第2話 バロディナル

 エンジンの唸りにも似た駆動音に脳を揺さぶられ、意識が覚醒した。

 窮屈な密閉空間で夢現だった意識が徐々に明瞭になっていく。どこかでブザーが鳴ると不意に扉が開き、暗闇に光明が差した。眩しさに目をひそめながら半身を起こすと、朦朧としてぐらつく額に手を当てながら周囲を見渡す。そこは全面白に染まった通路だった。

 研究施設だろうか、眼前には斜めに横たわった睡眠装置が無数に設置されていた。自分が今しがた出てきた場所を見下ろすと、同じ装置に入っていたことを知る。

「――ここ……どこだ……?」

 しばらくぶりに言葉を発すると、彼方は首を捻って呟いた。



 目覚めてからどのくらい経っただろうか。夢現のまま見知らぬ建物の中を放浪していた彼方はいつしか外へ出ると、見知らぬ都市を歩き回っていた。

(俺は――どうしたんだ――……?)

 一時的な記憶障害で彼方は自分が何者か忘れていた。破れた学生服になにかを思いだしそうになるも、未だに夢見心地の散漫な頭ではそれ以上思考が働かない。

 外の風景はやけにチカチカし、金属が触れ合ったような摩擦音が耳鳴りを誘う。陽だまりのように淡く青みがかっていた景色は、少しずつ視覚化した。

 四方を超高層ビルで囲まれたバーチャル仕様の密集地帯。上空には空中戦艦が浮遊し、各地に奇妙な形の建物や塔、ドームが隣接している。バーチャルな近未来都市の建築物はどれも透けており、丁寧にも一棟ずつ透明なケースに納められている。それぞれのジオラマ形式の建物からは連絡通路や線路が伸び、建物同士で連結して多方向へと伸びていた。

 都市の至るところに電子回路が浮かび上がっている。空気中にはパルスが瞬き、途中で爆ぜるものもあれば、電子回路に沿ってどこかへ流れていくものもあった。

 無機質で熱量のない都市は数瞬ごとに瞬く。陽だまりの正体は、一瞬ごとに爆ぜるパルスが建物を納めるガラスに反射したことによって起きた現象だった。

 特に興味を惹いたのが周囲を行き交う薄い人影だ。実体のないそれは数メートル進んでは消滅し、突然現れては歩行を繰り返している。その性質はパルスと似ていた。

 影しか存在しない寒々しい街並みは、まごうかたなき仮想の都市。

 気づくと彼方はとある建築物内にいた。どこをどう移動したのかは覚えていない。彼方は薄暗い部屋を、床に刻まれた回路の点滅を目印に先へと進み、やがて足を止める。

 機械ともオブジェとも形容しがたい塊が鎮座していた。

 大きさは人一人分。すでに起動準備に入っており、オブジェは駆動音を響かせるとエネルギーをチャージするようにパルスをまとった。その端々から火花を散らし、今にも火を噴きそうな勢いでスパークを弾かせている。

 オブジェには扉が設置されていた。彼方の視線はわずかに開いた隙間へと吸い込まれ、まるで深淵を覗こうとするように内部へと注がれている。

 薄暗い扉の中からは『なにか』がひっそりと息を殺している気配があった。

 唐突にそのときは訪れた。すでにこれ以上ないくらい強烈に輝いていたオブジェは臨界点を超え、限界まで蓄えてられていたエネルギーを解き放つ。

 キァアアアアアアアアアアアッ――――‼

 叫声とも超音波ともつかない甲高い音が耳を劈いた。

 扉の隙間から青い光輝が放出されると、ゼリー状の幻影が一緒に膨れ上がる。幻影は耐えがたい苦痛を表現するようにウニさながらに刺々しいフォルムになると、絶叫を上げる恐ろしい渋面を浮かび上がらせながら正面にいる彼方に肉薄する。

 寸前、彼方は押し寄せる光輝の激流に流され、間一髪で幻影から逃れた。

 そのまま津波にさらわれるように建物の外まで押し流される。いつの間にか建物は実体をなくしている。どうやら壁をすり抜けたようだ。彼方の漂流もここで終わりのようだ。

 彼方は都市の外にまで流されていた。仮想とパルスで構成された都市内とは異なり、外は妙な現実味を帯びた砂漠地帯と、先には果てしない地平線が広がっている。

 都市から近いためか、周囲の空間には都市内部の独特な面影が残っており、電子回路も塀の外側まで伸びて、しばらく行ったところで途絶えていた。

 都市は激しいパルスを巻き散らし、ハウリングを上げて膨張していた。そして次の瞬間、都市のパルスは風船が弾けるように眩い残像をとなって爆ぜる。

 残像は電子回路に沿って滑ると、物凄いスピードで全方向へとスライドした。

 彼方はその中に実体のない建物や人影を見た。それらの風景は彼方を貫通すると物理法則を無視して突き抜け、凄まじい風切り音とともに地平の果てへと消え去る。

 そして彼方もまた奔流に攫われ、世界の果てに吹き飛ばされた。だがその漂流も一瞬。次に瞬きしたときには漂着地に着き、すでに着地の準備に入っていた。

 体が急激に下降すると残像が掠めていた視界が明瞭になり、薄暗い部屋を捉える。

 刹那、彼方は床に叩きつけられると、爆音が耳を劈いた。


       ◇


 突然唸りを上げる機器類に、研究員たちは異変を察知して顔を上げた。

 薄暗い学び舎一つ分の大きさのホールの中、轟く動力音の先には何百もの機械の塔が建っている。塔の天辺にはお椀を逆さまにしたような機械が設置されており、高台に当たる部分からは大きく弧を描いた四本の角が一定の間隔を空けながら生えていた。

 動作を開始したのはそのうちの一つ。起動音とともに塔がパルスを湧かした。

 四本の角の生えた中央の空間がぐにゃりと歪む。ひしゃげた景色は充血するようにサイバースペースを滲ませると、お椀型の機械が火花を散らした。遠隔操作に使う機器類からも電気が弾け、塔の周りで作業をしていた研究員たちは驚いて早急に機器類から離れる。

 膨れ上がった膨大なエネルギーは室内を照らすと途端に破裂した。轟音が施設内を揺らすと大爆発を起こし、すぐに危険を知らせるサイレンが室内に鳴り響く。

爆炎は誘爆を引き起こし、施設を津波のように揺らした。一同は喚きながら避難する。そのあとを追うように炎がホールの外に噴きだす寸前、隔壁が閉じて出入り口を遮断した。

 始めに爆発した塔は完全に崩れていた。お椀型の機械も壊れ、特徴的だった角も折れてスクラップとなる。その瓦礫の下で蠢く一つの影。

 全身の鈍痛に顔をしかめると、彼方は煙を吸い込んで咳き込んだ。肌を焼く熱気に反射的に飛び退くと、彼方はようやく自身を取り巻く状況を把握する。

「げほ――って熱⁉ なんだここ!」

 近くで機器類が爆ぜる。彼方は比較的火の回りが少ない場所を選んで避難すると、そこがどこかの施設内であることを知る。だが今は気を取られている場合ではない。幸運にも天井や壁が倒壊して影になった場所に別の出入り口を見つける。

 彼方は一心不乱に駆け出すと、急いで爆音の轟く施設を脱出した。


       ◇


 少女の意識を覚醒に導いたのは、遠くから響く轟音と地鳴りだった。

 次いで耳をつく不快なサイレンに眉をひそめる。すぐに外から響く騒々しい足音が寝不足の頭をガンガン叩くと、遠吠えにも似た複数の発声が木霊した。そこに追い打ちをかけるように枕元のデバイスまでもが規則的な振動を始める。

 いくつかの雑音と下手な歌声が奏でる不協和音のオンパレードに怒りを覚えると、彼女は枕元に置いてあったデバイスをひったくるなり、発信者に渇を入れた。

「うっせえ黙れッ!」

『まだなにも言ってないんだが……』

 開口一番に罵声を浴びせられ、先方は困惑の声を漏らす。

聞き馴染みのある低音が鼓膜を震わせると、立花光はデバイスの画面を見た。そこに記された「漣美月」の文字に、光はため息と一緒に焦燥を吐き出す。

「さっきから外うるさいんだけど⁉ 早く静かにさせて!」

『それどころじゃないぞ光! 『NPC』転送施設で爆発事故だ! 保管施設の回線も一部落ちたみたいで『霊魂タブラ・ラサ』が数体逃げ出したらしい! すぐ応援に行ってくれ!』

