影が番う夜
燃え上がる夕焼けを浴びて、
「やれやれ、今夜はここで
若き騎士デュライス・リムロットは嘆息した。ハイダル山脈の向こうに沈み行く、光の星セラエノに目を細めながら。
(まさか橋が落ちているとは)
おかげで、地元の
(まあ、ベッドでないと寝られないなんて、軟弱を言うつもりはねえけどさ)
十七になったばかりとは言え、幼い頃から白馬騎士団で鍛えられてきたデュライスである。同僚との野営訓練であれば、むしろ楽しみにしていたくらいだ。
だが、今はそんな気分になれない。守るべき同行者がいるからだ。
「すまねえな、イリリカ」
「デュライスの
光の女神セリアーザの託宣を授かりし、聖女イリリカである。彼女を聖都ヴァルドまで護衛するのが、デュライスの当面の任務だ。
今年で十六だそうだが、精神的には自分より大人だとデュライスは思う。とんでもない使命を背負わされながら、弱音一つ
幸い、野営に適した場所が見つかった。穏やかな清流の岸部だ。水の補給には困らないし、急な増水時にも流されない程度の高低差はある。ブライトウィンが食べられる
まずは、騎士団仕様の天幕を広げる。水獣カワヌシの丈夫で薄い革製で、
踏み割った
「こいつにビスケットを
「農家のお婆さんから頂いたユウヒリンゴがありますよ」
「ユウヒリンゴかぁ、
「
「わ、解った解った」
飢えた地獣ガロウのように目をぎらつかせるイリリカは、正直あまり見たくないデュライスであった──
「さて、風呂にすっかな~」
食事を終えてから、デュライスはさりげなく切り出した。
「え、お風呂ですか?」
まさか入れるとは思っていなかったのだろう。イリリカが目を輝かせる。
「ご面倒でしたら、無理をしないで下さいね?」
「なぁに、すぐ入れるって」
小川の一画を石で仕切り、そこに火凝石をいくつか投入する。十数分も待てば、即席の露天風呂の出来上がりだ。
「まあ、素敵! デュライス、ありがとうございます」
「ゴブリンでも出たら、すぐに呼べよ」
「え、その、入浴中でも、ですか?」
「い、命には代えられねーだろ。なるべく見ないようにするって」
「わ、解りました」
デュライスはあくまで守護騎士として、緊急事態への覚悟を説いただけだ。決して、その発生を期待している訳ではない。多分。
「さあて、ブラ公の
わざとらしく呟いて、愛馬の元へ向かおうとするが。
「デュライス、ちょっと来て下さい!」
(えっ、ちょっ、マジで!?)
いざとなったら
「あ、まだ脱いでいないので、大丈夫ですよ」
「今行く!」
残念なような、ほっとしたような──ともあれ、デュライスは
「どうした!?」
「あそこ、見えますか?」
イリリカが小川の上流を指差す。
(何だ?)
ぼんやり光る何かが、
「魂ですよ。あんなに低く飛んでいるのは珍しいですね」
「あれが──」
魂、それは死んだ肉体を離れた、″心″の言霊の集合体である。
万物は具象と言霊が対になっている。例えば、目前の川が″水″の言霊の流れであり、燃え盛る野営火が″火″の言霊の渦でもあるように。
その唯一の例外が、″心″の言霊である。この言霊だけは対となる具象が存在しない。あるいは、感情や記憶がそれに該当するのだという説もある。
肉体という
生前の人格を、魂がどの程度継承しているのかは不明だ。魂と人格は同一であり、継承は完璧であると考える者もいる。魂には記憶が情報として刻まれているだけで、人格は死と同時に失われると考える者もいる。
(クソ親父やお袋が死んだ時も──)
あれが身体から抜けていったのかと、デュライスはぼんやり思った。
「ん? あの魂──」
「ええ──」
よくよく見れば、魂は二体居た。一体に見えるぐらい、ぴったりと寄り
「生前は御夫婦か恋人だったのでしょうか? 死後も一緒なんて素敵ですよね」
「────」
デュライスは即答出来なかった、イリリカの真意を
彼女ら聖都派の聖職者は、戒律で結婚を禁じられている。無論、不純異性交際も
自らは禁じられていながら、聖都派の聖職者は結婚や恋愛に関わる機会が多い。アヴァロキア聖王国では結婚式のほとんどを司祭が
幸せの絶頂にいる新婚夫婦や、悩みながらも愛を貫く恋人たちを、彼女はどう見ていたのだろう?
