面食い〜清潔感の凶霊〜

@NakagawaPalolo

プロローグ

 横断歩道という場所は、そこにいる人間の物理的距離と心理的距離に、著しい差がある。人通りが多い時間帯ともなると、歩行者一人一人は互いの息がかかるほど接近するが、彼らは自らの目と鼻の先にいる人間に、全く心を許していない。全く心を許していないのにもかかわらず、目と鼻の先でチョコマカ歩くことを受け入れる。受け入れざるを得ない構造になっている。

 その日の何何市の天候は、梅雨晴れ間と呼ぶに相応しかった、黒雲は束の間遠くの空へ溜まり、煌々とした西陽が、空を白く輝かせる。前日と前々日に降り注いだ雨の、残滓とも言える深い水溜りは、天日によって急速に蒸発し、不可視の湿り気へと生まれ変わる。結果、夜のまだ遠い午後六時の何何市には、ぬるま湯をたっぷり含んだ、重たい空気が充満していた。そしてその外気は、市営地下鉄何何駅出入口から程近い大交差点にも、同様に立ち込めていた。人々は肌にへばりつく汗や、目を傷ませる日光、かまびすしい蝉の音などに気分を苛まれながら、各々の目的地へ歩を進めていた。性別も年代も職業も目的も異なる人々が、職場から去る為に、職場へ戻る為に、白い縞模様があしらわれた道を並行したり、すれ違ったりした。

 ある歩行者は、向かって来る歩行者の男に鬱陶しさを覚えた。愉快な声色で電話をする彼は、皺だらけの、沼のような緑色をしたTシャツを着ていたのだ。傷んでいそうな金髪も癪に障った。おまけに、少しだけ聞こえた会話から察するに、彼の通話相手は恋人と思われた。歩行者は自らの服装を顧みた。偉そうな上司に身だしなみを咎められ、苦い顔をしながら毎日アイロンがけをしている自分には、恋人の一人もおらず、あんなにだらしない格好をしている人間にはいる。その構図がかれの頭の中に投影されると、うっかり大声でも張り上げてしまいそうな心地になった

 ある歩行者は、偶然すれ違った歩行者の女にけがらわしさを覚えた。彼女の頬には赤黒いニキビがいくつも吹き出しており、すれ違う際、それらの凸凹を間近に視認せざるを得なかったのである。ニキビだらけの頬を蔑まれた歩行者は、自分を見てくる歩行者の男に不快感を覚えた。彼の顔面の毛穴は開き切っており、おまけに頬から顎にかけて、情けない無精髭まで生えていたのだ。彼らは相手の容貌に、「努力を怠った者」の烙印を押した。そして、お互いに蔑まれたことに気づき、後味の悪さを覚えた。

 ある歩行者は、横断歩道を並行する無関係のサラリーマンに、不快感を覚えた。労働者の広い額には汗に濡れた細い前髪の束がペトリと張りつき、いやらしいほどシワの無いスーツの首元からは、趣味の悪い柄のネクタイがうかがえたのだ。

 ある歩行者は、自分の前を歩いていた中年女性の髪に、白髪が混じっていることに対して、病人を見た時のような感覚を覚えた。白髪の女性は、自分の前を歩く男性の極端な猫背に、似たような感情を持った。

 瞳の澱んだ、やつれた歩行者が、自分の真横を歩く若い女性にふっと目を向けた。彼女の胸元では、紐によって固定された赤子がボンヤリと母の顎を見つめていた。くたびれた歩行者は気味が悪くなり、すぐに目を逸らした。その者にとって他人の産み落とした嬰児は、意思疎通の取れない、土偶に人皮を貼っつけた化け物のように見えたのだ。

 人々の感情のヒリつきは、捉え難き陽炎となって外へ漏れ出し、叩き鳴らされた車のクラクション音と混じり合い、苛立たしけな足音と混じり合い、束の間渦巻き、やがて、横断歩道が四角く囲む、アスファルトの隙間へ、染み込んでいった。


 互いの清潔感のなさを憎み合い、苛立つ者たちが跋扈する、梅雨の合間の交差点。そのさなかにあってなお、清廉な佇まいを崩さず、横断歩道をゆったり歩く者が一人。水分を程よく含んだ黒髪、整っているが決して近寄り難さの無い目鼻立ち、くどすぎない化粧、糊のパリッと乾いたスーツ、一点も破れほつれの無いストッキング、黒く光るパンプス、肥え痩せどちらにも偏らない体躯、育ちの良さを体現するように伸びた背筋、快活な表情、凛とした雰囲気と共存する感じの良さ。

 彼女は人格者の両親と、対等な立場でのコミュニケーションを積み重ね、学校や職場での人間関係を拒むこともなく、極端なことをせず、かといって消極的になり過ぎず、時に喜び、時に悲しみ、他者を蔑むことを嫌い、誠実に生きてきた。人間ができていた彼女は、この場に及んでなお、他の通行人に陰険な気持ちを抱かず(そんな心情を抱いても、幸せにはなれないと知っていたのだ)、わざと肩を当てようとする、顔の張り詰めた歩行者を器用に避けたり、鼻歌を奏でたりしながら、大通りを抜けた。