 光と呼ばれた少女は、はあと息を吐くと、面倒そうに通話口でぼやく。

「私謹慎中なんだけど」

『その辺は手を回しとく! あたしも今忙しいんだ。知ってるだろ? 今日は入江の――』

 すぐに美月の言わんとすることを察した。光はふんと鼻を鳴らす。

「……支度したらすぐ行くわ。じゃあね」

『あ、ちゃんと〈想像強化鎧レヴァリー〉着て行けよ⁉ この前みたいな軽装は――』

「わかってるわよ! 着りゃあいいんでしょ着りゃあ⁉」

 大声で通話口の忠告を諌めると光は一方的に通話を切り、荒々しく立ち上がった。その所作で毛布がはだけ、色気のないスポーツ下着が露わになる。

 だがそれもデバイスを起動した瞬間、虚空から湧いたパルスが肢体を包んで下着を隠してくれる。全身に電子回路が浮かぶと、パルスは回路に沿って頭から足先をなぞった。

 瞬時にパルスが弾け飛んで全身に〈想像強化鎧(レヴァリー)〉が装着される。

「ったく、本当にダッサイわねこの服。もうちょっとマシなデザインなかったの?」

 収縮性を有したゴム製の地味な色彩の〈想像強化鎧(レヴァリー)〉に光は顔を歪める。それは様々な機械や小道具の加工が施されたパワードスーツ。平たく言えば全身タイツだった。

想像強化鎧レヴァリー〉には機械、肩や腰回りにベルト、全身にホルスター、その他小物入れなどが装備されており、プロテクターなども備えられた戦闘服である。

 準備が整うと光は肩口にかかる髪を掻き上げ、颯爽と自室をあとにした。


       ◇


 謎の施設から逃げ出した彼方は、今なおふらつく頭に手を当てると、また別の人気のない施設の隅で座り込み、誰にも見つからぬよう固唾を呑んで息を殺していた。

 隊員や白衣姿の研究員に、謎の実験服を着た人々が忙しなく駆け回っていた廊下とは違い、ここはとても落ち着いていた。状況が呑み込めず切迫していた彼方にこの場所は安らぎを与え、心底恐怖していた心も徐々に落ち着きを取り戻していく。

(なんなんだ、外の騒ぎは……くっ。ダメだ、まだ頭がふらつく。そういえばここはどこなんだ? 取り敢えず自分がいる場所だけでも確認しないと)

 ふらつく頭を押さえながら、彼方は重い腰を上げて周囲に視線を這わせた。そして改めてきちんと見る施設内の様子に、彼方はぎょっとして立ち竦む。

 施設の壁際は何本もの巨大な試験管が設置され、そこかしこに設けられた特殊な檻で埋め尽くされていた。特に目を奪われたのが、ずらりと並ぶフラスコ型の機械。

 動作する機械の中は培養液で満たされ、その一つ一つには、いつか見た空中を浮遊する忌まわしいアメーバが囚われていた。その様子は以前見たときと比べてやけに大人しい。

『『霊魂タブラ・ラサ』のセット確認。『精神データ・ゴースト』をインプリンティングします』

(あの変な生き物『霊魂タブラ・ラサ』って言うのか……てか、難しい単語ばかり飛び交うな)

 機械音声が告げた固有名詞に、彼方は胸中でアメーバの名前を反復しながら、次々と出る専門用語に頭を悩ませた。その間に培養液がごぽごぽと泡立ち始める。

 機械が起動すると『霊魂タブラ・ラサ』はみるみる変形していき、やがて幻影の人型を象った。

『『精神データ・ゴースト』のインプリンティング完了。ホログラム投影』

 次の指示が出ると、幻影だった人型に肌色の色彩が加わり、肉体が投影される。数秒後、人型は完全な人間の姿となって、培養液の中に佇んだ。衝撃的な光景に彼方は戦慄する。

(ひ、人ができあがった⁉ まさか人間の加工場――)

「なるほど。ではここが巷で噂に聞く『霊魂タブラ・ラサ』保護施設か」

 喉を鳴らすとどこからか声が聞こえてきた。彼方は反射的に口を手で覆う。

「柴田さんは実際にご覧になるのは初めてでしたね。ここでは『霊魂タブラ・ラサ』に『精神データ・ゴースト』を刷り込ませて人型にし、肉体の代わりにホログラムを施して人間にしています」

 小さな話し声に彼方は耳をそばだてる。すると足音が近づいてきた。

「慣れないうちは魂を『霊魂タブラ・ラサ』、人格を『精神データ・ゴースト』と呼ぶのはややこしいでしょう。しかしバロディナルでは覚えるのが義務なので、ご理解の方お願いします」

 視線をやると、フラスコ型の機械の前に二つの影を認める。白衣の研究員と、柴田と呼ばれた軍服姿の中年を見つけた。柴田は機械の中に佇む人型を眺めている。半透明だった人型にホログラムが施されて人間の姿になると、感慨深そうに「ほう」と息を吐いた。

「これが『霊魂タブラ・ラサ』と『精神データ・ゴースト』をかけ合わせ、人の姿に再構築する技術か」

「以前の移送計画のときに検出されたバグを除去しています。今回は特にバグが多いので、移送者を元の姿に戻すのはもう少し先になる予定です。その間にこの施設で『霊魂タブラ・ラサ』と移送者の人格に当たる『精神データ・ゴースト』を『イクリプス』に保管して――」

(マズい⁉ こっち来た!)

 通り過ぎるのを待つという彼方の目論見は、声量と足音が近づいて来ると不成功に終わった。彼方は相手方に見つかる前に場所を移そうと、急ぎつつも気配を消しながらも忍び足での移動を試みる。が、その集中力は鼓膜を叩く耳障りな音のせいで削がれた。

「っ……なんだこの音は? どっから鳴ってんだ」

 悲鳴とも爆音とも違う調子っぱずれな金属音に不快感を覚えると、彼方は悪態をつきながら、こもり気味に響いてくる音の方、すぐそこのガラス作りの密室空間を覗く。

 瞬間、前方からなにかが叫声を上げて仕切りにぶち当たった。

『キャアアアアアアアアア!』

「きゃあああああああああ⁉」

 彼方は同じように悲鳴を上げると、亀のようにひっくり返って目を回した。対して相手方は興奮気味に何度も透明の壁をタックルしてくる。急いで起き上がるとそこには、興奮気味の『霊魂タブラ・ラサ』の群れが、巨大な檻の中でうじゃうじゃと飛び回っていた。

 不快音の正体に気づくと彼方は戦慄する。ケース越しでも響いてくる直接脳にダメージを与えかねない不協和音に、この超音波がどれだけ人体に有害であるかが窺えた。

 驚いた彼方は檻から離れようと咄嗟に反対側に避難する。物陰から飛び出すと偶然にも横を通りかかった光と克ち合った。その手にはいつぞやの〈波動銃サージブラスター〉が握られている。

