花園の昏がりにて
※軽い同性愛表現を含むエピソードです。自己責任で
*
聖フラジア女子修道院の院長室は、重苦しい空気に包まれていた。
重厚な石造りの建物は開口部が少ない。貴重な光源であるステンドグラスに描かれた聖フラジアも、
室内にいるのは二人の修道女、
ベルナデアが執務机にちっぽけな紙切れを
「
「こ、これは──」
祭具室の衣装戸棚の七段目、白い生地に金糸の
ナミーラの口から、悲鳴混じりの祈りが
五年前もそうだった。
「生徒間での禁書の回し読み──またしても、です」
五年前は何とか揉み消した──修道院の支援者である王妃が、方々に根回ししたらしい──が、前院長の辞任という代償を払うことになった。老練なベルナデアはともかく、まだ若いナミーラに副院長の座が回ってきたのも、その結果だ。
同じ
「き、禁書なんて
「手荷物検査をすり抜けたか、あるいは外部の手引きがあったか──いずれにせよ、修道院とて絶海の孤島ではありません。完璧な
ひたすら
「それでも、女子の教育は我々の使命です──断固として」
*
聖フラジアこそは、最も有名な女性聖者であろう。
光の女神セリアーザに代わって、横暴な夫や奴隷商人を成敗して回る一方、女性の地位向上にも尽力した。時の教王マルギオン八世に女性の司祭就任を認めさせたのは、聖フラジアの最大の功績と言われている。
教王の説得に成功した理由は、彼女が設立した聖フラジア女子修道院の存在が大きい。そこで聖フラジアの教えを受けた修道女たちは、男性の聖職者に何ら劣らぬ知恵と信仰心を証明してみせたのだ。
教王領がアヴァロキア聖王国にとって変わられる頃には、教育部署を附属学校として独立させている。修道女の候補生のみならず、広く女子一般に門戸を開いたのだ。聖フラジアが女子教育の守護聖者とされる
ヴァルド神学校やオルドーゼ芸術学校が男女共学になるまでは、アヴァロキアにおける数少ない女子教育機関であり、史上初の女性
栄光の歴史はまた、修道院とて俗世と無縁ではいられない──そんな矛盾の表れでもあるのだが。
*
修道院の
授業を終えた附属学校の女生徒たちは、思い思いに自由時間を楽しんでいる。とは言え、静寂が尊ばれる修道院のこと、彼女らの
そんなささやかな自由時間すら奉仕に
彼女の前の椅子には、膝を
「見よ、女神の大いなる【
イリリカが聖典の一節を
育ての親ビゼルゴ司教を手伝う為に、医務担当の司祭になることがイリリカの当面の目標だ。祈願術の修練には特に力を入れている。担当の修道女が不在の間、こうして医務室を任せてもらっている程だ。
「はい、もう大丈夫よ」
「わあ、すごい!」
象牙のような
「じゃあ、治して下さったセリアーザ様に、感謝のお祈りをしましょうね」
「え? 治して下さったのは、お姉様じゃないの?」
「とんでもない、私はセリアーザ様にお願いしただけよ」
女神への祈りを終え、お大事にと幼い女生徒を見送り、イリリカが医務室に戻ると。
「本当に
「うひょうっ!?」
いつの間に入室したのか、寝台に同期生のローゼが座っていた。物音どころか気配すらしなかった。
「あらやだ、
虹の
「も、もう、ローゼさんたら、意地悪しないで」
附属学校の女王と称えられる同期生である。ご覧の通りの美貌に、貴族の出身とも
「え、ええと、何か御用? どこかお怪我なさったの?」
「解っている癖に」
ローゼが形のいい唇をきゅっと釣り上げ、切れ長の
(ああ、この人にはお見通しだ)
自分が待ち望んでいたことなど。全治なるセリアーザのように、あるいは人の弱さに付け込む悪魔のように──だから、イリリカは彼女が苦手だ。
「お待たせ、次はイリリカさんの番でしてよ」
ローゼが白魚のような指で、二つ折りにした紙切れを差し出す。拒否できない、拒否したいとも思えない。そんな自分を自覚しながら、イリリカは最後の抵抗を試みる。
「あの、やはり、こんなことは──」
「世に数冊とない
当然ながら、ローゼは予測していた。イリリカの
「この機会を逃したら、二度と読めませんわよ?」
最後はイリリカの耳元で、吐息を吹きかけるように。へなへなと崩折れる彼女の手に、いつの間にか紙切れが──背徳の
「では、失礼しますわ。あまりご無理はなさらないでね、イリリカさん」
一転して、ハキハキした声でローゼは言った。それが不自然だとはイリリカは気付かなかった──窓越しに自分たちに向けられる、何者かの鋭い視線にも。
イリリカが我に返った時には、ローゼは幻のように姿を消していた。
*
深夜、イリリカはため息を
【
ローゼには感謝している。元々内気な上に、祈願術の修練に打ち込みすぎて、気付けば友人らしい友人もいない──そんな自分を心配して、交友の輪に入れてくれたのだから。彼女の友人たちも歓迎してくれた。
だが、ローゼたちを結び付けているものが、まさか──。
(禁書の回し読みだったなんて)
秘密の会合──庭園の
禁書──ローゼたちが
もっと悩んでいたかったが、禁書の隠し場所に辿り着いてしまった。真夜中の月が投げかける、鐘楼の影が指す庭園の一画、紙切れにはそう書かれていた。ローゼらしい、詩的で意地悪な表現だと思った。何日も迷っていたら月の角度が変わってしまうぞと、暗にイリリカを
鐘楼の影が伸びる先には、
(これが禁書──)
