本編

 何何市警察署刑事課所属の刑事、喜多枕木太郎は、深々と嘆息した。今日は早上がりできたので夕飯も奮発しようと、家路の途中にある洋食屋でカキフライ定食を頼んだ彼は、贅沢にも一口目から主役にかぶりつき、舌鼓を打った。そこまでは、そこまでは良かったのだが、直後に妙な好奇心がはたらいた。

(そういえば、カキフライの中身って、わざわざ見たことないな)

 かくのごとく思い、箸でつままれた食い止しのカキフライを凝視するまで、コンマ一秒、この時間を境に、彼の気分は急降下した。黄金色の衣に包まれていたのは、熱で変質し、鼻水のように個体と液体の間を彷徨う牡蠣であった。この白い不定形物質を目の当たりにした喜多枕の脳裏に浮かんだのは、羽化する前の、蝶の蛹の中身。この連想が、洋食屋の席につく彼の気分を、より一層グロテスクにしたことは言うまでもない。彼は今まさに持っている揚げ物の半分を、急いで口に放り込み、嚥下してしまった。不快さは消えず、味噌汁を啜ったのち、グラスに残っていた水を飲み干した。

(味は良い、味は良いから、次はひと口でいくぞ)

 喜多枕が箸を二つ目のカキフライに向けた時、彼の左太ももに振動が走った。ズボンのポケットから分厚いスマートフォンを取り出す。職場の番号であった。

「もしもし、どうした」

 打って変わって神妙な面持ちとなった彼は、携帯電話に聞こえてくる情報を聞き、そのあまりの醜悪さに唇をひん曲げた。

「分かった。すぐ向かう……どいつもこいつもゲンナリさせやがって」

 携帯電話をしまい、テーブルクロスの上に千円札を乗せ、喜多枕刑事は店を足早に出た。梅雨晴れ間は終わり、濃密な雨雲が夜空の端よりにじり寄っていた。


 顔面を著しく負傷した、二つの死体が発見されたのは、何何市営地下鉄何何駅より徒歩一五分の位置にある、森水マンション三階三一三号室。死亡者は当該個室の住人である会社勤めの女性、柏浦綾と、彼女と交際していた同僚の男性、浜元希である。浜元は今日を含め、週末はいつも恋人の家へ訪れていたという。死体の第一発見者及び通報者は、初老のオーナー森水女史であった。女史は被害者女性と気の置けない関係にあり、先日柏浦から借りた本を返すため、午後八時ごろに三一三号室を訪れたところ、インターホンを鳴らしても応答が無かった。外出しているのかと思ったが、施錠がされていなかったので、管理人として不審に思った森水女史は、少し室内を確認するつもりでドアを開けたところ、不運にも血みどろの惨状を目の当たりにしてしまったのである。

 入り口の周りをパイロンとコーンバーで封鎖され、均質的で品の良いマンションの一室としては悪目立ち甚だしくなってしまっている三一三号室に、喜多枕刑事が到着したのは、通報から一時間後のことであり、森水女史への事情聴取や、指紋・足跡の調査、写真撮影などといった、基本的な作業はおおかた済んでいた。刑事は玄関口で、遺体発見に至るまでの経緯を先着の警察官に尋ね、事件の梗概を把握すると、死体を間近に見た。

 斃れた男女の顔面は著しく損傷していた。上端は前髪の生え際、左右の端は頬骨、下端は顎の先まで、顔の皮膚が剥がれ切って赤黒く濡れており、輪郭の近くにはズタズタに波打つ傷跡があった。喜多枕が特段の残虐さを感じたのは、柏浦の死体であった。目玉は眼窩の中でグチャグチャとかき混ぜられ、そこに混じったコンタクトレンズの破片が、照明をうけてまばらに光っている。鼻は跡形も無くなり、紫陽花の種に似た孔だけが顔面の中央に残っている。額に空けられた、頭蓋骨に至るほど大きく深い穴傷からは、脳漿と脳そのものがドロリとまろび出ていた。筆舌に尽くし難いほど痛ましい有様であった。刑事は鑑識係員の用意した、生前の男女の写真をチラと見た。各パーツの均整がとれている美しい容姿であるが、高嶺の花と遠ざけられることもなさそうな、アクの強さの一切無い、親しみやすい人相である。それが今や著しく掻き乱され、服装と状況を除けば誰が誰だか分からない。

 喜多枕刑事は、加害者のものと思わしき指紋が死体から検出されなかったこと、二人が室内で殺されていたこと、顔以外にほとんど傷が無かったこと、家の金品が一切盗まれていなかったことなどを根拠とし、以下のような推理を行った。

「被害者らと親しい間柄にあり、くわえて彼らの顔にかなりの恨みがあった人間が、二人の揃う機を狙って家を訪問し、彼らを薬か何かで気絶させ、顔を鈍らな凶器でメチャクチャに切り付けたのち、指紋を拭き取って帰った、あるいは、あらかじめ手袋を付けた上で一連の犯行を行った」