運命のいたずらを超えて、もはや質の悪い嫌がらせのような展開に彼方は青ざめた。

「ヒュイィィィィ⁉ うっわ。ちょっ、やば!」

「嘘、なんであんたがここに――ってどこ行こうとしてんだオラァ!」

 驚愕に顔を染めたのも束の間、光は喉から変な音を出すや即座に逃走を図ろうとする彼方の肩をがっしりと掴むと、ほとんど投げ倒すようにして床に転ばせた。

「あぁんいったぁい! ひい、ひいいぃぃぃ!」

 尻もちをついた彼方はなおも逃げようと這いつくばり、その背中を光が踏みつける。

「誰だお前たちは⁉ そこでなにをしてる!」

 これだけ騒いでいれば見つかるのは当然だった。喧嘩する子どもを叱責するような怒声に彼方が目を向けると、白衣を羽織った強面の男がこちらを見下ろしていた。

「なんだその妙な恰好……見るからに不審者め。さては侵入者か⁉」

 衣装で敵味方を判別しているのか、男が〈想像強化鎧(レヴァリー)〉姿の少女には目もくれず学生服姿の彼方を指摘すると、彼方は急いで首を振って早口でまくし立てる。

「いやいやいや違いますって! 侵入なんてそんな滅相もない。ていうか侵入が目的ならこんな珍獣動物園になんかに入る人いませんよぉ! ゆえに俺は無罪」

「今さらとぼけても無駄だ。ここが『霊魂タブラ・ラサ』保護施設って知って侵入したことはわかってるんだ。騒ぎが収まるまで別の檻にぶち込んでやる、来い!」

「あー待ってやだ! お手々握らないで!」

 彼方の必死の弁解も空しく、男は床に跪いた彼方の腕を掴むと、強引に引っ張って立たせようとした。そのまま問答無用で連行しようとする。

「待って。そいつをこっちに寄越しなさい」

 そんな男の頭部に少女は〈波動銃(サージブラスター)〉を突きつけた。この手の人間に話し合いが通じないと知っているような口ぶりに、男は一歩下がると光を睨む。

「……おい、なんのつもりだ。お前たちグルか?」

「そうじゃないけどすぐにそいつが必要なの。わかったら離れて。もしあれなら別に上層部にでも連絡してもらっても構わないわよ。それとも今ここでする?」

 自信に満ちた少女の声風と立ち振る舞いに、これには男も二の句を告げなかった。なにかを呑み込むように何度か頷くと、彼方から手を放す。

「ああわかったよ。好きにしろ。仮にお前がグルでもここからは逃げられない。お言葉通り上層部にも連絡をさせてもらう」

「お好きにどうぞ? おら早く行けよ貧弱クソもやし」

「やだ、ちょ、やめて蹴んないで! お願いやめてよやだぁ!」

 連行先が変わって早速尻を蹴られると、彼方は駄々っ子のように抵抗した。しかし光は剛腕で彼方を引きずると、首根っこを掴んで出口へと向かう。

「用事は済んだかな?」

 徐々に遠ざかる二人の姿に男は息を吐いて首を振ると、頃合いを見計らったように柴田が呼びかけた。男は放ったらかしにしていた客人の姿にハッとする。

「柴田さん! 申し訳ありません、置いて行ってしまって」

「緊急事態だったんだから仕方ないさ。君がきちんと働いている証だ、なにも謝る必要はない。さあ、無事終わったならまた案内の続きを頼むよ」

「恐れ入ります。それではこちらにどうぞ」

 朗らかに手を振る柴田に、研究員は頭を下げると促されるまま先を行く。

 そんな男の背中に柴田はほくそ笑むと、愉快げにそのあとを追った。


       ◇


 深い眠りについてまず頭に湧いたイメージはビックバンだった。それからすべてが始まり、やがて内容は激動に生々流転する世界情景へと邁進する。

 各地で起こる森羅万象。誕生した地球で幾度も巡る朝昼晩と春夏秋冬。間もなくして生命が誕生すると古生代を一気に飛び越し、その先へと急いだ。人類誕生から絶えず進化、発達する文明社会の様子が、テープを早回しするように過ぎ去っていく。

 国境を越え、様々な場所での景色や音声が、一斉に頭の中を駆け抜けた。一度に見る世界の情景は劇的で、自我が吹き飛んでしまいそうな推進力は凄まじく、生命誕生から地球滅亡まで、果ては宇宙消滅まで流れそうな勢いである。

 永遠の時間も、世界が終末を迎えて一瞬で過ぎ去ると思った矢先だった。早送りだった情景は近代的な場面で減速すると、前触れもなく発生したノイズが景色を埋め尽くす。

 夢として、この世界を創った神としてすべてを眺められた創造主は、複数の視点でもって、地球を包んでいた宇宙空間に穴が開く瞬間までをも捉えた。

 各地で溢流したサイバースペースは空間を侵食すると、世界を構成していたパーツを溶かして原形を崩壊させた。そんな中、夢の支配者は自分の意思で場面を地球に切り替えると、気になった場所に注目しようとクローズアップした。

 場所は日本という国のどこか。映るのは古びた校舎と無数の人影。

『見つけたぞ! 全員直ちに迎撃態勢を取れ!』

 ドスの利いた声量とともに〈波動銃サージブラスター〉で射出する隊員たちが映る。

 迎え撃つは『霊魂タブラ・ラサ』の軍勢。間断ない強襲に敗れた者たちは『霊魂タブラ・ラサ』に襲われて吸引、あるいはその場でパルスを噴出させて消滅する。しかし視点の照準は彼らではなく、その隅にいる存在――激戦の中で一人怯え、情けなく悲鳴を上げる彼方へと絞られた。

(ああ、そうか。次はあの『NPC』の子が送られてくる番か……)

 なにかを確信して映像をスキップする。消えゆく世界で体を崩壊させた彼方が、一人死に物狂いで地面を這っているのを見つけた。

 相手が初めて見る人物であっても、この世界を創造した神であり、夢の支配者であった彼女は、己の夢の登場人物であるその少年の名を容易に言い当てた。

(あの子の、名前、は……――か――な――た――)

 胸中で呟くと、一心不乱に地を這っていた彼方が反応し、半狂乱の目玉でぎょろりと辺りを巡らす。そして声のする正面の穴目がけて這いずった。

 だがすぐにパルスのベールと衝突し、たちまち彼方は崩壊してしまう。

 彼方は悲鳴を上げながら宙を舞うと、その拍子に消滅しながら前方の穴へと吹き飛ばされた。すると半壊していた彼方の体にパルスが収束する。

 パルスが渦を巻くと胴体から順に頭部、上腕、脚部が再構築されていく。

 映像が暗転して沈黙と暗闇が訪れた。それが暗転ではなく、場面が宇宙空間に切り替わったのだと理解したのは、暗黒を照らす小さな星々に気づいたときだった。

 決定打になったのは己の胸の前で浮かぶ地球を発見したとき。すでに地球は砂の城さながらに崩壊しており、塵は煙霧となって自分の体内に吸収されていた。宇宙の外側で拡大していたサイバースペースはすべてを削除し、世界を抹消していく。

 光りはもちろん、時間も空間も、概念さえ存在しない虚無だけがすべてを支配する。それは夢の終わりを告げる合図。目覚めのときが迫っていた。

 やがて彼女は夢の中で微睡を覚える。クリアだった思考が鈍ると、深海にいるような重圧のかかった感覚が全身を包み、頭の先からゆっくりと浮上するのがわかる。

 覚醒の兆しを感じると、暗闇に閉ざされていた世界に光明が差し、そして――



「『イクリプス』との同調率が30%まで減少。現在も減少中……」

「脳波、心拍、血圧、ともに正常値をキープ。精神値安定。夢遊値、徐々に下降」

「《夢境の黎明ヘザルダー》の沈黙を確認。『イクリプス』との共同連結を完全に遮断します」

 微睡みながら遠くの喧騒を聞き流す。すると不意に影が現れ、じっとこちらを見下ろした。散漫だった頭は次第に鮮明になって、目の焦点が定まっていく。

「お疲れさん。久しぶりだな入江。気分はどうだ?」

 影がかけた声に二、三度瞬く。やがて白衣姿の女性、漣美月の顔を認めた。

 化粧っ気のない整った顔立ち。顔を構成するすべてのパーツが一級品だった。艶やかな長髪から覗く首筋は艶めかしく、まさに美人という言葉を具現化したように美しい。

「……はい。大丈、夫……です」

 相手を認識すると入江七海はとろんとした目で静かに答えた。

 七海が上体を起こすと淡い狐色を帯びた白髪がさらりと流れる。腰まで伸びる柔らかな長髪は一本一本の毛筋に手入れが行き届き、少し動いただけでふわりと揺れた。

 その瞳の瞳孔は煙霧のような影を宿していた。周りの虹彩は夜空の星のように煌めいており、はたから見れば宇宙空間が広がっているようにも見える。

 そんな彼女の瞳に映るこの場所は、全面鋼鉄でできた『夢見人ドリーマー』育成施設。だだっ広い施設の中央には巨大な球体が設置されており、その中で七海は眠って夢を見ていた。

 彼女こそが彼方のいた世界を創造した『夢見人ドリーマー』である。七海が立ち上がると純白のワンピースが露わになった。透き通った肌を持つ可憐な七海に似合い、よく映えている。

「いつも通り玉座のあるホールからこっちの施設に移しといたからな。毎度思うが、玉座をこっちに持ってこられないのかね。あそこじゃ周りの目につく」

 愚痴を漏らした美月に目をやる。その周囲を取り巻く施設内は白衣や軍服を着た人々の対話や問答で賑わっており、その他にも七海と同じ格好の者――新『夢見人ドリーマー』候補たちが歩き回り、また別の方では実験で機械につながれたベッドで横になっている者を確認した。

大勢の人間が施設内を出入りする中、七海は球体から出て足元の階段を下りる。

『入江七海様。一ヵ月に渡る『夢見人ドリーマー』のお仕事、お疲れさまでした』

 七海が床に足を着けると、機械音声が労いの言葉を紡いだ。

「あなたもお疲れ様『イクリプス』。今回もありがとうね」

 振り返った先にあるのは、七海が入っていた球体を丸ごと収める巨大な異形の塔。外観は分厚い銀白色の鉄板でコーティングされ、無数の画面が埋め込まれている。

 機械音声を発し、七海が『イクリプス』と称したのは、その異形の塔だった。

 その正体はAI搭載型自律インターフェイス。通称『イクリプス』。

『イクリプス』にはこの国――バロディナルに住まう『夢遊牧民ノマド』のデータやあらゆる機密情報が保存されており、その他にも『精神データ・ゴースト』の保管や『霊魂タブラ・ラサ』の管理も行い、また『夢見人ドリーマー』が夢によって世界を創造する際にかかる負担の補助・緩和も担っていた。

