花園の昏がりにて

 ※軽い同性愛表現を含むエピソードです。自己責任で閲覧えつらんして下さい。


 *


 聖フラジア女子修道院の院長室は、重苦しい空気に包まれていた。


 重厚な石造りの建物は開口部が少ない。貴重な光源であるステンドグラスに描かれた聖フラジアも、うれいを帯びた横顔で沈黙している。


 室内にいるのは二人の修道女、よわい六十五を越えてなお矍鑠かくしゃくたるベルナデア院長と、気弱そうな雰囲気のナミーラ副院長のみだ。


 ベルナデアが執務机にちっぽけな紙切れをせる。


附属学校スクーラ・インテルナのゴミ箱から、このようなものが見つかりました」

「こ、これは──」


 祭具室の衣装戸棚の七段目、白い生地に金糸のそで司祭服カズラの下──紙切れにはそうとしか書かれていなかったが。


 ナミーラの口から、悲鳴混じりの祈りがれる。彼女には解ったのだ、その短い文面が意味するものが。直接の手渡しでは修道女や他の生徒に目撃される恐れがあるため、このように隠し場所を教えるという手口を用いるのだ。


 五年前もそうだった。


「生徒間での禁書の回し読み──またしても、です」


 五年前は何とか揉み消した──修道院の支援者である王妃が、方々に根回ししたらしい──が、前院長の辞任という代償を払うことになった。老練なベルナデアはともかく、まだ若いナミーラに副院長の座が回ってきたのも、その結果だ。


 同じ不祥事ふしょうじを繰り返せば、修道院はどうなるか。答えを知りたいとは、断じて彼女らは思わない。


「き、禁書なんて何処どこから? 書庫は徹底的に調査したはずでは」

「手荷物検査をすり抜けたか、あるいは外部の手引きがあったか──いずれにせよ、修道院とて絶海の孤島ではありません。完璧な遮断しゃだんは不可能ですよ」


 ひたすら狼狽ろうばいするナミーラとは対照的に、一見するとベルナデアは落ち着いている。だが、その眉間みけんに刻まれた深いしわは、内心の苦悩を如実にょじつに表していた。


「それでも、女子の教育は我々の使命です──断固として」


 *


 聖フラジアこそは、最も有名な女性聖者であろう。


 光の女神セリアーザに代わって、横暴な夫や奴隷商人を成敗して回る一方、女性の地位向上にも尽力した。時の教王マルギオン八世に女性の司祭就任を認めさせたのは、聖フラジアの最大の功績と言われている。


 教王の説得に成功した理由は、彼女が設立した聖フラジア女子修道院の存在が大きい。そこで聖フラジアの教えを受けた修道女たちは、男性の聖職者に何ら劣らぬ知恵と信仰心を証明してみせたのだ。


 教王領がアヴァロキア聖王国にとって変わられる頃には、教育部署を附属学校として独立させている。修道女の候補生のみならず、広く女子一般に門戸を開いたのだ。聖フラジアが女子教育の守護聖者とされる所以ゆえんである。


 ヴァルド神学校やオルドーゼ芸術学校が男女共学になるまでは、アヴァロキアにおける数少ない女子教育機関であり、史上初の女性枢機卿すうきけいマヌエラ・ド=パレシーなど、歴史に名を残す人材も輩出してきた。


 栄光の歴史はまた、修道院とて俗世と無縁ではいられない──そんな矛盾の表れでもあるのだが。


 *


 修道院の鐘楼しょうろうが九時課(俗世では午後三時)を告げる。


 授業を終えた附属学校の女生徒たちは、思い思いに自由時間を楽しんでいる。とは言え、静寂が尊ばれる修道院のこと、彼女らのにぎわいも控えめだ。庭園で談笑する、書庫で読書にはげむ、音楽室で賛美歌を合唱する──。


 そんなささやかな自由時間すら奉仕にささげ、イリリカは医務室でじっと念をらしていた。


 彼女の前の椅子には、膝をりむいた女生徒が座っている。まだ十歳にもなっていないだろう。痛みとあとが残る不安から、べそをかいていた──イリリカが優しくなだめ、すぐ治ると保証するまでは。