 事件の陣頭指揮をとる事になった喜多枕は、翌日からさっそく捜査に出かけた。森水マンションの住民や、その周辺に住む人々への聞き込みを通して、不審人物の目撃情報を調べ、アリバイを確認した。早朝から日没まで聞き込んだ結果を端的に述べると、前者も後者も徒労に終わった。マンション内部や近隣における、マスク、目出し帽、サングラス、手袋などを身に着けていた人物の目撃談は一件も無く、柏浦や浜元と親しい人物には皆、残業や友人との外出といったアリバイがあった。聞き込みを経て、犯人を絞るには至らなかったのだ。

 トップリと暮れた夜、肩を落として警察署へ戻った喜多枕は、錆びた重機のようになった首をぎこちなく傾げながら、本日会った関係者の顔や風体を、頭の中に思い浮かべた。見た目・仕草に犯罪者らしさのある者は、一人もいなかった。森水女史をはじめとした、物腰柔らかなマンションの住人達、朝の訪問にもかかわらず、柔軟剤のいい香りを漂わせ、茶菓子まで用意してくれた快活な女性、穏やかな昼下がりを過ごす親子……彼ら彼女らが人の顔をズタズタにして殺したなどと、喜多枕にはとても考えられなかった。

 「おい喜多枕、事件の真相究明の責務を持つ刑事が、表層的な印象で犯人か否かを判断して良いのか。人は見た目によらないものだろう、第一印象が良さげな人物であっても、疑うべきではないか」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、刑事課に配属されてから七年経つ喜多枕刑事は、職務の都合で凶悪犯罪者達を見てゆくうちに、上記の批判に対する反論となる、一つの経験則を学んでいた。その原則は「犯人性は見てくれに現れる」という短文に尽きる。

 若き刑事が思うに、世の中には、困窮や、退っ引きならない状況や、社会への反抗心などを理由に、犯罪に走る人間と、どう転んでもそういった手段は取らない人間がいる。前者の人間、すなわち犯罪者は、見た目や仕草で無意識にサインを出している。彼らは公衆の面前で、意味もなく目をかっ開いていたり、際どい独言を口から漏らしていたり、ボサボサの髪や、しわくちゃの服を着て歩いたりする。これらは他者に見られることを意識する余裕が無い、社会性をかなぐり捨てかけている態度であると言える。加えて、喜多枕はかくのごとき考えをも持っていた。自分が昨日今日犯罪を犯し、あまつさえ警察に疑われて聞き込みをされている時に、自分以外の誰かに表面上だけでも気を配ったり、普段通り優しく接したりできる人間は、かなりの高確率でシロである。警察に対し後ろめたいことがある人間は、どれだけ平静を装っていても、苛立ちや焦り、不安や後悔が本人の何かしらに反映される。表情、声、仕草、何かしらに現れる。無論、喜多枕刑事も姿形のみを以て犯人を定めようというわけではない。怪しい人物がいたとしても、確たる証拠が出るまでは犯人だとは決めつけたりはしない、ただ、彼の経験上、犯人と確定した人物はほとんど全員、取り調べの段階で、格好に何かしらのだらしなさがあったり、挙動が不審であったり、声に異様な震えがあったりした。「人は見た目に出る」「清潔感は犯罪者と非犯罪者の分水嶺である」彼はそう信じていた。しかし、この顔面殺傷事件における関係者はみな、そういった「犯人性のうかがえる見てくれ」とは程遠かった。それらしい挙動をした者すら、一人もいなかったのである。森水女史が言うには、被害者達は優しい人格者であり、職場でも上司部下問わず慕われていた。遠方に住む彼らの両親に、電話で聞き込みを行ったところ、学校でも同様の人徳を発揮していたらしい。良き人の周りには良き人も集まるようで、嫉妬する者すらいなかったという。

 かように良好な環境の中で真っ当に生きていた人間が、なぜ顔をズダボロにされるに至ったのか?


 三日後、警察署へ出勤した喜多枕は、書類の散らばるデスクに、自分宛の新しい封筒が届いてることに気づいた。送り主は「――大学医学部 法医学研究所」何何市の近くにある名門大学に附属する、法医解剖・鑑定の専門機関である。中の書類の内容を、専門用語などを噛み砕いて述べるとこのようになる。

「この度、被害者遺族からの了承を得て、柏浦綾・浜元希両御遺体の検死を行なった結果、死因は心因性の心臓麻痺である可能性が高いと判明した。また、死の前後に作られた外傷は、顔面以外には無かった。くわえて、傷に付着した成分を調査検証した結果、包丁や鋸に用いられる金属分子は検出されず、代わりに微量のエナメル質が検出された。これらを勘案すると、加害者は被害者の顔を刃物によって切り付けたのではなく、何度もかじり付いた可能性が高い」

