家族怪議
星来 香文子
家族じゃない
家族じゃない(1)
「助けてくれぇ、助けてぇええ」
古びた駐在所の中に、毎朝そう言って駆け込んでくる婆さんがいる。
老いて薄くなった白髪頭を振り乱し、耳に残る甲高い声で助けを求める。
正確な年齢までは聞いていないが、八十代、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。
皺の多い痩せた体と、くの字に曲がった背中で必死に助けを求めるその姿を初めて見たときは、本当に何か事件に巻き込まれているのかと思ったが、先輩の話によれば、全くなんの事件も起きていないらしい。
「はいはい、おばあちゃん。今日はどうしたの?」
「助けてくれぇ……殺される。殺されるぅう」
「はいはい、今、お迎え呼んだからねぇ、安心してねー」
いったい何に怯えているのかわからないが、とにかく毎日こんな調子で、誰かに殺されるとか、家に化け物がいるとか、そんな突拍子も無いことを言っては、先輩に宥められたあと、隣に住んでいる
「毎日すみません。お仕事の邪魔をしてしまって」
「いえいえ、いつものことですから」
「嫌だぁああ、帰りたくないぃ、助けて! 助けてええ」
「では、失礼します。ほら、
「いやぁああ」
「お気をつけて」
かなり痴呆が進んでいるようで、本来ならどこか施設に入れるか入院させた方がいいレベルだ。
しかし、こんなど田舎ではそんな施設も病院なんてものはなく、一番近くの町でも人手不足で、そう簡単に空きが出るものでも無い。
もう少し都会の方へ行けば、こんなど田舎よりはいくらか福祉が充実しているそうなのだが、身寄りもなく、自分では正常な判断もできないため、あの青年が世話を焼いているのだとか。
「助けてぇええ」
必死にこちらに助けを求めながら、引きずられるように遠ざかっていく婆さんの姿を見ると、いたたまれない気持ちにはなるものの、ただの警察官でしかない俺には、何もしてやれることはない。
「まーた、そんな顔して。もういい加減に慣れろよ。毎日ああなんだから」
「わかってますよ。でも、祖母のことを思い出してしまって……」
俺の祖母も、死ぬ前はあんな感じだった。
ご飯を食べたばかりだと言うのに、すっかり忘れて、ご飯はまだかと騒いだり、金庫に入っているはずの金が減っているだとか、しまいには、孫である俺のことも、実の息子である父のことも何も覚えていないのだ。
歳の離れた兄達と違って、祖母とは生まれてからずっと一緒に暮らしていた俺は、かなりショックだった。
あんなにしっかりした、優しい人だったのに、まるで別人だ。
調子のいい時もあったが、急に癇癪を起こして怒鳴ったり、ものを投げつけたり————自宅での介護に限界がきた母は過労で倒れ、結局、施設に入れてもらえたものの、たった数日であっけなくこの世を去った。
俺は祖母が施設に入る二ヶ月前に警察学校の寮に入った為、とても忙しく、次に祖母と会ったのは納棺の時だった。
和室の前に横たわっていた祖母は、次の日には藤色の箱へ。
今思い出しても、涙が出そうになる。
あれからもう、二年も経っているのに。
「気持ちはわからないでもないけど……そんなんじゃぁ、ここじゃぁやって行けないぞ? 年寄りばっかりなんだ。ど田舎だからなぁ、あの婆さんだけじゃなくて、他にもたくさんいる。いちいち構っていたら、本当に何か事件があった時に対応できないだろ?」
「それはまぁ、そうなんですけど……」
「まぁ、こんな田舎で事件が起こる方が珍しいけどなぁ。起きてもあれだ、畑の作物が動物に荒らされていたとか、鹿とトラックがぶつかったとか……この村に来て四年経つが、大した事件はおきやしないさ。ははは」
先輩は笑いながら、パトロールと称した散歩に出かけてしまった。
本当にパトロールをしているわけではなく、ただ気ままに散歩をしているだけらしい。
何か起きたら、すぐに連絡するように言われているが、何か起きた試しは、今のところない。
平和すぎるところだからこそ、余計にあの婆さんの助けを求める声だけが、異質に思えてならないのかもしれない。
「助けてぇ、助けてくれぇ」
先輩の姿が見えなくなった後も、俺の耳には婆さんの声がこびりついて離れなかった。
早くこの状況に馴れなくてはならない。
あと数日もすれば、俺はこの駐在所で一人になってしまう。
警察も人手不足だ。
こんなど田舎の駐在所に、警官が二人も必要ない。
先輩はやっと退屈なこのど田舎からおさらばできると、毎日ご機嫌のようだったが、俺は不安で仕方がなかった。
本当に何もない村で、田んぼと山と、川しかない。
年寄りと、農業がしたいと地方からやって来た人が何人か暮らしているだけだ。
犯罪が起こる要素はまったくなさそうではあるが、無駄に広い。
地図で大まかな位置は把握している。
それでも、やはりまだ全てを把握しきれてはいない。
地図上では覚えたつもりでいるが、目印になるものがあまりないので、迷ったらスマホに頼るしかない。
あの婆さん————
その隣……といっても大きな畑を隔ててだが、いつも迎えに来る井浦さんの家がある。
交番に設置されてる電話には、すぐに電話できるように電話番号のメモが貼られているが、先輩はすっかりメモを見ずとも番号を覚えてしまっていた。
井浦さんと美子さんには血縁関係はないそうだが、井浦さんの祖母と美子さんが幼馴染だとかで、孫の井浦さんが美子さんの面倒を見ているらしい。
井浦さんは俺より少し歳が上くらいで、とにかく優しい人だと村の年寄りたちはよく言っている。
詳しい事情はわからないが、都会暮らしに飽きて、母方の地元であるこの村に数年前に越してきたそうだ。
爽やかな好青年という言葉がよく似合うような、そんな人だった。
一方で、美子さんはずっとこの村で生まれ育った。
夫とは何年も前に死別しており、子供も孫もいなければ、親戚もみんなすでに亡くなっているのだそうだ。
美子さんがああなってしまったのは、一生に暮らしていた弟さんを亡くしてからだという。
「きっと、一人で暮らしているのが寂しいんだろうなぁ」
俺はそう思っていた。
実際に、美子さんの家に行くまでは。
「——すまん、急用ができて、実家に戻らなければならなくなった。明後日には帰ってくるから、頼むな!」
先輩がそう言って、朝から村を出て行った日。
その日が来るまでは。
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家族怪議 星来 香文子 @eru_melon
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