『早速このあと検査とカウンセリングがあります。医務室にお越しください』

 滑らかな口調で促す塔からは異様なほど人間味が溢れ、一種の不気味なものを感じさせた。だがそれに臆する者はなく、現に美月も気にせず七海に促す。

「とうわけで入江。寝起きで悪いんだが、もう少しつき合ってくれ」

 身振りで美月が出口を示すと七海は「はい」と応え、二人は施設をあとにした。

 施設とは打って変わって物静かな廊下。そんな医務室に向かう道すがら、七海は先ほどから気にかかっていたことを美月に問うた。

「美月さん。今回の実験のトラブルはなんだったんですか?」

「……さすが新『夢見人ドリーマー』候補。こっちである程度能力を制限してるってのに、どうやってもバレちまうか」

 七海の能力の高さに美月は舌を巻くと、今さら隠しても仕方ないと話し始める。

「入江もすでに知ってると思うが、どっかからお前の夢に『夢の住民(トライバー)』が侵入してな。まあ、あいつらは夢を食らうから、たまに入り込むこともあるんだが」

「すみません。途中で気づいたのに私、なにも対処できなくて……」

「能力を制限してたんだから当然だ。むしろ制限したのに気づいた方が驚きだが」

 しゅんとする七海をフォローしながら、美月はその実力の凄まじさに感服した。

「そういうこともあって接続障害が起きたり、転送装置も不良になってな。実際に入江の夢に隊員を送って地道に一人ずつ回収したりで、ほんと結構マジで骨が折れた……」

「そ、それは本当に大変でしたね……」

 美月たち研究員や隊員たちが行ったことがどれほど神経の磨り減る大仕事だったのかわかるのか、七海は想像しただけで気が重くなると苦々しい顔で労う。

 そうこうしているうちに医務室の扉が見えてきた。いつしか通路の片側の壁が取り払われ、それまで物静かだった廊下は再び喧噪に溢れると遮れていた風景が現れる。

 迷路のように入り乱れた宮殿内に、大きな街が分布していた。

 奇妙な紋様の浮き出した壁には装飾品があしらわれている。通路の脇には柱や巨大な彫刻が規則正しく陳列し、各箇所に礼拝堂仕立ての邸宅が設けられていた。

 下の階では規定された制服に身を包んだ大勢の住民たちが入り乱れている。

 黄金色で豪華に彩られた宮殿を構築するすべてが、煌びやかな輝きを放っていた。

「ちゃんと歩けよオラァ!」

「痛いって痛いっ。ねえ痛いよもぉ!」

 と、街を一望している七海の耳に怒声が響いてきた。自然と注意が下の階に向く。

 そこには光と情けない声を出す彼方がいた。抵抗する彼方の首根っこを掴んで無理やり引きずる光に対し、彼方は半泣で文句を言いつつ素直に従っている。

「あ! ひか――」

 知り合いの姿に七海は手を振ろうとし、途端に躊躇する。光の足取りから相当焦っていることが窺えたからだ。どうやら今は取り込み中らしい。

「なに座り込んでんだよ! ちゃんと立って歩け!」

「ねえもぉなに? 俺なにもしてないじゃん。えっなに、なんなの?」

 光は途中で座り込む彼方の腕を掴んで立ち上がらせようとする。だが彼方は内股で座り込んだまま駄々を捏ね、まったく動こうとしない。

 その光景は誰から見ても異様で目立ち、人々は奇異の視線を送っていた。

(誰だろう? 光の知り合いかな)

 七海はきょとんとして彼方の顔を見――安堵の笑顔を浮かべる。

(……よかった。ちゃんとこっちに来られたんだ、あの『NPC』の子――)

「それじゃ、あたしはまだ仕事があるから……どうした?」

「え? ……あっ、いいえ――つき添いありがとうございました」

 医務室の前に立った美月は、後ろを着いてこない七海に声をかけた。七海はハッとすると美月に詫びを言い、ぱたぱたと駆け寄って丁寧に頭を下げる。

 美月は一瞬眉をひそめるも、七海が中に入ると踵を返して来た道を戻った。


       ◇


「美月、ちょっと用があるんだけど! いないの⁉」

 宮殿に設けられた研究室に上がるなり光は叫んだ。室内には研究員や軍服の隊員が慌ただしく闊歩していた。部屋の至る場所に設置された謎の機械は常に駆動音を唸らせている。

 光の怒声に反応した周囲は異様なものを見る目で光と彼方を睨んだ。中でも、内股で座り込む彼方に蔑みの視線が集中する。それを見て彼方は光をなじった。

「ほらもうみんな困ってんじゃんやめろよ。お前今すっげぇ迷惑だよ? 自重して」

「迷惑なのはテメーの方だよ……っ!」

 とぼけ顔で告げる彼方に、光は鬼の形相でその胸倉を掴み上げた。腹の底から絞り出された怒気に彼方がさっと目を逸らすと、丁度開かれた隔壁から美月が現れる。

「光? お前今任務中じゃ――っておい、なんだ急に⁉」

 きょとん顔の美月を認めるや、光は彼方の襟を掴んでいるのとは反対の手で美月の手首を握ると、普段使われていない資料室へと強引に連れ込む。

 狭い個室には埃と資料の入った段ボールが積み上げられていた。光は埃っぽい床に彼方を跪かせると、次いで美月を解放して早速話を切り出す。

「こいつ『NPC』よ! どういうこと、今回はゼロなんじゃなかったの⁉」

「は? なに言ってんだ、報告じゃそんな話……だいたいどこから連れてきたんだ?」

「おい聞かれてんぞクソ野郎。答えろよ」

 光は挑発するように彼方の頬に靴の裏を擦りつけた。彼方は抵抗して叫ぶ。

「いやぁん知らねぇよ! 気づいたら変な機械の中にいて。めっちゃ爆発してたけど」

 さらりと告げられた真相に、美月は彼方に叫んだ。

「事故の原因はお前か⁉」

「ひいぃぃぃ!」

 突然怒鳴られると、彼方は小動物のように体を震わせて涙ぐんだ。

 起こるはずのないバグが発生してしまった七海の夢。

 光が連れてきた本来この世界に送られて来られないはずの『NPC』。

 その直後に起こった『NPC』転送施設での爆発事故。

 それら一つ一つの事柄が線で結びつくや、美月は彼方を責めずにはいられなかった。

「『夢見人ドリーマー』の夢の中で消えた『NPC』が復元されることってあるの?」

 あからさまに動揺を見せる美月に光は淡々と聞く。混乱していた美月は冷や水を浴びせられたように肩を揺らすと、急いで考えうる可能性を上げた。

「ええと……そうだな。今回のことは特別な事例で、すべての『NPC』が消えてしまったが、普通は『NPC』が『夢見人ドリーマー』の決めたシナリオで死ぬなら別だが、予定外のことだとストーリーに沿って元通りに復元されるはずだぞ」

「それはどのくらい時間かかるの? 今回の『夢遊牧民ノマド』回収作業中だった場合は?」

「損傷具合にもよるが、まずそんな早くは無理だろ。それに回収作業中は『夢見人ドリーマー』の行動も制御してるから修正はされないはずだ。でも今回はバグもあったし――」

「ちょっと待てよお前ら!」

 と、そこで置いてけぼりだった彼方は立ち上がってストップをかけた。

 彼方は自分の知りえない膨大な情報量と奇妙な会話に、二人を睨む。

「『NPC』とか夢の中とかお前らなに言ってんだよ。ふざけてんのか?」

「テメーの存在が一番ふざけてんだよッ!」

 光は突然ブチギレると彼方の太股に思いっきり蹴りを入れた。内ももに見事な蹴りが入ると、パァン! と清々しい音が響き、耐えがたい鈍痛があとを追う。

「いったぁ⁉ いってぇ、い――痛いぃ、痛いよぉ。もぉやだお家帰してよもぉー」

 彼方はその場に崩れると突っ伏した。そのまま声を震わせて泣き声を上げる。

「お、おいなんだよこいつ。泣きだしたぞ。年齢的にやべぇだろ……」

「それよりどうすんのこれ? 消す? 消すわよね? 施設破壊した犯罪者よ?」

 美月が彼方に引いていると光が残酷な提案をした。だが美月は首を振る。

「送られてきた『NPC』の処分は禁じられてるだろ。それに爆発の原因なら上にも報告しないといけない」

「そんなの隠ぺいすりゃいいでしょ。今なら誰かに知られる前に処分できる」

 彼方を抹消できないと知ると、光は苛立たしげに名案とばかりに言った。

「お前どんだけこいつのこと嫌いなんだよ……。どっちにしろ特殊なケースだから調べる必要がある。今回の夢はバグが多かったし『夢の住民トライバー』も潜んでたんだ。入江になんの影響もなかったとは言い切れない。こいつがなぜ入江の夢からこの世界に来られたのか調べておくことで、最悪の事態を未然に防げることがあるかもしれないだろ。こいつを消すことで最悪の事態が起こったとき入江に危険が及んだら、元も子もないだろ」

