駐在ひとりだけでは守りきれぬしすぐに援軍も来ぬの。そのときは青年団の一員として」

「戦いますよ。銃の腕なら、ぼくは誰にも敗けないですし」

「うむうむ。頼もしいの」

「ケン、そのときは僕にも声をかけてくれたまえ。僕だって、戦えるから」

 そう言うナギサの腰には、最新式の二丁の銃がホルスターに入って収められている。

「ではこれくらいかの。邪神や炎の鳥については、ほとんどわかっておらぬでの」

「いえ、助かりました。この村は、鳥と勇者の奮闘があって、続いているんですね」

「そうだの。感謝しなければならぬの」

 ぼくらは巫女さんに頭を下げ、その洞窟を去っていった。邪神。勇者。さまざまな話を聞いたが、やはり炎の鳥のことが、一番頭に残っていた。気になっていた。


   2.


「僕もついていくよ」

 ナギサがそう言った。

 ぼくの猟だ。正確には、それは表むきの理由で、ほんとうはひと探し(鳥探し?)なのだけど。そこにナギサが同行しようと言い出したのだ。彼女が女性初の軍人を志し、体を鍛えていることは知っている。それでも山歩きや猟に必要なものはまったくべつのものだ。だがぼくは、彼女の申し出を断りきれなかった。ほんとうは突っぱねるべきだとわかっていたのにだ。

 山の環境はとても厳しいし、それだけきつい想いをしても、ぼくは応えてあげられない。心がつらくなるだけなのだ。ぼくのように、想い人の手がかりがなにもない、というのもつらいものだが、近くに居ても手が届かない、というのもつらいと思う。常に、意識してしまう。忘れたくても忘れられない。そういうものだから。しかしそれは、想い人が遠く離れていても、同じなのかもしれないけど。

「さて……準備をしないとね」

 彼女が雪山に入るのははじめてだ。装備など、ぼくが助言しなければならない。

「外套は要らない。代わりに毛皮を着こんで。帽子も要らない。毛皮をかぶって」

「なにもかも毛皮なんだねえ」

「シャベルは必ず持ってて。雪洞を掘るためにね。小さいのでいいから」

「君も持ってるんだろう?」

「はぐれる可能性もあるからね」

「それもそうか」

「あとは手袋だね。もっと分厚いのにしないと、凍傷で動かなくなる。そうなると被害は指だけじゃ済まない。道具も使えないし、火も焚けなくなる。おしっこがしたくなってもズボンが脱げないから漏らしちゃって、そこから凍って凍死する」

「それは最悪な死に方だね……わかった、換えてくるよ。武器はどうしよう。ライフルがあったほうがいいのかな」

「今回はやめとこう。はじめてなんだ、荷は軽いほうがいい」

「それもそうか。猟は、口実だったね」

「誰にも言わないでね」

「言わないって」

「行って、帰ってくる。ナギサはそれだけ考えたらいい」

「わかった。新兵の心得と同じだね」

「そういうことだ」

 ほかにも用意するものはたくさんある。しかし雪山を歩くにあたって、できるだけ荷は少なく軽くしたい。燃料は、枯れ枝を集めるだけでいいだろう。つまりは、現地調達だ。食料もそれに近い行動をとろうと思う。最後の最後のめし以外は、猟をして血肉を獲る。それも現地調達する。最後の非常食としては、凍らないよう油紙に包んだ餅を持っていく。中には鶏肉を入れてある餅だ。それをいつもぼくは、山に入るたびに持っていっていた。どこかの誰かが求めている。きっと彼女が――シスタークが。そんな気がしていたからだ。だからいつでも手渡せるよう、非常食にしては多すぎる量を、いつも持ち歩いていた。

 今回はもっと餅を持っていく。ナギサを引き連れていくので、ペースが落ちる。だから猟はできないと思ったほうがいいのだ。彼女も冬以外の季節に山に入ったことはあるが、冬の雪山というものは、ほかの季節のそれとはべつ世界だからだ。

「で、どういう行程にするんだい?」

「炭小屋に行って帰ってくるだけだよ」

「あの炭小屋かい? すぐ近くじゃないか」

「雪が積もってるとまるでべつ世界だからね。行ってみればわかるよ」

「そうなのかい?」

「夏だと一日の行程に数日かかる。そんなことが、珍しくないんだよ」

「慣れててもかい?」

「誰でもだよ。ぼくより慣れてるベテランの猟師さんでもそうなんだから」

「そっか……厳しい世界なんだね」

「あとは、装備は大丈夫そうかな。首も守ってるし、ゴムのブーツも履いてる」

「これは父さんからのプレゼントなんだ。舶来品だよ」

「ぼくのよりいいんじゃないか?」

「かもね。君も欲しいかい?」

「いや。なにを要求されるかわからん」

「そんなヘンな要求はしないよ。ちょっとそこの納屋にだね」

「発想が、手籠めにしたがる男側なんだよなあ」

「そんなことはないさ。僕はコウノトリを信じてるからね」

「女の子でその歳で知らなきゃまずいし、コウノトリを信じてるヤツは信じてるだなんて言わないよ」

「それもそうか。君を信じてるって言ったら、ちょっと疑ってるもんね」

「なんか疑惑をかけられたときにしか言わんセリフだしね。べつの可能性が頭にある」

「あとは、下着の予備だっけ?」

「うん。案外汗で蒸れるからね。靴下と手袋も、予備があったほうがいい」

「うん、用意してあるよ。見る?」

「見ない」

「即答されると傷つくなあ」

「君につけ入る隙を与えないようにね、言葉の途中から予測して回答を準備しておいて、ということをだね」

「あはは、どっかのお偉いさんみたいだ」

 おしゃべりをしながらもしっかりと用意をしていく。さまざまなものを背嚢に詰めて、凍ってはならない餅だけは懐に入れていく。ナギサの分も造ったのでそれは渡しておく。ナギサには、杖も持たせた。それだけでかなり楽になるものだ。いざとなったら、背嚢も持ってやるしかない。最悪の場合、彼女自身を担ぐことになる。その場合は荷を棄てて、あとで回収にむかうことになるだろう。

「じゃあ行くよ」

「はいはーい」

 いまはまだ雪が浅い。冬のはじめだからだ。でも、明日もそうとは限らない。たったのひと晩で、雪の積もり方など大きく変わる。急いだほうがいいかもしれない。

 村を出て、広い田んぼの横を通り抜けていく。そうすると、すぐに森だ。その中でも、村の北にある森は迷いやすくて危険だ。ぼく以外のほかの猟師は、あまり立ち入らない。しかしだからこそ、獲物が多くて猟のやりがいがある。大物を獲って、大儲けもできる。それにシスタークは、どうもそちらに居る気がするのだ。ただの直感で、何の根拠もない。だがそれ以外に、道しるべになるものはなかった。それに、彼女の手がかりもないのだ。ほかの猟師の人に聞いても、緋色の女性や炎の鳥など、見たことはないという。つまりはあいまいな記憶の残りカスを頼りに、しらみつぶしに探すしかないのだ。

 今日はナギサといっしょだが、ぼくは危険も多い、北の山を選んだ。そうでなければ、意味がないからだ。シスタークのいないところを探しても、なんの意味もない。ぼくは、北の山以外の場所は調べつくしている。標高の低い南の山などは、目をつぶっても歩けるほどだ。そのむこう側の、隠れた場所まで調査したのだ。洞窟を抜けた先にあった、泉のある広場だ。隠れ住むには絶好の場所だが、誰かが住んでいるような痕跡はなかった。

「雪の上を歩くというのは疲れるねえ」

「でしょ? 時間もかかるしね」

「猟をしている時間はあるのかい?」

「ないかもしれないね。まあできそうなら、行きがけにやるさ」

「行きがけに?」

「うん。ここから目的地の炭小屋までまっすぐむかう予定だけど、その道中に足跡などの痕跡があればそれを追いかける。こちらから探すことはしないけど、あったらね」

「なるほど、それで行きがけか。そのとき僕はどうしたらいいんだい?」

「ぼくについてきて。そっとね。音をたてないように」

「わかった。できるだけ静かにだね」

「そういうこと。まあ、失敗したっていいから」

 失敗してもいい。そう思っていたほうが成功率もあがることがある。失敗を恐れすぎ、精神が緊張でガチガチになってしまうことがあるからだ。そうなったら、どんな熟練でも失敗してしまう。そうして失敗したことでさらに緊張し、脳も失敗のイメージに支配され、ますますうまくいかなくなる。そうなったら、一度退いて立て直すしかない。あるいは、誰かに代わってもらうかだ。

「……あったな」

「なにが?」

「足跡だよ。これはウサギかな……いまから追うよ」

 痕跡を見つけた。ウサギの足跡だ。おおむね北にむかっているので、ぼくらのルートをあまり外れることにもならない。それも、うれしい誤算だった。

 獲物の追跡は骨が折れる。だいたいのけものは、人間より足が速いからだ。だからすぐ突き放されるのだが、実は人間のほうが長く駆ける持久力はあることが多い。それゆえに足の速いけものにも追いつけるのだが、逆に言えば、けものがつかれて動けなくなるまで追いつづけないといけないのだ。下手をしたら、数日かかることもある。けもののほうも死に物狂いで逃げるからだ。獲物に振りきられることも少なくないが、冬場はまだいい。雪が降り積もらない限り、足跡が残るからだ。いま追っている獲物のように。

 そしてぼくは、すぐに獲物を見つけた。足跡をつけた、ぼくらのルートを横切った直後だったらしい。見えた瞬間、ぼくはライフルの引き金を引いていた。足跡を見つけてすぐ、銃に弾を込めてある。ウサギは小さい獲物だが、ぼくの腕なら、正確に心臓を撃ち抜ける。そうして獲物は撃たれて倒れ、雪の上で動かなくなった。

「よしよし。肉が手に入ったぞ」

「幸先がいいねえ」

「そうだね。でもすぐに解体しなきゃだ」

「夏場じゃないし、すぐには痛まないんじゃ?」

「いや、凍っちゃうから」

「あ、なるほど」

「解体してみる?」

「無理」

「即答かよ」

「だって、無理だよ。さっき目が合っちゃった」

「ああ、それ言う人多いね」

「かわいそうでできないよ……君はどうやって克服したのさ」

 腰に手を当て、心底あきれたような表情で言うナギサ。

「ぼくは最初がね。はじめて獲ったのがツキノワグマだったんだよ。もちろんベテランの猟師さんといっしょにだよ。ぼくが撃つ役になって、無我夢中で撃って、それから必死で解体したんだ。かわいそうとか、考えてる余裕なんてなかった」

「なるほどね、精神的にギリギリだったと。だったらかわいそうなんて思えるのは、心の余裕があるってことなのかな」

「だと思うよ。飢えるとまではいかないまでも、何日も山にこもって空腹に耐え続ける、といったことはあった。そんなときは、子熊でも小鳥でも獲ったからね」

 話しながらも、解体の準備をする。ナイフを取り出し、鞘から抜いた。

「あんまり離れないようにね。なんなら足跡をたどれるように」

「そうする……」

 解体現場を見たくないのだろう、ナギサがそろそろと離れていく。ぼくはそんな彼女に注意して、解体作業をはじめる。

 それが終わると、肉を懐に入れ、毛皮を背嚢に入れてナギサを呼びに行った。ナギサは時間つぶしのためか、拳銃を解体して組み立てなおしている。それはぼくより慣れていて、あっという間に組み終わっていた。


   3.


「雪が降ってきたな……」

 空を見上げてつぶやくぼく。

 そのぼくの顔を、ナギサが身を乗り出して見つめてくる。

「冬だよ? 珍しいことじゃないんじゃない?」

「こんなペースで降るのは珍しいな。毎日山に入ってるけど、あまりないことだ」

「そっか。なにかまずいの?」

「雪が深くなると、歩きにくくなるからね」

「なるほど。炭小屋に着くのが遅くなると」

「日が暮れたら動けなくなるからね。今日中に着けない可能性もある」

「となると、野宿?」

「そうなるな」

「こんな寒さで野宿するの? 死んじゃわない?」

「吹きっさらしなら死んじゃうね。でも雪洞を掘ればいいんだよ」

「そんなんで平気なの?」

「雪に囲まれてると、意外にあったかいんだ。体温だけでもぬくくなるよ」

「そうなんだ……ちょっと意外だな」

「ぼくも最初は驚いた。そのためにシャベルを持ってきたんだよ」

「あ、それでか」

「まあ、最後の手段だけどね。小屋のほうがいいのは間違いない。すこし急ぐよ」

「ペースアップか。いまでもきついんだけどなあ」

「いまのペースで雪が降ると、ひと晩で真冬並みに雪が深くなるかもしれない。ちょっと頑張ってもらうよ。何なら背嚢を持ったげるけど」

「そこまで世話にはなれないよ。なんとかついていくさ」

「じゃあ走ってもいい?」

「歩くだけで精いっぱいなのに走るだと……?」

「ふはははは。五秒で置き去りにしてくれるわ!」

「ああ、おやめになって~」

「この積雪だ、足跡が消えるのに十分とかかるまい!」

「ひえ~」

「よしよし、冗談を言えるならいけるさ」

「ひょっとして、僕を元気づけてくれたのかい?」

「効果はあったろ?」

「そうだね。すこし体が軽くなったよ」

「じゃあ行こう。いまのペースだと夕方までに炭小屋に着けない」

「リミットは夕方までなのかい?」

「山の夜は早いからね。空が明るくても、森は真っ暗でなにも見えんくなる」

「そうなんだ」

「めちゃくちゃ暗いのに目は慣れてないしね」

「ああ、そういうこともあるか……夕方のほうが、人とぶつかったりするもんね」

「それはまあ、夜中より人が多いってのもあると思うよ」

「人が多いと警戒してるけど、たまにしかいないとついつい注意を忘れるよ?」

「それはそうかも……まあどっちにせよ、夕方までに炭小屋に着くようにって話で」

「そうだね、話がそれた。その炭小屋は、借りてもいいのかい?」

「うん、持ち主に許可は取ってあるよ。猟に使うから、断られたことはないんだけど」

「そうかいそうかい。ほかの人は?」

「誰もいないよ。炭小屋の持ち主も、ほかの猟師さんもいない。冬にこっちの、北の山に入るのはぼくだけだ。そのぼくも、雪が深くなってくると入らないし」

「じゃあ二人っきりだねえ」

「……泊まるだけだ。なにもしないしさせない」

「つれないねえ」

 そうこぼすナギサは、かたちだけのほほ笑みを浮かべている。

「……急ごう。雪が降り積もる前に。行くぞ」

「おー」

 疲れや苦しさを押しのけるように、弾んだ声を出すナギサ。ぼくはその声を背中に受け、森の奥へと進んでいく。だがそれからは、またナギサがなにもしゃべらなくなった。もうそんな余裕がないのだ。疲労。苦痛。そういったものに苛まれているのだろう。はじめは体がまったく慣れてないので、疲れるだけでなく、背嚢の肩ひものところが痛くなったり、足の裏の皮がズル剥けになったりするのだ。血が出ることさえあるほどだ。ナギサがそうなるかもと思い、念のため軟膏の塗り薬と包帯はたっぷり持ってきてある。ぼくも最初はそうなって、熟練の猟師さんに、ツキノワグマの体の脂を塗ってもらったのだ。とっても生臭くてたまらなかったが、苦痛はずいぶんやわらいだものだ。

 森の中。当たり前だが、そこにまっすぐの道なんかない。木々を迂回しながらなので、あっという間に方向感覚がわからなくなってしまう。だから、コンパスと地図が頼りだ。そのコンパスも凍りつかないようにと、餅といっしょにふところに入れてある。ときどきそれを見ながら、方角と位置を見失わないようにして進む。それにも慣れが要る。カンと経験が必要だ。慣れていない人がコンパスと地図を持っても、なにがなんだかわからないだろう。これぐらい歩いた、これぐらいの距離を来ているはずだという、頭の中の測量ができなければ迷うのだ。

「薄暗くなってきたね……ねえケン、もう夕方なのかい?」

「昼と夕方の、ちょうど中間ぐらいかな。まだ暗くなりきるまで時間はあるよ」

「余裕があるのはうれしいけど、まだそれだけ歩かなきゃなのか」

「そうだね。ちょっと休む?」

「そうしたいねえ」

 力なくそう言って、ぼくの返事を待たずに木にもたれかかるナギサ。そのままずるずる滑り落ちるようにして座りこむ。

「ナギサ、痛むところはあるか?」

「心」

「そこ以外で」

「肩が痛いね。背嚢のひもが食いこむところさ」

「そうだと思ったよ。塗り薬はあるけど」

「後にするよ。ここで服を脱ぎたくはない」

「それもそうか」

「軍に入ったら、それもできなきゃいけないのかなあ」

「そうかもね。完全に男社会なんだし」

「おしっこもか」

「おしっこもだね」

「すこし嫌になってきた」

「まあ、初日だし」

「やっぱり二回目からは違うのかい? 疲れとか、痛みとかも」

「ぜんぜん違うよ。一回目のはなんだったんだって思うぐらい」

「そうなんだ。じゃあまた来ようかな」

「ぼくはいいけど……どうしてそこまで?」

「わかってるはずだよ。僕がどうして、君と居たいのか――」

 そう言って、疲れからではない理由でうつむくナギサ。ぼくもそれを見ていられずに、横をむいた。


 夕方。

 そろそろ野営を考えなければならない時間。

 そんなギリギリで、ぼくらはやっとたどり着いた。不思議に森が途切れ、木々がなくて広場のようになっている場所。そこが目的地だったのだ。

 しかし、なくなっていた。今日泊まるはずの炭小屋だ。完全にバラバラになっている。しかも、雪があまり積もっていないのだ。こうなったのはそんなに前のことではない、ということだ。せいぜい数時間前だろう。

「これはどういうことだろう、ケン。雪の重みで、とか?」

「それなら上からつぶれるはずだ。これは内側から爆発して飛び散ってる……」

「でも破片が焦げてないから爆発じゃないね。誰かが暴れたとか?」

「ツキノワグマが暴れてもこうはならないよ。とにかくここから離れよう」

「そうだね。なんだか嫌な予感がするよ」

「ぼくもだ……これをなしたなにかが、まだ近くにいるかもしれない」

 来た道を引き返すのは避けた。足跡が残っているからだ。どのみち足跡は残ってしまう。だが二方向あれば、迷ってくれるかもしれない。二分の一を、外してくれるかもしれない。それに山までたどり着けば、隠れられるところに心当たりがあった。

「急ぐよ、ナギサ」

「ちょっと待って……もう歩けない」

「待てないよ。ここは危ないんだ」

 ぼくは背嚢を前に回して持った。それから靴にかんじきをつけて深い雪に沈まないようにして、ふらついていてまっすぐ立ってもいられないナギサを無理やり背負う。

 そして、ひた駆けた。この破壊をなした何者かから逃れる、という理由だけではない。日が暮れて真っ暗になる前に、北の山にたどり着かなければならないのだ。北の山にさえ到達すれば、隠れ潜み、宿泊できる場所を知っていた。そこなら危険はまったくないし、何日もこもることができる。つまり山中における拠点になるのだ。炭小屋を吹っ飛ばした何者かから逃れるには、長い期間隠れていられる拠点が必要になるだろう。ただそこらに宿泊するよりも、ずっと逃げやすく、隠れやすい拠点になるのだ。

 炭小屋から北の山まではあまり遠くない。しかし、かなりの時間がかかった。やはり、人ひとりを背負っているからか。それよりも、焦りでペースを乱したからかもしれない。

 そうして暗くなる前に、どうにかそこにたどり着いた。山の斜面にある洞窟だ。いざとなったらそこに逃げこむ。そう決めていて、なんとか今日中にたどり着けるように計画を立てていたのだ。

 敵に見つからないよう、洞窟に入ってからは、入り口には偽装を施しておく。春と夏、秋にはつる草を垂らし、それがない冬には雪で入り口を隠しておく。今回もそうした。

 それから集めておいたたきぎに火をつける。ここには何度も来ているので、まきなどを常備してある。今回のように、ギリギリになったときの備えだ。今回はそれが役立った。木くずや木の皮など、燃えやすいものに点火する。それから燃えにくい枝に燃え移らせる。そうして火が大きくなってきてから、ぼくはホッと息をついた。何者かから逃げきった。あったかい火もある。ようやく安心できたのだ。ここに入る直前は、積雪がさらに勢いを増していた。ぼくらの足跡も、存外に早く消えたかもしれない。普段ならうっとうしいと思う豪雪だが、今回は助かった。何者かの追跡から、逃れられるからだ。

「よし、今日はここに泊まるぞ」

「おっけー」

 洞窟の壁にもたれて、なんとか立っていたナギサ。しかしぼくがそう告げると、一気にぺたんと腰を落とした。

「ありがとう、ケン。助かったよ」

「明日は歩いてね。もしかしたら、何日もこもることになるかもしれないけど」

「そうしたら、僕らの関係も進展するかな?」

「なにかしたらぶっ飛ばすからね」

「そうかい。じゃあやめとくよ」

 そう言ってナギサは荷を下ろし、さぶさぶと言いながら焚き火にあたっていた。

 おぶっている間に回復したのだろう、思ったより余裕があるようで、ぼくはその光景を見て安心していた。そうしてそのまま、むかいあって火にあたってあったまっていた。


   4.


