家族じゃない(2)

 その日は、朝早くから降り始めた大雨の影響もあってか、駐在所には夕方になっても誰も訪ねては来なかった。

 普段なら、何人かの住人の散歩コースに入っているため、声をかけられたり、畑で採れた野菜をおすそ分けに来る人がいたりするものだが、雨なので誰も外に出ていないようだ。

 いつも昼前にはやって来る美子さんも、やってくることはなかった。

 雨がやんだら、またやって来る可能性はなくもないが……


 俺はどうせ誰も家の外には出ていないだろうから、意味もなくパトロールに行く必要もないと、事務的な仕事を黙々とこなしていた。

 午後には雨音の中、一人黙々と作業をしていると、昼食を食べた直後ということもあって、気づいたら俺は少しの間椅子に座ったまま眠ってしまう。


「助けてくれぇ、助けてぇええ」


 突然聞こえた声に驚いて、飛び起きると入り口のガラス戸に必死の形相で張り付いている美子さんがいた。


「ひっ」


 雨で濡れた髪を顔にべったりと貼り付けて、雨水を含んで重くなった柄物のブラウスは泥まみれだった。

 情けなくも悲鳴をあげてしまったのは、それが美子さんだと認識するより前に、ホラー映画に出てくるような幽霊に見えてしまったせいだ。

 角度の問題もあったかもしれないが、やせ細った美子さんの窪んだ目元は暗く影を落とし、土気色の肌と相まって、不気味さを増している。

 しかもそのタイミングで、雷が光ったのだがら、余計に恐ろしかった。


「助けてくれぇ、助けてぇええ」


 バン、バン、と、ガラス戸を叩いている老婆の顔は恐ろしかったが、それが美子さんだとわかれば、そんな恐怖心もすっと消え失せた。

 あれは幽霊でもなんでもない。

 ただの痴呆老人だ。

 俺は冷静になって、とにかくガラス戸を開け、美子さんを駐在所の中に入れた。


「どうしたんですか、こんな雨の中……! ずぶ濡れじゃないですか」

「助けてくれぇ、殺されるぅううう、殺されるぅぅぅ」


 美子さんが話している内容は、いつも通りだ。

「助けて」「殺される」「帰りたくない」……「家に鬼がいる」とまで言い出して、俺はため息を吐きながら、震えている美子さんを椅子に座らせると、受話器を手に持った。


「今、お迎え呼びますからね。大丈夫ですよ」


 そう言いながら、メモに書かれていた電話番号を押して、コール音が鳴った直後だった。

 どおおおおんと、大きな雷鳴が響いて、ブツっと音が切れてしまう。

 そして、駐在所の照明も全て消えてしまった。


「————て、停電!?」


 まだ日が沈む時間ではないが、この天気のせいで外は真っ暗だ。

 停電したということは、固定電話は使えない。

 仕方がなく携帯電話で連絡を試みるが、井浦さんの電話番号は固定電話の番号で、かけてもコール音のみで誰も出なかった。

 おそらく、あちらも停電で固定電話の電源が切れているのだろう。


「助けてくれぇ……助けてぇぇえ」


 このまま美子さんを濡れたままにはしておけないし、仕方がなく俺は美子さんをパトカーに乗せて、自宅まで送り届けることにした。

「家までお送りします」と言ったら、抵抗されて、金切り声のような悲鳴のような声をあげられて嫌だと抵抗されたので、「駅までお送りします」と嘘をつくしかなかった。

 すると美子さんは嬉しそうに「ありがとう。ありがとう」と何度も感謝の言葉を述べ、シートベルトを自ら締め、後部座席にビシッと背筋を伸ばして両手を膝の上に重ねるように座る。

 すっかり大人しくなった美子さんの姿をルームミラー越しに確認すると、俺は一つため息を吐いてからアクセルを踏んだ。


 祖父がそうだったように、今は正常なのかもしれないと思い、少し遠回りにはなるが、わざと自宅ではなく駅の方角へ向かう。

 美子さんは嬉しそうに口元に笑みを浮かべ、なんだかわからないが鼻歌まで歌い出した。

 ところが、適当なところで迂回して、美子さんの家の方へ近づいていくと、美子さんもそれに気がついたようで、急に顔色が悪くなっていく。


「こっちじゃない! こっちじゃない!」

「大丈夫ですよ。ちゃんと送り届けますから、安心してください」

「違う! いやだぁ、いやだぁ! 帰りたくない! 帰りたくない!!」

「もう着きますからね」


 ガチャガチャと走行中だというのにドアを開けようと必死になっている美子さんに申し訳ないと思いつつ、出られないようにすでに鍵をかけていることは言わなかった。

 そうして、美子さんの家の前に停め、運転席から降りて後部座席のドアを開けると、逃げようと飛び出して来た美子さんの腕を掴んで止める。

 井浦さんと同じようにするしかなかった。

 美子さんは抵抗したが、俺は引きずるように美子さんを無理やり玄関の前に立たせる。

 田舎ということもあり、鍵はかかっていない。

 古いが立派な日本家屋の引き戸を勢いよく開いて、美子さんを家の中に押し込んだ。


「————やだぁもう、お父さんたらぁ」

「はっはっは!! それを言ったら母さんだって」

「ふふふ、そうだったかしら」


 家の奥から、楽しそうな笑い声が聞こえて来る。


 美子さんは、一人暮らしのはずなのに。


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