 美月は光に言い聞かせるように説教した。

「はあ……。あっそ。じゃあここでの規則通り、早くこの世界のこと説明すれば?」

 光は心底残念そうに息を吐くと渋々納得した。そして美月にすべて投げる。

 振られると美月は一瞬嫌そうな顔をした。だが言い出しっぺが自分であることと、鼻水と涎に塗れた顔でこちらを見る彼方に気づくや、仕方なく切りだす。

「そうだな……はーあ。――よし、じゃあまずは自己紹介からだ。あたしは漣美月。ここの研究員だ。そっちは立花光。お前は光と顔見知りみたいだが……?」

「……笠木彼方」

 警戒気味に彼方は名乗る。もう涙は止まっていた。美月はそれに頷く。

「そうか。じゃあ笠木。突然こんな場所に連れて来られて困惑してると思うが、落ち着いて聞いてくれ。受け入れがたいと思うが、お前のいた世界は――」

「誰かの夢だったんだろ。俺はその登場人物で、現実に実在しない『NPC』だとか」

 口外された情報に美月は息を呑んだ。その反応を口火に彼方は饒舌に語る。

「夢の中で移送者に生活をさせてたことも知ってる。転送装置に『精神データ・ゴースト』や『霊魂タブラ・ラサ』に『夢見人ドリーマー』、夢を喰らう化け物……そして夢に移住する計画!」

 知っているだけで意味のわからない単語を連ねると、彼方は一気にまくし立てた。

息を荒げる彼方に美月は目を細めると、じと目で後ろを振り返る。その視線が光とぶつかった直後、光は弾かれるようにして弁解を始めた。

「あらかじめ『NPC』は消しておいたって聞いてたのよ⁉ こいつが『NPC』だなんてわかるわけないじゃない⁉ 移送者と間違えてもおかしくないわ!」

「移送者だとしても軽々しく実験のことを話す奴があるか」

 正論にぐっと押し黙ると光は伐が悪そうに舌打ちした。美月は彼方に向き直る。

「知ってるなら話が早い。笠木の言う通り、あたしらは夢へ移住する計画を立てている。まずはこの世界の仕組みを説明しよう。『イクリプス』」

『了解しました』

 機械音声が響くやパノラマの上空が周囲に出現した。突然全方位に展開された光景に彼方は目を奪われる。晴れ渡る空の下に、果てしない砂漠地帯が広がっていた。どこを向いても薄いベージュの色が続く世界。中でも一番目を奪われたのが足元だ。

 大きな円形の巨大都市が造設されていた。内部には米粒ほどに小さな建築物があり、その周囲に機械を寄せ集めたような塔や巨大ドームが陳列している。

 都市の中心にあるのは宮殿。その周囲を包囲するように高層ビルがそびえていた。角張りの目立つ高層ビルとは違い、宮殿近くの建築物は丸みを帯びている。何世代も前からそこに造営されていただろう風貌からは、時代の移ろいや歴史を感じた。

 中世時代を彷彿とさせる宮殿と、近未来の象徴である巨大都市。互いに対局にいる別々の世界観のギャップは大きく、断絶された溝は深い。

「足元に見えてるのが今あたしたちのいる国、バロディナルだ。この世界に存在する国の一つで、うちの『夢見人ドリーマー』が創造した領域。巨大都市にはあたしら『夢遊牧民(ノマド)』――この世界の住民が暮らしてて、そっちの宮殿では『NPC』が収容されてる」

 彼方が下界に見惚れている間に美月の説明は着々と進む。彼方の視線はやがて足元を離れると、砂漠地帯よりさらに外側、何キロも先に広がる光景へと向けられた。

 その先は暗闇とノイズに覆われ、サイバースペースが溢流している。

「なんだ、あの黒いの。なんか広がってないか?」

「あれは夢の終尾。夢の境界で、国境みたいなもんだ。あの先には別の国の『夢見人ドリーマー』が創造した領域が広がってる。そうやって延々とつながってるんだよ」

「領域? なんだそれ?」

「自分だけの世界ってことだ。夢を見て世界を創造するのと同じように、ここでも夢を見る感覚で、個別のフィールドを展開できるんだよ」

「フィールド……へぇ。他人の夢の中に入るといい、凄い科学力だな」

「科学って言うか、元々この世界自体がそういう仕様なんだ。なんてったって、今あたしたちがいるこの世界も、誰かの夢の中だからな」

「え? 夢だったのは俺がいた世界だろ、ここは現実なんじゃ――」

 美月がぽろりと漏らした一言に、彼方はこの世界も夢の中だとは思わず息を呑む。

「確かに笠木がいた世界は新『夢見人ドリーマー』候補が創造した世界だ。そしてこの世界もまた、旧『夢見人ドリーマー』の見る夢の中なんだよ。あたしたち『夢遊牧民ノマド』は、そうやって何世代もの間、幾度も誰かの夢の中を渡り歩き、長きの間夢の中を渡り歩いてきたんだ」

 感慨深げに語る美月。その横顔に彼方は湧いた疑問をぶつけた。

「じゃあ、旧『夢見人ドリーマー』が目覚めたら俺たちは――」

「この世界と一緒に消える」

 さらりと告げられた一言に彼方は硬直した。

 美月はそんな彼方の神妙な面持ちに気づくと、安心させるように笑みを浮かべる。

「だからあたしたちは移住計画を立ててるんだ。『イクリプス』」

 美月が虚空に声をかけると再び映像が切り替わる。

 視界いっぱいに、ノイズとサイバースペースに汚染され、放出したパルスにより消えつつある世界各地の景色が投影された。目の当たりにした現実に彼方は言葉を失う。

「この世界の現状だ。旧『夢見人ドリーマー』の覚醒に伴って消えつつある。その前に新『夢見人ドリーマー』候補が創造した世界へ避難する。それが夢から夢へ渡る移住計画だ」

「夢へ逃げるって……それはいつまで続くんだ? そもそも逃げて来たってことは、現実でなにかあったってことなのか? 本当の世界はどこに……」

「さあな。あたしらは何世代にも及んで夢から夢へ渡ってきたらしいが、夢の世界に住まなくちゃいけなくなった経緯は知らない。今では不思議に思う奴もいないしな」

 どこか遠くを眺めるように美月は虚空を見つめた。気の遠くなる話に彼方は呆然とする以外に反応を示せない。その代わりに一つ疑問が浮かぶ。

「なあ、その『夢見人ドリーマー』って奴はみんなが避難するときどうすんだ? 自分の夢に入れるのか? 世界が消えるなら自分も夢の中に避難しないと――」

「『夢見人ドリーマー』は一緒に連れて行けない」

 断言すると美月は鎮痛な表情を浮かべた。視界の端で壁にもたれていた光が目を伏せるのも確認する。彼方はすぐにこの話題がタブーであると察した。

「本来『夢見人ドリーマー』の役目は世界を創造し、維持すること。そのためには外部から侵入してくる敵を常に見張らないといけない。これを見ろ」

 映像が替わり、今度は破壊された市街地で暴れる見知った巨体が現れる。

「こいつは『夢の住民トライバー』。夢を喰らう荒くれ者だ。それ以外の生態は不明。奴らが襲ってくる理由は一つ。奴らの好む餌があるからだ。その餌がこれ」

 再度映像が切り替わり別の市街地が投射される。そこにはアメーバ型の異形『霊魂タブラ・ラサ』と、人型の幻影が複数体闊歩している様子が映し出されていた。

「アメーバ型が『霊魂タブラ・ラサ』で、人間の形をした幻影が人型だ。『霊魂タブラ・ラサ』は端的に言うとあたしたちの魂だ。このスライムみたいな姿は魂本来の姿で、知性や理性を持たない。こいつらは仲間を取り込む習性を持ち、だから人間の外装を剥いで魂を吸収する。『NPC』の場合はその場で消えることになるがな。人型はそれに人格――あたしたちの『精神データ・ゴースト』が宿ったやつだ。自我を司る。『霊魂タブラ・ラサ』に『精神データ・ゴースト』を刷り込ませると人型になり、仕上げにホログラムで肉体を受肉すれば人間の完成」

 ここまで説明すると、美月は彼方がきちんと理解しているか確認しながら先を続ける。

「因みに『NPC』と『精神データ・ゴースト』は人格があるかないかの違いだけで、カテゴリー的には同じだ。ここでは『夢見人ドリーマー』の被造物か否かの区別のために呼び方を変えてるだけだ」

 説明しながら美月はその辺にあった油性ペンを取ると、放置されていたホワイトボードに【『霊魂タブラ・ラサ』=魂】【『精神データ・ゴースト』=自我】【ホログラム=肉体】【『霊魂タブラ・ラサ』+『精神データ・ゴースト』=人型】【人型+ホログラム=人間】【『NPC』≒『精神データ・ゴースト』】と公式を書いた。