 焚き火がパチ、パチと音を立てる。。

 その火で靴下も乾かしたし、餅もあぶって食べた。

「へえ、鶏肉が入ってるんだ」

「うん。ぼくのオリジナルだ」

「さすがは猟師だねえ」

「いや、猟をする前から造ってたよ。いつからかは憶えてないけど」

「ふーん……まあ猟師の息子なら、機会はあるか」

「ナギサはなにか料理はするのか?」

「けっこう得意だよ。軍人を志してるんだ、野戦料理だって造れる」

「それってどんなの?」

「ヘビの輪切りをあぶったヤツとか」

「……ずいぶんワイルドだな」

「でも君も食べるだろ?」

「まあね。そういう意味じゃ、猟師と軍人の食べるものって似てるのかな」

「そうかも。ちょっとしたサバイバルだし」

 そんな他愛のない話をしながら、時間は過ぎていったのだけど。

「ねえ――ケン」

 ナギサの口調がいきなり重々しくなった。それでぼくは、いまからナギサの言うことがただの雑談ではないのだと察した。いつもは明るい、というより努めて明るく振るまっている彼女が、その振るまいをできないでいる。その心境は、心のうちは、ぼくにも理解はできるものだ。ぼくもナギサも、到底かなわない片想いをしているのだから。

「その話はしたくないんだが」

「違うよ。いま告白しても、想いを伝えても意味なんてない。それはわかってるさ。僕が言いたいのは、炎の鳥と勇者のことだ」

「剣の勇者か。それが?」

「僕はね、それが君なんじゃないかってことなんだよ」

「……ぼくが? ぼくは剣なんて使えないよ。両刃の剣も、広義の剣もね」

「ああ、刀のことも剣って言うね。剣術とか……ぼくが言いたいのは、君が生まれ変わりなんじゃないかってことさ」

「勇者の?」

「勇者の」

「…………」

「根拠のない話じゃないんだ。和尚さんが、僕のおじいちゃんの葬式で言ってたんだよ。人は、何度も生まれ変わるんだって。たとえ死んでも、魂はそのままで、いつかどこかで赤ん坊として生まれるんだって。だからどこかで、知らずにまた会えるかもしれないって」

「輪廻転生ってヤツだろ。ぼくも聞いたことはあるけど」

「ありゃ、知ってたか。でもだったら話は早い」

「お坊さんが言ってたなら正しいのかもな。でも、ぼくと勇者になんのつながりがある?」

「炎の鳥だよ。君は前に言ってた。君の想い人の特徴を。緋色の髪と瞳。それはけっこう珍しいけど、遠くから来たならあり得るのかもしれない。でも燃える翼は違うだろう? 

普通の人間に翼なんてない。翼があるなら鳥だろう。じゃあその人の正体はなんなんだ? 

もしかしたら、鳥なんじゃないのかい?」

「そうかもしれないと、ぼくも思ってたよ。けものや鳥が人間になる話もよくあるしな。鶴の恩返しとか、まさにそれだ」

「君に〝なおす〟能力があるんだ、ほかの超常も否定できない。だったら生まれ変わり、つまりは前世があってもおかしくはない。その前世の君が炎の鳥と交流し、邪神と戦って撃破した。僕の想像だけど、どうだい?」

「あり得るけど、あり得るだけだ。根拠はない」

「まあまあ、想像なんだから根拠は要らないだろう。だったら聞くけど、君はどこでそのひとに会ったんだい? それはあいまいなんだよね?」

「まあ、そうだけど……」

「つじつまも合わないと思うんだ。幼い子は、山に入るのを禁じられている。でも君は、そのひとに会ったんだろう? でも村の人は、誰もそのひとを見ていない」

「そうだな。だから山に居ると考えたんだけど」

「でも山に入るようになったのは最近だろう? 君のお父さんは君に、後を継がせようとしていなかった。君は幼いころ、もっと体が弱かったからね」

「昔のことだ。いまは違う」

「うん、幼いころの話だ。ぼくが言いたいのは、そんな子が山に入るわけがないってこと。もっとやんちゃで体力があって、大人の話を聞かない子ならともかく」

「それはそうだけど」

「でも前世ならどうだい? 君はいまより強かったかもしれない。頑強な体を持っていたかもしれない。そし――そのうえでだ。君が剣や刀を〝なおした〟のなら、剣の達人にもなれるんじゃないのかい? それこそ勇者と呼ばれるほどに」

「可能性はあるけど。でも確かめようがない」

「聞いてみればいいのさ」

「誰に?」

「炎の鳥に。あなたが君の想い人なのかどうか。前世の君を、知っているのか」

「…………」

「君が聞かないのなら僕が聞くよ。僕は、そのためにここまで来たんだ」

「その話……どれぐらいの確信があって言ってるんだ?」

「根拠はないが、かなりの自信はあるよ。炎の鳥。燃える翼を持つ女性。そんなに希少な存在が、二人もいるとは思えない。もしかしたら鳥ではないのに、翼があるってだけで、鳥とカン違いされたのかもしれない。伝承を残した人が、燃える翼しか見てなかったって可能背もあるね。翼と言ったら鳥。その翼は緋色に燃えている。だから、炎の鳥だとね。でもその伝承がほんとうなら、そしてそれが君の前世なら、君は邪神と戦ったってことになる。邪悪な神。それは、どれほどの存在だろう。どんだけ強いんだろう。そんな相手と戦ったのなら、そりゃ勇者と呼ばれるだろうね」

「買いかぶりすぎだよ。ぼくはそんなに立派じゃない」

「そうかな? 想い人を探すために、厳しい雪山にも踏み入るような君だ。その想い人になにかあったら、その想い人を守るためなら、君は戦うんじゃないかい?」

「……ぼくならやりかねないな」

「だろう? 昔のことなら、戦いはずっと身近だっただろうしね」

「そうだね。近代的な軍隊がないんだ、戦うのは、壮健な男の全員だったはずだ」

「武士の支配下なら、軍事政権ということだしね」

「村同士の争いなんかも活発だったんだ、戦争は、遠いところの話じゃなかったのかも」

「でもそうだとしたら、すごいねえ」

「そうだな。邪神……邪悪な神に、勝ったってことだ」

「それもそうだけど。そうじゃなくて、君の恋心の話さ。生まれ変わってまで恋してる。二回死んでも好きでいる。そんなに好きなんじゃ、僕が割りこむ隙なんてないわけだよ。前世のことなんて、普通は憶えていられないのに。それじゃあ、かなわないわけだよ……」

 涙ぐんだままほほ笑んで、焚き火を見つめているナギサ。炎を見つめて揺れている瞳が、ぼくの胸を痛烈に突き刺した。

「……もう寝よう」

「そうだね。そっちに行きたい。そう言ったら怒るかい?」

「怒るしかない。君は嫁入り前だし、ぼくにはその気がないから」

「そっか。ひどいこと言うね」

「きっぱり言わずに期待させるほうが、ね」

「そういう考え方もあるか。僕としては、甘い期待にすがっていたいね」

「それはただの先延ばしで」

「うん。あとでもっとひどいというか、残酷なことになるね」

「もうやめよう。ずっとずっと、同じことのくり返しだ」

 ナギサの頬を伝うもの。ぼくはそれを見てられなくて、彼女に背をむけて寝ころんだ。地面に敷いた毛皮の上で寝て、右腕を枕にして壁を見つめる。

 だが背中からは、焚き火の熱がずっとずっと伝わってくる。


 眠れずに、時間が経った。

 ナギサを泣かせたのは、今日がはじめてではないのに。

 ときどき起きて、焚き火に枝を足す。ナギサは疲れているのだろう、ぐったりしていてすっかり眠りこんでいる。

「――邪魔するよ」

 そこに、入ってきた。

 緋色の髪と眼のそのひと。

 ぼくは呆然として、持っていた枝を取り落とす。

 そのひとをずっと探していたのだ。そのために猟という口実を手に入れるため、熟練の猟師さんに弟子入りまでした。

 そうまでして探していたひと――シスタークが目の前にいる。

 ぼくは伝えたいことがあふれすぎ、かえってなにも言えなかった。

「私も火にあたらせてくれ」

 そう語る彼女は薄着だ。毛皮も着ていない。春先でも寒そうな格好だ。ぼくは意を決し、どうにか混乱を治めて彼女に話しかける。

「あの」

「ん?」

「あなたを探していたんです。ぼんやりとだけど、あなたのことを憶えてて」

「――またか」

「また、とは?」

「二度目なんだよ。おまえが会ったこともない私のことを口にするのは。おまえは前にも同じようなことを言った。そして私も、おまえのことは憶えてる。何百年も前のことで、おまえは死んだはずなんだがな」

 ぼくの落とした枝を拾い、焚き火にそっと入れるシスターク。

「前世のぼく、ということですか」

「そういうことだろうな。おまえの死。私はそれを、見届けたんだ」

 ――死。その言葉もぼくの胸の深いところを突き刺した。ありふれたものではあるが、自分自身のものとして聞くときついものだった。

「もしかして死ぬ前のぼくは、あなたを悲しませてしまいましたか?」

「ああ……私はヒトとかかわりを持たないから、死に別れもそうあることじゃない。でもおまえとは違った。ヒトとかかわるのも悪くないと、おまえは私に思わせてくれた。でもおまえは私を遺して死んだ。寿命が来たのならともかく、若くして非業の死を遂げた」

「邪神、ですか」

「そうだ。だけど、それを否定するつもりはないよ。おまえがいなければ、私ひとりでは勝てなかったからな。それも憶えてたのか?」

「いえ。そういう伝承が残っていたんですよ」

「そうか。あの戦いを見てたとかで、語り継いでくれたヒトがいたんだろうな」

 また焚き火に枝を加えていくシスターク。火がすこし大きくなったようだった。ぼくも彼女も小声で話しているせいか、ナギサが目を覚ます様子はない。

「実はな、私はおまえに、別れを告げに来たんだよ」

「別れを、ですか」

 あらゆる言葉を、出会いを想定していた。山を歩きつづけて、考える時間はいくらでもあったからだ。それなのにぼくは、強烈なショックを受けていた。想定と事実は違う、ということか。彼女は、そんなぼくを見つめ、悲しそうな笑みを浮かべている。

「まずは、ありがとう。それだけは言わせてくれ。ケン、おまえに会えてうれしかった。私とおまえは、いい友人になれたと思う。一度目も、二度目もだ。でもおまえは二度とも死んだ。私が私の戦いに巻きこんだんだ。そのせいでおまえを死なせてしまった……」

「……もしかしてあなたは、邪神と戦うために――」

「その通りだ。何度撃破しても、このあたりで復活する。このあたりの土地神なんだろう。それも蘇るたびに強くなる。人間の武器も発達しているが、とても追いつけはしない……」

「じゃあ邪神を倒すために、ずっとここにいるんですね」

「そうだよ。でもそれだけじゃない。ここの村で私は昔、普通に受け入れられていたんだ。村人にはならなかったが、たまに訪れる客としてな。そのときには、女ひとりで村の外で生活してることを、心配されたりもしたんだよ。私のことを、気遣ってもらえたんだよ。おまえらはそのヒトたちの子孫だから――だから私は、おまえらを守ると決めたんだ」

「あなたはずっと生きてるんですか? 転生ではなく。いったい何百年、いや何千年――」

「戦うのはいいんだよ。それにときがかかるのもかまわない。私は永遠に生きるんだよ、生きる目的があったほうがいいんだ。戦いが嫌いで仕方がないってこともない。もう一度言うが、おまえらを守れるのならそれでいいんだ。だから、死なないでくれ。おまえの死。それをもう見せないでくれ。戦うのは、私がやるから。私ひとりでやれるから――」

 ぽつぽつと語る彼女の言葉。それは、懇願に近いものだと思った。

「あなたと居たい。あなたが好きです。それは、ダメですか」

「気持ちはうれしいよ。女みょうりに尽きる、というものさ。でも、ダメなんだ。邪神のことがなくても別れは来る。おまえがどれだけ長生きしても、あと百年も生きられない。死に別れほどつらいものもない。私はそれを二度も経験した。三度目は、嫌なんだ――」

 そうこぼしながら、口角をあげるシスターク。だがどう見てもそれは、とても笑顔には見えなかった。

「シスタークさん。あなたはずっとひとりで生きてくつもりですか」

「ヒトとは違う。孤独はつらくないんだ。ただ親しいヒトとの別れは違うよ。自分の一部。欠けてはならないそれを、持っていかれるような気分だ」

「――ぼくにできることはないんですか」

「あるよ。村に帰れ。そして人との子を造れ。おまえの子も孫も、その孫も、私がずっと見守ってやるさ。花を育てるような気持ちかな。それが、唯一の楽しみだから――」

 そう言って、じっと火を見つめている彼女。それきりなにもしゃべらない。

「でもぼくは、きっとあなたを忘れられない」

「だろうな。死んでも忘れないぐらいだ」

「前世のぼくはどうだったんですか。あなたの力になれなかったんですか」

「めしをくれたよ。鶏肉の入った餅だ」

「いまも持ってます。食べますか?」

「もらうよ。なんかコツがあるんだろうな。自分で造っても、同じ味にはならなかった」

 そう言って餅を受け取り、もそもそと食べはじめる彼女。

「変わらないな。この味も。おまえも。生まれ変わりを見るのははじめてではないけど、前世のことを憶えてるヤツはおまえだけだった。私への想いも、変わっていないようだ。何度も言うが、それはうれしかったんだ。だからずっと忘れないよ――」

 もう寝ろ。火の番は、私がしてやる。彼女にそう言われたが、横になっても、その夜はあまり眠れなかった。


   5.


 夢を見た。

 彼女と会ったからだろう。

 ぼくは、前世の夢を見ていたのだ。剣の手触りさえ思い出せるほど鮮明に――。

 朝目覚めると、ぼくはいろいろなことを思い出していた。鍛冶屋だったこと。雪山で、彼女に命を救われたことも。それから何者かと戦って死んだことまで思い出し――ぼくは恐怖で身震いした。

 その次は従者だった。そこでも猟に、そのときの言葉で狩りに明け暮れていた。ぼくは探していたのだ。その時代でも。彼女のことを。前世で出会った、シスタークのことを。


 それから三人で歩いていた。村への帰り道だ。シスタークは、ぼくらを村まで送る、と申し出てくれたのだ。その言葉に甘え、ぼくらは三人で歩いている。出発の前、朝めしのときにナギサには事情を話してある。だが彼女は、昨晩のぼくとシスタークの話を聞いていたようだった。気づかれないよう、薄目をあけていたのだという。これで君は僕のもの。彼女は、冗談めかしてそう言っていた。三人で歩く。先頭はシスターク。ほんとうなら、経験の多いぼくが最後尾になるべき。しかしぼくは彼女のすぐ後ろを歩いていた。彼女と離れがたかったからだ。ナギサのことは気にかけていて、振り返り振り返り歩いている。だが、シスタークの背中を見つめてしまう。彼女からなかなか目を離せないでいる。

 彼女が――遠い。こんなに近くにいるのに。手を伸ばせば届く。そんな距離にいるのに。だからぼくは、意を決して話しかけた。こんなに緊張するのもはじめてだった。

「あの、シスタークさん」

「なんだ?」

 彼女は振り返ってはくれない。ぼくを見てはくれない。

「ぼくは、二度とも戦死したんですよね」

 話しかけてから、質問を考えた。だけどそれは、ほんとうに聞きたいことでもあった。自分の死にざま。当然気になるものだった。

「……ああ。おまえがいなければ、私は邪神に勝てなかった」

「でもその勝利は、ぼくの死と引き換えだったと」

「そういうことだ。もう巻きこむことはできない。だから、私とかかわるな――」

「――ひとりで勝てるんですか」

「勝てるさ。私だって強くなったんだ」

「でも邪神は復活するんでしょう? ずっと戦いつづけるつもりですか?」

「ずっとじゃないよ。邪神が蘇るまでには何百年も空くからな。その間私は、おまえらを見守ってるよ」

「遠巻きに見てるだけ、ですよね」

「それでいいのさ。深くかかわると、つらいだけだから――」

 淡々と語る彼女。だがその無感情さが、かえって悲しそうだと思えた。

「――ぼくは、あなたを悲しませてしまいましたか」

「ああ、そうだな。特に二度目は悲しかったよ。生まれてはじめて泣いたかもしれない。おまえの存在は、私のなかでそこまで大きくなってたんだ。もう泣かせてくれるなよ」

 ぼくは古代と中世に生きていた。でもぼくは二度とも死んだ。邪神や死体術師と戦って果てた。かろうじて勝つことはできたものの、それは、自分自身の死と引き換えだった。村とシスタークを守れた。ぼくはそうして満足して逝ったのだが、彼女はいまでもそれを悔やんでいるようだ。彼女には、とてつもない重荷を背負わせてしまったのかもしれない。

「どうにか――どうにかならないんですか」

「昨日も言ったろ。邪神のことがなくとも別れは来るんだと。時間が、おまえと私の仲を引き裂くのだ。おまえとどれだけ幸せな時間を過ごしても、どれだけ愛しあったとしても別れは来る。その時間が幸せであればあるほど、遺された私はつらい想いをする」

「じゃあぼくは探します。永遠に生きる方法を。ずっとあなたと生きていける方法を――」

「ダメだ。ヒトは孤独に耐えられない。多くの別れに耐えられない。死ねるというのは、幸せなことなんだよ。ヒトは寿命が短いからこそ光るものがあるんだよ。なにかに本気で打ちこんだり、子どもを必死に育てたりな。だから、永遠なんてロクなもんじゃない」

 彼女の両肩。彼女の背中。それがかすかにふるえていた。注視してなければわからない。それほどかすかで微妙なものだった。

「きっと永遠に苦しむことになる。それは終わることのない地獄だろう。でも私は違う。もともとそういう存在だ。在り方なんだ。悲しいことがないとは言わんが、ヒトほどには苦しみもない」

「ほんとうに、そうですか?」

「ほんとうだよ。でなけりゃさっさと自殺してる」

 不老不死かもしれない彼女が、ほんとうに自殺などできるのか。いまの彼女の言葉は、強がりを大いに含んではいないか。それは、彼女の言葉からは読み取れなかった。

「あの」

「ん?」

「ぼくとシスタークさんは、どこで出会ったんですか?」

「この近くだよ。まだ秋でな。おまえは手ぶらでうろうろしてたんだが、異常気象かな、猛吹雪になったんだ。それで死にかけてたんで手を貸してやった」

「……命の恩人だったんですね。ありがとうでした。いつのことですか?」

「いつだったかな。まだ武士もいない時代だったよ。千年以上前になるかな」

「そんなに前のことを、憶えててくれたんですか」

「そこで終わってたら忘れてたさ。その後、告白しながら死なれたらな」

「ぼくは、前にも告白してたんですね」

「言うだけ言って、返事も聞かずに死んじまったがな。二度ともだ」

「そうですか。それは申し訳ないというか」

「ほんとうだよ。ほんとに馬鹿だよ、おまえは……」

 そう言ったきり、なにも言わなくなったシスターク。

 それ以上声をかけることは、彼女の背中が拒絶していた。


   6.