 喜多枕は驚愕して声も出なかった。科学捜査によって明らかになった犯人像は、恐るべき噛みつき魔だったのである。犯人は人肉食嗜好者なのか、もしそうであれば、なぜ食いでのない顔のみを狙ったのか。あるいは、目的は食人ではなく、被害者の顔に近づき、自らの歯を以て傷つけることで、単なる外傷以上のストレスを与えることだったのか……。

 書類を繰り繰り考える刑事の手元から、一枚の紙が落ちた。ガサついた再生紙に、直筆の文章がしたためられていた。

「 喜多枕木太郎様

 この書類は、正式な調査報告書とは異なる非公式なもの、ある研究員の与太話として読んで下されば幸いです。研究所の公文書を封する際に、こっそりと忍び込ませました。かような真似をしてまで依頼主である喜多枕様に、この手紙をお届け致しました理由は、調査報告書の記述の一部にあります。その部分というのは、顔に傷をつけた凶器が、歯であるというものでございます。この記述自体は、成分分析の結果に準じており、妥当であるのですが、私がこの個人的な手紙で秘密裏に付記しておきたいのは、その「歯」の持ち主は、人間でない可能性が高いということです。その根拠は、被害者の顔から検出された「歯型」にあります。もし仮に、加害者が人間で、アングリ口を開いて被害者の顔に噛み付いたのだとしたら、人間の口は前歯も奥歯もある程度高さが同じでありますゆえ、アーチ上の歯型が付きます。しかし、この遺体の顔面には、そのような形状の歯型は一切検出されませんでした。代わりに、薄く、鋭く、堅いものを、力を一点に集中させて擦りつけたような、独特の歯型が見つかったのです。歯型が見つかったというよりも、成分調査によって「歯」が付けた傷跡だと分かった、という方が正しいでしょう。ただの出っ歯の人間ではこうはいきません。私は人間以外で、この歯型に最も近いものを持つ生物がいまいかと調べました。結果として近かったのは、ビーバー、ヌートリアといった齧歯類でした。長く伸びた切歯の噛み跡に類似していたのです。しかも驚くことに、ご遺体の傷のサイズから私が勝手に歯形と加害者の比率を計算した結果、人間と同寸の個体が彼らを攻撃した可能性すら考えられるということになったのです。

 私は思い切って、ご遺体の司法解剖を主導していた上司に、この予測を伝えました。鼻で笑われてしまいました。人間大の齧歯類が人を襲ったなどと、天下の――大学法医学研究所員が抜かすか。世界最大の齧歯類であるカピバラでさえ一メートル強しかないのだ、出すならもっとマシな仮説を出せ、と。彼のおっしゃることもご最もであります。しかし、私は真実に近づける可能性を有している視座を、どうにか、喜多枕様に伝えておきたかったのです。ゆえに、かようなお節介をはたらきました。

 この便りが事件解決につながることを心よりお祈り申し上げます」

 送り主の名は無かった。喜多枕は戸惑いに顎をかいた。加害者が人であるにせよ動物であるにせよ、彼が思い描いていた「被害者の知人」という像はすでに、随分見当違いなものとなってしまったのだ。身体の中でも顔面のみを、鋭い歯によって執拗に責める猟奇的な存在。喜多枕は頭の中で、この加害者を「面食い」と仮称した。そして、仮にやつが「人ならざるもの」であった時に備え、刑事は専門家へメールを送り、待機するという口実でデスクに突っ伏し、ひと眠りし始めた。それから間も無く、喜多枕のスマートフォンが揺れた。

「喜多枕警部、たった今、先日の手口と似た変死体が――」

 若き刑事は無念とばかりに、力強く眉間に皺を寄せた。


 事件現場は何何市営地下鉄何何駅から程近い、広々とした新築の一軒家であった。同じ建物に住む世帯の父親にあたる人物が殺されていた。発見者は、昼下がりの買い物から帰ってきた母と娘。彼女らは家とスーパーマーケットを往復した三、四〇分の間に、家族を殺され、その顔が判別不可能なほどに損傷せられてしまったのである。「面食い」は一度目よりも苛烈さを増しており、顔と共に削がれた頭皮の一部分が、近くの床にうち捨てられていた。青ざめながらも必死に平静を装おうとする母親。三つの娘は「他者の死」というものを経験していないがゆえに、未知の喪失感に呆然としている。警察官と鑑識係員は、窓を叩く雨滴の音や、被害者遺族達の恨みがましい視線などによって、精神をたえず逆撫でされ、見えざる精神的瘴気を、無意識に体外へ放出していた。現場調査の後、喜多枕は、念の為に一件目と同様の調査を部下へ指示し、自分は凄惨な家屋を去った。周辺での聞き込みに立ち会わなかったのは、前回と同じく徒労に終わることが予想されたからである。刑事は事件解決の端緒を掴む為、別の場所へ急いだ。


 何何駅前交差点にはあいも変わらず生温い雨が降り、煩しげな歩行者達はみな傘越しに近くの他人を睨んでいる。喜多枕刑事はその中を傘もささずにひっそりと小走りし、じきに森水マンションへ到着した

