第8話 『夢の住民』

「潜入部隊が仮想都市に侵入しました」

 作戦開始から初めての朗報に、バロディナルの司令塔内は安堵の空気に包まれる。

その空気を読み取った稲垣はすかさず活を入れた。

「これはまだ初歩の段階だ。これから潜入部隊には都市内部を探索してもらい、アップグレードに関する情報を探ってもらう」

 隊員たちの活躍により作戦が順調に進む中、誰一人として気を緩めることはなかった。

 タイムリミットは不明。その間に阻止・回避法が見つからなければ旧『夢見人ドリーマー』が目覚め、この世界は破滅へと向かうだろう。誰もが気を張って真剣に取り組んだ。

 だがいくら気を張っていても、見えない場所での異変に気づくことはできない。

フィールドを展開している『夢見人ドリーマー』の七海以外は――

『……っ! 今、なにか――』

 七海の呟きとアラームが鳴ったのは同時だった。研究員の叫びが司令塔内に響く。

「C区画に大量のノイズが発生。範囲を広げています」

「こちらでも同様の反応を確認! その他の区画でもノイズが発生しています!」

 突如発生した謎のノイズに一同は慄いた。そこに七海の譫言じみた悲鳴が重なる。

『ダメです、フィールド内に侵入されました! 物凄い数です。こちらが弱っているところを狙われました。こちらに向かって来ます!』

「なんだ――いったいなにが来るんだ⁉」

「現地とリンクしました。映像をつなぎます」

 現状把握に努める稲垣の手助けをするように研究員が返事をした。そしてスクリーンに破壊しつくされた市街地が映しだされた瞬間、全員が目を見開く。

 各地で直径20メートルほどの漆黒の球体が空中に鎮座していた。

 球体に見えたそれは空間に空いた巨大な大穴。その周囲はノイズに塗れている。

 そして多数の穴から一斉に影が覗いた瞬間、『夢の住民トライバー』の大群が空間を破壊してフィールド内へと侵入した。

『各地で『夢の住民トライバー』の大群を確認! 出現に伴いノイズ発生!』

『大変です、先ほど掃滅した区画が次々とノイズに汚染されていきます!』

 通信機器から隊長たちの悲鳴が響く。無数に表示されたスクリーンには『夢の住民トライバー』が隊員ごと街を食い荒らす様子が流れた。眼前のスクリーンに映る一方的な暴力と研究員たちの悲鳴、そして耳を劈くアラームに稲垣はギリッと奥歯を噛み締める。

「総員に退避命令を出せ! まともに戦って勝てる相手ではない!」

 稲垣はすぐに各部隊へと命令を出した。その素早い判断が功を奏し、各部隊への被害は最小限に留められる。しかし決して状況は芳しくない。

 除去したノイズやバグは再び市街地に蔓延し、巨大都市は『夢の住民トライバー』に喰い尽されていった。破壊された空間からサイバースペースが漏洩する。至る場所で電流が爆ぜる度に、先の更新で元々壊滅状態にあった街並みは荒波に呑まれるように原形を崩した。

 各部隊はバリアを展開して抵抗を試みるも、『NPC』の貧弱なシールドが敵うこともなく、どんどん後方へ押しやられてしまう。

こうして『夢の住民トライバー』の餌食となった隊員たちは瞬く間に消滅していった。

『現在C区画で二つの部隊が『夢の住民トライバー』と交戦中! 至急応援を頼みます!』

『こちらH区画。隊員が多数消滅! 部隊がほぼ壊滅しました!』

 全部隊が一斉に緊急要請を勧告する。総司令部は一瞬にして大混乱に陥った。常にけたたましく鳴り響くアラームに誰もが脳を揺さぶられる。

「そもそも『夢の住民トライバー』と応戦するには最低でも部隊が三つ必要なんだ! こんな大量に相手にできるほどの力量なんてない!」

「多分、奴らもこの世界が消えることを知ってるのよ。消滅するくらいなら自分たちで食そうとして、だからこんな大群で襲ってきたに違いない!」

「追い払うだけでも精一杯だってのにどうしろってんだ……っ」

 そこら中から聞こえてくる情けない泣き言に、檄を飛ばす気力さえ稲垣には残っていなかった。悪足搔きでどうにか防御に徹しているが、それも時間の問題だろう。

 打開策も希望もない最悪な状況に誰もが諦めかけた、そのとき。

『私がどうにかします!』

 通信機器から発された声に全員が弾かれたように顔を上げた。そこには痛々しい姿で玉座に座る七海が画面に映しだされている。それに誰かが声を荒げた。

「なに言っているの⁉ あなたはフィールドを展開してるから動けないでしょ!」

『いえ、私にならできるかもしれません』

「……いったいなにをする気だ?」

 稲垣が訝った瞬間、室内が赤く染まりアラームが響いた。すると女研究員が叫ぶ。

「宮殿に張っていたバリケードが破られました! すぐに避難を――」

 警告を言い終える前に、稲垣の眼前で空間がひしゃげる。

たちまちノイズが湧き、溢流したサイバースペースとともに『夢の住民トライバー』が出現した。

「やばい離れろ! みんな避難だ!」

「指揮官、早くそこから逃げてください!」

 研究員が叫ぶ。だがすでに『夢の住民(トライバー)』は大口を開け、稲垣目がけて突進していた。

「もはや、ここまでか……!」

『フィールド展開』

 稲垣が死を悟った直後、『夢の住民トライバー』と稲垣の間に不可視の壁が現れた。『夢の住民トライバー』は壁に激突すると憎たらしそうに咆哮を上げ、稲垣は突然のことに呆然とする。