 シスターク。

 ぼくの好きなひと。

 前世の前世で好きになった。一生涯というだけじゃない。生まれ変わっても好きだった。こんなにひとを好きになることは、二度とないんじゃないかと思う。それほど好きだった。しかし彼女には明確に拒絶され――ぼくの初恋は終わった。

 これからぼくはどうすればいいのだろう。ずっと彼女を探していた。彼女にまた会う。それだけを目的にして生きてきた。そうして会えはしたが、ぼくの初恋は実らなかった。だが彼女のことは、忘れられないだろう。ずっと引きずって引きずって生きていくことになるだろう。もしかしたら生まれ変わってもまだ引きずっているかもしれない。ぼくは、それだけ彼女のことが好きなのだ。この先誰かを好きになっても、どの誰かと恋をしても、ずっとずっと彼女は特別で大切なのだと思う。


 気味悪い気配がした。

 ぼくはすぐさまライフルをかまえる。

 シスタークも感じ取ったようだ。いつの間にか、緋色の炎で造ったような棒を手にして身構えている。彼女が棒術使いだったことを、ぼくは思い出していた。

 ナギサだけがキョトンとしている。しかしぼくらの様子を見て、あわてて拳銃を抜いた。

 それからシスタークが駆け寄ってきて、ぼくの耳もとでささやいた。

「囲まれてる……突破口を造るから、村までひた走れ」

「あなたは」

「私はどうにでもなる。おまえらがいると、足手まといなぐらいだ」

 足手まとい。悔しいが事実なのだろう。ぼくでは彼女の力になれない、ということだ。

「ナギサ、行こう」

 ぼくはナギサの手を引いて駆けた。村のあるほう。ぼくらの住んでいる村のほうへと。そのぼくらの前に立ちはだかったもの。ナギサと同じ服装――軍服の人たちだ。しかし、なんだか様子がおかしい。記憶に符合するものがある。おぼろげな記憶――前世の記憶。――死体だ。間違いない。顔と気配が、生きていることを感じさせない。ぼくらは死体の群れに囲まれている。また攻撃がはじまったのだ。死体術師の死体による攻撃だ。きっと邪神も蘇っている。それならすべきことはひとつだ。村を――守る。それに注力すべきだ。しかしいまは、昔とは違う。村に、戦える人などいない。村が総出で戦争をしていたり、一家にひとりは農兵として兵役の義務があったりした時代とは違うのだ。

 だからぼくは、ナギサを連れてひた駆けた。村人をどこかに逃がす必要があるからだ。村のどこかで防衛戦、という場面もあるかもしれない。猟師などの、銃を持っている人を糾合することも必要になってくる可能性もある。

 前方の死体。撃とうとしたころで一掃された。緋色の炎。その濁流に押し流されたのだ。強くなっている。シスタークはそう言っていた。ほんとうかもしれない。それならばまだなんとかなるかもしれない。大掃除は彼女に任せ、取りこぼしをぼくが殺ればいいのだ。

 焼け焦げて、炭になった死体。その脇を駆け抜けていく。だが木の陰から死体がぬっと現れた。ここは森で、多くの木がある。つまりはそれだけ、死角と陰があることになる。彼女の炎がどれだけ大きな力でも、一気に押し流し、全滅しきれるものでもないのだろう。だがその取りこぼしはわずかだ。それぐらいはぼく自身で何とかするしかない。

 だが近すぎる。ぼくは銃を棄て、シャベルをかまえた。そのまま槍のようにして突く。そうして頭をカチ割った。血を噴き出しながら死体が倒れる。ぼくは棄てた銃をまた拾い、ナギサの手を引いて駆けだした。また前を遮ってくる死体。しかしそいつらはまたしても緋色の炎に焼き払われた。そうしてぼくらは、シスタークに守られながら逃走した。

 しかし村まではまだまだ遠い。昨日は丸一日かけてここまで来たのだ。それを戻るのだ、どれだけ急いでも、また丸一日かかるだろう。しかし昨日より走りやすい。雪が、なぜか溶けている。シスタークだ。彼女の炎。それが死体を焼くときに、足もとの雪を溶かしているのだ。おそらく偶然ではない。死体を焼き払うだけなら、彼女の炎の威力はあまりに過剰な気がするからだ。熱は上に行く。足もとの、それも深く降り積もった雪を溶かすにあたっては、かなりの火力が必要になるのだろう。だがそれは、彼女がそれだけ消費するということになる。彼女を守りたい。強くなりたい。ぼくらの敵を、邪神を討ち倒したい。そう思っていたが、いまは足を引っ張っているだけだった。

 だからせめて。せめて早く逃げなければ。死体の包囲から脱しなければ。そうしないとシスタークが死ぬ。力を使い果たして死んでしまう。

 とにかく走る。前方の死体。そのほとんどが、炎の波に呑まれて焼かれる。同時に雪も溶かされて、普通に走れるようになる。これなら短時間で村まで戻れるかもしれない。

 真正面の敵。体の芯まで焼ききれなかったのか、炭になっても動いている死体。ぼくはその頭部を撃っていく。至近距離だ、じっくり狙っているいとまはない。素早く五連射。またたく間に五体の死体を仕留めた。だが六体目がこちらに迫っている。弾をこめている時間はない。ぼくはライフルを逆さに持つと、こん棒のように使おうとかまえた。銃声。すぐ横から聞こえた。ナギサが拳銃を扱い、撃ったようだ。死体の右目を撃ち抜いている。死体は糸が切れた人形のように、ふっと脱力して倒れていった。近くにいた死体はこれであらかた片づけたらしい。

「すまん、助かった」

「ううん、こんな状況だ、僕も戦わなきゃだ」

 ナギサがそう言って格好をつけ、拳銃の銃口から立ち昇る煙をふっと消す。その間に、ぼくはライフルの弾をこめなおした。というより、ぶっ壊してなおし、また弾を満タンにした。弾は無駄遣いできない。能力を使いきったときに備え、すこし残しておかなければ。

 相変わらず、大勢の死体に囲まれている。しかしシスタークがそのほとんどを排除してくれている。そうでなければどうしようもなかっただろう。相手が多すぎるからだ。

 炎の波。一掃され、焼かれて立ちつくす死体の間を駆けていく。次第に村が見えてきた。しかし見えていいのか、とも思う。村まで、死体を引き連れてきてしまったかもしれないからだ。ぼくらが殺されてしまうわけにもいかない。ぼくは、自分にそう言い聞かせた。

 村に駆けこんだ。それから一発。ぼくが真上に銃を撃ったのだ。銃声が空に響き渡る。ざわ、と村の空気が一変した。静かだった冬の村にどよめきが起こり、そこらの家屋から人が出てくる。これで危急を知らせることはできた。しかし死体が攻め寄せてきている、などと説明しても信じてはもらえないだろう。なにかが起こっている。ひとまずいまは、それだけはわかってもらうしかない。

「ケン」

 ナギサに袖を引かれる。わかってる、とぼくは返事をしつつ、そいつにむかって撃った。村を囲む田畑。いまは雪が降り積もった平坦な雪原。そこをぞろぞろと来ている死体だ。まだ千メートル以上の距離があったが、銃をなおしたぼくは狙撃の腕では誰にも敗けない。そしてこれだけの距離があれば、この三十年式歩兵銃の威力と精度も活きる。

 通常なら、それほど長距離の狙撃はできない。千メートルは、一斉射撃での有効射程だ。

 でもぼくはべつだ。その銃をなおしたぼくはべつだ。その距離でも当てられる。きっと狙撃の最長記録でさえも、打ち立てることができるだろう。特にいまは風がなく、横風で弾がそれる心配もなかった。

 死体を撃つ。撃つ。撃つ。五発撃つと、銃をぶっ壊してなおす。そうしてからまた撃つ。撃ちまくる。そうして死体の群れを迎え撃つ。片っ端から撃っていった。ぼくは早撃ちも得意なのだ。まして敵は遠くに居るので、銃を大きく動かす必要もない。狙い、撃って、また狙いを定めて引き金を絞る。そのくり返しだ。

 森の中では遠くを見通せず、苦手な接近戦をするしかなかった。しかしここなら、広い場所なら違う。この銃の長大な有効射程を利用して、死体を次々と撃ち、仕留められる。

「おいケン、なにしてる!」

 いきなり怒鳴られ、右肩を引っ張られた。ぼくの横に、筋骨隆々の大男がいる。ぼくの師匠。ぼくが猟を教わった、村一番のベテランの猟師だ。村でもめ事が起こったときなど、いつも彼が仲裁している。村で犯罪が行われたときも、駐在より先に彼が呼ばれるほどだ。今回も銃声が聞こえて、あわてて駆けつけてきたのだろう。そして、はた目から見れば、ぼくが人を撃っているようにしか見えない。ぼくが人殺しをはじめた――そう思われても仕方のない状況だ。死体が動き、襲いかかってきている。それを信じてもらうしかない。

「――見ててください、師匠」

 死体のひとつ。ぼくは、あえてむごい撃ち方をした。その死体に、十発以上もの銃弾を撃ちこんだのだ。それも胸に集中させた。通常なら、一発で即死だ。しかし、その死体は起き上がり、またこちらに来ようとしている。歩みを止める様子はない。

「なんだあれは……」

 と師匠。彼にぼくは、説明を加える。

「あれは死体です。妖術で操られている。首を刎ねるか、頭を破壊しない限りは死なない」

「見てなきゃ信じられなかったが……」

「このままじゃ村が襲われる。人を避難させて。戦える人も集めてください」

「わかった。しかし説得は難しいな。どうやって信じてもらうか」

「敵に襲われる。避難と戦闘が必要。それだけ言えば」

 と、ナギサ。確かにそれなら信じてはもらえる。師匠の人望があれば、戦える人も大勢集められるだろう。一度集まってしまえば逃げにくいので、相手が死体と知ってからでも、戦闘に参加してもらえるだろう。実にいい案だった。

 いま気がついたのだが、死体の動きがかなり鈍い。のろのろと歩いてくることしかしてこない。これならぼくの腕なら、村に近づかせないことは可能だ。そう思っていたのだが。

 それまでバラバラに動いていた死体が、急に統率された動きをするようになってきた。そして銃をかまえている。ぼくはナギサを抱え、とっさに横の小屋の陰に隠れた。銃声。一斉に銃弾が放たれた。無数の銃弾がぼくらのいた場所に集中し、地面や小屋の壁の角をえぐる。もう一度斉射。もう一度一斉射撃。ナギサが悲鳴をあげている。ぼくはその口をふさいだ。それから五発目が射撃される。数十人分もの銃弾が、ぼくらがさっきまでいた細い通りをズタズタにする。それと同時にぼくは飛び出した。しかし二発撃ったところで、死体の群れに煙が立ち昇るのが見えた。銃弾を一斉発射したときの煙だ。ナギサがぼくのほうへ来ようとしていたが、ぼくは彼女に飛びつき、また小屋の陰へと隠れた。それからナギサの頭を押さえて伏せる。死体の群れは、撃ちながらも近づいてきていた。そうして距離が詰められたので、銃の威力が増している。銃弾が何発か、小屋の壁を貫通している。立っていたら、壁を貫いてきた弾でやられていただろう。

「連れてきたぞ」

 そこに師匠がやってきた。十数人の狩人を連れてきている。というか、十八人の全員を連れてきたようだ。

「……全員村に居たのですか? 猟もせず?」

「明日は祭りだろうが。その準備で、おまえ以外は村にいたわ」

「そういえば……」

「やはり忘れてたか。まあいい。あいつらを片づければいいんだな」

「頭を撃たなければ死にません。それだけ知ってていただければ」

 五十人超の死体の群れ。それに対するは、十八人の猟師たちだ。それにぼくとナギサ。ナギサにもライフルが手渡され、長距離での戦いが可能になった。手早く操作を教えて、彼女も参戦できるようにした。これで二十人だ。相手は三倍弱だが、隠れるところのない雪原にいる。こちらは村の家屋を盾にできる。こっちのほうが有利かもしれない。

 死体は死を恐れない。しかしいまは、それが仇になっている。こちらの銃口の数が増え、死体が不利になってきた。しかしそれでも退かない。迂回などされていたら、こちらには対処しようがなかったのに。

 死体の群れの一斉射撃。雨あられと降りそそぐ銃弾。物陰に隠れてそれから逃れ、敵の射撃が途切れたときを見計らって撃ち返す。そのくり返しで、次第に有利になってきた。こちらの銃口が増えたことで、敵の一斉射撃も分散している。それで当たりにくくなったのだ。ひとり当たりに集中する銃弾が減ったからだ。

 それに死体は、銃の腕もよくないようだ。上空に放たれたり、近くの地面をうがったりしている弾も多い。一方で猟師は腕がいい。古い村田銃でも、着実に当てていっている。

 これならいけるか。そう思っていると、急に死体の射撃の精度が上がった。ぼくの頬を銃弾がかすめる。死体の眼。それが紅く光り輝いている。死体がただ操られているだけの人形から、意志を持った怪物に変わった。前もそうだった。ぼくはそれを、憶えている。


   7.


 死体の様相が変わった。

 人形から、怪物になった。

 おそらく死体術師が近くにいるのだ。死体の遠隔操作。死体に生命を与えること。そのどちらも、それほど離れていないところからしているはず。そうでなければこれまでに、つまりは前世でも、死体術師と会うことはなかっただろう。こちらに一切接触をしないで削りつづけていれば、ぼくもシスタークも、いずれ力尽きただろうからだ。

 ぼくは、その死体術師を探した。そいつさえ倒せば、死体は一網打尽にできるからだ。だがどこにも見当たらない。どこからか見てはいるはず。精度は悪くても、狙いを定めて一斉に撃ってくるなど、死体は組織的な活動をしていたからだ。それまでは銃も使わず、ただ襲ってくるだけだった。銃を使いだしたところから、死体術師の手が入ったのだろう。

 それにしても。さっきから、緋色の炎がまったく見えない。これまではぼくとナギサの足もとにさえも気を遣ってくれていたのに。彼女が降り積もった雪を溶かしてくれたから、ぼくらはあれほど短時間で村にたどり着けたのに。シスタークになにかあったのだろうか。そうではないと信じたい。たとえば……そう、べつの方面にも敵がいて、彼女はその敵にかかりきり、であるとか。その敵が邪神、という可能性もある。

 そして敵が増えてきていた。パラパラと、北の森から死体が出てくるのである。死体の群れの右手は山。左手もそう。その間の雪原に、死体が横並びに立っている。百体ほどはいるだろうか。そこから死体は撃ってきて、同時に前進もしてきている。こちらは二十人。むこうは百体以上だ。近づかれたら、到底勝ち目はない。なんとしても近づかせずに戦う必要があった。幸いにして、いまはこちらが地の利を得ている。むこうは隠れるところがなく、こちらは小屋や石垣に隠れて戦えるからだ。銃の腕も、死体はよくない。赤い眼をした死体は正確に狙い撃ってくるが、その数は決して多くない。きっと死体術師の、その力の消耗が激しいのだ。百体のすべてが赤い眼の死体なら、こちらが敗けていただろう。ぼくはその赤い眼の死体から撃つようにしていた。そいつらは死体術師の肝いりの死体のはずだからだ。これまでも――前世でも、そうだった。赤い眼の死体から殺していくと、次第に減っていったのだ。強いが量産できるものでもない、ということになる。

 それにしても。ヤツらはなんなのだろう。軍服で銃も持った死体ばかり。軍人なのか。しかしこの辺りに、軍の基地や演習場はない。ここは、外界から隔絶された寒村なのだ。なにかあっても、警察や軍隊はすぐには来てくれない。来られない。そんな場所である。考えられるのは、この辺りで、機密の演習でもあったということだ。八甲田山のような、冬季行軍の演習である。その行軍中の部隊になにかあったか、死体術師がなにかしたかで、こうした多くの軍人の死体がヤツの手に渡ったのだろう。前世で戦った、村人や賊などと比較にならない強敵。死体の軍隊が――ぼくらの村に攻め寄せてきていた。

 でも軍隊といっても死体だ。隠れる、伏せる、迂回するなどといった行動を取らない。腹ばいになって前から見える面積を減らし、銃弾に当たりにくくするだけでも、こちらの命中率は大きく低下するのに。死体には恐怖がないのだろう。接近戦では恐ろしい特徴。しかし距離を取った銃撃戦では、いたずらに犠牲を増やすだけだった。

 だが、敵はそれでも軍隊だ。猟師とは違う。敵は雪原に、三基の機関銃を設置したのだ。露西亜との戦闘でも猛威を振るっているというマキシムマシンガンだ。ぼくらはあわてて物陰に隠れた。雪崩のような音に伴い、すさまじい数の銃弾が襲い来る。ぼくらは物陰にいる。だが木の建物の陰にいると、その木の壁を銃弾が貫通してきてしまう。これまでのライフル弾も貫通してきたが、それほど多くはなかった。機関銃の集弾性ゆえだろう。

 このままではやられる。ぼくは石垣の陰で、這いつくばって機関銃弾から逃れている。ぼくはそのまま通りに転がり出て、機関銃を撃っている死体を撃ち抜いた。速射で狙撃。ぼくにとっても難易度の高い射撃だったが、なんとかやってのけた。硬い地面に腹ばいになったままでの射撃だったので、狙い撃ちがしやすかったのも大きい。だがそこに、敵のライフルと機関銃の弾が集中してきた。ぼくはあわてて元の物陰に転がって戻る。

 凍りついた雪の上に転がっているので、つめたくて仕方がなかったが、顔をあげれば、銃弾の雨にさらされる。機関銃の弾と、およそ百人分ものライフル弾にだ。これまで盾にしていた建物の壁は、いまは機関銃に穿たれて穴だらけだった。

 銃弾の雨がやまない。ぼくは、石垣の陰からそっとむこうを覗き見る。機関銃を使っていた死体は撃ち倒したが、すぐにほかの死体が交代してしまったようだ。機関銃の射撃がまた三基とも再開されたのだ。あれではどうしようもない。機関銃は、これまでの戦争のやり方を塗り替えたような代物だ。少数の猟師などで、どうにかなるものではないのかもしれない。

 しかし、どうにかしなければ勝ち目はない。ぼくは師匠に頼んで、機関銃を撃っている死体に銃撃を集中してもらった。機関銃の掃射が、三基とも止まった。その間にぼくは、物陰から飛び出し。機関銃自体を撃ち抜いた。二基目、三基目も続けて撃ち壊す。

 機関銃の破壊。それは成功したようだ。赤い眼の死体が機関銃をすこしいじり、しかしすぐにあきらめてライフルで撃ってきたからだ、それで、これまで通りの銃撃戦になった。およそ百人対二十人。人数のうえではこちらが不利だが、こちらは建物の陰があるなど、地の利を得ている。それでなんとか互角に戦えていた。

 しかし次第に膠着状態が崩れてきた。むこうの射撃が、次第に散発的になってきたのだ。おそらく、弾が切れてきている。むこうはこれまでに休みなくバカスカ撃ってきていた。こちらは物陰に隠れたまま狙いすまし、できる限り外さないように撃っていた。そうしてバラ撒きと精密射撃の差が出たのだろう。

 さらにこちらは、村の中で戦っている。弾がなくなったら、家まで取りに戻れるのだ。師匠など、ナギサの実家である商店から大量の弾をかっぱらってきて、ほかの猟師たちに配ったりもしている。そしてぼくは、弾の補充が必要ない。壊してなおせば満タンになるからだ。能力はまだまだ使えるし、体力もまだもちそうだ。

 だがそこで、敵が戦い方を変えた。銃剣を銃に取りつけ、突撃してくるようになった。だが敵の足取りは遅い。深い雪と畑の土に、足を取られているのだろう。ぼくとナギサはあぜ道を駆けてきた。なのでそこを駆けてきた死体は走るのが速かったが、ほかの死体を置き去りにして突出していた。そいつらはこちらの弾が集中し、倒れていった。

 すると敵は、動かなくなった死体を盾にして押し寄せてきた。今度は、止められない。正確に頭部を撃ち抜かないと止まらない死体が、ほかの死体の陰に隠れてしまっている。はみ出した手や足を撃ってもまるで速度が落ちない。

 これは、勝てない。そう思ったときだった。

 どん、と音がした。村の北にある森で、緋色の巨大な火柱が立ち昇っている。彼女が、シスタークがあそこにいるのか。それと同時に、死体がバタバタと倒れていく。やがて、死体は一体も動かなくなった。死体術師だ。ヤツをシスタークが見つけ、倒したことで、死体の操作や吹きこんだ命が失われたのだろう。

 彼女のおかげで、死体の軍隊に勝つことができた。彼女のおかげで、かろうじてだけど。しかし、その反対側に力を感じた。シスタークに引けを取らない、あまりに強大な力。

 邪神がそこに、すぐそこにいるのだった。


   8.