(一度も後悔しなかったのかな──聖職者になったことを)
イリリカの横顔を盗み見るが、暗くてよく見えない。デュライスは早々に諦めて、魂たちに視線を戻す。
「そう言えば──あの魂、一緒にいるってことは、ほぼ同時に死んだのか?」
「え?」
「でないと、〈
肉体を離れた魂は、セリヴェルドの北極にそびえる至天の塔へ向かう。
そこは北極に位置しながら
それが真実なのかどうかは、誰にも解らない。だが、ほとんどの魂が、死と同時に
それが嫌なら、残された手段は一つしかない。
「ほぼ同時に死んだ──?」
「イリリカ?」
デュライスとしては何気なく
「まさか」
イリリカがはっと息を呑むと同時に、魂たちがピタリと動きを止める。彼らが生者であったなら、舌打ちの一つもしていたかもしれない。
「何だ!?」
魂たちから、爆発のように黒い霧が吹き出す。いや、霧と呼ぶには、あまりに粘度が高すぎるか。それは夜闇より遥かに凝縮された、″闇″の言霊の投影だった。慌ててイリリカを背後に
それは二体の黒い人体のような姿だった。細長く引き伸ばされ、
「気を付けて、迷魂です!」
迷魂とは、転生出来ずにいる魂の総称である。
恨み、
そのような魂は、″光″の言霊を恐れ、暗がりへ逃げ隠れるようになる。肉体という鎧を失くした魂には、″光″の言霊による″闇″の言霊の浄化作用が、
当然ながら、彼らは至天の塔にも辿り着けない。イルドーラ大陸と北極の間に広がる大洋には、セラエノの光を
そして、いつしか己が死んだ事実すら忘れ、生の
恐ろしくも
「彼らはツガイカゲ、心中した恋人たちの迷魂です!」
迷魂の内、多少でも肉体が残っている種類をシビトやドクロ、魂だけになっている種類をカゲと呼ぶ。迷魂ツガイカゲは風
「し、心中? 同時に死んだって、わざとかよ!?」
いくら仲が良いからと言って、至天の塔にまで一緒に行きたいものか? 残りの人生を捨ててまで? デュライスには到底理解出来ない──ような、痛い程解るような──。
「それで、何をやらかすんだ、この迷魂は?」
「はい、ツガイカゲは──あの、その」
「生者の、こ、恋人を見つけると、体を乗っ取ろうとするんです!」
「こっ、こここっ!?」
デュライスは風獣アサツゲドリのように
「誰と誰がだ、こらぁっ!?」
大赤面しつつ、ツガイカゲに抗議するしかなかった。イリリカの名誉を汚された怒りで? ということにしておくか。
「迷える魂よ、転生を恐れるなかれ。至天の塔こそ、至福の園なり──」
さすがにイリリカは、すぐに聖職者の使命を思い出した。
イリリカの詠唱が
「セリアーザは
「避けろっ!」
ツガイカゲが
(くそっ、これがゴブリンとかだったら──)
死んでも退かないところだが、実体のないカゲ相手ではすり抜けられるだけだ。イリリカを助け起こしながら、デュライスは内心の焦りを押し殺す。
「このままじゃ術を使う暇がねえ、まずはボコって弱らせるぞ」
「──やむを得ませんね」
イリリカが川の水を
聖水がデュライスの片手半剣に注がれると、たちまち刀身が輝きに包まれる。″光″の言霊を移したのだ。こうすれば、実体のないカゲでも焼き斬れる。無論、【鎮魂の説教】のように無痛とはいかないが──。
(助けてやるんだ、それぐらい我慢しやがれ!)
再び突進してくるツガイカゲの脳天に、デュライスは片手半剣を
ツガイカゲが左右に素早く分かれた。
「なっ!?」
片手半剣は
「デュ、デュライス──」
「イリリカ!?」
イリリカの苦しげな呻きに、慌てて振り返る。女のツガイカゲが、彼女の背中にしがみついていた。この肉体は自分のものだと、思い込んでいるのだろう。
「てめえっ、離れやがれっ!」
「駄目──後ろ──」
身を
「見よ、一天
(え?)