 フィールドは『夢の住民トライバー』を内側に閉じ込める形で展開されていた。

 刹那、バリアが消滅を始める。『夢の住民トライバー』は危険を察知して暴れ回った。

 だがその抵抗も空しく、『夢の住民トライバー』はフィールドごとその場から消滅する。空間には内側に陥没した大穴が開き、空気中にはサイバースペースとパルスが漂った。

 現在、役員や研究員の中でデバイスを所持している者はいない。もし『夢の住民トライバー』の攻撃に耐えきれるほどの強度の防壁を展開できる者がいるとすれば、特定の一人だけ。

 スクリーンには莫大なパルスを湧かす七海が映っていた。

 七海の全身には不格好な結晶が付着し、その被造物は体を苗床にするように成長している。七海の皮膚を這う被造物は、やがて玉座や床をも侵食していった。

 それは『夢見人ドリーマー』が限度を超えたエネルギーを放出したとき、『夢見人ドリーマー』自身が己のエネルギーをコントロールできなくなって起こるリバウンド現象。

 そして再び七海が大量のパルスを帯びたとき、研究員たちは驚愕の声を上げた。

「各地で謎のフィールドが無数に展開されました! でも不思議です、どのフィールドもすべて『夢の住民トライバー』を施錠しています! これはいったい……っ」

『私がすべての『夢の住民トライバー』を存在ごと消します』

 信じられない光景に研究員たちが唖然としている中、七海が告げる。

 もう疑う余地はなかった。稲垣は顔面蒼白になり――先に美月が叫ぶ。

「今すぐやめろ入江! いくらなんでも無謀すぎる! そもそもこっちでお前の力を制御してるのに、それを無視して大量の『夢の住民トライバー』を消すなんて――これ以上は莫大なエネルギーを消費するっ。お前の精神も持たない! わかってんのか⁉」

『私、は……大丈夫、です……っ』

「大丈夫なわけがあるか!」

 七海が声も絶え絶えに返事をすると、今度は稲垣が割り込んだ。

「いいか、ただでさえ君はこの巨大都市を覆うほどの巨大なフィールドを展開しているんだ。それに加え数多のフィールドを展開したら、さすがの君でも魂が燃え尽きる! 魂が無事だったとしても脳がめちゃくちゃに破壊されるんだぞ!」

『でもこれ以上みんなが消えるのを見ていられません! だから私が――』

 意志を主張するように七海のまとうパルスが増大した。

 それに呼応して塔に祭られたクリスタルは網膜を焼き尽くすほど輝きを放つ。その眩しすぎる射光は太陽のように爛々とバロディナル全域を照らした。

『こちらA区画! 大変です、突然フィールドが展開され、――……なんだ、『夢の住民トライバー』を空間ごと消したぞ⁉ なんて力だ!』

『『夢の住民トライバー』が次々に消滅していきます! 信じられません、こんなこと――』

 通信機器から続々と湧く歓喜とは対照に、七海は真っ青な表情で額からどっと汗を流していた。視点のずれた目で呼吸を荒げ、思わず出そうになる呻きを必死に堪える。

「新『夢見人ドリーマー』候補の脈拍が低下しています、このままでは危険です!」

「巨大フィールドに乱れを確認! 国の外方にて複数の隙間が発生しました!」

 持ち場に戻った研究員が状況を報告する。

 稲垣は険しい顔で七海を見たあと、吹っ切れたように命令を下した。

「全員に告ぐ。各地で発生しているフィールドは新『夢見人ドリーマー』候補によるものだ。各部隊は新『夢見人ドリーマー』候補がターゲットを絞りやすくするよう、敵の足止めをしろ!」

 それから稲垣は一度に各部隊へと細かな指示を出した。

 七海は震えながら、息を荒げて苦しそうに体を強張らせる。その様子を見た美月は叫びだしたい衝動に駆られるが、結局七海の渋面を眺めることしかできなかった。


       ◇


 彼方が愛情をもらえない孤独にぐずると、それを聞いた母の背中が恐怖で慄いた。ぐずりが泣き声に変わるころ、母は忌々しげにこちらを振り返る。

 恐怖と躊躇いに染まった相貌が横から近づき、やがてこちらを見下ろす。だが伸びてくるはずの手は、途中で針にでも刺されたように引っ込められた。


『ごめんね、今はどう接したらいいかわからないから……ごめんねっ』


 顔を覆って呟くと、母は逃げるように部屋から出ていく。一人残された彼方は、母が退出した理由がわからず、漠然とした不安でぐずり続けた。

(まただ……また俺を置いて、どこかへ行ってしまう……なんでだ? どうして俺を一人置いてくんだよ? なにか嫌われることをしたのか? わからない……)

(お願いだから戻ってきてくれ。俺はここにいる! 声が聞こえないのか? こんなところに一人はいやだ! 悪いことしたなら謝るから、頼むから俺の声を――)

「聞いて……」

「聞いてんのはこっちの方なんだよ! さっさと答えろや!」

 背中を蹴られて目が覚める。痛みと驚きに目を見開くと、光が憤怒の形相で苛立たしげに彼方を睨みつけていた。彼方はようやく現実世界で目が覚めて意識がはっきりする。

 いつの間にか夢見るように微睡んでいたようだ。彼方はパルスに体を消されぬよう最小限のフィールドを展開しながら、光と一定の距離を置いて街中を彷徨っていたことを思いだす。

 一日では回り切れないほどの広い都市内は、どれも似通ったビル群に囲まれ、ミラールームさながらに同じ景色が続いていた。代わり映えしない情景は二人を微睡へ誘う。彼方は額に手を当てた。

(無意識に自分の世界に入り込んでたな……ここが仮想都市だからか?)