「見よ、女神の大いなる【癒しの御手ロイヤル・タッチ】、勇者ダムレイクの血と傷をぬぐい去りたり──」


 イリリカが聖典の一節を詠唱えいしょうすると、握り締めた聖印パナギアほのかに輝き始める。幼い女生徒の膝を照らし、その傷をみるみるふさいでいく。


 育ての親ビゼルゴ司教を手伝う為に、医務担当の司祭になることがイリリカの当面の目標だ。祈願術の修練には特に力を入れている。担当の修道女が不在の間、こうして医務室を任せてもらっている程だ。


「はい、もう大丈夫よ」

「わあ、すごい!」


 象牙のようななめらかさを取り戻した膝を見て、幼い女生徒は目を丸くしている。


「じゃあ、治して下さったセリアーザ様に、感謝のお祈りをしましょうね」

「え? 治して下さったのは、お姉様じゃないの?」

「とんでもない、私はセリアーザ様にお願いしただけよ」


 女神への祈りを終え、お大事にと幼い女生徒を見送り、イリリカが医務室に戻ると。


「本当に敬虔けいけんねえ、イリリカさんは」

「うひょうっ!?」


 いつの間に入室したのか、寝台に同期生のローゼが座っていた。物音どころか気配すらしなかった。


「あらやだ、淑女レディが『うひょうっ』なんてはしたなくてよ、ウフフ」


 虹のきらめきを帯びた黄金の巻き毛、湖底に沈む蒼氷石を思わせる深い青の瞳、エルフもかくやのすらりとした長身──こんなに華やかで存在感のある人なのに、どうしてああも密やかに動けるのか。


「も、もう、ローゼさんたら、意地悪しないで」


 附属学校の女王と称えられる同期生である。ご覧の通りの美貌に、貴族の出身ともうわさされる気品、あらゆる科目の首位を総なめする頭脳。皆が称えるのももっともだとは、イリリカも思うのだが──正直に言えば、少し苦手な相手だった。決して、嫌いな訳ではないのだが。


「え、ええと、何か御用? どこかお怪我なさったの?」

「解っている癖に」


 ローゼが形のいい唇をきゅっと釣り上げ、切れ長の双眸そうぼうを細める。端正な容姿だからこそ、わずかな変化でも印象はがらりと変わる。イリリカがぞくりと背筋を震わせる程に。


(ああ、この人にはお見通しだ)


 自分が待ち望んでいたことなど。全治なるセリアーザのように、あるいは人の弱さに付け込む悪魔のように──だから、イリリカは彼女が苦手だ。


「お待たせ、次はイリリカさんの番でしてよ」


 ローゼが白魚のような指で、二つ折りにした紙切れを差し出す。拒否できない、拒否したいとも思えない。そんな自分を自覚しながら、イリリカは最後の抵抗を試みる。


「あの、やはり、こんなことは──」

「世に数冊とない稀覯本きこうぼんでしてよ」


 当然ながら、ローゼは予測していた。イリリカのしんをぽっきり手折たおる、甘いささやきも用意した上で。


「この機会を逃したら、二度と読めませんわよ?」


 最後はイリリカの耳元で、吐息を吹きかけるように。へなへなと崩折れる彼女の手に、いつの間にか紙切れが──背徳のちぎりの証が握られていた。


「では、失礼しますわ。あまりご無理はなさらないでね、イリリカさん」


 一転して、ハキハキした声でローゼは言った。それが不自然だとはイリリカは気付かなかった──窓越しに自分たちに向けられる、何者かの鋭い視線にも。


 イリリカが我に返った時には、ローゼは幻のように姿を消していた。


 *


 深夜、イリリカはため息をきながら、寮の自室を抜け出した。


光あれライト】の術で、手のひらに明かりを灯す。見回りの修道女を警戒しながら、紙切れに書かれていた隠し場所に向かう。セリアーザとビゼルゴに懺悔ざんげしながら。


 ローゼには感謝している。元々内気な上に、祈願術の修練に打ち込みすぎて、気付けば友人らしい友人もいない──そんな自分を心配して、交友の輪に入れてくれたのだから。彼女の友人たちも歓迎してくれた。


 だが、ローゼたちを結び付けているものが、まさか──。


(禁書の回し読みだったなんて)


 秘密の会合──庭園の東屋あずまやに集まっただけだが──で打ち明けられた時は、修道院に密告すべきだと思った。だが、できなかった。


 禁書──ローゼたちが禁忌きんきを犯してまで読みたがる、その内容。概要を聞いただけでも、イリリカをおののかせるに十分だった。何と冒涜ぼうとく的で、同時に魅惑的でもあるのだろう。まさに、書物の形をした異界への扉。