「『霊魂タブラ・ラサ』は自身を燃料に、独自の世界を作り出す能力を持つ。だから厄介なんだ、あちこちに世界を作られても困るからな。それにこいつらはあたしたちの命の源。ようは魂だ。だからこっちで捕獲・飼育し、厳重な監視下で管理してる」

「独自の世界……? それじゃまるで『夢見人(ドリーマー)』みた――」

 自分で言って彼方は驚愕した。その反応に美月は正解だと頷く。

「そう、『霊魂タブラ・ラサ』は世界を創造する生物。『霊魂タブラ・ラサ』が自身を燃料にするなら『夢見人ドリーマー』も自身の命を――自分の魂である『霊魂タブラ・ラサ』を燃料にして世界を創造する」

 燃料という単語が鍵となり、彼方は一つの答えに辿り着く。

「それ、どっちにしろこの世界を創造してる奴の『霊魂タブラ・ラサ』が燃え尽きたら、この世界は消えるってことか⁉」

「旧『夢見人ドリーマー』が目覚めかけてるのか、死にかけてるのか……。どちらにしろ一刻の猶予もない。だが新『夢見人ドリーマー』候補は未完成だ。それまでこの世界が持つかどうか……」

 美月は困窮の面持ちで息を吐く。その様子に彼方は事の重大さを理解した。

 言い知れぬ不安を誤魔化そうと視線を彷徨わせると、未だに展開されている周囲の映像の中で暴れ回る『夢の住民トライバー』が目に入る。

「そんな状態でこの『夢の住民トライバー』ってのもうろついてんのかよ……。いや、『NPC』の俺は魂がないから襲われることはないか」

「確かに『霊魂タブラ・ラサ』を持つ人間が捕食対象だが、笠木の場合は敵として襲われるぞ」

 どちらにしても襲われるという結果と、なにより人間でないと美月に断定され、彼方は複雑な心境になった。そんな彼方に美月は苦笑する。

「そんな顔するな。護身用に一応武器もある。光、いいか?」

 光は「はぁ……」と嫌な声を出すと腕のデバイスを弄り、虚空に手を翳す。

 その手中で突如電気が迸り、青白いパルスが分散した。

 具現化した波形が空気を微動させるとパルスが電子回路へと変貌を遂げ、なにかの形をなぞる。なぞった先から色づくと、虚空から強硬な〈波動銃サージブラスター〉が出現した。

 光は二の腕以上の寸法を持つ武器を軽々と放り、美月が両手で重そうにキャッチする。

「これがその武器の一つ、〈波動銃サージブラスター〉。想像力――つまり魂をエネルギーに変換して撃ち出す銃だ。光線の威力は個々人の持つ『霊魂タブラ・ラサ』の大きさで変わる。威力を間違えればすぐに『霊魂タブラ・ラサ』が燃え尽きるから扱いには注意が必要だ」

「バカは使えないのか」

 クイズを言い当てるように彼方は言う。しかし美月は首を振った。

「知力と想像力は別物だ。いくら勉強ができても想像力のない奴はいるだろ?」

 彼方の誤認を正すと、美月はポケットから端末型デバイスを取りだす。

「これはデバイス。想像したものの具現化を助けてくれる道具だ。具現化物が大きく、複雑であるほど『霊魂タブラ・ラサ』の消費量は増す。戦闘のときにはフィールド――独自の世界を展開し、自己とそれ以外を断絶することで攻撃を相殺、防御ができる。平たく言えばバリアのことだ。その他にもパルスの増幅や調整も可能」

「あ、そう……いやちょっと待って? なんで武器の使い方教えてくるの? てか俺『NPC』なんでしょ? 燃料の『霊魂タブラ・ラサ』持ってないから使えないんじゃ……」

 なにやら不穏な空気を察すると、彼方は矛盾を指摘して遠回しに拒否する。しかし美月はニカッと笑うと、なにも問題ないと上機嫌に先を続けた。

「安心しろ。『NPC』の場合燃料は自身の存在になる。少し全身にノイズが走るが」

「でもそんなこと繰り返したら自分が消えるんじゃ」

 はいと手を挙げて彼方は質問する。美月はいい質問だと頷いた。

「時間が経てば残量は戻る。ただ『NPC』は『霊魂タブラ・ラサ』を持ってる奴と比べたら消費量に雲泥の差があるからな。特に巨大物の具現化は控えた方がいい」

「いやでもね?」

「もう察してるくせにわざとらしいんだよ! 黙って受け入れろやボケェ!」

 彼方が拒んでいると突然光が怒鳴り散らした。美月の手から〈波動銃サージブラスター〉を奪い取るとつかつかと歩み寄り、押しつけるように銃口を向ける。

「ちょちょちょちょちょ! ……え、えぇー察してるってなんのこと? はしょりすぎて俺わかんないんだけど。え急になに言ってんのこの人怖っ」

 下手な嘘をついてすっとぼけると光は真顔で安全装置を外す。

「ちょ⁉ ――ねーなんでそう俺を殺したがんの? 別に俺なにも悪いことしてないじゃん。てかなんでいつもそんなイラついてるわけ? エターナル生理立花じゃん」

「そういうところがムカつくんだよッ‼」

「待て光落ち着け! てかここで銃をぶっ放すな!」

 ついに光の怒りが爆発した瞬間、美月はその体を羽交い絞めにした。次いで光の怒鳴り声に身を縮こまらせた彼方に向いて、早口で説明をする。

「光が殺したがるのはお前が『NPC』だからだ笠木! 『NPC』は夢の産物。それがこっちの世界に流れてくればただのバグだ。そしてバグが多いほど旧『夢見人ドリーマー』の負荷も増える。だから向こうじゃ『NPC』は消去対象だったんだ」

「そんな……っ」

 美月の告白に彼方はショックを受ける。が、美月はすぐに待ったをかけた。

「けど勘違いしないでくれ! この世界じゃ協定さえ結んでくれれば『NPC』に人権が与えられる。だから笠木、あたしたちのために命を懸けてくれ!」

 美月が言い切ったのと同時に、光が不服ながらも観念したように脱力した。それを確認すると美月は光を解放してやる。その一方で彼方はまだ困惑していた。

「協定……? それはなにをするってことだ?」

「主に『夢の住民トライバー』退治や『霊魂タブラ・ラサ』の回収だ。その他にも危険地帯の探索や仲間の救出と諸々ある。仕事内容もその日によって変わるが」

 ここにきて彼方は、話が最悪な結果に帰着したことを悟った。予想していた結末に肩を落とすと、固く結ばれていた唇から不満を漏らす。

「生きたきゃあの化け物と戦えっていうのか? 俺は捨て駒かよ!」

「別に断ってもいいのよ。その代わりここで排除する。その方が旧『夢見人ドリーマー』の負担も減るし夢も長引く。私もこんなとこで消えるわけにはいかないしね。適応力のない弱い奴には早々に退場してもらう。それがこの世界でのルールよ」

 冷たく告げたのは光だった。冷酷な口振りに冗談の色はない。それどころか彼方が協定を拒むのを待ち遠しそうに足踏みし、〈波動銃サージブラスター〉のトリガーに指を当てている。

 強者の理屈を当然のように言い張るそんな光に、彼方は歯噛みした。

「……なにが適応力だ、弱者が悪いのが普通みたいに言いやがって……。間違ってんのは強くなきゃ生きられない世界の方だろ。適応するしかないって、ようは環境を変えられない奴の負け惜しみじゃねぇか。情けないこと自信満々に言ってんじゃねぇよ」

「なんだとテメェ……っ」

 堪忍袋を刺激されると光は武器を構える。隣で二人の遣り取りを見ていた美月はすかさず間に入ると、慌てて光を戒め、一方で彼方にも注意した。

「あんまプレッシャーをかけるな光。こいつは貴重な研究対象だからお前の好き勝手していい代物じゃない。笠木も光の言うことを真に受けないでくれ」

「あ、ああ……ん? ちょっと待って今研究対象って言った? え、俺人体実験されるの?」

「笠木、与えられるのは人権だけじゃないぞ」

「話逸らしてんじゃねえよ」

「命を懸けてくれた『NPC』には特別報酬もある。そう、例えば――魂とか」

 出された条件に彼方は思わず呼吸を忘れた。聞く耳を持った彼方に美月は続ける。

「夢に移送するっていうのは魂、すなわち『霊魂タブラ・ラサ』を『夢見人ドリーマー』の見る夢に詰め込む作業だ。ゆえに『霊魂タブラ・ラサ』を持たない『NPC』は移送できない。そもそもバグの要因だしな――でも『霊魂タブラ・ラサ』があれば、自分の望んだ設定で人生を掴むチャンスが与えられる」

(特権……新しい人生――)