気づけばハウリングが止んで、今までそこになかった建築物や通路が出現している。先ほどまで青みがかっていた景色も霧が晴れたように鮮明になり、街から煌めきが薄れ、駆動音が鼓膜を震わす。仮想都市は着実に実体化し、視覚化が進んでいた。

アップグレードの助長による現象なのか。これらの事実は確実に部隊メンバーに不安と焦燥感を与えているだろう。そしてここにも毒された人物が一人。

「もうダメだなこいつ。消すか」

 いつまで経っても辿り着かない目的地に光は苛立ちを募らせていた。臨界点を超えて逆に冷静になると、彼方の背中に向けられていた銃口をぐりぐりと押し当てる。

 その所作で互いのフィールドが接触し、触れた箇所だけ相殺され、彼方の防壁内にパルスが入って体を少しだけ削った。堪らず彼方は声を荒げる。

「やめろよ消えちゃうだろ! てか確信がなくてもいいって言ったのお前じゃん!」

「意識はっきりしてたならさっさと答えろや! びっくりすんだろ⁉」

「あぁんもぉっ、背中痛ぁい! 痛いぃんもーおぉっ!」

 彼方が反論すると驚いた光が反射的に蹴り飛ばした。今度は完全にフィールドが相殺され彼方は地べたに転ぶ。わざとらしく大きく体を仰け反らせると背中に手を回し、しつこく痛がった。痛がりながらもフィールドはちゃんと展開し――不意に真顔になる。

 急に押し黙る彼方に光は訝しむ。だがその視線の先を見るや、にやりと口角を上げた。

「……ここがそうなのね?」

 眼前にはノイズを帯びた巨大なタワーのような建築物が建っていた。建物は半透明から実体化している途中なのか、電子回路が内部から外へ向かって伸びている。光は考察した。

「そういえばこの都市は実体化してる途中なんだっけ? 時間が経つにつれて今までなかったものも出てきてるし、見つからないはずよね。……さあ、早く行きなさい」

「え、俺が先頭⁉」

 先陣を促され彼方は度肝を抜く。光は当然とばかりに顎をしゃくった。

「中知ってんのあんたしかいないでしょ。行けよ」

「あれでも俺まだちゃんと思いだせてないみたいだよ? 意識もはっきりしてな――」

「今さら嘘ついてもバレバレなんだよ! さっさと行けや消すぞ!」

 武器を片手に脅されると、やむなく彼方は建物の中に入った。

 空間に張り巡らされた電子回路を避けて入り口を抜けると、内部ではさらに細かくなった回路が隅々にまで伸びていた。そのことを除けば普通の巨大なホールだ。

 無人のホールは薄暗く、パルスの発する淡い明かりだけで照らされている。靴底が床を蹴る度に遠くまで音が反響した。それだけで建物の大きさが窺える。

「埃一つ落ちてない……。まるで新品みたいだ」

「そりゃ新情報更新場、アップグレードの聖地だもの。綺麗でなくちゃむしろ変よ」

 と、互いに感想を言い合った直後、不意に強烈なフラッシュが焚かれた。厳しい瞬きは視界を遮ると瞬時にホール全体を明るく照らす。

 次の瞬間、突如多数の人影が周囲に出現し、四方八方に闊歩しだした。二人は反射的に身構える。だが人影はランダムに徘徊するだけで危害を加えてくる様子はない。


『なんで言うこと聞いてくれないの――』


(うっ……なんだ?)

 それと同時に彼方の脳裏に砂嵐がかかる。霞む記憶にわずかに映った、例の妄想の母らしき人陰に彼方は身震いした。気のせいだとすぐに頭を振る。

 急展開に動揺しつつも、光は冷静さを取り戻して影奉仕を観察した。

「なにもしてこない? なんなのこいつら……」

「なあ、この人影どんどん濃くなってないか? 気のせい?」

「影だけじゃないわ。外の建物も実体化が進んでる。きっとアップグレードが近いのよ。こんなとこで油売ってる場合じゃないわ。ほら、先に進んで!」

 光が指図すると、彼方は言われるがまま奥に入って行った。入り組んだ通路を抜け、幾度も角を曲がり、下へ下へと階段を降りていく。

 アクシデントと光に脅されること以外落ち着いていた彼方とは対照に、周囲に蔓延る見慣れない光景に光は終始目を奪われていた。いつ起こるやもしれぬアップグレードの心配もあり、緊張と警戒を繰り返しながら彼方のあとを追う。

 やがて白一色の通路で彼方は足を止めた。壁際には、床のレールに乗せられた無数の箱型の装置が連結しており、奥の部屋へと続いている。彼方は装置を睨んだ。


『これ以上困らせないで』


「……っ」

 すると再び母親の幻聴が耳元で響く。今度は先程よりも鮮明に。叱咤の口調にびくりと肩を揺らしながらも、彼方はそれを振り払うように光に機械を示した。

「俺が目を覚ましたのはこの装置の中だ……けど、俺が入ってたやつはない」

「ここで間違いないのね? あんたがここから出てきたのが本当なら、他の『NPC』や私も、みんなここから現れたことになるけど……」

 言うが早いか光は銃口を装置に向けると光線を撃った。ただでさえ音の反響やすい建物内に、雷鳴にも似た凄まじい電撃音が響く。だが爆音の割に威力はなく、ノイズがちらつくだけで機械には傷一つつかなかった。光の奇行に彼方はおったまげる。