 もっと悩んでいたかったが、禁書の隠し場所に辿り着いてしまった。真夜中の月が投げかける、鐘楼の影が指す庭園の一画、紙切れにはそう書かれていた。ローゼらしい、詩的で意地悪な表現だと思った。何日も迷っていたら月の角度が変わってしまうぞと、暗にイリリカをかしている。


 鐘楼の影が伸びる先には、長椅子ベンチが備え付けてある。つい先日も、腰掛けて聖典を読んだばかりだ。あんな物の何処に本が隠されているのかといぶかしんだが、何と座面の裏に貼り付けてあった。確かに、掃除の際にもこんな所までは覗き込まないだろう。思わず感心してしまう。


(これが禁書──)


 表紙は日記帳に偽装されていた。部外者に見つかっても、盗み読みされない為の工夫なのだろう。平凡な外見がかえって、イリリカの目には禍々まがまがしく映る。それでいて、湧き上がる衝動は、初めて聖典を目にした時とそっくりなのだ。今すぐ表紙を開きたい、むさぼるように熟読したい、と。


(ざっと斜め読みするだけ、ローゼさんのご好意を無駄にしたくないだけ)


 何度目になるか解らない言い訳をして、イリリカが禁書をふところに隠した、その時。


「こんな時間に何をしているのです、イリリカさん?」

「ぴい!?」


 月を背負う二つの人影に気付き、三十センティ近く飛び上がる。ローゼといい、何故なぜこの修道院には、気配を消すのが得意な女性が多いのか。答えは″必要な技術だから″である。監視をい潜る為にも、それに対抗する為にも。


(よ、よりにもよって)


 鉄の規則レグラの体現者と恐れられるベルナデア院長と、その腰巾着──もとい、忠実なナミーラ副院長に見つかるとは。否、偶然ではない。医務室での様子を盗み見て、回し読みのメンバーだと目星を付けていたのだ。


「そ、その、お手洗いに行く途中で──」


 下手な言い訳など聞く耳持たず、ベルナデア院長はイリリカに聖印を突き付ける。


謹聴きんちょせよ、これは【教王よりの勅命ポープ・ブル】である!」

「ふにゃ~」


 聖印が鋭い閃光を放ち、イリリカの顔がとろんと弛緩しかんする。下位の信徒に絶対的な命令を下す、聖都派独自の祈願術だ。


「隠している物を渡しなさい」

「どうぞ~」


 素直に差し出された禁書を、ベルナデアは鋭い目で、ナミーラは怯えた目で見つめる。無論、それが日記帳などではないことは百も承知だ。その表紙は月光を照り返し、ぬらぬらと輝いている。


「これは何の本ですか?」


 極限まで高まる緊張の中、ナミーラは必死にセリアーザに加護を求めていた。ああ、どうか穏便に事を済ませて下さい。修道院という安全な家から、私を追い出さないで下さい──。


 イリリカが口を開き──ぽっと顔を赤らめる。


「恋愛小説ですぅ~、きゃっ♥」


 一瞬の沈黙を挟んで。


「恋愛小説!?」


 ナミーラがずっこけ、ベルナデアがため息を吐く。緊張感は跡形もなく霧散していた。


「まあ、禁書には違いありませんね。修道院内では」


 禁書──と言っても、大きく分けて二種類ある。一つは、場所によっては持ち込みが禁じられている書物。例えば、修道院やその附属学校に、娯楽小説の持ち込みは御法度ごはっとだ。


 もう一つは、王立図書館の禁書目録に登録されており、一般人には所持すら禁じられている書物。例えば、闇の神メーヴェルドの教典や、毒薬の調合法などが記された書物だ。


「なぁんだ、私はてっきり悪魔召喚の書か何かかと──」


 五年前の事件で回し読みされたのは、夢を通して人間を誘惑する悪魔、いわゆる夢魔の召喚法が記された書物だった。禁書目録の危険度でも、最上級トップクラスに位置付けられるだろう。


 事件が発覚した時には、すでに幾人もの生徒が瀕死の状態だった。彼女たちの証言によれば、夢の中に理想的な男性が現れ、毎晩のように逢瀬おうせを重ねていたのだという──代償に″命″の言霊を吸われていると解っても、どうしても止められなかったとも。もう少し発覚が遅れていたら、死人が出ていたかもしれない。