 三一三号室の玄関ドアの前で、森水女史と、風変わりな格好の男が、しめやかに立ち話をしていた。袖口の大きな白装束と烏帽子が目立つ、目鼻立ちの細くキリリとした、黒髪の美男。彼は名を速水赤心と言う、何何市の某神社の若き宮司であった。喜多枕刑事と中学時代からの腐れ縁がある彼は、事件・事故後の現場の「お祓い」を、刑事から時折依頼されるのである、ちょうど、今回のように。

「じゃあ、鍵はお渡ししておきますので、お祓いが終わったら返しにいらしてください。私は一階の受付で待っております。二人が成仏できるよう、どうかお願い致します……」

 森水女史が、褐色の金属鍵を刑事の手に乗せ、一礼した。惨劇の目撃者となってより、痩せこけてしまった彼女の、遠ざかってゆく背中に、二人は深く辞儀した。

「さて、渡された事件の調査書類は大体頭に入ってるから、ひとまず儀式を済ませよう。それにしてもキタ、君なあ、いくら顔馴染みとはいえ、情報をリークしてしまっていいのか?」

 先に口を開いたのは赤心であった。森水女史と話していた時に比べ、語勢が荒々しい。

「お前の力がなきゃ事件が解決できんのだ。セキシン。俺のクビよりも何何市民の命だ」

 喜多枕は平然と言い放つと、鍵を捻りドアを開けた。部屋の全てが、元の通りに戻っていた。黒い体液のシミが、中央にべっとりとついていたドアの内側も、血の筋が地獄の川のように引いていた廊下も、顔面の部品と、死体が転がっていたフローリングも、全てが清掃員によって丁寧に清掃され、漂白され、柏浦と浜元が動物園で微笑む、質素な写真が入った木枠も、二人で映画でも見たのであろう薄型テレビも、飲み物を溢してあたふたとしたで光景が思い浮かばれるシミ付き絨毯も、地味で淡い、しかし落ち着きのある緑色のカーテンも、家具という家具は全てどこかに消えていた。今、何も知らぬ者がこの部屋を見、数日前の惨状を想起することは、不可能であろう。聞いていて鳩尾に来るような事件・事故の現場でも、いずれは全てこのようになり、このようになることこそ理想的なのだ。

 赤心は広々としたリビングルームに、鞄から取り出し三宝や幣や榊の葉を設置し、お祓いの儀式を準備しながら、内心、恐ろしいものを感じていた。彼は事件発生当時の様子を、喜多枕刑事に渡された写真から知った上でここに来たのだが、人の生き死にの証が、こうもまっさらに拭い取られる様を直視すると、若き宮司はどうにも、生というものの虚しさを感じてしまうのであった。彼のこの繊細な感性は、後述する、彼の特異体質にも繋がっている。

「では、始めよう」

 赤心の声が一段低まり、室内に張り詰めた空気が走る。

「祓え給へ清め給へ、祓え給へ清め給へ――」

 前述した感受性の鋭敏さによって、赤心は、常人には見えない残留思念や、幽霊――彼は、思念が人体外に放出され、集合し、肉体や自我を持つに至った姿をこう呼ぶ――までをも、感じ取ることができる。そして、彼のこの性質を以て、宮司の仕事のみならず、刑事事件の調査にまで活かそうとする者がいる。喜多枕木太郎その人である。

 喜多枕刑事はとある折、自身が匙を投げかけた怪死事件を、偶然お祓いに来ていた赤心の、特殊な感受性質によって、解決せしめたことがあった。負の残留思念から生まれた幽霊の力によって、被害者が殺されたと分かったのである。以来、刑事は奇妙な事件に出くわすと、若き宮司を「お祓い」の名目で現場へ連れ出し、手がかりとなりそうな情報を教えてもらうことにしているのだ。実際、このやり方で解決した事件は、喜多枕刑事のゴツゴツとした両手では数え切れない程存在する(科学捜査による解決ではないので、公式な調書には未解決事件として記録されているだが)。喜多枕は、今回の事件にも残留思念や幽霊の力が関わっているのではないかという、確信に近い期待を持ちながら、赤心の儀式をジッと眺めていた。

「かしこみかしこみ……ウゲッ!」突然、赤心の目が丸くなり、大きくえずいた。喜多枕は首を傾げる。「急に床が臭くなった」

「そんなことあるか?お前、新築っぽい部屋の臭い嫌いなタイプだっけ?」

 ここまで言って、喜多枕はハッとした。この臭気は、彼にのみ感じ取ることのできるものなのではないか。

「もしかして」

「ああ、幽霊、「面食い」とやらの臭みに違いない。部屋の奥底に染み込んでいたのが、お祓いによって表出したんだろう」

 赤心の言う悪霊とは、思念の集合体である幽霊の中でも、負の感情が寄り集まって自我を持ち、生者に危害を及ぼすものを指す。喜多枕が赤心の協力を仰ぐ時には、えてしてこの悪霊が関わっている。