 村人たちが逃げてきた。

 一度は村から脱出したはずなのに。

 だが村の南側に、邪悪で強大な力を感じる。南は村人たちの逃げたほうだ。そちらにも敵が現れ、村人たちが戻ってきてしまったということか。死体の群れがもう片付いていてよかった。でなければ村の中で、村人たちが死体の群れに襲われていたかもしれない。

 それから、南にあった邪悪で強大な力が分かれた。どういうことだ、とぼくは訝しみ、近くにあった物見やぐらに登った。戦っている間にいつの間にかときが過ぎていて、もう日が暮れかかっていた。その赤い空を、黒いものが飛んでいる。はじめは鳥かと思った。しかし近づくにつれ、蝙蝠に近いものだとわかった。そしてそいつがさらに接近してきて、そいつが人を丸吞みにしそうなほどに巨大なのだと理解した。翼の先から反対の先まで、およそ二十歩分はあるか。それが何体もいる。

「どういうつもりだ……?」

「邪神の作戦だね」

 ひとりでつぶやいたつもりだったが、いつの間にかとなりにいたナギサに聞かれていた。いつから彼女はとなりにいたのか。もしかしたら、戦っている間もずっととなりにいたのかもしれない。戦闘にかかりきりで、ずっと気づいていなかったのだ。

「邪神の作戦、というと?」

「シスタークだっけ? そのひとを不利にするつもりだよ」

「そっか。飛べる相手が多くいたら」

「さすがの彼女も苦戦するだろうね。そしてあの怪物にヒトを襲わせれば、彼女はヒトを守りながらの戦いを強いられる。あの数が相手だ、ヒトを守りきるのも難しいだろうし。その間にヤツらは捕食も行う気だよ。そうして力も増す腹積もりだ」

「人質と食事か……」

「そういうこと。ヤツらはヒトの恐怖を糧にする……ここを戦場にするだけで、ヤツらは力を増していく。かといって街道は破壊されて、ほかの村に避難することもできない」

「……ナギサはなんでそんなことがわかるんだ?」

「神さまからのお告げさ。ほんとうだよ。君には信じてほしいな」

「いや、信じるよ。邪神が分離した、そのおおもとの神さまだろう? ナギサが交信していたのか」

「うん。巫女さんに伝えていたのも僕でね。なぜだかそういった力があるのさ。でもその神さまは、ほとんど力がないらしい。古めかしい知識と〝見る〟力による助言。その程度しかできないと言ってるね」

「いや、状況がわかったのは大きい。けどどうすればいいんだ?」

「人々を家屋に避難させる。それだけでも違うはずだよ」

「よし行こう。できるだけ頑丈な建物に、人を避難させるんだ」

「屋敷や工房、僕の家だね」

 村の中は、大騒ぎになっている。悲鳴と怒号でわけのわからない状態だ。そこにまず、ぼくは銃をぶっ放して銃声を轟かせる。すこしだが効果はあった。わずかに静かになったところに建物へ入れと叫ぶ。屋敷の近くの人は屋敷に、工房の近くにいる人には工房にと叫びまわり、尻を蹴っ飛ばしてでも避難させていく。その間も蝙蝠のような怪物は、人を襲っていた。噛みつき、喰らいつき、足で人をつかんでかっさらっていく。炎を吐いて、人を丸焼きにするようなこともする。物見やぐらから銃撃し、怪物に応戦する人もいたが、あの巨躯の前ではライフルなどほとんど効果はないようだ。よほど体が頑丈なのだろう、怪物は物見やぐらに体ごとぶつかっていき、打ち壊してなぎ倒していた。

「早く逃げろ! 建物の中で!」

 人々を逃がすために駆けまわっていた。とても目立つ行動をしていたと思う。だから、怪物に目をつけられた。ぼくを狙って襲い来る怪物。ぼくは、広場の真ん中に立っていた。逃げる場所がない。どの建物も遠い。――身を隠せない。

 ライフルで応戦。しかし意味はない。その巨躯が、鎧のようなうろこで覆われている。あれでは銃弾など通るまい。強力なライフル弾でもだ。

 それなら――鱗のない場所だったら?

 ぼくはそこを狙い撃った。怪物はぼくにむかってまっすぐ突っこんできていた。だから、そこを狙撃することができたのだ。

 撃たれた怪物が地に堕ち、のたうち回る。ぼくは、怪物の左眼を撃ったのだ。さすがに眼球はもろく、しかも巨躯ゆえに大きいので狙いやすかった。ぼくは、もうひとつの眼も撃ってやろうと怪物のほうへ駆け寄った。しかし怪物がバタついていてとても狙えない。しかし地に堕ちたいましかチャンスはない。どこを狙うか。そう思案していたときだった。

 ――油断した。怪物がいきなり起き上がり、翼で殴りかかってきたのだ。翼そのものはなんとかかわした。だがその翼で起こした爆風で吹っ飛ばされた。ぼくは蹴っ飛ばされた空箱のように吹き飛び、なにかやわらかいものに突っこんだ。

 ぼくはどうにか上体を起こす。周囲を見やる。ぼくはすこし高い場所にいた。そして、ぼくの体は藁に突き刺さっていた。藁(わら)葺(ぶ)きの屋根に突っこんだようだ。それで、なんとか怪我をせずにいられたようだ。広場の真ん中からここまで、なん十歩分もの距離がある。硬い場所に、木の壁や石垣などに突っこんでいたら、ぼくは助からなかっただろう。

 しかし安堵している余裕もない。怪物は、広場の真ん中に取り残されたナギサを狙っている。とっさに撃った。怪物の意識をこちらにむけられれば。そう思って撃った一発。

 それが――怪物の右眼に当たった。その怪物にとっては、唯一残されたもうひとつの眼。そこを撃ち抜かれ、怪物がとんでもない悲鳴をあげた。大きく口を開けて、雷鳴のような声の大きさで叫んでいる。そこに、ナギサが駆け寄った。怪物の口内にライフルの銃口を突っこんで撃つ。撃つ。撃つ。怪物の後頭部――うろこのないところから銃弾が飛び出してくるのがぼくのいるところからも見えた。怪物が力なく倒れ伏し、動かなくなる。

 ――やった。ぼくとナギサの力で、怪物を倒したのだ。

 しかし、二体目は不可能だろう。怪物の油断と豪運。それがあってこそ勝ったのだ。

 だから――どうしようもなかった。広場の上空に、怪物が集まってきたのだ。ナギサとぼくが狙われている。あれほどの巨躯で炎まで吐くのだ、屋内に逃げこんでも、建物ごと焼かれるか打ち壊されるかだ。これまでに人々の避難誘導もしてきたが、きっとそれも、時間稼ぎ以上の意味はない。そして怪物の恨みを買ったぼくらは、執拗に狙われ、建物も破壊されるはずだ。

 だがそこに――炎の鳥が飛来した。緋色に燃える、炎の鳥。おそらくそれがシスタークだ。彼女もどこかで戦っていたのだろう。そうしてそちらの敵は撃ち果たし、こちらのほうへ駆けつけてくれたのだ。以前シスタークは、ヒトを守ると言っていた。そのために彼女は、ここへ来てくれたのだ。ぼくらにとっては、最高の援軍だった。味方だった。

 そのシスタークが、怪物の群れを通り抜けて、突き抜けていった。怪物がそれを追っていく。シスタークは振り返りざまに、緋色の火の弾を何発も放った。それは先頭の怪物に三度、四度と命中し、その怪物を爆散させた。怪物の巨躯を、小さな炎の鳥が撃ち砕いたのだ。ぼくは、驚嘆していた。圧倒的な体格差。それを彼女は、覆したのだ。

「ナギサ、建物の中へ!」

 ぼくは力の限り叫んだ。ナギサがうなずき、近くにあった屋敷へと駆けこんでいった。それを見送るとぼくは、村から飛び出し、雪原のほうへ走っていった。あの死体の群れが倒れている場所。そこに落ちている武器――死体の使っていたマキシムマシンガン。ぼくは壊れたそれを拾い、瞬時になおした。そしてそれを抱え、村のほうへと駆け戻っていく。

 村の上空。そこで炎の鳥と怪物は戦っている。いまのところは炎の鳥が優勢だ。怪物の攻撃は当たらない。炎の鳥の攻撃は当たっている。しかし怪物は、一発二発の攻撃だけで倒せるような相手ではない。そして当たってからも時間が経つと回復してしまうようだ。だから優勢に戦ってはいても、炎の鳥のほうが追いつめられている。いくら怪物に攻撃を当てても、とどめを刺しきれないのだから。

 しかしぼくがそこに参戦した。上空を飛ぶ怪物の翼。それを機関銃で狙い撃っていく。やはり翼はもろかった。薄い皮膜しかないのだ。機関銃の弾でも、確実に撃ち貫けている。

 だがそれでも怪物は墜ちない。撃たれた怪物がこちらをむいた。そして飛翔してくる。その後頭部に、緋色の火の弾が命中した。シスタークが、ぼくを助けてくれたのだ。だが怪物が、その一撃であっけなく撃墜された。怪物は屋敷の瓦屋根の上に落ちて、ピクピク動いている。だがそいつを撃っても反応はなく、ただ痙攣しているだけのようだ。怪物は、死んだようだった。後頭部への攻撃。それが怪物にとって効果的で致命的だったのだろう。

「――そこか!」

 それを見てとり、シスタークが戦い方を変えた。背中や翼から火を噴き、猛スピードで飛んでいく彼女。それを追っていく怪物ども。しかし彼女は翼を前へむけ、急停止した。一方で怪物の群れは不意を討たれ、そのまま止まりきれずに彼女の横を通り過ぎていく。そうして通過していってから怪物どもは、なんとか止まろうとしている。なんとかそこで停止しようとして速度を落とし、シスタークに隙だらけの背面をさらしている。そこに、シスタークが攻撃を加えた。怪物の後頭部に、緋色の火の弾が次々と命中する。後頭部に攻撃を受けた怪物は、皆その一撃で落下し、動かなくなった。そこが、怪物の急所だったのだ。シスタークは、その戦い方をくり返した。高速で飛ぶ。それを怪物が追ってくる。だがそこで急停止する。巨躯で重たい体の怪物は、シスタークと違って止まりきれない。そこで背部をさらした怪物に、攻撃を浴びせかけていく。

 それで怪物は、残り三体にまで減った。怪物どもがおののき、どこかへ逃げようとする。しかし彼女は、そいつらを逃がさない。逃げる怪物の後ろから攻撃を浴びせて撃墜した。

 すべての怪物を討ち墜とした。だが敵は、それですべてではない。

 休んでいる間もない。入れ替わりに邪神がやってきたのだ。邪神はほとんど変わってはいない。ヒト型の体。嘴のような顔に、橙色に光る単眼。剣のような両手に、糸を束ねて造った翼。

 だがただひとつ――体格だけが違っていた。最初は大柄な人間程度で、二度目は騎乗をした武士よりもすこし大きい程度だった。いや、それでもかなり巨躯なのだが、それでもこれほどのサイズではなかった。

 邪神は、小さな家であればまたぎ越すほどの体躯になっていたのだ。

 それだけ力を増している、ということなのだろう。

 一方でシスタークは、力なく着地し、ふらついている。連戦で体力を消耗し、もうほぼ力がない状態のようだ。とても戦える状態ではないのだろう。

 しかし彼女はそれでもあきらめていない。彼女はヒト型に変じると、ナギサの落としたライフルを拾い、邪神の眼を狙い撃つ。通常なら、急所だろうが、力の差がありすぎた。弾はむなしくはじかれている。邪神はなにもしていない。ただ歩いているだけだ。

 広場の真ん中。そこでシスタークは邪神と対峙している。ぼくはそこに駆け寄り、手に持った機関銃の掃射を浴びせた。しかしなんの意味もない。はじめからわかりきっていたことだった。すでに邪神は、銃など効かなくなっているのだ。この前は弱っていたからか、地頭さまの強弓の矢は効いていた。それで人間の武器など通用しないほどに、強くなってきたということなのか。

 機関銃の弾が尽きた。叩きつけて壊す。だが、なおせない。疲れきり、能力も使えなくなってきたということなのか。呆然として、壊れた機関銃を取り落とすぼく。そうやって絶望したぼくの傍らで、シスタークが緋色の火の弾を放つ。ありったけの力で雄たけびを発し、力の限り撃ち放った緋色の火の弾。それを邪神は、防御もしない。邪神の、宝石のような鎧。それに覆われた腹に命中したが、邪神には傷ひとつついてはいなかった。

 邪神が、嗤っている。表情などはわからないが、その気配は伝わってきた。

 そして邪神が、両手の間に火の弾を造る。シスタークのそれと違い、金色の火の弾だ。そこに絶大な力がこめられていることは、炎など扱えないぼくにもわかった。あれほどの力なら、ここら一帯を吹き飛ばしてしまうだろう。

 それだけの威力を用いて、邪神はシスタークを滅ぼすつもりだ。灰さえも、残さない。そうなればいくらシスタークでも、復活できないかもしれない。


『灰燼(かいじん)に帰せ!』


 その火の弾を邪神が放つ。それをシスタークは、よけない。

 代わりに両手で受け止めた。やがて彼女の体が金色に燃えだし、彼女は金色に光り輝く炎の鳥となった。彼女は、炎を扱えるようだ。それが、邪神の放った炎であっても。

 そしてシスタークはその炎を身にまとい、邪神めがけて突っこんでいった。

『ば、馬鹿な!』

 それが邪神の断末魔だった。大爆発。金色の火の弾は、ここら一帯を吹き飛ばすほどの大爆発を起こしたようだ。周囲が見えない。煙が晴れる。村が、なくなっていた。石垣や井戸が残っているだけで、建物は皆吹っ飛ばされたらしい。中にいた人々も、助からないだろう。しかし邪神の姿もない。あの圧倒的な気配を感じない。邪神も、死んだようだ。

 そしてぼくも、もう長くはなかった。ぼくも爆風で吹き飛ばされ、手足が千切れ飛んでいた。流れ出る血とともに、体から力が抜けていく。

 いま自分がどこにいるのかはわからないが、村からそう遠くはないだろう。吹き飛んで更地になった村が見えているのだ。だからぼくは、村人たちとともに逝くことができる。

 あちらに行けば、また皆と会えるだろう。ナギサとも会えるだろう。

 しかしシスタークはどこにいるのか。無事なのか。それだけが、気がかりだった。


   9.


 ずる、ずるという音が聞こえた。

 ぼくは閉じていた瞼をそっと開く。

 すると――見えた。こちらにむかって這いずってくるシスタークの姿だ。彼女はぼくと眼が合い、にこりと力なく笑う。そうして彼女は時間をかけてぼくのところへ到達した。それからぼくを、ギュッと抱きしめてくれる。抱きしめる力だけ、残してくれていたのか。

「おまえももう、助かりそうにないな」

「そうですね。わかります。もう三度目なので……」

「そうか。残念だ。私はひとりも守れなかった」

「でもあの邪神が自由になれば、ほかの村も襲われたでしょう。下手したら日本中が」

「そうかもな。でも私は、守りたかったんだよ」

 村は、もうない。村人も死に絶えた。シスタークは、今度こそひとりきりになった。

「シスタークさん。聞いてください」

「なんだ? なんでも言いな。言ってみろ」

「ぼくは、あなたが好きでした。あなたのやさしい笑顔が好きでした」

「そうか。そうか……」

 なにかを納得したようにうんうんと頷き、彼女は口もとを綻ばせた。

 しかしその彼女の頬を、涙の粒が滑り落ちていく。

「もう楽になれ――」

 そう涙まじりの裏返った声で言うシスターク。ぼくの体が、熱い緋色の炎に包まれる。

 彼女が――泣いている。ぼくのせいで泣いている。ぼくが死んでしまったせいで――。

 後悔。

 たったいま、それが生まれた。ぼくはそれを後悔していた。

 シスタークを泣かせたこと。悲しませたこと。それをぼくは、悔やんでいた。

 今度こそ――敗けない。守ってみせる。ナギサも人々も、そしてシスタークのことも。もっともっと強くなって、ぼくがみんなを守るのだ。ぼくらを守ろうとしてくれた彼女、シスターク。あのひとのことも、ぼくが守る。そして二度と悲しませない。泣かせない。

 もしも――また生まれ変われるのなら。

第四章 生きて伝える「愛してる」




 ぼくは、自転車が趣味だった。

 長距離を走ったり、峠を攻めたりするのだ。

 その日も休日を利用し、秋の山を走りまわっていた。雪が降り積もる前にとその峠道を駆け登っていた。かつてあった村の跡。そこを目指して駆けていたのだ。

 理由もわからないまま滅びた村。なんとなく興味があって訪れた。家屋はなぜかすべてなくなり、石垣や井戸の上にも草が生い茂って、村はほとんど自然に呑みこまれている。

 ぼくはなんとなく気になってその村をうろつき、村のはずれにある墓場にたどり着いた。だがその墓場に、荒れ果てていない場所があった。ほとんどの墓石は小さく粗削りなものばかりで、ほとんど草に埋もれかかっていた。だがその最奥にある、ひときわ小さな墓石だけは埋もれずに見えている。そこにむかう道だけは草がなく、誰かが頻繁に通っているようだった。その墓石には名さえもないが、きれいに磨かれていて、草抜きもしてある。そして最近誰かが訪れたのか、真新しい花束が活けられ、手向けられていた。

 なんだか胸がドキドキして落ち着かなかった。ぼくは自転車を押してその村をうろつく。そうして見つけた。広場のような場所の中央。そこに無造作に転がっていたのだ。

 長さが二メートルを超える、巨大な剣のようななにかだ。

「なんだこれは……」

 胸騒ぎがした。これをどこかで見たような気がした。ぼくは忘れている。とても大切ななにかを――誰かを。

 ここまで出かかっている。しかし思い出せない。ぼくは自転車に乗って、走りだした。

 なにかを感じる。胸がざわめく。村の外。村の出口。ぼくとはすれ違いになっていた。彼女もついさっき、この村を訪れていたのだ。きっと墓参りをするために――。

 待ってください。

 言葉は出なかった。出ていたら、なにかが変わっていただろうか。彼女の背中。そこにぼくは、声をかけられなかった。

 緋色の髪の、その女性。彼女は緋色の翼で大きく羽ばたき、空に飛び去っていった。

 それを目にして、蘇った。すべての記憶だ。思い出だ。鍛冶屋だったころ。従者だったころ。そしてこうなる前のこと。村が滅んだときのこと。およそ百年前のことだ。ぼくは戦い、そして死んだ。シスタークに抱かれて死んだ。

 彼女を泣かすまいと誓ったこと。

 それもいまになってぼくは、ようやく思い出したのだ――。


   1.