「おまっ、中に人が入ってたらどうすんだよ⁉」

「そんときゃそんときよ。にしても頑丈ね。中を開けるのは無理か――」

光はそっと装置に触れると、奥の部屋を睨む。

「『NPC』はアップグレードで送られてくる。あんたの言ったことが正しければ、この装置は確実に更新と関係があるわ。装置は奥の部屋に続いてる。この先にアップグレードに関するなにかがあるはずよ。あんたに案内させたのは正解だったみたいね」

 得意そうな笑みを浮かべると光は横目で彼方を見た。しかし強引に連れて来られた彼方としては褒められても嬉しくないようで、微妙な表情をする。

 光の口調が賞賛より、ご苦労という意味合いが強かったのも要因だ。光もそういう意味で言ったのだろう。そしてすぐに銃口で先へ行くよう促す。

 気が乗らないまま彼方は奥の部屋に踏み込み、思わず顔の前に手を翳す。

 室内は、それこそ燃え盛る太陽のように、凄まじい光量に照らされていた。

 淡いパルス色の波動を基調にした白光が部屋の中心から放たれている。周囲にはフリーズしたいくつもの景色、もとい残像が撒き散らされており、故障した立体映像のように統一性のない状態で虚空に貼りついていた。

 残像と光輝に照らされただだっ広い室内の至るところには例のオブジェだけが一定の距離で設置されており、そのすべてが駆動音を響かせている。

 オブジェは駆動音と床に刻まれた回路に合わせて怪しく点滅していた。よく見るとオブジェの正体は、先程廊下にあった箱が奇妙な型に嵌め込まれただけのものだった。

 その様はまるで、銃弾を装填する拳銃のように見える。

 まともに目を開けられないまま二人は進んだ。だが薄目を開けた視界で、突然体の一部が消失する。

 急いで動きを止めて揃って息を呑む。彼方は戦慄した。

「っ⁉ 体が! 建物の中なのになんで……っ!」

「違うわ、周りでフリーズしてる残像に触れたからよ!」

 慌てふためく彼方に、光は冷静に状況を確認して答えた。すると彼方も理解したようで落ち着きを取り戻す。同時に恐ろしい事実に気づいてしまった。

「なあ立花。俺の予想だけど、これ……もしかしてアップグレード中だったものが、その状態のまま停止してんじゃないか?」

「っ! ……だとしたら、ここから先はフィールドを張らないと無理そうね」

 彼方の鋭い指摘に光は驚愕する。その考察は気持ち悪いほどすんなりと呑み込めた。この建物は実体化の途中。いつフリーズが解除して残像が動きだすとも知れないのだ。

 彼方と光はバリアを展開すると、残像を相殺しながら慎重に歩きだす。


『もうおむつが濡れてる……。さっき変えたばかりなのにっ』

『泣いててもわかんないよ! 文句があるならちゃんとしゃべってよ⁉』


「うっ。さっきからなんなんだ……。都市に来てからずっとこの調子だ。ここはそういう場所なのか?」

 小声で漏らしながら彼方は強めに目を閉じると、頻りに頭を振る。明瞭になった囁きは明らかに数を増やしており、空中で停止している残像の中に夢の中の母親の面影を見たような気がした。彼方は早くもノイローゼ気味になりながら渋面を浮かべて先を急ぐ。

 奥に向かうほど足元は降段し、どんどん眩しさが増した。床の回路は空中の電子回路とつながり、パルスが行き交っている。中央には開けた空間があり、床にはなにかを嵌めるための連結部が露出していた。やがて中央に着くと輝きの正体を突き止める。

 まず初めに目に着いたのは、白光を吐き出すオブジェだった。付属の扉が少しだけ開かれており、そこから凄まじい光量が噴き出している。

 次いで扉から爆発したようなエフェクトを撒き散らす空間を見やる。アメーバ状の独特としたそのフォルムから、すぐにそれが『霊魂タブラ・ラサ』だと気づいた。なにかに変化している途中なのか、幻影の帯を引いた状態でフリーズしている。