背後から聞こえてきたのは、途切れ途切れではあるが、間違いなく聖典の一節だった。迷いながらも振り返ると、男のツガイカゲの手がばちばちと電光を帯び始めていた。
「あれは【
(祈願術!? 何だって迷魂が──)
祈願術を使えるのは聖職者のみ、アヴァロキア聖王国なら子供でも知っている常識──そのはずだった。
「下る審判の
ツガイカゲの手から、うねり狂う電光が
(避けたらイリリカに当たる)
「がっ──!?」
(や、やめろ──)
ぞっとする程冷たい何かが、彼の
(──え?)
気が付くと、デュライスは見知らぬ場所に立っていた。
だが、そんな背景は、霞の向こうから現れた人物を目にした途端、視界から消し飛んでいた。
(ああ──)
美しい乙女──そう、彼にとっては、セリアーザよりも美しい恋人。彼女のいない人生など考えられない、まさに
デュライスはひたすら恋人を見つめる。恋人もまた、ひたすらに彼を見つめ返す。その宝玉のような瞳に、
他に好きな人がいると訴えれば、あるいは婚約は解消されるかもしれない。だが、解消されても意味がない。なぜなら、自分はこの神殿の司祭、そもそも誰とも結婚出来ぬ身なのだから。
残された道は
がぶり、ブライトウィンに思い切り
「いってえ!?」
彼はアヴァロキアでも希少な、地獣タキャクウマである。瞬足で頑強な上に知能も高い。主人が危機に
男のツガイカゲが、デュライスの肉体から
デュライスの視界から、意識から、幻惑の霞が晴れる。ここは神殿などではなく、自分は司祭でもない。そして、目の前に立っているのは──口づけを交わそうとしていた相手は──。
慌てて飛び
「よくやった、ブラ公! けど、もう少し優しく──」
ブライトウィンが鼻を鳴らす。
弾き出された反動か、男のツガイカゲは風に流されるように、ふらふらと漂っている。デュライスが光り輝く片手半剣を振るうと、黒い腕が斬り落とされ、地面に落ちる前に消散する。
ツガイカゲが身の毛がよだつ悲鳴を上げる。斬り落とされたのは自分の腕ではなく、実際は
「あっ」
イリリカの肉体から女のツガイカゲが──自ら──抜け出し、脇目も振らずに相方に
何せ、穴が開く程に見つめ合ったのだから。
(そうか、あの光景は──)
生前のツガイカゲたちの記憶だ──男の方に祈願術の心得があったのは、生前は司祭だったからだ──。あの悲しくも幸せな記憶を再体験する為に、その為だけに、恋人たちの肉体を求めているのだろう。永遠に明けない夜を
それを思うと、デュライスは無性に──腹が立った。
「どうして一緒に生きなかったんだよ! あんなに好きだった相手と──」
デュライスの叫びに、ツガイカゲたちがびくんと震え──川の下流へと飛び去る。
「イリリカ、しっかりしろ! 俺が解るか!?」
ふらついているイリリカに駆け寄り、肩を揺さぶる。出来る限り優しく。
「え、ええ──」
幸い、イリリカの黒い瞳は、すぐにいつもの輝きを取り戻した──が、
(う、もしかして、イリリカはあの光景を?)
女側の視点から見せられていたのだろうか。口が裂けても
(め、めっちゃ
先に平常心を取り戻したのは、今回もイリリカだった。慌ててデュライスの負傷を確かめ、【
「すまねえ、逃がしちまったな。何処かで、また誰かが襲われたら──」
自分は一介の騎士に過ぎない、イリリカ一人を守るのが精一杯──等と言い訳も出来ない。もし、ブライトウィンが機転を
だが、無力感に
「失敗はお互い様です。少なくとも、私の祈りではあの人たちは救えない」
「それは、やってみなけりゃ──」
デュライスは
「今なら解る、あの人たちは望んでいない。至天の塔に行くことも、生まれ変わることも」
「望んでないって──じゃあ、この先どうするつもりなんだ、あいつら?」
「現状のまま、迷魂のまま、永遠に一緒に居たいのでしょうね」
思わず絶句するデュライス。セリヴェルドの全人類の存在理由は、セリアーザに物語を捧げることである。少なくとも、最終的には。彼らはそれすら拒否したというのか。
それが究極の愛というものか。
「デュライス、あなたに愛する人が居たとして、死後も一緒に居たいと思いますか?」
「──解らない」
イリリカも返答は期待していなかったようだ。妙な質問をしたことを
(幻滅したのかな、結婚や恋愛に)
だとしても、それを悲しむべき喜ぶべきかも、デュライスには解らない。
目指す聖都ヴァルドは、まだ遠い。
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