表紙は日記帳に偽装されていた。部外者に見つかっても、盗み読みされない為の工夫なのだろう。平凡な外見が
(ざっと斜め読みするだけ、ローゼさんのご好意を無駄にしたくないだけ)
何度目になるか解らない言い訳をして、イリリカが禁書を
「こんな時間に何をしているのです、イリリカさん?」
「ぴい!?」
月を背負う二つの人影に気付き、三十センティ近く飛び上がる。ローゼといい、
(よ、よりにもよって)
鉄の
「そ、その、お手洗いに行く途中で──」
下手な言い訳など聞く耳持たず、ベルナデア院長はイリリカに聖印を突き付ける。
「
「ふにゃ~」
聖印が鋭い閃光を放ち、イリリカの顔がとろんと
「隠している物を渡しなさい」
「どうぞ~」
素直に差し出された禁書を、ベルナデアは鋭い目で、ナミーラは怯えた目で見つめる。無論、それが日記帳などではないことは百も承知だ。その表紙は月光を照り返し、ぬらぬらと輝いている。
「これは何の本ですか?」
極限まで高まる緊張の中、ナミーラは必死にセリアーザに加護を求めていた。ああ、どうか穏便に事を済ませて下さい。修道院という安全な家から、私を追い出さないで下さい──。
イリリカが口を開き──ぽっと顔を赤らめる。
「恋愛小説ですぅ~、きゃっ♥」
一瞬の沈黙を挟んで。
「恋愛小説!?」
ナミーラがずっこけ、ベルナデアがため息を吐く。緊張感は跡形もなく霧散していた。
「まあ、禁書には違いありませんね。修道院内では」
禁書──と言っても、大きく分けて二種類ある。一つは、場所によっては持ち込みが禁じられている書物。例えば、修道院やその附属学校に、娯楽小説の持ち込みは
もう一つは、王立図書館の禁書目録に登録されており、一般人には所持すら禁じられている書物。例えば、闇の神メーヴェルドの教典や、毒薬の調合法などが記された書物だ。
「なぁんだ、私はてっきり悪魔召喚の書か何かかと──」
五年前の事件で回し読みされたのは、夢を通して人間を誘惑する悪魔、いわゆる夢魔の召喚法が記された書物だった。禁書目録の危険度でも、
事件が発覚した時には、すでに幾人もの生徒が瀕死の状態だった。彼女たちの証言によれば、夢の中に理想的な男性が現れ、毎晩のように
「どうします? 違反は違反ですし、関係者には何らかの処罰を──」
「いえ、放っておきましょう。無論、エスカレートは警戒すべきですが」
「い、いいんですか?」
「生徒たちにも、この程度のガス抜きは必要ですよ。五年前の事件も、強すぎた締め付けが原因かもしれません」
汚れを知らない乙女たちの、清らかな学び
それは附属学校の理想ではあるが、押し付けてはならぬとベルナデアは思う。何故なら、生徒たちの全員が、自分の意思のみで入学してくるとは限らないからだ。貴族の隠し子や、貧しい奨学生、何らかの
(世間知らずに見えるこの少女も──)
詳しくは聞いていないが、どうも親を知らないらしい。少なくとも、軽くはない物語を背負っているのだろう。
生徒たちの事情も個性も無視して、修道院という型にはめ込んでは本末転倒というものだ。何故なら、聖フラジアは──。
(女性の自立と自由の為に、この修道院を建てたのだから)
「それにしても、恋愛小説ですか。私も修道院に入る前は、よく読んだものですが」
ベルナデアが懐かしそうに禁書(一応)を開き──硬直する。
「ど、どうなさいました、院長?」
覗き込んだナミーラも──顔を引きつらせる。
*
『止せ、スレナイン! もうすぐ皆が帰ってくるぞ』
リューベルグは必死に
『そんなに嫌なら、もっと真剣に抗ったらどうだ、リューベルグ?』
『何を言って──』
スレナインとリューベルグの顔が近付く。お互いの瞳と瞳が、合わせ鏡の無限回廊を映し出す程に。
『すまぬ、親友で満足しておくつもりだった。だが、私はこれ以上、己を誤魔化せぬのだ!』
『スレナイン──』
*
「こ、こ、これは──」
登場人物の名前を見て、冷や汗を吹き出すナミーラ。スレナインとは実在した高名な騎士であり、リューベルグはその戦友だ。吟遊詩人が語る騎士道物語にも、
ちなみに──どちらも男性である。
「ほほほ、本当にいいんですか院長!?」
「──
「で、でも、男性同士でふしだらな──」
「同性愛の禁止令も、ミヴァロク六世
「はい~」
イリリカに禁書(一応)を返し、ベルナデアは最後の命令を下した。さすがに、やや疲れた声で。
「私たちのことは忘れて、部屋にお戻りなさい」
「分かりました~」
フラフラと去っていくイリリカの背中を見つめながら、ベルナデアは呟いた。
「時代も価値観も変わり
「あの方?」
「──いえ、何でもありません」
*
一方、その頃。
ローゼは自室の寝台で懺悔していた。
「あ~、セリアーザよ、我が罪を許し給え~。修道院での退屈な日々に、少しでも刺激が欲しかったのです、ぷくくっ」
──訂正。懺悔のフリをして、笑いを
実は聖フラジア女子修道院の附属学校は、代々アヴァロキアの王女の教育を担当してきた。機密保持の為、知らされている修道女はベルナデアだけだが。
寝台上を右に左に転がりながら、ロザリア王女は芝居がかった独り言を続けている。
「ああ、また一人、純真
──アヴァロキアの未来はどうなることやら。
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