「『霊魂タブラ・ラサ』……? なにこれ、この中から残像が出てるの?」

 アメーバ状の全身から放出しかけた残像に光は目を丸める。そしてその謎を探ろうと白光の中心、特に扉のように開かれた隙間へと目を向けた。

 彼方もつられて扉を見る。以前同じ光景を見た記憶があった。だがそれは現状を打開するには至らない。彼方は重大な問題を口にする。

「やっぱり、このオブジェがアップグレードの機械なのか? まだ実体化してない……これじゃあなにもできない。実体になるまで少し待つか?」

 そう、肝心のオブジェがまだ具現化していなかった。これでは手の出しようがない。そのことを考慮して彼方は提案する。だが光はその待ち時間すら惜しかった。

「そんな時間ないわ。周りを調べましょう。あんたはあっちを探して」

「俺もやるのかよ⁉」

「ここまで来たならやりなさいよ! アップグレードを阻止できなかったらあんたも消えんのよ⁉ それとも今ここで消してやろうか!」

「んふぅ~ん」

 変な声を出すと彼方はしぶしぶ周囲を調べた。光も武器をしまって目を光らせる。

しかしオブジェしか乱立していない室内は、ざっと見ただけで目ぼしいものがないのは一目瞭然だった。すぐに部屋を一周するが、やはりなにも見当たらない。

「おーい変な置き物以外なにもないぞ。これ以上探しても――」

「しっ!」

 彼方が叫ぶと光は鋭く息を吐いた。するとすぐに外の方から声が響いてくる。

心当たりがあるとすれば一つしかない。二人の間に緊張が走ると彼方は慌てた。

「部隊の連中か⁉ やばいみんなに見つかっちゃうどうしよう⁉ やっぱ殺されるかな?」

「その辺に隠れて!」

 光が言うと二人はそれぞれ近くのオブジェに隠れた。それとほぼ同時に猪熊率いる『NPC』部隊が部屋に入ってくる。予想以上に早い到着に光は舌打ちする。


『部屋も片づけないと。これじゃあ足の踏み場もない』

『ダメだって、ちゃんと飲み込まなきゃ。食べないと死んじゃうからっ』

『毎日毎日四六時中泣いてなんなの? もう頭がおかしくなりそう……っ』


「ああ、クソ……っ」

 打って変わって彼方は限界が近かった。オブジェの後ろで膝をつくと、間断なくエコーする頭の中の母の嘆きに思考が散漫になり、ついに顔を覆って蹲ってしまう。

「都市内で一番パルスの放出量と熱量の多いところを探してみれば……なんだここは。外の様子も先ほどと比べ激変しているな……ここが怪しいぞ。よし、早速探索開始だ!」

 猪熊が発破をかけるや隊員たちは四方へ散らばった。外にいたときから細心の注意を払っていたため、初めからフィールドを張りながら探索する。

 光はこの状況をどう打開しようかと思考を巡らす。その直後だった。

「隊長! 怪しい人物を発見しました! なぜか泣いていますが……」

「なに⁉ どこだ!」

 隊員の声に猪熊が駆けつける。すでに光が途轍もなくいやな予感を覚えていると――

「か、笠木⁉」

「んふ、ふふうん~っ。ぴぎゅっ!」

 隊員に拘束された状態でオブジェの影から出てきた彼方に、光はうんざりした。足腰に力が入らないのか、彼方はだらしなく両膝を引きずって嗚咽を漏らしている。

 腕を解かれると彼方は内股でへたり込み、両手をグーにして目元に当てた。そんな見るに堪えない彼方の前に猪熊は膝を折ると、迷子をあやすようにそっと問いかける。

「やはり俺たちとお前も目的は同じなのか? いったいなにをしようとしている⁉」

「ちぃ、違うぅ~ん。俺わっ悪ぐなぁい。立花が無理やり……」

「なんだと⁉ 奴はどこにいるっ」

「あの後ろぉ」

「笠木いぃぃぃぃぃぃぃ!」

 あっさりと暴露した彼方に光は怒りの叫びを上げた。

「立花、そこにいるのはわかってるんだ! さっさと出てこい!」

 彼方の暴露によって完全に居場所がバレてしまった。すぐに左右から多くの隊員たちが武器を構えてこちらに回ってくる。

 光は唇を噛むと渋々姿を現す。対面した猪熊は額に青筋を浮かべていた。

「また貴様か⁉ 毎回ふざけたマネをし――」

 凄みのある声は銃撃に遮られた。猪熊の展開していたバリアは全方向からの一斉射撃で瞬時に相殺される。剥き出しになった生身に数十発もの光線が立て続けに撃ち込まれると、これには体躯のいい猪熊も膝をついた。

 突然の光線の雨に彼方と猪熊は驚愕する。光も目を見張ったが、それでも二人よりは落ち着いていた。どこかでこの結果を予想していたようだ。

 その隙に別の隊員が彼方に向かっていくつもの球体を投げる。途端に疑似フィールドが重なって展開すると、彼方の張っているバリアごと覆って施錠した。

「き、ざま、ら……なに、をっ」

 猪熊はたちまちノイズに侵されると床に倒れてフリーズした。幸運にも首から上はノイズがかかっておらず、まともにしゃべれぬまま強引に言葉を連ねる。

「悪いわね隊長。私たちもみすみすチャンスを逃すわけにはいかないんだわ」

「世界の命運なんて知るか。こんな危ない場所に来るくらいならさっさと《夢境の黎明ヘザルダー》起動してもらって新しい世界に行った方が、断然生き残れる確率が高い」

「あんたはいいよな隊長。初めから『霊魂(タブラ・ラサ)』を持ってるんだから、夢の世界への片道切符は保証されてる。けど俺たちは違うんだよ! これを逃したら消える可能性しかほとんど残ってないんだ! わかるか、俺たち『NPC』の気持ちが⁉」