 ぼくは、恋をしていた。

 シスタークに恋していた。

 千年前も、数百年前も、百年前もそうだった。しかし、彼女に出会えたのは、その中のわずかな時間でしかない。長い長い、永いとさえいえる時間を彼女は生きている。そんな彼女の生の中で、ぼくが彼女と居られたのはほんのわずかな時間だけだ。

 三度生まれ変わってもまだあのひとが好き。

 それが、ぼくの恋だった。


 ぼくは、中学生になっていた。

 鍛冶屋でも従者でも猟師でもない。

 だがその記憶が蘇ると、学生生活が、勉強というものがひどくつまらないものに思えた。

 仕事というものが、とてもやりがいがあったからだ。村人たちの、特に戦士たちの役に立っていた。姫君につき従い、狩りにつきあって護衛もしていた。猟も、あの村にとって必要不可欠な仕事だった。増えすぎた動物は田畑を荒らしたり、人に襲いかかったりするからだ。栄養という意味でも、猟で得た肉は貴重なタンパク源でもあった。

 しかし勉強はよくわからない。どういった役に立つのか。誰の役に立つのかも。それでやる気になれない人が多いのではないかと思う。どんな仕事をするのかよっても、役立つ勉強は変わるだろう。例えば鍛冶仕事をするため、金属の性質を知るなどだ。

 だがそれを、ナギサに言ったら叱られた。勉強というものは、なにかに打ちこむための訓練なのだと。スポーツでいうところの基礎トレで、なにをしてもやっていけるように、脳や精神、習慣などを鍛えているのだとか。

「肉体労働はどうなるんだ?」

「それだって、意味とかどーゆー流れのどこにいるかとか、わかってるほうがいーのです」

「なるほど……昔より複雑になってそうだしな」

「まるで昔の人みたいな言い方なのです」

「ちょっと興味あったんだよ。昔の人の仕事とか、村社会とか」

「ケンはおかしなおかしなヤツなのです」

 日本人形みたいな髪型。委員長。成績は常に学年上位。それが、ナギサだった。ぼくは目立たないとか特徴がないとか、ひどいとパッとしない、などと言われる。自分の特徴は、自分ではよくわからないのもあって、自分がどういうヤツかは、人に説明はできない。

「ではではケン、さっさと宿題をやるのです」

 今日はナギサの家に来ていた。幼なじみなので、自分の部屋のようにくつろいでいる。ぼくは成績など平均でいいと思っているのだが、ナギサは同じ高校に行きたいのだという。なのでいつも勉強を教わっていた。記憶が戻ってからも、その習慣は、変わってはいない。

「この宿題も、将来にむけたトレーニングなのか」

「そーなのです。仕事を持ち帰ったり、自主的に調べものをしたりするのです」

「父さんもよく調べものはしてるな……そういう意味じゃ、友達との関係造りもか」

「身近な人との人間関係をこーちくする訓練なのです」

「そういう意味じゃ、部活も有意義なものなんだな」

「特に運動部ですね。こんじょーとかとーそーしんとかを養えると思うのです」

「……なるほど」

「それがゆーいぎになるか無駄になるかは、結局その人次第だと思うのですよ」

「そうか。活きるかどうかじゃなくて、活かすかどうかか」

「ケンは、将来なにがしたい、というのはあるのです?」

「ものを造る仕事がいいな。それこそ打ちこめるし、〝なおす〟能力も役立ちそうだ」

「なるほどなのです。昔からケンは、おもちゃを造ったりするのが好きだったのです」

「ナギサは? なにか考えてんの?」

「実家の仕事を継ぐのです」

「神社か」

「そーです。かわいーかわいー巫女さんなのです」

「正月とかに、よく手伝いをしてるよな」

「よこーえんしゅーなのです」

 将来のこと。そろそろ考えなければならないのだろう。義務教育も、もうすぐ終わりだ。前世では、同じ歳でもう仕事をしていた。成人の年齢が、いまよりずっと低かったのだ。鍛冶職人、姫君の従者、猟師といった仕事をしていたが、肌に合っていたのは鍛冶職人だ。今世でも、似たような仕事に就けたらと思う。


 夢を見る。

 またシスタークの夢だ。

 記憶を取り戻してから、毎晩夢に見るようになった。遠い遠い片想い。それに苛まれるようにもなった。記憶が戻り、恋する気持ちも蘇ったのだ。

 ――必ず会いに行こう。

 あのひとのもとへ行こう。

 ぼくはそう決めた。記憶にある、過去に出会った、前世で恋した彼女に会いに行く。

 しかし。

 またぼくが死んでは、元の木阿弥だ。再度あのひとを悲しませてしまう。またしても、彼女を泣かせない。泣かせてはならない。ぼくは前世で、そう決めたのだ。

 だが武器がない。機関銃も効かなかった相手だ、ナイフやバットでどうにかなるようなものでもないだろう。でも今世では武器が手に入らないのだ。それだけ平和になっている、ということでもあるが、備えという意味では、脆弱になった。

 自衛隊にでも入るか。それよりは、実戦経験の多いアメリカ軍か。たしかフランスでは、外人部隊も募集していた。国籍を問わないなら、傭兵という手段もある。

 強くなりたい。これまでもそう思っていた。しかしいまでは、これまでにないレベルでそう思っている。これまでのように、死と引き換えでは駄目だからだ。そうすると、またシスタークを泣かせてしまう。それでは同じことのくり返しだ。

 強くなりたい。焦がれるようにそう思っていた。しかしどうしようもなかった。いまの世の中で、武器を手に入れることができないからだ。手づくりの爆弾や武器などで倒せる相手でもないだろう。暴発などの危険を鑑みれば、造らないほうがまだマシではないかと思うぐらいだ。ほかに思いついたのは、どこかから武器をパクるか、タンクローリーでも突っこませるようなことだ。だがマシンガン以上の武器など、盗めるはずもない。それにタンクローリーも、盗めばすぐに足がつくだろう。このアイディアは、ボツだった。


 期末テストが終わった。

 二学期の終わりまでもう間はない。

 雪が降りはじめていた。山のほうや家の屋根など、すでにうっすら積もりはじめている。冬休みになればまた、と考えていたが、あの村に行くことはもうできないかもしれない。雪山の危険性は、一度遭難して死にかかったのでよく知っているのだ。

 あれからあの村のことを調べた。村の建物がすべて吹き飛ばされていて、村の近くでは演習中の三百人近い部隊が行方不明になっている。それほどの大事件でありながらもその事件が有名でないのは、その事件に関して緘口令が敷かれていたからだ。しかしどのみち、事件の詳細を知る者など全滅でいない。この事件は規模が大きいながらも迷宮入りなのだ。

「ケンは、冬休みはどーするですか?」

「なにも考えてなかったけど……ちょっと調べものをしたいな」

「わたしもきょーりょくするですか?」

「いや、ナギサも忙しいだろ? ひとりで調べて、行き詰まったら頼らせてもらうさ」

「そーですかそーですか。ケンのためなら、神さまと話してもいーのですよ」

「どうしようもなくなったらね」

 ナギサは神さまと交信できる。そうしていくつもの予言をしてきた。天災や大きな事故、重大な犯罪などを言い当ててきたのだ。シスタークの敵――邪神のことも、聞けばなにかわかるかもしれない。だがそれは、最後の手段だ。予言はナギサの消耗が激しく、何度もやれるものではない。神さまに質問をするにしても、あらかじめ調べ、絞っておくべきだ。

 だが調べるにしても、記録はなにも残っていない。村そのものが全滅しているからだ。あの村は完全に孤立していて、近隣の村との交流もほとんどなかったらしい。伝承なども、伝え聞かせる人がいなくなって途切れてしまったのだろう。あの墓場もすべて調べたが、情報はなにも得られなかった。あとは、シスタークにでも聞くしかないのかもしれない。生き残りといえるのは、いまはきっと彼女だけだ。


 それから邪神のことも調べた。

 といっても、かなりの遠回りをしている。

 ぼくには記憶が残っている。前世の記憶――鍛冶屋と従者と猟師だったときの記憶だ。しかしその記憶は膨大で、うまく引き出すことができない。幼いころの思い出と同じで、引き出すことが難しくなっているのだ。だから、関係する情報を調べあげて、すこしずつ思い出していくしかない。それ以外に、手がかりはないのだ。

 古代のこと。まだ刀すらない時代。それから武士の時代。といっても、戦国時代よりはずっと前のことで、封建制の色が後よりずっと強かった。そして、日露戦争の真っ最中。その当時の歴史や人々の暮らしぶりなどを調べあげ、ぼくはいろいろなことを思い出した。はじめは二メートルもなかった邪神が、四メートル以上になり、十メートルを超すまでになっていった。それだけ力を増しているのだ。復活するまで何百年もかかっているのも、シスタークという敵がいて、勝つために力を蓄えているのだろう。だが前の復活からは、まだ百年しか経っていない。今世では蘇ってこない、という可能性もある。これまでに、ぼくの生まれ変わりとほぼ同じ時代に蘇った理由はわからない。たまたま、ということも考えられる。それか、ほかの時代にも蘇ってはいたものの、そのときの記憶がないかだ。そもそも記憶を保っているのがおかしいのだ。シスタークも、ほかにいないと言っていた。

 蘇る。ぼくは何度でも蘇る。

 そうしてぼくは敵と戦う。邪神と戦う。

 ずっとずっと戦いつづける運命(さだめ)。そこから彼女を救い出すために。

 そのためならぼくは、何度死んでもかまわない。何度くり返してもかまわない。

 必ず邪神と同じ時代に生まれ、何度でも邪神を打ち払ってみせる。

 長い長い、永いとさえいえる時を過ごし、彼女を守りつづけることができるのは、このぼくを置いてほかにはいないのだから――。


   2.


 ナギサが、弁当をくれた。

 聞けば、彼女の手づくりなのだという。

「ケンのおかーさんから、ケンのことを頼まれたのです」

 とのことだった。ぼくも料理はできるのだが、できてもとても手間がかかる。弁当は、ありがたくいただくことにした。鶏肉と白ご飯がふんだんに入れられた、男の好むめし。山野を駆けまわるぼくに、うってつけのメニューだった。

「ケン。危ないことはしないでほしいのです」

「わかってる。気をつけてるよ」

 もう山には雪が降り積もっている。でもぼくは自転車で、何度もあの村を訪れていた。ナギサはそれを言っているのだ。彼女は以前にも、話していないぼくのことを知っていたことが何度もあった。彼女の、予言をする力。それとなにか関係があるのかもしれない。

「知りたいことがあるのなら、わたしが力になれるのです」

「うん、頼むよ。でももうすこし、もうすこし調べて絞ってからかな」

「そーですか」

「ナギサのことは、頼りにしてるからさ」

「それならいーのです。でも無茶だけはしないでほしい」

「遭難とかはしないからだいじょうぶだよ。道路からは外れたりしないし、その場所には行き慣れてるしね」

「行き慣れてる、ですか? その村には、最近はじめて行ったのではないのですか?」

「……誰にも言わないって約束できる?」

「約束するのです」

 即答するナギサ。ぼくは一拍置いて、言葉をためてから口にした。

「ぼくは昔、あの村で暮らしてたんだよ」

 秘密を明かした。はじめてのことだ。これまで誰にも言えなかったのだ。

 ナギサは驚くというより、不思議そうな顔をしている。

「ケンはこの町で生まれ育ったはずなのです。それにあの村は、百年前に滅びてるはず」

「――前世だよ。信じてもらえないかもしれないけど、ぼくには前世の記憶があるんだ。思い出したのはつい最近だけどね」

「どおりでたまに、昔の人みたいなことを言ってたのです」

「そんなに言ってた?」

「よく言ってたのです。家電製品なんかを見て、昔はこんなのなかったって言ったり」

「お年寄りみたいだなそれ」

「きっと明確に思い出したのは最近でも、無意識下で残ってたのです」

「そうかもな……つか、信じてくれるの?」

「ケンの言うことなら信じられるのですよ。それに、同い年なのにときたま年上のよーに思えることが少なくなかったのです。でも最近は、あまり感じなくなったのです」

「追いついたからだろうね。生まれ変わる前の歳に」

「つまり、いまぐらいの歳で死んだのです?」

「そうみたいだね」

「なぜです?」

「……いろいろあってね」

 邪神のこと。それを神さまと交信している彼女に話すことは、ためらわれた。

 いろいろあった。そんな言葉では返事になってない、とナギサの目つきが物語っている。しかしナギサを、もう巻きこみたくはない。前世で村ごと吹き飛ばされたように、彼女をもう死なせたくはない。同じ名で同じ顔。性格はすこし違っているが、根本的なところは変わっていないように思う。きっとナギサも生まれ変わりなのだ。それもぼくと同じで、最低三度は生まれ変わっている。そしていつの世でも彼女はぼくと居た。鍛冶屋のときも、従者のときは姫君として、猟師のときはぼくに恋する乙女としてだ。

 その彼女をもう巻きこみたくはない。彼女を無残に死なせたくない。

 それがぼくの、譲れない最後の一線だった。

「わたしに秘密は許さないのです。さっさとはくじょーしろなのです」

「わけがあって黙ってるんだ。掘り起こさないでくれるか」

「……ケンがそーゆーのなら……」

 ぼくがそう頼みこむと、ナギサは困ったように笑い、それ以上は追及してこなかった。


 それから弁当を持って、山に入った。

 あの村へむかうため、雪道を自転車で進んでいく。

 途中、壊れた車を見つけた。山に似合う大型のジープだ。凍りついた路面でスリップをして、コンクリートの壁にぶつかったのだとか。ぼくは、その車を能力でなおした。だがこんなに大きなものでさえなおせるとは、ぼく自身も思ってもみなかった。運転手には、大変に驚かれ、感謝された。お祈りまでされたので、なにかカン違いされたかもしれない。

 昔なら、隔絶されて孤立していたその村。しかし現代であれば、自転車でも半日あればたどり着ける。道路が舗装され、トンネルが掘られて橋が架けられているからだ。大きく迂回する必要がなくなり、かかる時間が大幅に短縮されているのだ。だからぼくは、よく日帰りでここを訪れていた。シスタークに会うには、それしかなかったからだ。ここ以外、彼女が訪れそうな心当たりはないのだ。ここに来ると、前世の記憶を思い出すこともある。たとえば鶏肉入りの餅だ。ぼくは狩りなど忙しいときに、よく鶏肉入りの餅を造っていた。さっき鶏肉の入った弁当を食べ、それを思い出したのだ。シスタークにも気に入られて、彼女にも注文されたそれを忘れてしまっていた。一度死ぬとは、そういうことなのだろう。どれだけ大切な記憶であっても、霧散したように消えて思い出せなくなってしまう。

 墓場には雪が降り積もっている。その小さな墓石にもだ。手向けられた花もそのままで、すっかり乾いて枯れてしまっている。足跡なども、一切残ってはいない。

 あれから彼女はここを訪れていない――そういうことなのだ。

 そうなると、考えてしまう。彼女がここから去ったのではないかと。もう村は滅んだ。ここに用はない――そう考えるのが、自然であるような気さえする。

 だがもしそうなら、二度と彼女には会えないだろう。彼女とは、連絡の取りようがないからだ。ぼくがまた生まれ変わったことさえ、彼女は知らないはずなのだ。もしかしたら、彼女の背中を見たあの日が、最後のチャンスだったのかもしれない。彼女はもう、ここを立ち去っていってしまったのかもしれない。

 そんな不安が頭を離れない。何度生まれ変わっても、彼女には会えないのではないかと思ってしまう。不安になってしまう。

 彼女に――会いたい。もう一度だけ。一瞬でいいから。

 そう思っているが、その願いは叶わない叶いそうにない。何度この村に通っていても、墓石の前に手紙を置いても、彼女とかかわりを持つことができない。

 シスタークが好きだった。あの雪山で助けられた日から。

 彼女の声が、言葉が、あの熱さが、千年経っても胸を離れない。

 またぼくは、墓石の前に手紙を置いた。ジップロックに入れて封をし、石を重りにして置いておく。もう何通目になっただろうか。だが手紙は、ひとつも読まれてはいない。

 墓場を去る。だが未練がましく、何度も何度も立ち止まり、振り返ってしまっている。日が暮れるのがとても早い時期だ、ぐずぐずしてはいられない。もし日が暮れれば、道も凍りついてしまう。かなり強いライトがあるが、それでも暗やみの道は危険だ。それは、頭ではわかっている。何度か危ない目に遭い、実感もしていることだ。

 しかしぼくはいつまでも、その墓場から離れられないでいるのだった。


 家に帰る。

 しかしいまは、誰もいない。

 父さんは出張で、母さんは入院中なのだ。だから好きに出歩いている、ということでもある。ナギサが弁当を造ってきてくれたのも、母さんに頼まれてのことだ。

 食材はまだたくさんある。だがそれとはべつに、ぼくはまた家を出て買い物に行った。近隣のスーパーにむかい、鶏肉と餅を買った。いまは正月が近いので、餅は入り口近くの目立つところで売りに出されていた。それを買えば、昔と違い、自分で餅を搗く必要などない。だが固まっているので、あぶって柔らかくする必要はありそうだった。

 鶏肉入りの餅。もし会えたら、シスタークに渡すことができる。だが彼女に会えたらだ。会える可能性などないに等しい。ぼくは彼女とのつながりがほしくて、わずかな可能性に懸けて、こんなことをしているのだろう。しかしそれも、むなしい努力という気がする。雲をつかむような話なのだ。たとえ手が届いても、おそらくつかみ取ることなどできない。もしかしたら、彼女自身にその手を振り払われるかもしれない。そんな状況だ。

 その日は適当に食事を済ませ、早めにベッドに入った。しかしあまり眠れはしなかった。それから朝になると、すぐさま支度をしてあの村へむかおうとした。冬休みに入る前は、土日しかあの村へ行くことはできないのだから。学校など放り出したいぐらいだったが、そうするとナギサと母さんが悲しむだろう。そうしないため、真面目に毎日通っていた。

 朝の、まだ薄暗い時間。まだ空が白んできたようなころ。

 それなのに、家の前にはナギサがいた。泣きそうな顔でぼくを見ている。

「ケン。わたしは、謝らないといけないのです」

「なにか知ったんだな」

「知ったのです。邪神と、わたしの前世と、シスタークというひとのことを」

「そっか」

「ごめんなさいなのです。覗くというか、暴くようなことをして」

「べつにいいよ。君にも関係のあることだ。いずれ、話さなきゃいけなかったんだ」

 ナギサには、嘘が通用しない、というところがある。だからぼくは、いつでも彼女には本心からの言葉を伝えていた。今回もそうした。ナギサは、泣きそうな顔で笑っていた。


「君は知ったんだね。あのひとの、シスタークのことも」

「そうです。神さまに聞いたのです。炎の鳥と、剣の勇者の伝説を」

「前世で聞いたな……邪神の生まれたわけも、あれで合ってんのかな」

「神さま自身に聞いたので間違いないのです。神さまが吸った、人の世の悪の気。それが、邪神リィスなのです。邪神はその悪の気を集めて溜めて、我がものとする力があるのです」

「邪神が復活するたびに強くなってたのは……」

「よそから悪の気を集め、蓄えていたからなのです」

「じゃあまた強くなって復活するんだな」

「おそらく。村は滅びたのですが、近隣の町の人口は増えているのです」

「なるほど。じゃあもしかしたら、邪神の復活も早くなるかもしれないな。ぼくが邪神と同じ時代に生まれたのは、はたして偶然なのか?」

「偶然ではない、と神さまは言ってるです。生まれ変わる時期は、本人が決めてると」

「じゃあぼくはそうとは知らず、邪神に合わせて生まれ変わってたのか?」

「そうみたいです。わたしにはわからない、予兆のようなものがあるのでは?」

「そうか。じゃあ戦う準備をしなきゃだな」

「わたしはそれを、止めに来たのですよ」

 そう告げて、まっすぐぼくを見てくるナギサ。ぼくもその瞳を見つめ返す。

「ケン。わたしたちは、平和な時代に生まれたのです。武器を取る必要はないのです」

「ぼくも戦いたいわけじゃないよ。前世で戦うのが嫌いだったかと言われれば違うけど。でもそれは、前世の価値観でのことだ。前世の記憶を取り戻しても、価値観はいまのもの。戦うのはつらいし怖いよ。それが邪神のような相手ならなおさらだ」

「だったら」

「でもぼくは戦うよ。あのひとが――シスタークがひとりになってしまうから」

「たしかにひとりはつらいのです。でも、でもあなたでなくていいのです」

「ぼく以外にはいないよ。邪神なんて誰も信じない。自衛隊とか米軍が動いてくれるならともかく。前世や生まれ変わりなんて、なおさら信じてもらえない。シスタークのように、ヒトではない存在もね」

「炎の鳥、なんですよね。ほんとうにヒトではないのですよね?」

「そりゃ、見てなきゃ信じられないよね。だけど、ぼくは見たんだ。彼女の姿が、緋色に燃える炎の鳥になったのを。ぼくを背負って飛んだことだってあった。彼女はほんとうに鳥なんだよ。それも猛禽類に近い気がする」

「やっぱりほんとうなのですね。彼女はいまも、この辺りにいるのですか?」

「村の跡でチラッと見たよ。それからは来てないみたいだけど。墓場がきれいだったからしょっちゅう来てるかと思ってたけど、それきり見てない」

「そのひとにとっては、しょっちゅうなのかもですよ?」

「あそっか、時間の感覚が違うかもなのか」

「お年寄りの『この前』みたいなものです」

「ぼくらとあのひとじゃ、時間の概念が違いすぎるのかも……」

 あのひとが――遠い。またぼくはそれを感じた。彼女に会えないからそう感じていたが、会ってもなお、時間間隔の差などを思い知らされるかもしれないと思い、そう感じたのだ。

「ケン。どうしてもなのですか? どうしても、そのひとなのですか?」

「どうしてもだよ。ぼくはあのひとが忘れられない――」

 話している間に、夜が明けてきた。まばゆい朝日が、ナギサの横顔を照らしている。

 彼女の頬を伝うものが、その朝日を受けてきらめいていた。


   3.


