知らないおじさん(4)


「ねぇ、どうする?」


 背筋に冷たいものが走る。

 いつから、見られていたんだろう。

 気持ち悪い。

 そんなことはありえないのに、突然背中を舐められたような、そんな気持ち悪さで鳥肌が立った。


 そういえば、昨日、私はこのおじさんの話し声を聞いていないということに、今更ながら気がついた。

 叔父や伯母に話しかけられて、頷いてはいたが、声は発していなかった。

 だからこそ、突然聞こえた、全く聞き覚えのない男が余計に気持ち悪い。


「結ちゃん」


 知らないおじさんは、ねっとりとした声で、私の名前を呼んだ。


「電気、つける?」


 仏壇があるこの和室の電気のスイッチは、おじさんが立っているところにある。

 確かにそろそろ電気をつけてもいい時間帯だ。

 母たちは夕食の前には帰ってくると言っていたけれど、それはあと何分、何十分、何時間後のことだろうか。


「結ちゃん、ねぇ、聞いてる?」

「……」


 おじさんは何度も私の名前を呼び、問いかけて来たが、私は何も言えなかった。

 振り返るのも怖いし、そもそも、どう接していいのかわからない。

 会話自体初めてで、向こうは私を知っているのかもしれないが、私は知らない。


 ————無視をしよう。

 聞こえないふりをして、やり過ごせばいい。


 電気なんてどうでもいい。

 とにかく、振り向いたら、この声に返事をしたら終わりだと思ってしまった。

 本能的に、危機感を感じていたのだ。


「結ちゃん」


 名前を呼ばれるたびに、私の体は冷たくなっていく気がした。

 冬でもないのに、寒くて寒くて仕方がない。

 血の気が引いてくというのは、こういうことなのだと思った。

 ずっとこのままではダメだ。

 このままでは、おかしくなる。


 押入れの襖からそっと手を離して、立ち上がるとできるだけ居間の方を見ないようにして、右隣の祖母の部屋へと続いている襖を開け、逃げた。


 そして、今開けた襖とは別の襖を開ける。

 この隣は、台所だ。

 台所は居間と洗面所につながっている。

 洗面所の方へ行けば、勝手口がある。

 私の家は、玄関から見て右側はぐるりと一周できるようにそれぞれの部屋がつながっているが、いち早く外に出るには勝手口のほうが早い。


「待ってよ、結ちゃん」


 勝手口に置きっぱなしになっていた黒いサンダルで走った。


「どこに行くの?」


 とにかく、知らないおじさんと二人きりであることに耐えきれなかった。

 一刻も早く、離れたほうがいい。

 おじさんは私の後を追って来たけれど、私が家の敷地より外に出ると、それ以上は追ってこなかった。


 何をされたわけでも、言われたわけでもないけれど、何かされるかもしれないという得体の知れないものを感じたのだ。

 何故なのかは、わからない。

 理由は説明できない。

 ただただ、私の名前を気安く呼んだその声が、気持ち悪くて仕方がない。

 どうして気持ち悪いと感じたのかもわからない。


 ————いや、むしろそれが普通だ。

 知らない人間が、私の知らない間に家族としてそこに存在しているなんて、気持ち悪い。

 何の目的でそこにいるのかもわからない。

 この状況に納得がいかない。


 名前しかしらない。

 それも、タカちゃんだなんて本名かすらもわからない。

 どういう理由でこの家にいるのか、誰も教えてくれないなんておかしい。


 たった数十メートル走っただけで、私の息は上がる。

 履き慣れていないサンダルで走ったせいで、おぼつかず、何度も足をひねって転びそうになりながら、必死に駆け下りた。


 坂の中腹まで来て、やっと井浦さんの家が見える。

 古すぎる私の家とは違って、もっと現代的で、四角い箱のような形をした黒い外壁の家。

 こんなど田舎には不釣り合いな、真新しい一軒家だ。


 インターフォンなんて押している余裕もなかった。

 とにかく助けて欲しくて、玄関のドアに手をかける。

 けれど鍵がかかっていた。

 開かない。


「井浦さん! 井浦さん!!」


 ドアを叩いても、名前を呼んでも、中からなんの反応もなかった。

 井浦さんは、出かけている。

 まだ、家に帰ってきていないんだ……そう、認識するまでに少し時間がかかった。

 すでに陽は沈み、街灯が点灯している。

 それなのに、この家の灯りはついていない。

 まだ、井浦さんは帰ってきていない。


 到底、実家に戻る気にもなれず、玄関のドアを背に私はその場に座り込んだ。

 井浦さんが帰ってくるのを、じっと待つしかない。

 慌てて出てきたせいで、スマホも何も持っていない。

 頼れるのは、井浦さんだけだ。

 唯一、私の話をわかってくれる人。

 タカちゃんと呼ばれているあの得体の知れないおじさんに違和感を持ってくれている人。


 早く帰ってきて。

 井浦さん、早く、早く帰ってきて。

 必死に祈るように、両の手を強く握りしめていた。


 この家より先にあるのは、私の実家だけだ。

 人も、動物も、車の一台も通らない。

 いつの間にかいなくなっていた父も、夕食前には帰って来ると言っていた、母たちが乗る車も、井浦さんの車も、この家の前の一本道を通ることはなかった。


 いつもなら、全く気にならなかったこの何も起こらない、田舎ならではの静けさが恐ろしい。

 助けて欲しい。


 いったい、どれくらいの時間が経ったのかわからない。

 今が何時何分なのかわからない。

 早く、早く、帰ってきて欲しい。

 ずっと、それだけを願っていたのに……


「は……?」


 突然、家に明かりがついたのが、信じられなかった。


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