眼鏡デビューはちょっとアブナイお薬で

@zawa-ryu

眼鏡デビューはちょっとアブナイお薬で

 学生時代、眼鏡に憧れていた時期があった。

 黒縁の、細めのフレームを人差し指でクイッとあげて「あら、もうこんな時間?」といった具合に文庫本をパタンと閉じ、時計台の下に置かれたベンチから颯爽と駅に向かって歩き出す。そんな知性溢れる大人の女性に、私は眼鏡さえ手に入ればなれるはずと思っていた。

 しかし、両親から丈夫に産んでもらった私の視力は両目とも2.0を誇っていた。いくら本を読もうが、親の目を盗んで何時間ゲームをプレイしようが、テレビに布団をかぶせて深夜番組を視ようが、私の視力は一向に落ちることは無く、健康診断では他の項目も合わせていつも「優良」の太鼓判を押されていた。

 だが時は経ち、現在の私は常に眼鏡が手放せないカラダになっている。普段職場ではコンタクトを使用しているが、オフの日や在宅時はもっぱら眼鏡。眼鏡が無いと何も見えない、何も始まらない。今ではどこに出ても恥ずかしくない眼鏡女子。いったい私はどうやって憧れの眼鏡ライフを手に入れたのだろうか?時は高二まで遡る。


 その日、私は縁側で寝転がって小説を読んでいた。ハードカバーの単行本の重さに右手の痺れが限界を迎えた頃、私はこのまま手の感覚が無くなってしまえば永遠にこの体勢のまま本が読めるのではないかしら?という思いと、馬鹿な事を考えてないでいい加減起きなければという相反する二つの思いに苛まれていた。それからさらに逡巡し、ようやく「うんしょ」と体を起こした時には、枕代わりに二つ折りにしていた座布団はもう反発して元の形状に戻る気力も無く、ぐにゃりと捻じ曲がったままへたばっていた。私は汗ばんだTシャツを親指と人差し指でつまみ上げ背中から引き離すと、庭に向かって「ぐぅえぇぇ~」と断末魔のような声を上げ、大きく伸びをした。

 庭の向こうでは何を勘違いしたのか、黒柴犬のチャムが私の姿を見るなり散歩だ!散歩だ!散歩の時間だ!とぴょんぴょんと喜びの舞を舞っていた。私はそんな憐れな愛犬を無視して縁側を離れ、リビングへと向かった。


 体が、喉が、目が。全身のありとあらゆる臓器が水分を欲していた。無理もない、朝起きてから(時刻で言うと、もう正午だったけど)冷蔵庫にあった牛乳パックをがぶ飲みしたきり何も口に入れていない。

 ―買い物に行ってきます。夕飯までには戻ります。洗濯物よろしく―

 テーブルに置いてあった母の書置きには気づかないフリをして、買ったばかりの新書の束と座布団を手に、縁側へ向かってかれこれ二時間が経つ。

 リビングを通り抜け、キッチンに何か目ぼしい物は無いかと辺りを見回すが何も無い。冷凍庫にはアイスひとつ入っておらず、仕方なく私はまた牛乳パックを取り出して、ゴキュゴキュと喉を鳴らして牛乳を飲み干した。

 喉の渇きを潤した私は、次に目薬を探した。なにせ二時間も読書していたものだから、さすがに目がしぱしぱする。私はふと目に入ったテーブルに置かれた小さなプラスチックの小瓶を手に取り、中身も確認せずに左目に一滴その液体を垂らした。



「ぎぃやァあぁあぁあぁあぁーっ!」

 その水滴を落とした瞬間、私の左目に今まで味わったことの無い激痛が走った。

「イタイ!イタイよ!いったぁーいっ!」

 私はあまりの痛みに左目を押さえリビングを転げまわった。

 ちょうどそこへ家族が買い物から帰ってきた。

「ど、どないしたのッ?」

 母は、断末魔のごとく叫びながらリビングの端から端を文字通り七転八倒する私に驚き、買い物袋を投げ捨て駆け寄った。

「め、めぐ、めぐすりを、さしたら、イタイ、イタイの!死んじゃうぅぅ」

「は?目薬?ええっ?」

 母は困惑しながらも辺りを見回すと、床に転がっていた小瓶をサッと拾い上げ、転げながら叫び続ける私に衝撃的な一言を告げたのだった。

「このバカッ!これ目薬じゃないよ!お父さんの水虫の薬じゃないっ!」

「えッ?ええッ?」

「ギャハハハハハハハっアホや、アホやコイツ!」

 買い物袋を手に持ったまま爆笑する妹と父。

 なんと私が目薬と思って目に入れたのは、「水虫菌なんて細胞から破壊してやるぜ!」と謳うほどの猛者、長年水虫を患っている父の愛用薬だったのだ。

 私のバカさ加減に怒り狂いながらも、母は看護師をしていた叔母に電話でどうしたものかと問うたが、叔母の返事もやはり「アホちゃうか」の一言だけだった。しかし、さすが専門職と言うべきか、とりあえず流水で痛みがマシになるまで左目を洗い流し、夜診のやっている眼科に行くようにと具体的に指示を出してくれた。

 診察の結果、特に異常は認めないとの事だったが、それ以降私の左目の視力は低下の一とを辿り、それに合わせるように右目の視力も落ちていき、晴れてその年の暮れには眼鏡デビューと相成ったのだった。

 

 ちなみにですが、眼鏡デビューは当然細めのフレームで黒縁眼鏡。文庫本を片手に田んぼの畦道を、最寄りの無人駅に向かって歩いてみましたが、そもそも私の憧れる大人の女性になるために足りないのは、眼鏡では無く知性であると気付くのはそれからさらに数年を要するのでした。

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