「どんなもんなんだ。「面食い」の臭いってのは」

 刑事は興奮の冷や汗を額に浮かべた。事件の核心が急迫してきたような心地であった。彼は震える手でスマートフォンを取り出し、文書メモを取れるアプリを開いた。

「ウーム……人間の頭皮やら汗やらの臭いに、清々しい香りを混ぜて、程度を甚だしくした感じと言おうか」

「清々しい香り?悪霊のくせに良い匂いなのか?」

「は?お前想像してみろよ。男子トイレの芳香剤の、安っちくてケバいミント臭。あれを濃縮して鼻にぶち込まれるみたいなもんだぞ。そこに洗ってないタオルを煮詰めたみたいな臭いが合わさってんだよ」

「この綺麗な部屋からそんな激臭がしてんのか。お前の五感も考えもんだね」

 そう軽口を叩かれた赤心は、苛立たしげに幣串で肩を叩いた。

「キタ、お前他人事みたいに言ってるけどな、幽霊が目と鼻の先まで近づけば、霊感のほとんど無いやつでも感じ取ることになるんだぞ。今は残り香だから俺しか感じ取れんが……」

 そう言われた途端、喜多枕の脳裏に浮かぶ、悪霊の異形や異臭の数々。あるものは液状の体を伸び縮みさせて糞尿の臭いを撒き散らし、またあるものは亀虫の外殻と無数の触手を持ち、這い回り、座布団程ある大きさの体から、エキゾチックな草の匂いを漂わせていた。

「……しかし気色悪いな」

 鼻を嗅ぎながらそう呟くと、赤心は綺麗なリビングルームにあぐらをかいて座り込み、白装束の奥に見えるしなやかな腕を組んだ。

「嫌な臭いなのはもう分かったって」

「違う。「気色悪い」ってのは、臭いが複雑なのが変だ、ってことだよ。キタ、今までに相手した悪霊の臭いを思い浮かべてみろ。カビ臭さ、酒臭さ」

「納豆の臭いがするやつもいたな」

「ああ、そいつもだけど、幽霊の臭みって基本的に、単純だっただろう?何臭か聞かれたら大抵一言で言い表せた」

 納得を顔に出し、黙って話を聞く喜多枕。赤心はその顔をチラと見て続ける。

「それは何故かっていうと、幽霊の基になる思念っていうのが単純だからなんだ。人間の中にある数えきれない感情の、ほんのいくつかが、何かの拍子に体の外へ飛び出してその場に残留する。これが残留思念で、残留思念が集まって実体化したのが幽霊だ。

 思念が集まると言っても、それを生み出す人間達はそれぞれ違う感性を持ってるから、よっぽど単純で同質な思念でないと、集まろうとはしない。喜び、悲しみ、こんな名前で一般化できるくらいの、分かりやすい感情じゃなきゃ、くっつき合って幽霊にはならない。だから幽霊の行動原理は単純で、その臭いも比較的分かりやすいんだよ。

 これらの事実を踏まえて考えると、「面食い」の残り香は極めて複雑だ。清涼な匂いと不潔な臭いが混じり合った例なんて、聞いたことがない」

 赤心の、柳葉のような目に、鋭い洞察の光が灯る。

「俺の予想が正しければ、やつは、複雑な思念から生まれた悪霊だ。そして、入り組んだ感情は高い知能の裏付けでもある。……手強いかもしれんぞ」


 何何市営地下鉄何何駅の七番出口を出、大通りを西方向に一〇分ほど歩くと辿り着く、約五〇平米の小さな広場。この空間には「いこいの広場」という、外連味のない名前が付けられており、遊具は無く、樹木もなく、人気もなく、唯一ある物といえば、中央にポツンと建つ、柱の錆びた東屋くらいのものであった。そんな吹き曝しの東屋に覆い被さる、三角錐の屋根の下に、「面食い」はじっと身を潜めていた。自分に名前が付いたことも知らず、死んだように黙っていた。光の十分に入らない、蒼然としたこの空間は、悪霊にとって非常に居心地が良かった。

 その日は朝から濃灰色の雲が唸り、大粒の雨が降り頻る悪天候であった。煩わしそうに傘をさす歩行者達たちは、自らの近くに怪奇な存在が留まっていることも知らず、早足で広場を横切っていく。時折、単なる気まぐれで東屋の方に視線を向けるものもいたが、「面食い」の存在には気が付かなかった。それはこの幽霊が、体の物質を思念に変換した姿、白霧のような「思念体」になっていたからである。この状態になった幽霊は、通常の人間には不可触不可視だが、「思念体」の幽霊もまた、人間に物理的干渉を行えない。

 「面食い」は先ほど、数百メートル先の一軒家で獲物を襲ったばかりであった。悪霊はそこで得たわずかばかりの達成感に酔いしれず、人の寄りつかないこの東屋で、死んだように黙していた。次なる獲物、「清潔感あふれる人間」を探すという目的に対し、「面食い」は極めて理知的であった。