 身動きの取れない猪熊に隊員たちは一斉に心の内を叫んだ。その間も他の隊員たちは彼方と光に銃口を向けており、二人は黙って苦悩を聞くことしかできない。

 やがて銃声の残響が止むと、今度は彼方に照準が定められる。

「や、やった……こいつらを仕留めれば『霊魂タブラ・ラサ』がもらえる。俺もそっち側だ」

「うるせぇぞ! 誰がテメェにやるなんて言った⁉」

 隊員の一人が舞い上がっていると、誰かがそれを怒声で戒めた。浮かれていた隊員を筆頭に瞬時に静まり返り、不穏な静寂がこの場を支配する。

 それでもまだ理解が及ばないのか、はしゃいでいた隊員はなおもわからないといった表情で、仲間意識を強調するように怖々と尋ねる。

「な、なに言ってんだよ。俺たちで仕留めるんだろ? なら全員平等に一つずつもらえるんじゃないのか? 俺はてっきりそういうことかと……」

 堪らず男は周囲に聞き返した。しかし答える者はいない。ただじっと沈黙を守り、抜け駆けする者や裏切り者が出ないか、お互いに疑心暗鬼の視線を投げ合う。

 しかし男は冷え切った空気に耐えられなかった。

「だって、だからみんなでここまでやってきたんだろ⁉ おい、今さらそんなのやめてくれよ。お前たちもなんで黙ってんだよ⁉ 仲間じゃなかったのか⁉」

「さあ、残留物を寄越せ。賞品が二つあるだけで生き残る可能性は格段に上がる」

 男の懇願を無視して隊員は彼方と光を睨みつけた。

 なぜ生存率が上がるのか。それは偏に、このあと行われるだろう争奪戦に備えてのことだろう。残留物の回収で『霊魂タブラ・ラサ』を一体、彼方の排除でもう一体という寸法だ。

 直接的な表現に一同は神経を尖らせる。生への執着に盛った視線に光は居心地悪そうに身を捩った。凄まじく緊張していた隊員は、その一挙一動に過敏に反応する。

「おっと女、少しでも変な動きをしてみろ? すぐに全員で光線を浴びせてやるからな。いくらお前でも、この人数から一斉に攻撃を食らったらただじゃ済まないぞ?」

 典型的な脅し文句に、光は不快感で顔を歪める。

「まずはお前のデバイスから捨てろ。くれぐれも武器を出そうなんて思うなよ?」

 言うと他の隊員たちが接近してきた。光の展開している防壁を包囲するように十数人が至近距離で配置に着き、いつでも攻撃できるよう臨戦態勢で銃口を向ける。

 光は慎重にデバイスを外すと足元に落とした。それでも一同は常に〈波動銃サージブラスター〉のトリガーに指を添えて、光を警戒して睨みを利かせる。

 隊員は光の戦力を奪ったことを確認すると、今度は彼方に命じる。

「次はお前だ。奪った残留物を見せろ! 良い子にすりゃ楽に眠らしてやるよ」


『なんで良い子に寝てくれないの⁉ なに言ってんのかわかんないのよ!』


「ひぅっ……⁉ う、あぁ……くそっ、こんなときに――……っ」

 武器で殴らんばかりに怒鳴りつけてくる隊員の迫力と、先ほどから嫌でも脳裏を過ぎっていた夢の中の母親が自分をビンタする面影が、ここに来て不運にも重なった。

 嫌なことがあると夢の中に逃げ込む癖がついてしまった彼方は、しかし逃げ込んだ先の夢の中も耐えがたい悪夢に変換されてしまい、心の逃げ道を完全に失う。

 破綻寸前の精神を抱えながら彼方は今までにないほど青ざめると、禁断症状のように全身をがくがくと震わせ、今にも卒倒しそうなほどに錯乱した。

「なあ様子がおかしいぞ。こいつ大丈夫か?」

 さすがに彼方の異常に気づいた別の隊員が狼狽えながら指摘した。しかし今さら引くことなどできない。一同は警戒しながら彼方の動作を見守った。

 正気を失った彼方の目は焦点が合っておらず、大袈裟なほど歯をがちがち鳴らす。嗚咽交じりの過呼吸は、聞いているこちらが苦しくなるほど激しかった。少しでも刺激しようものなら発狂、または反撃を食らいそうな雰囲気に隊員は思わず尻込む。

「や、めろ……今はダメだ。出て来ないでくれ……言われた通りにするから」

 彼方は自分を宥めながら、脳内の母親に懇願する。だがその呟きが現実に反映されたとき、さらなる追い打ちが彼方の摩耗した精神を追いつめた。

「聞いてほしいならブツを出せっつってんだろうが! 泣き言抜かしてんじゃねぇ!」

 彼方の妄言が夢の中への要求とは知る由もない隊員は、切羽詰まっていたこともあって怒声を上げると、脅しもかねて疑似フィールドをぶっ叩いた。

 防壁に叩きつけられた武器を間近で見た刹那、彼方の凄惨な記憶が爆発する。


『もう夜泣きに耐えられない! 毎晩うるさくて頭が狂いそう!』

『誰かそれ捨ててきて! こんなのもういらない。早くどこかに捨ててぇ!』

『このまま死ぬまでずっと首を絞め続ければ、やっと静かに――』


「うわああぁぁあぁぁぁああぁぁああああああぁッ!」

 母親が狂ったように泣き叫び、何事か喚きながら物を投げつけ、終いに自分の喉仏を両手で圧迫する姿がフラッシュバックすると、彼方は耳を塞いで絶叫した。視界をチカチカと過ぎる虐待風景と現実が交互に瞬き、彼方の理性を破壊する。

