知らないおじさん(5)
「え……? え?」
井浦さんは、帰ってきていないはず。
私はずっと井浦さんが帰ってくるのを待って、玄関のドアを背に座っていた。
裏口から入った?
いや、例えそうだとしても、そんなに大きな家ではない。
ドアの開け閉めや、人の足音が聞こえれば、すぐに気がつく。
「井浦さん……?」
まさか、本当は、中にいた?
居留守? いや、井浦さんに限って、そんなこと……
公園で会った時の様子や、これまでの井浦さんへの信頼から、私に対してそんなことをするとは到底思えなかった。
信じられなかった。
もう一度確かめたけれど、玄関の鍵はかかったままで、叩いて名前を呼んでも、中から井浦さんの声がしない。
電気はついているのに、誰もいないのかと私は数歩下がって、玄関のすぐ横の明かりがついている部屋の窓を見た。
カーテン越しではあるけど、人影が見える。
窓の近くに、誰かいる。
確実に人がいる。
それなのに、聞こえていないとか、そんなこと、あり得る?
「あ……」
その時、はたと気がついて、インターフォンのボタンを押した。
助けてもらうのに必死で、インターフォンを押さずにドアを叩いた。
『はい……』
「い、井浦さん、あの……!!」
スピーカーから、井浦さんの声が聞こえた。
『なんだ、結ちゃん。まだいたの?』
「え……?」
まだ?
まだ……いたの?
『ダメじゃないか、ちゃんと家に帰らないと』
「ちょ、ちょっと待ってください、井浦さん。私は……助けて欲しくて————」
『助ける? 何から?』
「いや、だから、知らないおじさん! タカちゃんですよ!!」
『あぁ、そういうこと』
こっちは切羽詰まってるのに、井浦さんの声はなんだか冷たかった。
もしかして、本当に、わかっていたのに知らないふりをされていたの?
「……と、とにかく、その、中に入れてもらえませんか?」
『なに言ってるの。せっかく、あの家に戻るように誘導してあげたのに、勝手に出てきておいて』
「は?」
『まったく、君が帰省なんてしなければ、すべて上手くいっていたのに……これ以上邪魔しないで、大人しくしていればいいんだよ』
「え? どういう意味ですか?」
『あと一日くらい一緒に過ごせば、君も彼の家族になれたのに、なんで出てきたの? 帰ってきたならさぁ、ちゃんと家にいないとダメじゃないか』
「いや、だから、意味が……」
井浦さんが何を言っているのか、全く理解できなかった。
彼の家族になれた?
彼って、誰?
『とにかくね、結ちゃん』
戸惑う私に構わず、井浦さんは一方的に話を続ける。
『今すぐ家に戻りなよ。そうすれば、丸く収まるから。家族になれる。そうすれば、知らないおじさんじゃなくなるでしょう? 家族なんだから』
「いや、だから、なんで……————」
そこでブツッと通話が切れて、井浦さんの声は聞こえなくなった。
なんどもボタンを押したけど、井浦さんは応答してくれない。
なんで、どうして、家族なんだからって、何?
あんなおじさんは知らないし、気持ち悪い、知らないおじさんがいる家になんて帰りたくない。
戻りたくない。
他に頼める人がいないのに、それなのに、急に突き放された。
まるで私の知ってる、井浦さんじゃないみたいだった。
「————ちょっと、結ちゃん! こんなところで何してるの?」
「え?」
いつの間にか、玄関の前に車が停まっていた。
幸恵叔母さんが、運転席の窓から顔を出してこちらを見ている。
「こんな夕食時に尋ねちゃ、迷惑でしょう?」
「いや、叔母さん、何って……」
母たちがやっと町から帰ってきたんだ。
後部座席に座っている祖母も、窓を開けて顔を出す。
「結ちゃん、明日にしなさい。一緒に帰ろう」
「え……?」
「ちょっと遅くなっちゃったから、お夕飯にお刺身を買ってきたわよ。お腹すいたでしょう?」
「いや、でも……」
「乗りなさい、結ちゃん」
「そうよ、早く、帰るわよ」
「タカちゃんが待ってるから、一緒に帰ろう」
叔母も祖母も、助手席に乗っている母も、笑顔でそう言った。
全く同じ顔をして、そう言った。
目を細め、口角を上げて、にこにこと笑っている。
家族の笑顔を見て、気味が悪いと思ったのは初めてだった。
知らないおじさんに名前を呼ばれた時のように、ぞっとして、恐ろしくて、私は逃げ出した。
「結ちゃん、どこに行くの?」
車をUターンして追いかけてくる母たちに追いつかれないように、車が入れない山の中に逃げるしかなかった。
獣道を必死に駆け下りて、とにかく、今すぐにこの村から、実家から離れたかった。
お金も、スマホも何も持っていなかったけど、とにかく逃げた。
歩いて、歩いて、隣町に住んでいる友人に助けを求めた。
無事に一人暮らしのマンションの部屋までなんとかたどり着き、一週間ほどが過ぎた頃、刑事が訪ねてきて、言った。
「ご家族の方と、最後に連絡したのはいつ頃ですか?」
私の実家で、体の一部が白骨化した遺体が五体、見つかったらしい。
「この男性に、心当たりありませんか?」
父、母、叔母、祖母、そして、身元不明の男性の死体が。
「知らないおじさんです」
私はあの日、どこへ帰ったのだろうか。
【知らないおじさん 了】
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