 結局その日は、村には行かなかった。

 このナギサを振りきって行く、ということができなかった。

 彼女が泣くところなど、久しぶりに見たからだ。幼いころ以来だ。その幼いころでさえ、彼女は歯を食いしばってこらえ、大泣きするということはなかった。その彼女が、いまの年齢になって泣いている。相当な気持ちでぼくを止めている、とわかったからだ。

「……行かないでいいのですか?」

「そんな気分じゃなくなったよ。いっしょにどっか行こう」

「! ではでは行くのです。お弁当もあるのです」

「ぼくも餅を造ったよ。分けあって食べよう」

 結局その日は近くの公園に行き、しばらく駄弁って、昼めしも食べてから別れた。


 翌日。

 日曜なので、またぼくは村に行った。

 あの墓場にも行ったが、やはりあのひとは来てはいない。手紙も開封されていないし、手向けられた花などもそのまま。この前来たときと、なにひとつ変わってはいなかった。しかしその日から変わったものもあった。帰宅すると、ナギサが待っていてくれるのだ。「長いこと峠道を走ってて疲れたでしょ?」などと言って、毎日適当なものを食べているぼくに、ちゃんとした夕食を造ってくれる。いったいいつから彼女は、この寒空の中で、待っていてくれたのか。それを彼女に聞いても答えないので、ぼくは彼女に、家の合鍵を渡した。彼女は、とてもうれしそうにしていた。それから学校でも、彼女は弁当を造ってきてくれるようになった。以前は、恥ずかしがっていたのにだ。その恥ずかしさはいまも抜けていないのか、彼女は教室でいっしょに食べることは嫌がった。だからぼくたちは、人のいない場所を探し、人気のない階段の踊り場で食べることにした。だがみつかったら、教室で食べるよりもっとからかわれるような気もする。誰にも一切見つからないように、祈るしかなかった。

「相変わらず、ケンはたくさん食べるのです」

「そうかなあ」

「同じ量を造ってみたけど、わたしは半分も食べられないのです」

「食べよっか?」

「お願いです。うわ、すぐ食べちゃったのです」

「こんぐらいならべつに……」

「わたしが半分食べててケンが自分の分一個分と残り半分なので、わたしの三倍なのです」

「唐揚げがうまくて一気に食べちゃったよ。また造ってほしいな。材料費は出すし」

「そうですか? それならお願いするのです」

「父さんから食費はもらってるしね。それで足りればだけど」

「じゅうぶんなのです。出来合いのものを買うぐらいなら、二人分造ってもあまるぐらいなのです。やりくりは任せろなのです」

 なんだかナギサの様子がおかしい。なんだか積極的というか、これまでにないぐらいに踏みこんできている。思い当たることはあるが、思い上がりでしかないような気もして、そういうことだと断定はできなかった。

「一度、ケンの造ったご飯も食べてみたいのです」

「カレーぐらいしか造れないよ。後は、肉焼いて米と食べるとか」

「男のめしって感じですね。まあそれも、たまにはいいのです」

「いいの?」

「毎日ちゃんとしたものを食べてたら、たまには羽目を外したって死にゃしないのです」

 逆に言えば、毎日ちゃんとしたもの、つまりはナギサの造っためしをぼくに食べさせる、ということだ。もうそれは決まったことのようだ。やっぱりなんだか押しこんできているという感じがする。だがそういうことだとしても、ぼくは応えてあげることができない。ぼくはシスタークが好きだからだ。ぼくの思い上がりだったら、それが一番いいのだけど。

「それよりケン、終業式も近づいて、明日から学校は昼までなのです」

「そうだね。時間が空いていいよ」

「なにか予定があるのです?」

「いやなにも」

「それじゃーケンの家に行ってもいいです?」

「いいけど……」

「どーせなので、お昼はケンに造ってほしいのです」

「わかった。なんか考えとくよ」

「楽しみにしてるです。ちゃんといっしょに行くですよ」

「そりゃね。でもなんかあったら、先行ってていいから。合鍵渡したでしょ」

「そうだけど、学校で言っちゃだめなのです。いけないのです。秘密秘密なのです」

「ああ、そうだね。悪かったよ」

 そうやってぼくらは終業式までの数日間を、昼からはぼくの家でいっしょに過ごした。彼女は初日以外は弁当を造ってきたり、手袋を編んできたりした。「ケンは自転車だから、マフラーは危ないですよね」と言って、セーターを編んできたこともあった。セーターは大物なので、編むのに時間がかかったと思う。こんなことをされても返せないと言ったが、ナギサは、「贈り物は、お返しを期待するものではないのですよ?」などと言う。ぼくも、編み針などをなおしてマフラーを造って返した。ついでに緋色のマフラーも編んでみて、あのひとに渡せないかと考えたりもした。終業式が終わって冬休みに入れば、ぼくはまたあの村に行こうと思っている。そのときに持っていくものリストの中に、造ったばかりの緋色のマフラーも追加した。また無駄なことをしている。自分のことながら、そう思った。


 終業式の前の日。

 二学期最後の授業の日。

 ぼくとナギサはまた階段で、二人で弁当と餅を食べた。だがクラスのガラの悪いヤツに絡まれ、からかわれた。はじめは耐えていたが、限度を超え、ケンカになりそうになった。しかしぼくが力を見せると、からかってきたガラの悪い連中は黙りこんだ。ぼくは昨日、ダンベルをなおしたのだ。それでぼくの腕力は、レスラー並みになっている。

 しかしそうしたことで、ぼくは思いついた。邪神と戦うにあたって、体力や武器を扱う技術をつけておくことは決してマイナスにはならない。だからぼくは、ひとまず手に入る武器、金属バットや木刀、警棒やナイフなどをなおした。バーベルもなおし、数百キロを担げるほどの力を手に入れた。重量挙げなら、世界記録に並ぶだろう。それから陸上用の靴もなおし、走る速さもトップクラスにした。身体能力では、最強になったかもしれない。これはなぜすぐに思いつかなかったのかわからないけど、ぼくは自転車も壊してなおし、村までの往復時間も大幅に短縮できた。筋力も変わったし、登り坂を攻めるにあたってもいろいろと技術がある、とわかったのだ。そういう意味では、強力な武器以外のものは、なんでも手に入る時代になったのだろう。それらをなおすことで、武器の扱いに加えて、ぼく自身の身体の強化もできたのだが、それでも邪神を倒すには遠く及ばない。ヒトよりやや大きかったころの邪神でさえも、ぼくは討ち倒せないだろう。邪神は復活するごとに強くなっているので、もしいま復活したとしたら、前世よりまた力を増しているはずだ。どうすれば、邪神を倒せるのか。いくら武器を扱えるようになっても筋力を増強しても、その疑問と不安はずっと尽きなかった。


 そして、終業式の日。

 二学期最後の登校日。

 式を終え、通知表をもらってから家へ。これまでは成績に関して一喜一憂していたが、なんだかいまはどうでもよかった。それよりは、村へ通うか、邪神を倒す手段をどうにか見つけ出さなければならない。といってもやれることはあまりなく、いまぼくは、武器や兵器に関する本などを読んでいた。それでどうにかなるとは思えないが、なにもしないということはできなかった。ぼくは冬休みということでテンションが上がっているヤツらと同じく、どこか浮ついていたのかもしれない。しかし意識しても落ち着く、腰を据えるということは、どうしてもできなかった。

「なんだかケンが、よくない感じなのです」

「鋭いね」

「ケンはひとりでしょいこむ悪い癖があるのです」

「そうかもしれないけど、誰にも頼れないことだ」

「……邪神ですね」

「君はいろいろ予言をした実績があるけど、それでも邪神を信じさせることができる?」

「できないのです。何度予言を当てても信じない。そんな人が、大半ですから」

「証拠があっても信じないんだ、信じさせることはできないだろうね」

「でもそれだったら、ケンの仲間がいないのです。わたしは戦えないし」

「いるよ。シスタークだ。あのひとがこの近くにいる。ぼくはあのひとと戦うんだ」

「ケン……」

「あのひとはいまひとりだ。仲間は――理解者はぼくしかいない」

「誰にもわかってもらえない。たしかにそれは、つらいのです」

「でもあのひとだって、誰かにわかってほしいし、誰かに頼りたいはずなんだ」

「けれどそれがケンしかいないと――」

「そういうこと。だからぼくは探してる。あのひとのことも。邪神を倒す方法も」

「わたしも神さまに聞いてみるのです。それから、ケンに言ってないことがあるのです」

「なに?」

「死体の群れが、ケンの通っている村に現れたとのことなのです」

「死体術師か……生まれ変わりのせいか、忘れてたな」

「ケン――」

「悪いけど、ぼくは行くよ。ヤツは邪神の配下だ。なにか知ってるかもしれない」

「危ないことしちゃダメなのです」

「いまなにかしないと、もっとひどいことになるかもしれない」

「それはそうですけど」

「約束するよ。必ず無事に帰ってくるって。だから心配しないで」

「……わかったのです。無事じゃなきゃ、許さないのです」

「わかってる。じゃあ行くよ。行ってくる」

「待ってるのです。ケンの家で。合鍵をもらえたの、とてもうれしかったから――」

 彼女を振りきるようにしてぼくは駆けだし、自宅に戻って自転車に飛び乗る。それからすぐに走り出して山のほうへ。能力で、脚力なども増している。これまでにない早さで、ぼくは村へたどり着いていた。入り口に自転車を停め、奥のほうへ。それから村の広場に到着する。

 そこに、死体術師がいた。死体の群れもかなりの数がいる。ガラの悪い連中ばかりだ。走り屋やその仲間、肝試しにでも来た連中だろうか。うつむき、ダランとして立っていて、

小さく呻いたりゆらゆら揺れたりしている。だから遠目でも、それが死体だと断定できた。そして死体のひとつが叫ぶ。赤い眼をした死体。ちゃんと意識のある死体に見つかった。死体術師とほかの死体がぼくを見やる。ぼくに視線が集中する。死体術師。今度は漆黒のツナギにフルフェイスのヘルメットと、バイカーのような恰好をしている。顔を隠せて、黒子のように不自然ではない格好だ。ヤツも、すこしは現代に順応しているようだった。

「キァハハハハハ! 貴様も蘇ってやがったか! ぶっ殺し甲斐があるってもんだぜェ!」

 かん高い声で嗤い、狂気的な声を発する死体術師。死体の群れが、ぞろぞろとこちらに近づいてくる。ぼくは思わず後ずさりしそうになった。自分を叱咤し、なんとかその場に踏みとどまる。邪神と戦うつもりでいた。覚悟をしていたはずだった。それなのに怖い。ほんとうの覚悟ができていなかった、ということだろう。今世では、はじめて戦うのだ。

「おぁあああああっ!」

 ぼくは力の限り雄叫びを発した。腰の警棒を抜く。伸縮できる三段のロッドを伸ばし、死体にむかって殴りかかった。刃物ではないのだ、首を刎ね飛ばすことはできない。頭を割り、潰すしかない。通常なら不可能だろう。しかしいまのぼくの腕力なら、警棒程度の武器でもそれが可能だった。次々と死体の頭を叩き割り、殴り砕いていく。百に届こうかという数の死体。それをぼくは、あっという間に片づけた。

「バカな……仕方ねえ、切り札を出すぜ!」

 震動。次第に近づいてくる。巨人だった。森から出てきた。かなりの数がいる。警棒で勝てるか。ぼくは歯噛みした。巨人の背たけは五メートルを超えるだろう。単純な高さが足りない。巨人の頭部に、こちらの攻撃が届かない。刃物がないので、巨人の足を斬るということもできない。ならば折るか。それができるか。迷い、考えている間はなかった。

 巨人の足もと。そこに駆けこみ、警棒で打つ。しかしやはりパワーが足りない。巨人の足を、一撃で叩き折ることはできない。ならば折れるまでくり返すしかない。疾駆する。駆け抜けざまに、巨人の足を打ちつける。それをくり返すと、やがて一体の巨人が片膝をついた。頭部。跳躍すれば狙えなくはない高さになった。しかし飛びあがったところで、その巨人が立ち上がり、ぼくを思いきり蹴り飛ばした。誘いだったのだ。ぼくは見事に、その誘いに引っかかってしまった。ぼくは、それを警棒で受け止めたが、その勢いまでは止めきれずに吹っ飛ばされた。村の広場。遥か下のほうに見える。この高さだ、着地することはできない。地面に叩きつけられて死ぬだろう。

 とても助かりはしない――そう思い、眼を閉じたときだった。


「――まったく。いつでもおまえは無茶しやがる」


 すぐ後ろから声が聞こえた。そして吹っ飛ばされたぼくを、彼女はやさしく受け止めてくれた。ずっと彼女を探し求めていた。会いたい。会えない。ずっとそんな状況だった。生まれ変わってからは、一度しか会えなかった。それもチラッと見ただけだった。ずっと遠くにいた彼女――シスターク。彼女が居る。ここに居る。ぼくを抱きしめてくれている。

 ずっと会えなかった彼女が、こんなに――こんなに近くに居る。

 ぼくは、感情があふれ出して泣きだしてしまった。


   4.


 一瞬だった。

 緋色の炎で、巨人が一掃された。死体術師も、同時に炭になった。

 それから彼女はぼくを抱えたまま、誰もいなくなった広場に着地する。それからぼくは、そっと地面に降ろしてもらった。あのときと――はじめて会ったときと同じだった。またぼくは、彼女に命を救われたのだ。

 ぼくは彼女にお礼を言おうとする。しかし彼女はそれを手で制し、そして言った。

「おまえはいつも変わらないな。千年経っても変わらない――」

 そう言ってほほ笑む彼女は、いまにも泣き出しそうに見えた。

「また憶えてるんだろ? 前世のことを」

「はい。あなたのことも……思い出したのは最近でしたが」

「それでもここに来たってか」

「だって、あなたに会いたかったから」

「死ぬ可能性もあったんだぞ。というか、あのままなら死んでいた」

「そうですね。うかつだったのは、反省します」

「そうしろ。おまえは三度も死んでんだ」

 そう言って、ぼくの胸を指さきで突くシスターク。かなり怒っているらしい。

「これを、憶えてるか」

 そう言って彼女が差し出したのは、すこし錆びた笛だった。

「こうして見てみて思い出しましたよ。吹いたこともありましたね」

「やろうか?」

「いえ、あなたが持っててください。ぼくは百年も持ってられない」

「それもそうだな」

 そう言って、ぼくに笛を手渡してくるシスターク。ぼくがそれを吹いたのは、ちゃんと吹けたのは生まれ変わるよりも前。だがちゃんと吹くことができた。体で憶えたことも、忘れずにいられたらしい。

「何千年も憶えてた――お前のことは、憶えてた」

 彼女はそう言い、ぼくの瞳を見つめて笑う。ぼくも笑い返した。

「ぼくも思い出しましたよ。はじめはあなたにひと目惚れしたんだ」

「恥ずかしげもなく言うなあ」

「事実ですんで」

 彼女が歩き始めた。ぼくもその後を追う。

 彼女はいつもいつでも戦士の格好をしていた。今回もそうだ。迷彩柄の服を身に着け、サブマシンガンをひもで肩から下げている。

「状況は、わかってるか?」

「死体術師がいた以上、邪神ももうすぐ復活すると思われますが」

「その通りだ。今回は、おまえの出る幕はない。私はそう言いに来たんだよ」

「えっ……」

 ぼくは思わず、彼女の両肩をつかんでいた。だが言葉が出てこない。いまのぼくでは、実力があまりにも足りない。それはわかっていたからだ。

「おまえの気持ちはうれしいんだ。だが、わかってくれ」

 わかってくれ。そうくり返す彼女。そう言って彼女は、ぼくの両手を押しのける。

「人は、もろい。すぐに死んでしまう。だが私はそうじゃないんだ」

「けど痛みを、苦痛を感じないわけじゃないんでしょう?」

「安い代償さ。取り返しがつくんだからな」

 そう語る彼女の笑顔は、強がりを大いに含んでいたと思う。

「――おまえは前もそうだった。決して死ぬことのない私を、ヒトでさえない私を守って死んだ。これまでそんなヤツはひとりもいなかったんだ。誰もが私を気味悪がって距離を置いた……私の容姿が目当てで近づいた者はいたが、それも拒絶ですぐに去っていった。それが当然だったんだよ。それが当たり前だったんだよ。おまえに会うまではな……」

 うつむく彼女。ぼくはまた肩に手を置こうとするが、彼女はやんわり拒絶し、離れた。

「正直言って、嬉しかったんだ。私を人として見てくれるお前の気持ちが。私なんかを、女として扱ってくれるお前が」

「それは、当然でしょう」

「当然じゃあないんだよ。妖。化け物。ヒトではない存在。私はそういう類のものだし、そういう目で見られるのが当然なんだ」

 彼女がその気持ちを吐露している。その姿が――見ていてとても痛々しい。ふと彼女の笑みが、作り物のように見えた。

 何千年も続けて作り上げてきた、虚勢と強がりで、悲しさや寂しさを隠してしまった、そんな笑み。続けすぎて自然なものにしか見えなくなった、本当の笑顔を忘れた笑みだ。

 そんな笑顔しか彼女は持ってないのか。浮かべられないのか。

 ぼくは、彼女の腕をつかんだ。ポケットに突っこんだままの彼女の両腕。しかし彼女は、ぼくの両手をやさしくほどいて、突き放した。

「おまえの気持ちは嬉しかった。だからもう充分だ。私のことなど忘れて生きろ」

「……嫌です。そんなむなしい永遠よりは、燃えるような刹那の瞬間を選びたい」

「そんなことはないさ。人は愛を失っても、またべつの愛を見つけられる。……あの巫女とかどうだ? 前にも言った気がするが」

「あの子の気持ちは知ってます。でもぼくは、それに応えることはできない」

「応えてやれよ。同じ痛みを、知ってるだろ」

「そうしますよ。貴女が僕を、拒絶するなら」

 わかっていてそう言った。彼女は人を、完全には拒絶しきれないと。ギリギリ、と音が聞こえた気がした。彼女が歯を食いしばっている。作り物の笑みが、崩れていた。彼女がぼくを見ている。涙まじりの眼で見ている。