 「面食い」は、何何駅前の大交差点に生まれた。ここを行き交う人々の、「清潔感」に関わる負の残留思念が、この悪霊を形作ったのだ。

 清潔感!この厄介な規範は、人に好印象をもたらす反面、見てくれの悪さを理由に人を拒む際の言い訳になることもある。また、この規範に従う者は、従わざる者に対する軽蔑心を、必然的にかき立てられてゆく。社会に生きる各人は、自己防衛の為に、他人の外見を主観的に品定めせざるを得ず、評価の基準を下回るものには否定的感情を覚えざるを得ず、同時に、勝手に品評された者達は、悲哀・怨嗟の念を抱えてしまう。また、外見の良し悪しという視座は誰もが内面化しているが故に、昨日は蔑まれた者が今日は誰かを蔑むということもある。こうした、他者の第一印象に関する複雑な思念が、何何市の各所に残留し、「清潔感」という要点によって結びつき、統合され、巨大化し、「面食い」の幼体とも言うべき小さな悪霊が生まれた。そして、梅雨という蒸し暑い季節が人の身だしなみを崩したことで、「清潔感」を取り巻く思念の肥大に、拍車がかかった。そこに加えて、「面食い」は形成過程において、清潔感への恨みと憧れという、相反する思念を取り込んだ。その自己矛盾が、悪霊の思考を深めた。これらの要因が災いし「面食い」は単なる悪霊を超えた。強大な霊力と、獲物をに狙いを定める理性を持つ、怪物と化してしまったのである。

 「面食い」は清潔感のある人間の、顔のみを破壊する。他の部位は余程のことが無ければ、兎の毛で付いたほども傷つけない。それは何故か、執念と知性の凶霊は、顔というものが清潔感においていっとう重要であると知っているからだ。顔を醜く害されれば、他の要素にいくら清潔感があろうとも無駄であることを知っているのだ。目論見はもう一つある。彼奴は人が清潔感を受け取る際に不可欠な眼や鼻を機能停止させることで、この規範自体をうやむやにしようとしているのである。「面食い」は、生まれた時からこれらの目的に突き動かされているのだ。

 夜になるか否かという折、とうとう「面食い」が第四の獲物を見つけてしまった。

「わかった。今日はママもパパもいないんだね……大丈夫だよ、もう中学生だよ?」

 大雨の中にいるにもかかわらず、汚れのないセーラー服を丁寧に着こなし、透明感を失わない女子。彼女が広場を横切ったのとほぼ同時に、白い靄はワナワナと震え、あっという間に東屋から消え去った。


 お祓いの儀式を終えた赤心は、喜多枕と別れ、自宅へ戻った。傘を叩く雨粒を聞きながら、彼の上背よりふた回り大きい鳥居をくぐり、テラテラと濡れた石畳を足早に駆け、見慣れた社殿の裏へ行くと、いつも通りの、二階建ての民家が見えた。

 白い歯を見せて微笑む遺影に小さく、ただいま帰りました、と話しかけ、物置代わりに使っている、二階の空き部屋のドアを開けた。御神酒を入れる徳利のスペアや、冬服や、『祝詞作文法』という小冊子などを横目に、赤心がこれだとばかりに手に取ったのは、灰のどっさり詰まったビニール袋と、直径七〇センチメートルほどの、底の浅い丸皿であった。

 住宅街の中にひっそりと佇む社殿であるが故に、その規模は決して大きくない。格式高い神社での中には、神を祀る本殿と参拝者が拝礼する拝殿以外にも、神楽や舞を披露する舞殿や、お祓いのための祓殿などが建っていたりするのだが、赤心の家のそれは、本殿のほかには、屋根付きの拝殿があるのみである。その拝殿というのも、大学生の下宿先程度の広さであった。

 赤心は木床の拝殿に丸皿をそっと置くと、その中にたっぷりと灰を注いだ。そして、皿の側面をトントンと叩いたり、厚紙で撫でつけたりして灰をならした。

 「星は出ていないが、ここでやればなんとかならんかね……」

 呟きつつ、赤心は榊の箸を灰へ突き立て、丁寧に線を引いた。直線、曲線、平行、交差と書き進め、歪な格子柄が皿の中に生まれた頃、彼は先ほど灰を均した厚紙――何何市の地図――を広げ、じっと見つめたのち、小さく頷いた。そして、細い指を滑らかに動かして手印を結び、艶のある唇からまじないの言葉を漏らすと、意識を灰へ集中させ、念じた。念じ続けた。体の芯に留まっていた力が、つむじから抜け出てる感覚。少しづつ瞼が重くなり、目の前が真っ暗になったかと思うと、白い点が打たれる。点はみるみるうちに大きくなり、視界が完全に白むほど巨大化すると、また暗闇と点が現れる。この景が何度も、何度も、数えきれないほど繰り返された頃、赤心は鼻腔に香ばしい香りを感じた。彼の目がビカリと開く。灰の右上の辺りが黒く焦げ、細い煙が拝殿の屋根へたなびいている。彼は広げた何何市地図を再び皿へ近づけ、二つを比べ見た。そして、達成感溢れる息を絞り出した。やにわに彼は自宅の方へ走り、自室に置いていたスマートフォンを、指で叩いた。