 彼方が色めくのを確認すると、美月はもう一押しとばかりに先を紡いだ。

「全員で同じ世界に住むからSFやファンタジーの世界は無理だが、ある程度なら地位や性別の設定はできる。なにか希望はあるか?」

「べ、別にそんな大それたものはいらない。俺はただ元の暮らしに――元の――」

 言いながら自分の元いた世界を想起し、彼方は眉をひそめる。

 脳裏に浮かぶのはノイズの砂嵐に見舞われたときのまでの場面。そのときに周りにいた人物には靄がかかり、果ては自分の生い立ちも思い出せない。

(あ……れ? なんだこれ。記憶が……なにも……――っ)

「どうした笠木? どこか具合でも悪いのか……?」

 額に手を当てて必死に記憶を探っていると美月が顔を覗いてきた。よほど動揺していたのか、彼方を見る目は心配と猜疑の色に染まっている。

 それに彼方は、致命的なミスを犯したような重い声音で告げた。

「覚えて、ないんだ……。前にいた世界のことを、なにも、思い出せない……っ」

 記憶を失った覚えはない。目覚めたとき自分が何者かもわかっている。

 だが事実として記憶が欠如していることに、始めからそう作られたような不気味な感覚を覚えて彼方は混乱した。それこそ『世界五分前仮説』の当事者になったように。

(まあでも、たいしたことないだろ。ここに来るまでにいろいろあって頭がこんがらがってるだけだ。落ち着けばそのうち思いだす。別に急ぎのことでもないし)

 狼狽える自分の気持ちを落ち着かせようと、彼方は自分に言い聞かせる。だがそこに水を差すだけでなく、彼方の今後を脅かす致命的な横槍が入る。

「もしかして記憶喪失か? ……これはちょっとマズいな。下手に不具合があると、人権を与える審議に引っかかる可能性が……」

「ッ⁉ そんな⁉ なんで記憶がないだけでそんなことに引っかかんだよ!」

 見出した希望から一転、美月の一言に彼方は失意のどん底に落とされると、処分の二文字がちらついて弁解を求めた。そんな真っ青な彼方に更なる追い打ちがかかる。

「論外ね。『NPC』でもいろんな奴がいるけど、記憶がないなんて聞いたことないわ。あんた、いよいよただのバグなんじゃないの? 本格的に欠陥品じゃない」

 無慈悲に言ったのは光だった。己と他の決定的な違いを示され彼方は絶句する。

「俺だけ、記憶がない……?」

「『NPC』ってだけでも厄介なのに、さらに記憶障害とか末期でしょ。他の『NPC』は必要最低限のモブとして生まれたのに。あんただけただの欠番ね?」

「光」

 不適切な言葉に美月が強い口調で諫める。だが光は抗議の眼差しでそれを制した。

「私はこいつのために言ってるのよ? 考えても見なさい。他の『NPC』は元の世界や人生のやり直しを望んで頑張ってるけど、こいつにはそれがない。家族や友達との思い出も、帰る世界もないの。そんな向上心のない奴、鬱になって自殺するのがお約束じゃない。大切にされた記憶もないとか、本当に誰にも必要とされてなかったのね」

「勝手な妄想で決めつけんな! 適当なことばっか言いやがって……っ!」

 言われたい放題だった彼方は我慢ならず声を荒げた。しかし絞り出した声量は震え、恐怖が滲んでいる。そうと知って光はわざと彼方を挑発した。

「なら欠陥品じゃないっていう証拠を見せなさいよ。でないとあんた殺処分決定よ? こんな厄介なお荷物、上層部は嫌がるだろうし。まあ私には好都合だけど」

「はっ、なんだよ証拠って。ようはなんでもいいから元いた世界のこと思いだして、向上心があるってわかればいいんだろ? 今はまだ混乱してるだけで……」

(な、なにかないか⁉ でないとこのまま消される。この世界で生きる目的……向上心を見せなくちゃ。役立たずなんて思われたら本当に消され――)

 返事をしてから数秒間。彼方の脳は今、存在しない記憶の捜索と、今結果を出さなければ消されてしまうという恐怖に駆られてオーバーヒートしていた。

 元々臆病な性格の彼方にこのストレス量は耐えがたかった。途轍もない緊張と吐き気で眩暈を覚えると、次いでキリキリとした胃痛と頭痛で平衡感覚が狂う。

 不意に肩をとんと叩かれた。彼方は大袈裟なくらいびくりとすると、転びそうになりながら「ひいっ⁉」と悲鳴を上げて縮こまる。美月が心配そうに見ていた。

「大丈夫か笠木? 急に黙ったと思ったらぶつぶつ言いだして。顔色も悪いぞ」

 いつの間にか声に出していたようだ。それを心配して注意を促したのだろう。お陰で彼方は全身が脂汗で滲み、寒気で震えていたことに気づく。

「だ、大丈夫だ! 俺はどこもおかしくない! だからまだ判断しないでくれ⁉ 俺がいた世界のことだってすぐに思いだすから、だからそれまでは――」

「おい、少し落ち着け! 別に今すぐどうこうするわけじゃない!」

 彼方が取り乱すと、美月がハエを払う程度に軽くその頬を打った。精神的に追い詰められていた彼方はたったそれだけの衝撃にさえ肩を揺らし、ショックでハッとする。

「あ、ああっ、わかってる。俺は平気だ。俺は変じゃないっ、変じゃ……」

 美月に答えながらも彼方は自分にも言い聞かせた。お陰で乱れた思考もある程度は落ち着く。特に処分のことで猶予を与えられたことはいい精神安定剤だった。

「で、どうするの? 仕事やるの? やらないの?」

 事を荒立てた張本人の光が焦れったそうに聞いてくる。

 彼方はこれから訪れるだろう恐怖や危険に満ちた日々を忌まわしく思いながらも、そんな自分の気持ちに逆らって、喉に詰まった言葉を強引に絞りだした。

「っ……わかったよ。やりゃあいんだろっ?」

「いや別にやらなくていいんだけど」

「いややるって! やるから! お前どんだけ俺を消したいんだよ⁉」

「途中経過はどうあれ……まあいい返事が聞けてなによりだ」

 光がつまらなそうに鼻を鳴らす横で美月が息を吐いた。これから先、何度同じ光景を見るのだろうと思いながら、彼方は改めて自分の置かれた状況を見つめ直す。

(とにかく、俺が今後この世界でなにを成すべきか、根本的なストーリーラインと目的は決まった。まず目先の目標は記憶を思いだすこと。それと並行して任務の遂行だ。最終目標は『霊魂タブラ・ラサ』を手に入れて、新しい世界で次の人生を――)

 一人具体的な筋書きを立てると彼方は意気込んだ。その様子を横で見ていた美月は一段落ついたことを確認すると、次の段階に入ろうと話を進める。

「ここでは給料の代わりにポイントが給付される。『霊魂タブラ・ラサ』もポイントで交換できるらしい。笠木の配属先の部隊は光のいるところと同じになるだろう。因みに部隊隊長らは『NPC』じゃなく『夢遊牧民ノマド』だ。このあと他の奴に『NPC』専用移住地区を案内させるから、そのあとこっちで用意した部屋で今日は休んでくれ」

「え、こいつと同じとこ配属されるの?」

 聞き捨てならない解説に彼方が話を中断すると、さらに最速で光が反応する。

「なんだお前文句あんのかおい?」

「待って誤解だって! ちょっと変に思っただけだから! 『NPC』の俺でもお前と一緒のとこに配属されるのかなって思って」

 光がいきり立つと彼方は必死に制して疑問を口にした。美月がそれに答える。

「光も『NPC』だからな。というか部隊自体『NPC』で構成されてる」

「あーなるほ……は⁉ え待って! ほんとに待ってください! え、こいつ『NPC』なの? じゃあなんでこいつ俺を殺そうと?」

 衝撃の事実に彼方は今一度冷静に聞いた。だが美月は首を捻る。

「? 笠木が『NPC』だからだろ?」

「いやこいつも『NPC』じゃん! 自分を殺せばいいだろ! 同族嫌悪?」

 彼方が指差すと、光は心底不快そうに眉をつり上げた。

「オメーと一緒にすんな。『NPC』が増えればその分、旧『夢見人ドリーマー』の負担が増えるって言ったでしょ。だからあんたを殺そうとしたのよ」

「だからお前も『NPC』だろ! お前だって負担なんだから自殺しろよ!」

「んだとテメェ滅多なこと言ってんじゃねぇぞゴラァ!」

「いや別にそこまで怒鳴らなくてもいいじゃんえっなにこいつ怖っ」

 再び騒がしくなりかけたところで、美月が二人の遣り取りに呆れつつ補足する。

「協定を結んだ『NPC』は保護する規則があるんだ。保護と言っても、消耗品として使い物にならなくなるまで扱き使うだけだけどな。でもそれは『NPC』がこの世界に来たときの対処だ。ここに来る前の夢の中の『NPC』は消していいことになってる」

 彼方はなぜ光が自分を『NPC』と知った直後、真っ先に消そうとしたのか理解した。

(だからこいつあのとき俺を撃ったのか? 自分も『NPC』のくせしやがって!)