「――言ってくれよ。私なんか嫌いだと。忘れると……。そう言ってくれたら、私も決断できるんだ」

「何をですか?」

「おまえを忘れることをだよ」

 彼女がぼくをまっすぐに見つめてきた。強がりじみた笑みはなくなって、とても悲しい瞳をしていた。いまにも泣き出しそうな瞳をしていた。もし捨て子や捨て犬がいるなら、こんな瞳をしているだろう。そんな瞳だった。眼だった。表情だった。

「あなたはぼくを、忘れたいんですか?」

「忘れたくはないさ。何度生まれ変わっても、私を捜し続けて守ろうとしてくれたんだ。その気持ちは、とてもうれしいんだよ。だけど、邪神のことがなくても別れは来るんだ。お前はヒトで、寿命があって、私は永遠に生きるんだからな」

「ぼくも、あなたを忘れたくない。また生まれ変わっても、きっとあなたを追いかけます。何度生まれ変わってもだ」

「忘れろよ。拒絶しろよ。いずれ別れなきゃならないんだ」

「でもま会える――そうでしょう!」

 叫んでいた。力の限り、大声を発していた。怒り。悲しみ。あるいは恋。そのどれもがない交ぜになった感情が、僕を衝(つ)き動かしていた。

「あなたを忘れるなんてできない。したくない!」

「やめろ。私の気持ちは変わらないよ」

「ぼくの気持ちもです。ぼくの気持ちも変わらない。決して変わることはない! もし、あなたが拒絶するなら退きますよ。けどぼくから拒絶することはしない!」

「…………」

 彼女がなにかを言った。しかし小さすぎて、声がか細すぎて聞き取れなかった。ぼくはそれを、聞く気もなかった。――叫び。心の底から発していた。感情。火がついたように爆発していた。

「あなたに好かれなくたってかまうか! ぼくはあなたを追い続ける! あなたのことが、ずっとずっと好きだから! 何度死んだって好きなままだから!」

 ぼくは彼女につかみかかろうとする。が、突き放された。というより、突き飛ばされた。彼女は無言でうつむいたまま、ぼくを後ろへ押しやった。かなり強い勢いでだ。

「ぼくは、あなたをあきらめない!」

「……あきらめてくれよ。でないと私も、あきらめきれない」

「ぼくはあなたの気持ちが聞きたい。あなたが本音で拒絶するなら、ぼくは――」

 一方的にまくしたてようとするぼくの、胸ぐらを彼女がつかんだ。そのまますぐ近くに、唇がふれそうなほど近くに引き寄せられる。彼女の吐息が、ぼくの鼻をくすぐっている。しかしそれほど近くても、彼女は遠いままだった。気持ちが遠くにあるままだった。

「ケン。おまえは私を、好きだと言ったな」

「言いました。死にぎわでしたが……あなたには、つらい思いをさせたかもしれません。それは、謝りますよ。勝手なことをしたと思ってます」

「そうだよ。おまえは勝手だよ。遺された者は、死んだ者になにもできないんだ。慰めの言葉ひとつ、届けてやることはできない。墓を建てて花を手向けても、それは生き残った者の自己満足にすぎない。自分を慰めているだけにすぎない……」

「でもぼくはここにいます。あなたといっしょに、ここにいます!」

「すぐに死ぬさ。寿命の前にな。おまえは無鉄砲だから……」

 そう言ってぼくをじっと見つめてくる彼女。その瞳が、炎も映してないのに揺れている。

「ケン――私はおまえのことが好きだ」

「それは」

「そうだよ。私は女として、おまえという男が好きだ」

 彼女が笑う。とても悲しく、寂しい笑みだった。彼女の頬を、涙が伝って落ちていく。

「それが私の本音だよ。だからダメなんだ。私はおまえに守られた。おまえは私を守って死んだ。あんなにつらいことはない。おまえを何度も死なせてしまった。だから、ダメだ。もうこんな思いをさせないでくれ……」

 彼女がかん高い声で言った。消え入りそうな弱々しい声。しかし彼女の声だ。ほとんど叫びに近いような声だ。

「自分を軽く考えるな。自分の命を、簡単に使うな。若いヤツが陥りやすい過ちだ。人の命は、お前という存在は、自分ひとりのもじゃないんだ。おまえが死ねば、誰かが悲しむ。おまえにだって、それを悲しんでくれる人はいるはずだろう。少なくとも、私は悲しいよ。私はそれを、三度も経験したんだよ」

 ぼくはまったく反論できなかった。自分が無謀なことをした。そのせいで、周囲の人を悲しませた。近しい人に、つらい思いをさせた。その自覚はあったからだ。

 自分の死の後のことだが、何がどうなるかは、わかりきっていたと思う。

 だがぼくは、結末がわかっていても同じことをした。彼女を――守る。それはぼくが、たったひとつだけ心に決めたことだったからだ。それが、ただの自己満足だったとしても。

「私を守る必要はない。私は死なない。死なないんだ」

 死なない。そうくり返す彼女。しかしぼくにはわかっている。彼女が死なないのなら、なぜ後から現れたりしたのか。なぜ戦闘に復帰するのに時間がかかるのか。おそらくは、ほんとうは彼女は死んでいるのだ。すぐ復活できるというだけで。だから死なないというのはおそらく嘘だ。ぼくも感じた死。あのつめたさと孤独。それを彼女も味わっている。

「でも銃弾を受けて、貴女はうめいてた。苦しんでいたんでしょう?」

「それは――」

「機関銃を受けた時も倒れてた。貴女は強いが無敵じゃない――そうでしょう?」

「……だが、死にはしないよ。コナゴナになっても、いつかは復活できるんだ」

「苦しみも痛みもないなら、あんな声は出さないはずです」

「そうだよ。苦しいさ。痛いさ。だがそれは、お前を喪(うしな)うほどじゃないんだ」

 胸ぐらをつかまれている。だが彼女は、弱い力でぼくを押しやり、やさしく突き放した。

「おまえがどこかで幸せでいる。幸せに暮らしている。そう思うことができたとしたら、ほかのことはどうでもいいとさえ感じるんだ。おまえは私の中で、そこまで大きくなってしまったんだよ。おまえのことが、好きだから……」

「でもぼくの幸せは、あなたなしではありえないです」

「何度言わせるんだ。私といても、お前は幸せになどなれない。邪神は強くなっている。おまえは何度も非業の死を遂げた。次第に強くなっていく邪神に追いつくことはできない。私以外はな。邪神はすでに、ヒトの抗いなど通用しない敵になっているんだ」

 たどたどしく語るシスターク。彼女の声が、か細い肩がふるえていた。


「お前は何度も、私の腕の中でつめたくなっていった――」


 彼女の言葉が、重く響いてくる。ぼくの心の底まで響いてくる。ぼくはそれ以上なにも言えなかった。ぼくが彼女を悲しませた。ぼくが彼女に、死と苦という業を背負わせた。ぼくが、彼女につらい思いをさせたのだ。ぼくのせいで、彼女は泣いている――。

「私はずっとひとりでもいいんだ。お前が無残な死に方をしなければそれでいいんだよ。おまえの思い出を抱いて、生きていくさ」

 鍛冶屋のとき。従者のとき。猟師のとき。ぼくは、合計三度の人生を歩んだ。そうして三度とも彼女に会い、そのたびにむごい殺され方をしている。その責を、悲しみと孤独を彼女に負わせてしまっている。ぼくはそれを、自覚していた。

「私がいては、それはかなわないんだ。だったら私がいなければいいんだ」

 彼女のせいじゃない。そう言うのはたやすい。しかしそう言っても、彼女にとっては、なんの慰めにもならないだろう。責任どうこうを、彼女は言いたいのではない。ぼくに、死なないでほしいと、それだけを願っているのだから。

「私のたったひとつの願いなんだ。おまえがどこかで幸せになれれば――それで私も幸せなんだよ」

 彼女の願い。それがぼくの幸せだという。ぼくの幸せは、彼女と一緒に居ることなのに。

「それが私の、たったひとつだけ残された願いなんだよ……」

 彼女はそう悲しそうに小声で言うと、緋色に燃える翼を大きく広げ、そのままどこかに飛び去ってしまった。ぼくはその場にひとり、取り残される。彼女が飛んでいった空を、そのままじっと眺め続ける。

 ぼくが吠えるように叫んでいたのは、もしかしたら泣いていたのかもしれない。


   5.


 家に帰った。

 のろのろと漕ぎ、すっかり夜が更けてしまった。

 しかし――家の前に居た。ナギサだ。雪が降りしきる中、か細い灯りの中で――ずっとぼくを待っていたのか。ぼくは彼女に駆け寄る。彼女はぼくに気がつくと、太陽のような笑みを浮かべた。その笑顔にぼくは、したたかに胸を衝かれる。

「やっと帰ってきやがったのです」

「悪い、遅くなった」

「ケンは悪くないのです。待ってるとも言ってないですし」

「それでもだよ。ナギサが待ってるのは、予想できたことだった」

「べつにかまわんのです。大して待ってないのです。それよりおなかはすいてるですか?」

「ペコペコだよ。もしかして、夜めしを?」

「これから造るのです。お鍋なのです。簡単なのです」

 簡単と言いつつ料理は、人参が花の形に切られているなど、非常に手間がかかっていた。出汁も買ってきたものではなく、一から造ったもののようだ。鍋など、売っている出汁に適当におかずをぶち込んでも、それなりの味になる。それなのにこれほどの手間をかけてくれた。ぼくは今日、二度目の涙が出そうだった。

「なんだかやってもらって悪いな」

「好きでしていることなのですよ」

「そっか」

「だからケンも、好きにすればいいのですよ」

「ぼくが、好きに? なにも我慢したりしてないけど」

「そうですか? とてもそうは見えないのですが。まあケンがそう言うのならいいのです。それよりとっとと食うのです。ちゃんこ鍋なのです。たらふく食って太れなのです」

「鶏肉はある?」

「ケンの好みは把握済みなのです。たっぷりあるのです。二トンぐらい用意したのです」

「そんなに食えるか。二キロだって食えんわ」

「冗談なのです。でもたくさん用意したのはほんとうです。鶏肉はそのまま食べてもいいですし、いっしょに煮込んだものまでうまくなるのです」

「わかる。鍋全体がうまくなるよねえ」

「でもちゃんと火を通すですよ?」

「わかってる。一度ひどい目に遭った。ぼくの能力でも、病気はなおせんし」

 それからナギサと鍋を食べ、いっしょに後片づけをして、彼女は帰っていった。すると家には誰もいない。自分が発した音しか聞こえない。ぼくはそれに耐えきれず、テレビをつけた。誰もいなくなった後の静けさが、なぜだかぼくの胸をしたたかに衝いたのだ。


 約束はしていない。

 だが来るだろうと思っていた。

 今日は、クリスマスイブだ。世間では、恋人同士が過ごしたりする。だからナギサも、うちに来ると予想していた。その通りだった。しかしナギサは、意外な言葉を口にした。

「ケン。わたしとデートするのです」

 ナギサは喜びを目いっぱいにしたような笑みを浮かべて、そんなことを言った。


 デートといっても、いつも通りだった。

 特別なことなど、なにもなかったのだ。

 ナギサと二人で出かけ、二人で遊ぶ。それだけだ。これまでとなにも変わりなかった。ナギサとは幼いころから、そうして二人で過ごしてきたのだ。ナギサの要望で、ぼくらは駅前にある小さな繁華街に行った。ぼくらが住んでいるような地方都市でも、栄えている場所はある。そこで映画を二本見て、昼めしをファーストフード店で済ませて、それからカラオケ店に行った。二人でカラオケだと、歌う頻度が多くて疲れたが、けっこう楽しく過ごせたと思う。少なくとも、ナギサはとても楽しそうにしていた。

 それからナギサは行くところがあると言って、タクシーを停めた。見送ろうとしていたぼくを引きずりこみ、それから運転手に手づくりの地図を見せてそこへむかってもらう。タクシーはすぐに繁華街から離れて山に入り、蛇行する山道を走っていった。その道は、ぼくも行き慣れている道だった。あの村――前世でぼくたちが暮らしていた、あの村だ。今世では廃墟になり、いまはぼくとシスタークが通うだけになった、あの村である。

「なんであの村に?」

「必要なことなのですよ」

「どういうこと?」

「着いたら説明するのです」

 ナギサはそう言い、じっと外を見つめていた。


 それからぼくらは、村に入った。

 タクシーには待ってもらっている。

 ナギサはまたべつの手づくりの地図を持ち、それを何度も見返しながら、たどたどしく村の中を進んでいった。ぼくも、いまの村の中はよくわからない。建物がなくなっていて、木や草が生い茂り、様相がまったく違って変わっているからだ。だが、だいたいの方角はわかる。前世で行き慣れた場所もだ。古代の、ぼくが鍛冶屋だったころ。あの時代でも、ぼくとナギサは幼なじみだった。ただし彼女は巫女さんで、いまぼくらがむかっている、あの洞窟に住んでいた。あの洞窟に住み、あそこにあったご神体を通じて、神さまの声を届けるという仕事をしていた。いまの彼女は巫女の見習いらしいが、やっていることは、あまり変わっていないと思う。いまでも彼女は、何度も予言をしているのだ。

「さて、ありましたね」

 やはりナギサがむかっていたのは、あの洞窟だった。昔はそこに祭壇とご神体があった。ナギサはぼうぼうに生えた草をかき分け、洞窟へ入っていく。ぼくも後からついていった。やがて――見つけた。あの祭壇だ。すっかり錆びてしまっているが、あのご神体、銅鏡もそこに残されている。

「目的は、この鏡?」

「そうなのです。わたしが交信している神さまの、その本体なのです」

「神さまの体ってこと?」

「そういうことです。人間の肉体と同じで、生きるのに必要不可欠なものなのです」

「邪神の本体も、どこかにあるのか!」

「これですよ。神さまと邪神は、元は同じもの。一心同体の存在ですから」

 思わずつかんでいた。ナギサの細い肩。彼女の言葉に、衝撃を受けていた。

「もしかして、邪神が何度も蘇るのは」

「ここに本体があるからです。逆に言えば、これを壊せば」

「邪神が死ぬのか!」

「神さまは死にますが、邪神は死にません。邪神は受肉し、べつの体を得ているので」

「じゃあその体とこのご神体を同時に壊せば」

「何度も蘇る邪神を滅ぼせるのです」

「だったら!」

「でも、神さまも死ぬのです。神さまは一神教の神と違って、たくさんいる神のひと柱でしかないです。ですが、それでも人々を守ってきてくださった、いまでも守ってくださる神さまなのです。その神さまを、殺すことになる」

「……でも、邪神はますます強くなってるんだろ?」

「そうです。その通りですよ。このままだと、邪神によってこの国が滅ぼされる。いまはそれだけの力をつけてるのです。だから神さまも――自分もろとも滅ぼせ、などと言っているのです。もう神さまにも、邪神を止めるすべはないと――」

「……すまないが、ぼくはその決断に乗っかりたい。この国とかはよくわかんないけど、邪神を滅ぼせばシスタークさんが自由になる。もうこの地に縛られる必要もなくなる」

 そして、ぼくとのつながりもなくなるのだ。それでも彼女は、解き放たれる。

「ナギサ。君はどうしたい? 君が決められないなら、ぼくが決めるけど」

「わたしは決めたのです。邪神を滅ぼすと。神さまのご意志を尊重すると。幼いころから、わたしたちを見守ってきてくださった神さま。それをこの手で殺そうと――」

 ナギサは言う。物心ついたときからずっと、神さまの声を聞きながら育ってきたのだと。だから神さまは親でもあり師でもあり、そして友人でもあったのだと。それを――殺す。亡き者にする。ナギサは、そう言っているのだ。

「ナギサ。ぼくも手を貸すよ」

「お願いするのです。ひとりでは、ちょっと」

「だろうね。でもぼくらは共犯だ。君ひとりのエゴじゃない。言えるのは、それだけかな」

「ありがとうなのです。ケンの大切なひとのため。そう思うと、決断できるのです」

「助かるよ。ぼくはほかの誰を殺してでも、あのひとを助けたいから――」

「ケンのような〝決めた〟人が怖かったのです。でもいまは、その気持ちもわかるのです」

「そっか」

「わたしも〝決めた〟のです。ケンのために、神さまを殺すと――」

「〝決めた〟ってそういうことか。後戻りできない。する気もない、と」

「そうなのです。その迷いのなさが、怖く感じていたのですよ」

「ぼく自身は迷ってばかりだけどね。でもそうかも。あのひとのことでは、迷わなかった」

 ぼくは、警棒を取り出した。伸縮式の、三段のロッド。死体の頭をカチ割ったものだ。その持ち手をナギサに握らせ、ぼくはその上からナギサの手を握った。

「行くよ」

 ぼくの言葉が合図になった。二人で同時に警棒を動かす。振り上げて――振り下ろす。その一撃で銅鏡は、ご神体はあっけなく砕けた。すべてが細かな破片になる。

 それからしばらくの間ぼくは、泣きつづけるナギサを抱きしめ、受け止めていた。


 それから後片づけをした。

 銅鏡のかけらをすべて拾い、袋に入れていく。

 ナギサが持ち帰るのだという。それをどうするかは、まだ決めかねているようだけど。

 まだ聞いてほしいことがある。

 彼女はそう言い、ぼくを洞窟の外に連れ出した。外に出ると、すでに日は暮れかかり、赤い夕陽が差しこんできていた。ナギサの顔も、夕焼けの朱に染められている。

「まずケンに聞いてほしいことがあるのです。それは、わたしの気持ちなのです」

「ナギサの気持ち?」

 聞きながら、確信はしていた。予測ではない。確信だ。前世では、そうだったからだ。百年前のボーイッシュだったナギサは、何度もぼくに告白してきた。彼女の両親と三人で頭を下げたことさえあった。しかしそれを、ぼくは後ろ髪をひかれながらも突っぱねた。

「ケン。知ってるでしょうけど、わたしはあなたが好きなのです」

 だから今回も、今世でも突っぱねなければ。ぼくはそう思っていたのだけど。

「でもケン、わたしは知ってるのですよ。ケンに好きなひとがいるって」

「どっどゆでゅええええい」

 みっともないことに、その気持ちを言い当てられて、ぼくはひどく動揺した。

「毎週探しに行くほどなのですよね? 前世からずっと、ずっと好きなのですよね?」

「そうだね……だから君の気持ちには応えられない」

「応えてくれなくていいのです――なにも返してくれなくていいのです」

 ナギサは言う。彼女の気持ちを。その想いを、泣きながら吐露する。

「ただ伝えたかったのです。ケン、あなたが好き。愛してるって――」

 小さいころでも、ほとんど泣かなかったナギサ。彼女がポロポロと涙をこぼしている。

「ふりむいてくれなくていいのです。ケンの気持ちは知ってるのです。けれど心の片隅にわたしの想いを置いといてほしいのです――」

「忘れない。その気持ちはわかるから。だからナギサの気持ちは忘れないから――」

 ナギサは、泣かなかった。涙は流していたが、大泣きすることはなかった。幼いころのようにぐっとこらえて、歯を食いしばって泣くまいとしていた。


   6.