「キタか!やつは、そうだ面食いは、今、紅日ハイツにいる!」

 壁の時絵は午後九時を差していた。雲は未だ厚く、雨は降っては止み、止んでは振りを繰り返していた。


 紅日ハイツは市営地下鉄何何駅から西へ数キロ離れたところにそびえ立つ、八階建てのマンションである。家賃の高さは市内でも一、二を争う程であり、毎朝毎晩、裕福な住人が出入りしている。しかし、彼らに鼻につく感じは一切無い。彼らの普段使いする服装や小物には、標章の目立つ物は一切無い、上品でありつつも場に調和する真の良品ばかりである。

 蒸し暑い雨の中であった。高貴なマンションの正面玄関に程近い、細い電柱の影に、二人の男が立っていた。揃いの目出し帽と長袖シャツとジャージを身にまとい、手袋までして限りなく個人の特定要素を隠す彼らは、強盗ではなく、喜多枕と赤心である。彼らはこのマンションに悪霊「面食い」が出現したと知り、どうにかしてハイツの内部に入り、奴の暴虐を食い止めなければならないと考えた。二人はかような高級マンションの住人ではない。したがって部屋の鍵など持っていない。この手の集合住宅は鍵が無ければ、エントランスエレベーターすら開かないのが普通である。では、警察の権限をちらつかせ、管理人に取り計らってもらうか、その方法を選んだならば、動き出せるのは明日以降になるだろう。それでは遅すぎる。夜が明ける頃には顔の無い死体が増えてしまう。

 相談の結果、喜多枕と赤心は強行手段に打って出ることにした。その手段とは、顔を隠してマンション内部に侵入し、「面食い」のいる部屋を探して標的を直接叩くというものである。この手口、仮に成功したとしても、もし侵入を図った人物が同定されれば、彼らは容赦なく法の裁きに会い、犯罪者のレッテルを死ぬまで気にすることになるだろう。しかし、それを加味してもなお、彼らの決心は揺らぐことはなかった。自分の命や立場にかえてでも、何何市の平和を守りたい刑事、悪霊の凶行を見逃せない宮司、二人には無茶をするに足る理由があった。


一〇

 二人は一瞬視線を通わせ、呼吸を合わせるように頷くと、紅日ハイツの玄関自動ドアへ走り出した。このガラス戸は、非住民にも開けられる唯一の扉である。エントランス・ホールへつながるもう一枚の自動ドアは、彼らの予想通り、ただ立っているだけでは開きそうになかった。先に動き出したのは喜多枕であった。持ってきたバールと、手荒い事件の処理で鍛えられた膂力によって、二枚の重いガラスをこじ開けた。エントランスホールから、階段まで急ぐ侵入者達の背中に、防犯ベルの音が響いた。

 二人はマンション内部の中庭に出、判を押したように積み重なっている各階層を見上げた。

「「面食い」は何階だ」

「もっと上にいる」

 そこからは、虱潰しの作業であった。階段を疾駆し、新しい階に辿り着くたびに赤心が自身の感性を集中させ、悪霊の位置を確かめてゆく、二階が終われば三階、三階が終われば四階といった具合に。

「ここだ」

 二人の声が重なった。宮司が悪霊の気配を感じ取り、刑事が異臭を感じ取ったのは、五階の階段の真前、五〇七号室であった。チラと目出し帽に目配せする目出し帽、頷く目出し帽。ドア横の窓にかかった鉄柵を馬鹿力で折り曲げて間隙を作り、奥のガラスをバールで叩き割った。

「アア!助けて!助けて!」

 割れ目から部屋へ入る二人の耳に飛び込んだのは、甲高い訴え。土足でフローリングを駆け抜け、声が発されたと思われるリビングルームへ辿り着いた喜多枕と赤心は、ついに、何何市顔面傷害殺人事件の首魁と対面したのである。

 広間に尻居していた「面食い」は、体高二メートルはあろうかと思われた。細長い頭部と首の下には、デップリと丸い胴体が付いており、その輪郭はフラスコを彷彿とさせた。胴の上端から生えた両腕は、付け根のから肘の周り、手首から指の節に至るまで、クリームパンのような張り詰めた肥え方をしている。その反面、股のあたりから伸びた足は針金のように細く、巨躯を支えるにはあまりにも心許ない。手足の先端の爪には、深爪になっているものと、巻き爪になって肉へ食い込んでいるものと、伸びす過ぎて欠けているものが混在していた。「面食い」の顔、特に口元の作りはネズミと全く同じであり、口の上下から黄ばんだ切歯が鋭く伸びている。一見すると腫れぼったいように思える目は、実は落ち窪んでいて、周囲にこびりついている目脂の塊がそう見せているだけなのであった。