「というわけだから早く協定取り消せ」

「そんなことしたら殺されちゃうだろ! それ俺に死ねって言ってるのと同じだからね?」

「だからそう言ってんだよ……っ」

 光が肩をわななかせながら武器を握り締め、喰いしばる口元から怒気と殺意を滲ませたときだった。突如研究室が大きく揺れて轟音が響き渡る。

『警告。『霊魂タブラ・ラサ』保護施設で爆発が発生。破壊されたケースから『霊魂タブラ・ラサ』が逃げ出しました。研究員のみな様は速やかに避難してください。繰り返します――』

 彼方たちがよろめくと、けたたましいサイレンとともに機械音声が告げた。

「うわああ何事ぉ⁉ もうやだ怖い! ママっ⁉」

「鬱陶しい……。ていうか今日爆発しすぎでしょ。今ので二回目よ?」

「『イクリプス』、保護施設に映像をつないで被害状況を!」

 騒がしい彼方に光が呆れる中、美月が叫ぶと頭上に無数のモニターが出現した。

その一つに硝煙を上げるフラスコ型の機械と、ケースから逃げだす『霊魂タブラ・ラサ』の群れが映る。他の映像では逃げだした『霊魂タブラ・ラサ』が宮殿内を飛び回り、人々を襲いながら街の方へと向かう様子が窺えた。特に目に止まったのは保護施設の映像。

 人気のない施設に、深々と帽子をかぶった軍服の男が外へ向かう様子が映っていた。部外者感丸出しのおどおどした様子に、光は鼻を鳴らして嘲笑する。

「どう見てもあいつが犯人ね。カメラに気づいてないのかしら? ど素人ね」

「この様子じゃすぐに身元が割れるだろ。できれば外に逃げる前に捕まえたいが、この騒ぎじゃ無理だろうな。それより今は『霊魂タブラ・ラサ』の捕獲が先――」

「あれ捕まえれば、ポイントもらえるのか?」

 鬼気迫った声色に美月は違和感を覚えた。振り返った先には、恐怖に追い詰められた小動物ように震えながら、追い詰められた者の目で画面を凝視する彼方がいる。

「……なに言ってんだ笠木。お前まだ素人だろ?」

「あら、小手調べには丁度いいじゃない。実践させてやれば?」

 彼方の突拍子もない発言に美月が戸惑っていると、光がそれを催促した。

「『NPC』なんて所詮消耗品。勝手に増える捨てるところのないゴミよ。こいつの代わりなんていくらでもいるんだし、役立たずかどうか見極めるいい機会じゃない」

「『NPC』が捨てるところのないゴミってそれ自分もゴミって言ってるのと同じじゃ」

「話の腰折ってんじゃねえぞテメェ今すぐ灰にしてちんこのカスにするぞ!」

「ひいぃぃ⁉」

 割り込んだ彼方が揚げ足を取るや、光は怒鳴り散らすと〈波動銃サージブラスター〉を容赦なくぶっ放した。光線は壁や床に命中すると室内を木っ端微塵に破壊する。

「なにしてんだ光⁉ やめろバカ! ここで暴れるな――ッ!」

 たまらず美月は叫んだ。すぐさま光の暴走は止む。逃げていた彼方はその場にへたり込むと、顔中涙と鼻水でぐしょぐしょにしながら嗚咽を漏らした。

 美月は謎の疲労に肩で息をしながらも彼方に向き直り、諭すように言う。

「まあ、確かにこの世界でやっていくなら実践を積んだ方がいいのは事実だ。初回だし話を通せば隊長がつき添ってくれるだろう。光も同じ部隊だし心強いだろ」

「えぇーっ、それ冗談じゃなかったのかよ⁉ うわキッツ! 俺やだぁ!」

「お前ほんと子どもみたいな奴だな……。そんな声出すな。言っとくが光は優秀だぞ。光がきっとお前をサポートしてくれるさ。あたしが保証する」

「いや私やらないわよ? 自分のことで手一杯だしこいつウザいし嫌いだし」

「時間がない。光、すぐに笠木を待機室へ案内してくれ」

「ちょっと待てやっ⁉ お前そんなんで今のこいつの発言誤魔化せねーかん……あっ、待って! やだ掴まないで連れて行かないで! いやぁ~だあああぁぁぁ~~ッ‼」

 聞き捨てならないセリフにツッコみかけた彼方は、しかし、さらに虫の居所の悪い光に首根っこを掴まれると、少女とは思えない剛力で引っ張られていった。


       ◇


 彼方が半泣きで光に待機室へ引きずられていたころ。他の隊員たちは『夢遊牧民ノマド』の避難や逃げ出した『霊魂タブラ・ラサ』の捕獲でてんてこ舞いだった。

 その騒ぎに乗じて施設爆発の犯人――柴田は保護施設をあとにし、すでに宮殿の外にまで逃走していた。その手には盗みだしたデバイスが握られている。

 そして今度はバロディナルからの逃走を目論んでいた。街は『霊魂タブラ・ラサ』の群れと悲鳴を上げて逃げ惑う『夢遊牧民ノマド』たちでごった返している。周囲で次々と住民たちが『霊魂タブラ・ラサ』に取り込まれていく中、柴田は駆け足で街の外側を目指した。

「あと少し――あと少しで国の外に――ぬあっ⁉」

 そんな柴田の前に強敵が立ちはだかった。その正体は、自分が時間稼ぎのために解放した一体の『霊魂タブラ・ラサ』。敵は独特な波長を発し、全身を膨張させ攻撃態勢に入る。

 策士策に溺れるとはまさにこのこと。戦うためのデバイスを手にしていたが、装着していなかったがために、突然敵が目の前に現れた驚きで戦闘態勢を取ることができなかった。ゆえに柴田は悔しげに唇を噛む。

 と、まさにそのとき、後方から放たれた光線が『霊魂タブラ・ラサ』に直撃する。

 即座にフィールドが『霊魂タブラ・ラサ』を施錠すると、瞬く間に転送した。あとには少量のノイズが虚空に残る。振り向けば〈想像強化鎧レヴァリー〉を装備した『NPC』隊員がいいた。

「大丈夫ですか⁉ どこかお怪我は――」

「あ⁉ いや、これは――」

 声をかけられて慌てたのがいけなかった。驚いて跳ねた指先がデバイスに触れる。

パルスが弾けるとフィールドが展開され、その中に小型化された無数の『霊魂タブラ・ラサ』が施錠されているのが見えた。施設を爆破した犯人が持ち出した盗品を前に隊員は面食らう。

「こ、これは盗まれた『霊魂タブラ・ラサ』⁉ まさか施設爆破の犯人は――」

 柴田は舌打ちするとデバイスを操作し、莫大なパルスで周囲を青に染めた。

 隊員はすかさず武器を構える。だが一瞬早く展開された柴田のフィールドが風船のように膨らむと、その外壁に接触した部分から隊員の体は分散していく。

「うがっ⁉ や、やめ、ろ――あああああああああ!」

 悲鳴も空しく隊員が解けるように散り散りになり、危機は去る。だがその光景は目立ち過ぎた。柴田は一部始終を見ていた他の隊員たちに包囲されると、再び窮地に立たされる。

「おいお前、そこを動くな! 軍服を着てるが隊員じゃないな⁉」

「こちらH部隊。F地区で盗品と思われるデバイスを使う怪しげな男を発見」

 厄介なことに仲間に連絡されていた。そんな逃げ場のない状況は、ある種の覚悟を柴田に迫ると、再度その指先をデバイスに触れさせて起動を促す。

 駆動音が響くと防壁内の『霊魂タブラ・ラサ』が活発になり、膨大なパルスが発生した。

「なにをする気だ! まずい、全員この男を止めろ!」

 その部隊の隊長が叫ぶと、隊員たちは一斉に光線を柴田へと放った。しかし光芒は柴田に直撃する前にバリアに阻まれ、次々に弾かれてしまう。

「んだよこれ⁉ こんだけ光線浴びせてんのになんで相殺されないんだ⁉」

 通常なら光線が命中した箇所は、相殺や波紋が広がるなどの反応を示す。しかし柴田の防壁は波立たないどころか、赤黒く変色してすべての光線を吸収した。

「うぎゃあああああああああああぁぁぁ‼」

 突然柴田の悲鳴が響いた。それは苦痛に耐えきれず発された絶叫に近い。

 同時に柴田のフィールドは急激に膨張して、みるみる隊員たちを消し去った。フィールドは拡張を続けると瓦礫を巻き上げ、果てはビル群をも呑み込んでいく。

 暴走はそれだけに収まらない。増殖を続けるパルスは空間に深刻な歪を来し、街の至る場所で勝手に丸みを帯びた防壁膜を無数に創りだす。

 そして高電圧を帯びたフィールドは、巨大なドームとなって国中に出現した。

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