 先刻から積み重ねられていた彼方のストレスはついに限界値を超えて爆発した。

 突然喚き散らした彼方に、光と猪熊、他の隊員たちも、明らかに正気でない彼方の異常行動に底知れぬ狂気を感じた。それからすぐに彼方に異変が起こる。

 疑似フィールドの中。彼方を取り巻くようにパルスが蟠ると、亜空間が滲みだした。

 亜空間は彼方を捕らえる疑似フィールドを相殺すると外に漏れ、フリーズしている残像を打ち消しながら、その合間を縫ってみるみる空間を不気味な色に侵食する。

 非常事態に一同は慄いた。誰もがなにが起こっているかわからず、こちらに向かって来る亜空間に怯えながら混乱して騒ぐ。ただ一人猪熊を除いて。

「やめるんだ笠木! それ以上はいけない! 柴田の二の舞になるぞ⁉」

 猪熊の叫びで誰もが今起きていることを察した。全員の脳裏に蘇るのは、以前の任務のとき、デバイスなしの状態で家族の実体化を試みて自滅してノイズとなった柴田。

「……はっ、なにビビッてんだ畜生。相手はザコの異常者だぞ……っ。おい、騒いでないでさっさと残留物を出せよ! それとも痛い目見ないとわからないか⁉」

 動揺しつつも隊員は自分を鼓舞して彼方に毒づいた。その言葉を耳にした途端、彼方は不意に不気味なほど冷静さを取り戻し、喚くのをやめる。

「あ、そうか。残留物……」

 閃いたように呟くと、彼方は目を座らせたままデバイスを操作する。対してその場にいた者たちは、亜空間の放出が収まると一先ず安堵の息を吐いた。だがそれも彼方が小型フィールドに施錠された残留物を取り出した瞬間、再び緊張が張り詰める。

 残留物はわずかに流動的になっており、光輝で眩い室内でその非常にゆっくりとした動きを見極められたのは、至近距離で残留物と対峙する彼方だけだった。

 残留物を凝視すると彼方はあることに気づく。そして思考した。

(この残留物……周りの残像と似たような作りしてるな。……残像? 残像)

(同じ物質なら、残像にぶつけたら消えるんじゃないか? ……そうだ、こんなものがあるから酷い目に遭うんだ。消してしまえば俺の冤罪も――)

「確認した。さあ、早くそれをこっちに渡せ!」

 突然冷静になった彼方にぞっとしつつも、残留物を見た隊員はすぐに気が高まり、興奮した様子で両手を前に突き出して叫んだ。しかし周囲がそれを許さない。

「おい待て。どさくさに紛れてなに奪おうとしてんだ。そうはいかねーぞ!」

「私にちょうだい! こっちよ、こっちに投げて!」

「ざけんな! 俺に寄越せ! こいつらの言うことは聞くんじゃ――」

 それは唐突だった。彼方はなんの脈絡もなしに残留物を放る。

 周りの者たちはほとんど反射的に前に出て我先と手を伸ばした。光は嫌な予感を直感すると周りの目が逸れたタイミングでデバイスを拾い、急いでバリアを張る。

 バリアに施錠された残留物は弧を描いて飛んでいく。そして隊員たちの元へ落ちようと、その先へ行くために彼方を閉じ込めていた疑似フィールドと接触した。

 瞬間、残留物を収めていたバリアが彼方側の防壁と衝突して相殺される。丸裸になった残留物は、バリアに空いた穴を抜けて外へ出た。

 自分を包んでいた疑似フィールドが修復されると、彼方はついでに自分のバリアの強度も増した。その間に流動的な残留物と、周囲でフリーズしていた残像が接触する。

 途端に強烈な閃光が莫大なパルスの飛沫を上げ、引火したガスのように爆ぜた。

 双方の接触は周囲で停滞していた残像に化学反応を起こすと、止まっていた時間が動きだす。停滞していたパルス色の波動が、決壊したダムから流れた濁流の如く、凄まじい勢いで押し寄せた。当然その真っただ中にいた隊員たちが無事なはずはない。

「うわああ! アップグレードだ!」

 突如として膨張する残像に隊員たちは悲鳴を上げる。そのときにはすでに残像の津波に呑まれ、激しい光量に誰もが視覚を奪われていた。

 元々バリアを張っていたことで、隊員たちは瞬時に葬られずに済む。

 だがそれも時間の問題だった。ただでさえエネルギー量の少ない『NPC』たちに、畳みかけるように衝突してくる残像を防ぐのは無謀だった。残像を弾くだけで誰もが即座に全身ノイズに侵食されると、瞬く間に大きなバグの塊となって息絶える。

 侵食を恐れて途中で防壁を解いた者の命運は言わずもがな。無限の残像はたちまち『NPC』隊員たちを呑むと、瞬間ごとに体を通過して瞬時に脆い肉体を崩す。

 ノイズに塗れるのも、残像に葬られるのも、どちらも一秒にも満たなかった。瞬きの間に隊員たちは、この世界の異物として一斉に抹消される。

 今この場で唯一生存していたのは、バッテリーで防壁を強化した光と、隊員たちによって何十層にも展開された疑似フィールドに捕らえられていた彼方――そして先に全身のノイズが除去されたことによって運よく命拾いをした猪熊だけだった。

 そんな発展を促す光輝は、ノイズの除去が終わると、今度は猪熊を消していく。

「うっ……ぐお⁉」

 猪熊は自身の身に起きたことに気づくと即座にバリアを張る。一方で彼方を覆う疑似フィールドも徐々に相殺されていった。光の方もこの状態が続けば直にバッテリーが切れるだろう。今すぐにでもここから離脱する必要があった。