 前出のように、「面食い」はネズミ様の容貌なのであるが、それに反して毛の生え方が、いわゆるネズミとかなり異なっている。愛玩動物、実験動物あるいは害獣として我々がよく知るところのハツカネズミやクマネズミは、全身が満遍なく体毛に覆われているが、この大柄な悪霊においては、毛が多分に生えている部分とそうでない部分が明確に分かれている。顎からは不精みあふれる髭が、頭頂からは傷んだ長髪が枝垂れ、白髪や染毛がところどころに混じっている。脇の下の窪みには直毛が繁り、赤子のような手腕には柔らかい腕毛・指毛が伸び、丸く突き出た下腹部には縦横無尽の腹毛が生え散らかしている。しかしそれ以外の部分においては、濃い染みと吹き出物の点在する、きめの粗い肌が剥き出しになっているのみであった。

 赤心は「面食い」を目の当たりにし、愕然とした。ここまで人間に近い造形の悪霊は初めてだと感じてやまなかった。彼が今まで出会い、祓ってきた敵達は、人の残留思念によって生み出されたものであるにもかかわらず、みな他生物の姿を模していたり、半固形のゲル状であったりした。人に近い二足歩行の悪霊も稀にいたが、それらは腕・脚が計六〇本生えていたり、手首から先が巨大な包丁であったり、表皮が虹色であったり、肩甲骨の辺りからオベリスクが生えていたり、胸に大きな空洞が空いていたりした。あの悪霊達は人間と明確に区別が付くものばかりであった。それに比べて「面食い」はどうであろうか。顔こそネズミに似ているものの、手も足も二本ずつ生え、指の造形も人間そのものである。荒れてはいるが人間の通常を逸してはいない肌、人間と同じ場所に伸びる毛……特異な状況であるが故に、自分とキタはこいつを悪霊だと判断しているが、例えば何も知らない者が、彼奴の座る姿を背後から見たとしたら、肥満体型で高身長の中年男性が、服を脱いだ姿だと思ってしまってもおかしくない。それほどに「面食い」は、人間の姿形に近かった。

「あれを見ろ!」

 動揺する赤心のそばで、喜多枕はそう言って「面食い」を差した。凶霊の右手に、部屋着の少女が握られている。失神しているが、顔に傷は無い。

 宮司は冷静さを取り戻した。今動けば救える命がある。人間の思念が生み出した怪物に怯むのではなく、祓うのが自分の仕事だろう、と、彼は自分を奮い立てた。そして勢い激しく、服の下からある道具を取り出した。紅白の縞模様があしらわれた矢、破魔矢であった。年末年始に商店で売られる贈答品とは異なり、矢尻を尖らせ、儀式によって一層の神力を込めた特別性である。赤心は矢の篦を握り締め、意を決して「面食い」の足元へ駆け出した。嵩張るのを懸念して弓を持って来なかったので、直接刺して祓わなければならない。

 面食いは女を投げ捨て、細い足を素早く伸ばして立ち上がると、首を禍々しく蠕動させ、嘔吐した。フローリングに緑色の粘液が広がる。怯まず足を前に出す赤心、しかし、彼の思い通りには体は動かなかった。足がツルリと滑り、その場に転んでしまったのだ。洗剤の匂いに顔をしかめ、立ちあがろうとする赤心、しかし、賢しい「面食い」はその隙を逃さない。太さの異なる手足をバタバタと蜘蛛のように動かし、敵に向かって飛びかかった。ボティプレスを試みたのである。

 間一髪のところで、悪霊の攻撃から赤心を守ったのは、酒瓶であった。喜多枕が偶然手元にあった高級そうなワイン瓶を思い切り「面食い」へ投げ、見事その眉間に命中させたのだ。大きくのけ反る巨体。少女の美しい顔に赤ワインがぶっかかる。とはいえ。物理攻撃は幽霊を怯ませても、祓うことはできない。それができるのは彼のみだ。

「今だ!やれ!」

 既に体勢を立て直していた赤心は、「面食い」の喉目掛けて矢をズブリと突き立てた。悪霊は一瞬硬直した後、男性のものにも女性のものにも聞こえる悲鳴を上げながら、苦しげに悶え続けた。肥えた巨躯が光の粒に変化し、霧散して完全に浄化されるまで。

 五〇七号室に静寂が訪れた。戦闘を経たリビングルームには、意識を失ったままの少女と、小さな小さな哺乳類の死骸があった。喜多枕は手袋越しにそれを拾い上げた。薄桃色の肌を露出させた姿や、切歯や、目鼻の構造は、あの悪霊と同じものであったが、邪気の抜けた、安らかな死に顔は、全く別の生物のそれであった。

「ハダカデバネズミだ。図鑑で見たことがある」赤心が呟いた。「可哀想に、こいつは思念の容れ物に選ばれたんだ」

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