お月見の季節

「今日は中秋の名月だったわよね」

 彼女が僕に話しかけてきた。四角いメガネが特徴的で、とっても華奢な彼女は、さっき大きな荷物を持って、急に僕の家に上がり込んできた。

「確か、そうだったはずだよ」

「日本では月のクレーターを餅をつく兎に見立てた……全く、人類の想像力には頭が下がるわ」

「キミの歴史学への熱意にもね」

 彼女とは大学で知り合った。僕らは同じ歴史学科の後輩だけど、彼女の歴史に対する熱意は僕を遥かに凌駕する凄まじいもので、よく紙粘土を買ってきては縄文土器を作っているくらいだ。

「それじゃ、月見団子作るわよ」

「あ、その荷物ってもしかして」

「材料よ」

 彼女の思いつきはいつも唐突に発生し、僕を困らせる。

 あの一言から一時間半くらいしてやっと、二十個程の白い団子ができた。食べたことないくらいシンプルな団子だ。

「あのさ、キミいちいち本格的すぎるよ……もう肩痛い」

「ごちゃごちゃ言わない。さ、ベランダで食べるわよ」

「はーい」

 キビキビとベランダへ団子を運ぶ彼女。

「世界中でまだこんなことやってるの、僕らくらいじゃないかな」

 一つ目の団子を手にしたまま僕は言った。

「なら尚更私たちはこの行為をする必要があるわ。伝統は守るものだもの」

 二つ目の団子をもぐもぐさせながら、彼女は答えた。

「真面目だな……」

「真面目は嫌い?」

「いや、そういうキミが好き」

「物好きもいたものね」

 彼女の硬い表情が少し緩んだ。

「ねぇ……一つ疑問に思ったんだけど」

「なに」

「僕らって……キス、とか、したことあったかな」

 まずい。こんなんじゃ「キスしたいです」って言ってるようなもんだ。急に大胆過ぎたかもしれない。

「ないわ」

「そ、そうだよね、いやその」

「してみましょうか」

 その言葉は淡白で、自信に満ちていた。

「え、ちょ」

 戸惑っている暇もなかった。一瞬だった。白くて細い彼女の手が僕の顔を無理やりこちらへ向けさせ、真紅の唇が僕を奪った。

 一分……いや、三十秒にも満たなかったかもしれない。でも、とても長く感じた。風の音も、息の音も、心音さえも、聞こえなかった。

「ん、はぁ」

 彼女の妖艶な吐息と共に、それは終わった。ただそれだけの事実しか理解できなかった。

「あ……」

 唖然とする僕の前には、いつもの彼女がいた。いや、いつもより綺麗に見える。

「あ、ご、ごめん。なんていうか、気の利いたことできなくて」

「いいわ。困惑してるあなたを見るのが好きだから」

 物好きなやつめ。

「そ、それは結構……てか、実は僕、こういうことするの、ほんと初めてで……」

 僕にとってはちょっと恥ずかしい告白だった。それも相手が相手だ。こんなに経験豊富そうな彼女に、どう思われてしまうのだろうかと、流石に少し不安になった。

「あらそう。奇遇ね。私の二十年間続く人生の歴史の中でも、こんなこと初めてよ」

 積み上がった団子が崩れる音がした。

 満月が彼女をほのかに照らす。

「えっ」

 そう言ってメガネの小悪魔は微笑みながら「ふふっ」と僕を見つめた。

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