「どうします? 違反は違反ですし、関係者には何らかの処罰を──」

「いえ、放っておきましょう。無論、エスカレートは警戒すべきですが」

「い、いいんですか?」

「生徒たちにも、この程度のガス抜きは必要ですよ。五年前の事件も、強すぎた締め付けが原因かもしれません」


 汚れを知らない乙女たちの、清らかな学び──。


 それは附属学校の理想ではあるが、押し付けてはならぬとベルナデアは思う。何故なら、生徒たちの全員が、自分の意思のみで入学してくるとは限らないからだ。貴族の隠し子や、貧しい奨学生、何らかのあやまちを犯した者──彼女たちの事情は様々だ。


(世間知らずに見えるこの少女も──)


 詳しくは聞いていないが、どうも親を知らないらしい。少なくとも、軽くはない物語を背負っているのだろう。


 生徒たちの事情も個性も無視して、修道院という型にはめ込んでは本末転倒というものだ。何故なら、聖フラジアは──。


(女性の自立と自由の為に、この修道院を建てたのだから)


「それにしても、恋愛小説ですか。私も修道院に入る前は、よく読んだものですが」


 ベルナデアが懐かしそうに禁書(一応)を開き──硬直する。


「ど、どうなさいました、院長?」


 覗き込んだナミーラも──顔を引きつらせる。


 *


『止せ、スレナイン! もうすぐ皆が帰ってくるぞ』


 リューベルグは必死にあらがったつもりだったが、気が付くとスレナインに組み伏せられていた。野営地の簡易寝台は浪漫的ロマンチックには程遠いが。


『そんなに嫌なら、もっと真剣に抗ったらどうだ、リューベルグ?』

『何を言って──』


 スレナインとリューベルグの顔が近付く。お互いの瞳と瞳が、合わせ鏡の無限回廊を映し出す程に。


『すまぬ、親友で満足しておくつもりだった。だが、私はこれ以上、己を誤魔化せぬのだ!』

『スレナイン──』


 *


「こ、こ、これは──」


 登場人物の名前を見て、冷や汗を吹き出すナミーラ。スレナインとは実在した高名な騎士であり、リューベルグはその戦友だ。吟遊詩人が語る騎士道物語にも、頻繁ひんぱんに主役や重要人物として登場する。


 ちなみに──どちらも男性である。


「ほほほ、本当にいいんですか院長!?」

「──所詮しょせん、作り話ですよ」

「で、でも、男性同士でふしだらな──」

「同性愛の禁止令も、ミヴァロク六世猊下げいかが廃止なさっています──イリリカさん」

「はい~」


 イリリカに禁書(一応)を返し、ベルナデアは最後の命令を下した。さすがに、やや疲れた声で。


「私たちのことは忘れて、部屋にお戻りなさい」

「分かりました~」


 フラフラと去っていくイリリカの背中を見つめながら、ベルナデアは呟いた。


「時代も価値観も変わりくもの。とは言え、あの方にも困ったものですね」

「あの方?」

「──いえ、何でもありません」


 *


 一方、その頃。


 ローゼは自室の寝台で懺悔していた。


「あ~、セリアーザよ、我が罪を許し給え~。修道院での退屈な日々に、少しでも刺激が欲しかったのです、ぷくくっ」


 ──訂正。懺悔のフリをして、笑いをこらえている。ついでに言うと、その正体はアヴァロキアの双子王の片割れ・剣王イヴァロク七世のご令嬢、ロザリア王女その人である。え、で明かすような正体ではない? それは失礼。


 実は聖フラジア女子修道院の附属学校は、代々アヴァロキアの王女の教育を担当してきた。機密保持の為、知らされている修道女はベルナデアだけだが。


 寝台上を右に左に転がりながら、ロザリア王女は芝居がかった独り言を続けている。


「ああ、また一人、純真無垢むくな乙女を、耽美たんび小説の沼に引きり込んでしまった~。でも、仕方ないわ。イリリカさんが可愛すぎるのがイケないんですもの。あの本の感想を聞いたら、どんなお顔をなさるのかしら、ウフフフフ──」


 ──アヴァロキアの未来はどうなることやら。

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