 だがその前にやるべきことが残っている。光はいつ燃料が切れるとも知れない絶体絶命の中、凄まじい風切り音とともに残像が飛んでくる方向を睨む。

 先程まで半透明だったオブジェが急激に実体化していた。膨大なパルスが蟠るとオブジェは青一色に染まり、徐々に大きくなった駆動音が室内に轟く。

 この様子からしてまだ完全にアップグレードが開始されたわけではないらしい。この残像も、空気中に散りばめられていた残余が動いたに過ぎなかったようだ。

 つまりそれは、本格的にアップグレードが開始されたときには、今よりも強烈な更新が始まるということ。そうなれば確実に三人とも抹消されるだろう。

 目前で起こる劇的な変化に、彼方たちは本能的に命の危機を察知する。

「機械が起動を開始した⁉ まずい、お前たちその機械から離れろ!」

 猪熊は今しがた消えていった仲間たちを嘆くより、まず彼方と光に指示した。次の脅威を予期して防御態勢に入ると、一気に機械から距離を開ける。

 それを横目に光はさらにフィールドの威力を上げると、武器を片手に飛び出した。

「っ⁉ 立花戻れ! 危険だぞ!」

 猪熊の退避命令を無視すると光は一心不乱に機械へ突撃した。その間にもオブジェは完全に実体化すると質量を宿し……高質量のフィールドを展開する。

「フィールドだと⁉ いったいどういうことだ!」

 予想だにしない展開に誰もが震え上がる。防壁の周囲はその強大さを示すように暴風が渦巻く。もはやそれはバリアではなく、濃厚に凝縮された高エネルギーの塊だった。

 その強圧たるや『夢見人ドリーマー』に匹敵するほどのパワーを宿している。

 フィールドとの距離を詰めると光は高電圧の光線をぶっ放した。だがそれをも凌駕する高エネルギーに光波は一瞬で霧散する。距離を縮めた分だけオブジェから放出される波動の濃度が上がり、光の防壁にノイズがかかった。光は舌打ちすると一旦飛び退く。

「私一人だけだとこのフィールドを相殺できない! どうすれば……あ」

 光は緊迫した様子で息を呑むと、偶然にも彼方の隣に着地していたことに気づく。彼方は未だに頭を抱えており、危うい状態にあった。それを見て光は閃く。

「どうりゃああああ!」

「ぎゃあああ⁉」

 光が回し蹴りを放つと互いのバリアが相殺し、鋭い蹴りだけが叩きつけられた。彼方は眼前に蹴り飛ばされると、悲鳴を上げつつ反射的に最高出力で防壁を展開する。

 光も再び強力なバリアを張ってオブジェに突っ込む。二人分の防御膜がオブジェのフィールドに接触すると、凄まじくスパークが弾けてパルスが飛散した。

 三つのバリアは途端に相殺し合い、やがて中心に凪いだ空間が生まれる。

 奥で沈黙するのは謎のオブジェ。隙間の空いていた扉は少しずつ開放していた。恐らく更新が開始される合図だろう。迸る閃光は視界をチカチカさせる。

 フィールドを最大出力で展開した影響で二人はたちまちノイズに汚染されていく。光のバッテリーも限界が近いようで、徐々に威力が弱まっていった。

「ほわあああぁ⁉ 消えるっ、消え⁉ ひいぃぃぃ!」

 あらゆるショックで彼方は正気に戻ると、熱いものに触れたように飛び上がる。とにかく離れようと慌てて踵をしたとき、開放しかけたオブジェを見て足を止めた。

「正気に戻ったなら扉を開けるのを手伝いなさい! この中にアップグレードに関する重要ななにかがあるはず。世界が消えなければあんたの夢もきっと――ッ!」

 隙間に手を突っ込んで扉の両端を掴んだ光が、力任せに抉じ開けようと力みながら叫んだ。意図せず持ち出された夢の話に、彼方はふと直感する。

(これを解決すれば全部終わるのか? そうだ、俺が狙われたのも、家族の夢が悪夢に変わったのも、元はと言えば全部このアップグレードのせいで――)

 元凶が明確化すると行動は早かった。彼方も光に加勢すると反対側の扉を引く。するとオブジェは軋みを上げて勢いよく開け放たれた。瞬間凍りつく。

 見知らぬ女性がそこに眠っていた。その顔は死人か人形のように蒼白だ。

 謎の人物に二人とも当惑する。だが彼方はその女性がいる機械を見て瞬時に悟る。

(これは――俺たちと同じ『NPC』?)

「フアァ――……ッ!」

 思考した刹那、女性は息を吹き返し、カッと目を見開いた。

 狂気に血走った眼球をぎょろりと動かすと、二人と視線を交える。

「――た――す――け――て――」

 女性は目尻に涙を溜めると必死に手を伸ばし、掠れた声で囁いた。

 彼方は女性のまとうドレスと装置、彼女が展開したと思しきフィールドを見て、自分が大きな勘違いをしていたことに気づく。そして驚愕に身を震わせた。

(違う、この人は『NPC』じゃない! 『NPC』がこんな強力なフィールドを展開できるわけない! この人はっ、……この……ドレス、は――)

 女性のまとう純白の衣装を見て、不意に脳裏に七海の姿が過ぎる。

(――……まさか――『夢見ドリー

「キァアアアアアアアアアアアッ――――‼」

 彼方が思い至った刹那、女性はけたたましい悲鳴を上げた。

 まるで悪魔に憑かれたように大きく仰け反って全身を強張らせる。その叫びに、彼方は以前ここに来たとき同じ叫喚を聞いたことを思いだした。

 不意に女性は強烈な波動を放つと、彼方と光を後方まで吹き飛ばす。

「ぬおおおおああああああぁぁ!」

 すかさず咆哮した猪熊が前に立ち塞がった。両手を広げて踏ん張ると丁度彼方と光が突っ込んでくる。瞬時に三人のバリアは打ち消され、猪熊は二人を受け止めた。

「時間切れだ、撤退するぞ! 転送開始ッ!」

 猪熊が厳しい表情で叫ぶと新たなパルスが蟠り、別の駆動音が唸る。

 彼方が顔を上げた直後、膨張したフィールドが爆ぜて視界が青一色に染まった。

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