「そろそろですね」

 ふと、ナギサがそう言った。

 ほんとうに何気ない、思い出話などをしていたときだった。ナギサがなにか待っているふうだったので、ぼくもそれにつきあっていた。すっかり夜も更け、暗くなっている空を彼女が指さす。

 すると――見えた。

 雲に覆われた暗い空が、チカチカと光る様子だ。金色と、緋色の光が瞬いている。

「なんだあれ……遠雷にしちゃ様子が変だ」

「邪神とシスタークですよ。いまあそこで、戦っているのです。神さまが、予知していたのですよ。今日の夜、最後の戦いがはじまると――」

「空の上か。あれじゃ、ぼくにはどうにもならないな……」

「それも含めて、神さまは言っていたのですけどね」

「……?」

 ナギサはぼくの手を引いて、村の入り口まで歩いた。ずっと待っていてもらっていた、あのタクシーにまた乗る。それから山道を走った。なぜかトンネルを抜けず、旧道を走る。

「――ケン。あなたは宿世、という言葉を知ってるですか?」

「すくせ? なんだそれ」

「宿るに世界で宿世と書きます。前世からの因縁や宿命という意味なのです」

「ああ……」

「ケンにぴったりの言葉なのです。前世のことを、憶えてるのですから」

「なんで憶えてんのかわかんないけどね。記憶は確かなんだけど」

「なんで憶えてるのかは神さまが言ってました。ケンが、無意識下で〝なおした〟のだと」

「えっ?」

「強い想いがそうさせた、とのことです。死んで壊れた、そのひととの絆。それをケンはなおしたと……そんなに好きなら、さっさとくっつけ、なんてわたしは思うのですよ」

 わざとなのだろう、軽い口調で、なんでもないことのようにそう語るナギサ。

「ケン。その人を助けに行くのです。神さまも言っていたのですよ。そのひとを助けて、邪神を討ち滅ぼせるのはあなたしかいないのだと。そのひとの傍に居られるのも、邪神を倒して攻め滅ぼせるのも、あなただけなのだと」

「でもぼくは、あのひとに拒絶されたよ」

「あなたが死んでしまうから――そうですね?」

「うん。ぼくの死体を抱いて泣いたみたいだよ。三度もだ。ぼくはそれだけ、あのひとを悲しませて、泣かせてしまった。三度も死に別れ……つらい経験をさせてしまった」

「だったら死ななきゃいいのです。そして、生きて伝えるのですよ。『愛してる』と」

「死ななきゃ――」

「そうなのです。そうすべきなのです。でなきゃわたしが、あなたを奪い盗るのです」

「ぼくは拒絶されてもフラれても、あのひとを忘れられないよ」

「それでいいのです! あなたに好かれなくてもかまうかなのです! わたしはケンが、好きなのです! そのひとからケンを奪いたいと――いまでも思っているのです!」

 あなたに好かれなくてもかまうか。ぼくもあのひとに、同じようなことを口にした。

「でもでもケン、それでいいのですか? 好きでもない女と居て、好きなひとのことを、ずっと想いながら生きていく。つらいのに忘れられない――そんなので、いいのですか?」

「よくはないよ。でも、君の言う通りだ。ぼくは決して死ぬべきじゃない。だけど戦いの運命から逃げるのもダメだ。戦って、あのひとを守って、そして勝って生き抜くんだ」

「その意気なのです。なにがなんでも生きてやる――そういう気概が足りなかったのです」

「それにやっぱり、ぼくしかいないと思うんだ。あのひとの傍に居てあげられるのは――」

 そう――ほかには誰もいない。この世のどこを探しても、ぼくひとりだけしかいない。あのひとをわかってあげられるのも、慰めてあげられるのも、ぼくしかいないのだから。

「でも空中戦じゃ、ぼくが出る幕は――」

 そのときだった。轟音がとどろいた。強烈な衝撃を感じた。

 なんらかの破壊音も聞こえてくる。なにかがめちゃくちゃに暴れ、なにかを壊している。そんな感じの音だ。

「ささ、救助活動なのですよ」

 とナギサが言う。旧道の終わり。トンネルのある本道との合流の直前。まっすぐな道。そこに、燃えるなにかが鎮座していた。大きい。邪神が撃墜されたのかと思ったが、その機体は、本や映画で見慣れたものだった。

「戦闘機……?」

「自衛隊のものなのです。最新鋭のステルス戦闘機だとか……邪神とそのひとが、上空で戦ってる。そこにスクランブル発進して近づいて、邪神に撃墜されたばかりなのです」

 あわてて消火活動をした。神さまの予言なのだろう、タクシーのトランクには消火器がたくさん積まれていたのだ。それを使いまくると、火は消えた。

 パイロットも救出できた。負傷しているが、命に別状はなさそうだ。

「ケン。これを使えば、そのひとを助けに行けるのです」

「そっか。なおせば操縦も」

「わたしができるのはここまでなのです。後は、ケンに託すしかないのです」

「ああ、任せてくれ。必ず邪神を倒す。あのひとのために。神さまのためにも」

「そうなのです。神さまの最後の願いを、どうか遂げさせてほしいのです」

 パイロットから装備も奪い、なおして着こんだ。バイザー付きのヘルメットもかぶる。

 それから戦闘機もなおして乗りこんだ。

 そして、戦闘機を発進させる。直線になっている道。そこから橋へ。その橋も直線で、滑走路として利用できる。橋はなだらかな登り坂になっていて、そこをジャンプ台にして飛んだ。これで飛ぶのは三度目だ。自力で飛ぶのは、はじめてになる。

 ぐんぐん空を昇っていく。真っ黒な山の影を超えて、明るい町の上を通って、戦闘機は夜空へ立ち昇っていく。

 次第に漆黒の雲が近づいてくる。やがてその雲を抜けた。 

 雲の上には、星空が広がっている。

 曇り空なのに星空が見える。それが、なんだか不思議だった。


   7.


 レーダーには、ふたつ映っている。

 そのうちの激しく動くほうが、シスタークなのだろう。

 ぼくはそこへ接近していった。やがて肉眼でも見えるようになった。人型に嘴のような顔、無数の触手という体の邪神。それから、緋色に燃える炎の鳥だ。

 邪神は大きくなっていた。背たけは、百メートルぐらいはあるか。それだけ大きく強くなっているのだ。シスタークを倒せるだけの力と確信を得て復活してきたのだろう。

 金色の炎を背中から発し、超音速で飛んでいる邪神。金色の触手を伸ばし、ちょこまか動き回るシスタークを捉えようとしている。その背中に、ぼくはミサイルを撃ちこんだ。その巨体に、空対空ミサイルを叩きつける。背部に直撃した。邪神が悲鳴をあげている。しかし邪神は振り返りざま、こちらに触手を伸ばしてきた。弾丸のような速度。数キロの射程。触手というより、まるでレーザー光だった。

 それをかわし、ミサイルを放つ。だが邪神の触手によって、近づく前に叩き落とされる。機銃掃射。サイドワインダー。どちらも通じない。打撃力が足りないようだ。

 シスタークも追われながら反撃をしている。巨大な火の弾。触手によって叩き砕かれる。連続で放つ火の弾。邪神はそれを、防御もしない。こちらと同じだった。強力な攻撃は、触手によって防がれる。当たりやすい攻撃は、威力が低くて通用しない。邪神の気を引くことさえできていない。邪神に通じる攻撃が、なにもなかった。

 だが邪神の横でなにかが爆発した。誰かが横から攻撃したのだ。新たな戦闘機だ。また戦闘機がやってきて、邪神を撃墜しようとしている。自衛隊も本気を出したということか。その戦闘機を追っていく邪神。だがその邪神を、さらに多くの戦闘機が追いかけていく。かなりの数の戦闘機が来ている。邪神を脅威と感じ、邪神を攻撃しようとしている。

 邪神が何者か。それを把握しているわけではないのだろう。だが日本上空で戦闘を行い、あまつさえスクランブル発進した戦闘機を撃ち墜としまでした。それで脅威と見なされたのだろう。邪神は、四方八方から攻撃されながらも、自衛隊の戦闘機を一機、また一機と触手で刺し貫き、叩き斬っていく。その度に攻撃された戦闘機が爆ぜ、離れていても強い衝撃を感じた。しかし邪神の触手は、それも平気なようだった。

 ぼくもその戦闘に参加しようとする。だが砕け散った戦闘機の破片が当たったようで、ぼくが乗っている戦闘機が失速した。あわててなおした。すぐに加速し、邪神と戦闘機に追いつこうとする。

 そこで、風防のガラスをコンコンとノックされた。シスタークが人の体に変身していて、こちらを覗きこんでいる。背中で大きく翼を広げ、こちらにつかまることで並進しているようだった。ぼくはあわててヘルメットを外し、風防を開く。

「やっぱりケンか」

「はい。あなたを助けに」

「懲りないな、おまえも」

「あなたには味方も理解者もいない。でもいるべきだ。そう思ったのですよ」

「それはそうだが……いまは味方がいっぱいいるぞ?」

「一時的でしょう。邪神がやられたら、次はあなただ」

「――そうかもな。でも私に味方は要らん。さっさと帰れ」

「帰りません! あなたを助けると決めたんだ!」

 あなたを助けると決めた。心に決めたことだ。曲がることのない決意だった。

「ぼくは、死なない! 約束します! もう死なないって! あなただって死なせない! 苦しませない! ぼくがあなたを守る! そう決めたんだ!」

「ケン……」

「生きて伝えると決めた――〝愛してる〟って! ぼくは、あなたを守りたいから!」

 あなたを守りたい。力の限り声が出ていた。雄叫びのようだった。

 これなら飛行中の轟音の中でも、はっきりと聞こえたはずだ。届いたはずだ。

「何度でも言います! ぼくは死なない! あなたを守る! あなたが好きだから!」

 感情があふれ出してくる。それが叫びになる。同時に涙も噴き出していた。その涙を、シスタークがそっと指さきの腹でぬぐう。

「おまえは馬鹿だな。いつまでも私のケツを追いかけやがって……」

 言葉とは裏腹に、シスタークは笑っていた。はじめて会ったときと同じだ。あのときとなんにも変わっていない、やさしさがあふれ出てきたような笑み。

 その笑顔に、やさしさにぼくは惚れこんだのだ。

「ケン。生きて帰るぞ。邪神を倒すだけじゃ駄目だ。いっしょに家に帰るんだよ」

「わかってます。それと……」

「なんだ?」

「邪神のご神体、本体と言えるものを、ぼくとナギサで破壊しました」

「なに? だったら邪神は復活しないのか」

「ええ。ここで倒したら、滅ぼせます」

「よしわかった。必ず倒すぞ。生きて帰るんだろう? 私を守ってくれるんだろう?」

「必ず。そのためにぼくは、戦うんだ!」

 風防を閉じる。ヘルメットをかぶりなおす。空が、静かになっていた。邪神によって、あの多くの戦闘機がすべて撃ち墜とされたのだろう。

 邪神は嗤い、今度はシスタークを追いかけまわしている。彼女は細かい火の弾を連続で浴びせかけるなどして、邪神をかく乱し続けている。あれではダメージは入らないだろう。しかし邪神の気を引くことはできる。非常にうっとうしいはずだ。そうしてシスタークは、邪神を引きつけてくれている。要は囮になっているのだ。

 シスタークを追いまくっている邪神。ぼくはそれを追っかけた。邪神の背後。それを、取った。取れた。そう思ったときだった。邪神が急に半回転した。触手。無数に伸びて、ぼくが乗っている戦闘機に叩きつけられる。致命傷こそかわしたが、あちこちが壊され、すでに飛ぶのは不可能になった。火と煙を吐きながら、戦闘機が落下していく。

 しかし――ぼくには〝なおす〟能力があった。

 だからぼくが生きている限り、ぼくが乗っているものをなおし続けることができる。

 ぼくは破損して動かなくなった戦闘機を〝なおした〟。これで戦闘機は元通りだ。また戦える。そして復帰しただけではない。一度なおした乗り物は、燃料が満タンになるのだ。それが戦闘用の乗り物であれば、その武装も元の通りになる。

 そしてぼくは、そのまま邪神に突っこんだ。それは完全に奇襲になった。一度は完全に破壊されたからだ。邪神はぼくを、すでに死んだものと考えていたのだ。だから邪神への奇襲は成功した。ぼくは戦闘機で、邪神へと突っこんでいった。あの邪神の眷属、蝙蝠のような怪物と同じ弱点――邪神の後頭部に。燃料も満タン、ミサイルも満載されたそれを、邪神めがけて突っこませたのだ。

 衝突するすれすれで、ぼくだけは戦闘機から脱出する。

 戦闘機の自爆攻撃を受けた邪神は悲鳴をあげて、糸がほつれるようにして体がバラけ、宙に溶けていった。

「やった……ついにあいつを、邪神を倒した!」

 だから。だからぼくは、満足だった。邪神を――シスタークの敵を倒せたのだから。

 パラシュート。絡まっていて、機能していなかった。壊れたわけではないので、ぼくの能力でもなおせない。ぼくは高速で落下していく。このまま地上に叩きつけられるだろう。だがそれでも、ぼくは満足だった。満足して逝くことができるだろう。そう思っていた。

「死なせない――今度こそおまえを死なせるもんか!」

 その声が背後で聞こえた。彼女が助けてくれる。ぼくはどこかで、それを期待していたのかもしれない。彼女はぼくのパラシュートを焼き払い、ぼくを背後から抱きしめる。

「無茶しやがって……〝次〟やったら、許さねえからな」

 彼女はそう言い――〝次〟を、約束してくれたのだった。


   8.


 彼女に背負われて飛んだ。

 はじめて出会った、あのときだ。

 だが今回は抱きしめられている。彼女の吐息を耳に感じる。彼女の体温を、その熱さを全身で感じる。感じられる。彼女の鼓動も伝わってきた。ぼくがドキドキしていることも、きっと伝わってしまっている。

 町からあの村へむかう道。トンネルと旧道が合流し、これから橋を渡るというところ。戦闘機が落ちていた場所で、ナギサは待っていてくれた。よほど心配してくれていたのか、ぼくが無事と知り、泣き崩れていた。

「心配かけやがって、なのです。気が気でなかったのです」

「悪いね。でも邪神を討ち滅ぼせたよ」

「それならいいのです。心配かけて成果ナシなら、ぶっ飛ばさなきゃなのです」

「ヤツはぼくの敵だった。シスタークの敵だからね。そして、神さまの仇でもある」

「そうなのです。ヤツさえいなければ、ご神体を壊す必要はなかったのです」

「神さまって、生まれ変わったりはしないのかな」

「あ、そっか……そういう可能性もあるのですか……聞いときゃよかったのです」

「どこかでなにかに、誰かに生まれ変わってる。ぼくはそう信じたいな」

「そうですね。わたしもそう信じたいのです。ケンはいいこと言うのです」

 そうしてすこし話してからナギサは、ぼくの傍らにいるシスタークを見た。

「あなたがシスタークさんですね」

「ああ、よろしくな」

「よろしくなのです。それで……ケンのことを、どうかお願いするのです」

「ケンはもう、立派な男さ」

「そうじゃなく……」

「わかってるさ。任せとけ」

「だったらいいのです。それじゃあケン――さよなら」

 ナギサはそう言うと、涙をぬぐいながら、タクシーに乗って去っていった。ぼくはまたシスタークに抱かれ、彼女の住んでいる場所へと送ってもらった。


   9.


 山奥の別荘。

 そこが、彼女の家だった。

「ずっとここに住んでるんだ」

「ずっとって、いつからですか」

「さあな。忘れてしまったよ。竪穴式住居とか、高床式住居とか造ったんだが」

「歴史の教科書に出てくるやつですよ、それ」

「そうか? 今度、おまえの家にも行きたいな」

「ええ、待ってます」

「それよりもう夜も遅い。泊まっていけ」

「えっと、ひとり暮らしの女性の家に泊まるのは」

「なに言ってやがる。おまえの好きと、私の好きはいっしょだろう?」

「それはそうですが」

「なら問題はあるまい。私とおまえは、つがいになるのだからな」

「せめて恋人と言いましょう」

「そうか? じゃあそれで」

「恋人……ヒト? でいいんですかね」

「私は鳥だがヒトにも変身できる。少なくとも、おまえの前ではヒトでいるさ。だから、ヒトで間違ってはいない」

「そうですか。そうですかそうですか。ヒトでいいんだ。それと、やっぱり鳥なんですね」

「ああ。私の本名は、シスターク=フェニックスという。真の姿は、鳥なのさ」

「フェニックス――不死鳥ですか。どおりで死なないわけだ」

 彼女には、夕食をごちそうになった。いつかも食べた、とてもあったかい雑炊だ。

 それからたくさん話をして、いつの間にかそのままソファーで寝てしまった。

 目を覚ますと、体には毛布が掛けられていて、彼女はどこにもいなかった。

 しかしぼくは、焦らなかった。

 もう彼女は、どこにも行かない。ぼくから離れない。

 その確信があったからだ。



エピローグ 炎の歌




 それから家まで送ってもらった。

 飛ぶと目立つので、またタクシーを呼んでだ。

 おまえを家まで送らなきゃだ。彼女はそう言い、タクシーに乗りこんで、ぼくに左肩を押しこむようにして座った。

「さて……邪神も倒したいま、私はなにをすればいいんだろう」

 シスタークがぽつりと言う。とても長く生きている、これからも長く生きていく彼女にとって、やることというのは、必要なものなのだろう。

 だからぼくは提案した。自分のやりたいことでもあったから。

「シスタークさん。あの村を、復興しませんか?」

「あの村を? すでに廃墟だぞ」

「だからまあ、一朝一夕にできるとは思ってません。ぼくも大人になるまでは、おそらくなにもできないでしょう」

「そうだろうな。しかし私とおまえが引っ越しても、村が復興したことにはならんぞ」

「それはまあ、これから仲間を募りますよ。いくらぼくの能力でも、村はなおせない」

「まあ、時間はかかるだろうな。でも時間はたっぷりあるか……」

「その村を、見守るのはどうです? ぼくの孫なんかを見守るのを、花を愛でるようだと言ってましたよね。それなら一から育てたら」

「余計に愛着がわく、か。そうかもな。おまえは私を遺して死ぬが、その後のことまで、ちゃんと考えててくれたんだな」

「あなたをひとりにしない。そのためですよ」

「仕方ないな。おまえがそういうのなら、協力してやろう」

「素直じゃないですねえ」

 タクシーが停まる。自宅に着いたのだ。寄っていくかと彼女に聞いたが、彼女は被りを振って、またタクシーに乗りこみ、去っていった。


 その次の日。

 シスタークは、プレゼントを持ってきてくれた。

 毛糸の帽子だった。ぼくはマフラーを渡した。クリスマスだからな。彼女はそう言った。

 そう、だから――クリスマスだから。だからぼくらは今日一日、いっしょに居ることにした。そうして来年も再来年もと、ぼくらは将来の約束もした。シスタークにとっては、すぐのことかもしれないけど。

 ただ、歩く。ぼくにはそういう癖があった。そしてシスタークも、散歩をするのが好きらしかった。だからぼくらは、二人で歩いた。雪が降り積もった街並み。それと繁華街。人が多いところにも行った。彼女は注目されていたが、いまは怖くはないと言った。

 それから公園を歩いているとき、シスタークは歌ってくれた。そのきれいな歌をぼくに聞かせてくれた。

 はじめて会ったときも聞かせてもらった歌。

 名を、〝炎の歌〟という。ぼくが名づけた。炎のような彼女の歌だからだ。

 その歌を、ぼくはベンチに座って聞いた。そのぼくと同じく肩を並べて、ベンチに腰を下ろした彼女が、続けて歌い聞かせてくれる。

 熱い、熱い彼女。その彼女が歌う、熱い歌。

 その熱さがぼくの胸の奥まで、あったかく染みこんできた気がする。

 彼女を想うとつらかった。胸が張り裂けそうだった。

 しかしいまは、その胸のところが、とても熱いものによって満たされている。
















                                    (終わり)

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