 住宅が作る片陰や、街路樹が作る粒々とした影の下を潜りながら、彼女は涼しげに家路を進んだが、小学校を横切らんとしていたところで、ピタリと立ち止まった。カバンが振動したのだ。彼女はクリーム色のトートバッグを開け、中に入っていたスマートフォンの電源を入れた。「先に家に着いたから、合鍵で中に入っておく」という旨の電子メッセージが届いていた。本日は週末、彼女の恋人が来る曜日であった。いつも通りの文面、朴訥すぎず、かといって愛情表現がくどすぎない言葉遣いに、彼女は安心した。橙色の夕陽が、遮蔽物の著しく少ない運動場をクッキリと照らし、点在する鉄棒や肋木の形を、昼間よりも露わにしていた。彼女はふと、自分が小学生であった時分のことを思い出し、微かな郷愁を心に滲ませ、再び歩き出した。この気持ちを分かち合える相手が、家にもう居ることを知っていたから。

 彼女が住むマンションは入口からして防犯機構がなされており、非住居者がこのマンションのいずれかの部屋に入るためには、部屋の鍵を、入り口に装置されたICパッドに当てるか、同様に据えつけられたダイヤルを用いて部屋番号を入力し、当該個室の居住者と連絡を取り合い、エントランスホールへつながる自動ドアを開けてもらうかしなければならない。彼女はカードキーを持っていたが、なるべく早く声が聞きたかったので、後者の手段を選んだ。三、一、三、数字の刻まれたボタンを、慣れた手付きで押すたびに、帰路で感じた寂しさが霧散してゆく。ピンポン、三一三号室へ軽快な電子音が響く。あとは自室にいる恋人が玄関のスイッチを押せば、二人は繋がる。

「あれ?」

 彼女の気兼ねない言葉が、スピーカーの孔に吸い込まれ、また五、六秒が経った。いつまで経っても、あの人の声が聞こえてこない。通話可能な状態にすらならない。自分の好きになった人は、相手を焦らす意地悪を嫌うと、彼女はよく知っていた。一時的に外出しているのなら、連絡がある筈だ。すると、室内にいる人間は今、インターホンに反応できない、余裕の無い状況下にある。彼女は半ば叩きつけるように鍵を機械に反応させ、エントランスホールへと駆け出した。パンプスのかかとが大理石の床を素早く蹴り付ける。幸運にもエレベーターはエントランスフロアへ止まっていた。

 三階へ運ばれるまでの間、立ち止まることが心苦しかった彼女は、目や口の端に不安を滲ませながら胸を抑え、絶えず足踏みをしていた。やがて分厚い鉄のドアが、人心を解さずユックリと開くと、彼女は廊下へ飛び出し、脚を出来る限りの敏捷さで動かした。西陽はすでに沈んでいたが、屋外蛍光灯は未だ点いていなかった。


 鍵のつまみが捻られ、三一三号室のドアが勢い凄まじく開く。半べそをかきながら住処を睨みつけた彼女は、部屋が普段の帰宅時にまして暗いことに気づいた。ただ天井の灯りが消えているだけではこうはならない。部屋の光る物が全て機能停止しているのだ。同棲相手がウッカリでブレーカーを落としてしまったことは、過去にも一度あったので、彼女はこの真っ暗闇に大した衝撃は受けなかった。その代わり、自分の手も見えないほどの暗がりを、室内にいた人間が元に戻していないことに引っ掛かりを覚えた。

(やっぱりあの人は今動けなくて、声も出せないんだ)

 そう推測した彼女は、すぐに動き出そうとしたが、入室時よりそこはかとなく感じていたもう一つの違和感に、ふと意識が向き、立ち止まった。それは臭気だった。香水のような尖った芳気と、数日身体を洗っていない人間の生臭さを、お構いなしに混ぜたような、攻撃的な異臭が漂い、詰まりのない彼女の鼻腔に入り込んだ。彼女はかような匂いの洗剤も、芳香剤も、アロマ油も使っていない。恋人も同様である。彼女はさらに考える。何か食材が腐っているのだろうか。いや、腐っているのが食材でなかったとしたら……。彼女は粘ついた汗を拭った。

 目的地に辿り着いたことで妙に安心し、数秒立ち止まって余計なことまで考えてしまった彼女。その間、人の気配こそあるものの、部屋は閑寂としていた。不機嫌な何者かと同じ空間にいる時のように、異様に静かで、ピリついていた。現状確認をする為、彼女は再び動き出した。手に感覚を集中させ、慎重に壁を探り、靴箱の左上にあるスイッチを跳ね上げた。たちまち廊下が照明される。

 一瞬、彼女の全身が驚きに強張った。顔を下にして廊下のフローリングにうつ伏せ、固まっている人間。見慣れたオーバーサイズのTシャツ。この人がただ、仕事疲れのあまり妙なところで眠ってしまっただけであればと、彼女は心から思った。あくびでも、寝息でも聞こえたならば、どれほど安心するか知れなかった。万一を信じ、彼女は恋人の身体をひっくり返した。

「ひいいっ!」

 清らかな悲鳴が迸る。そこにあったものは穏やかな寝顔とは程遠かった。皮は切り刻まれ、いかなる時も彼女を優しく見つめていた眼玉は抉り出されて近くの床に転がっていた。いかなる時も彼女に優しい言葉を送っていた口は、単なる切れ目となり、もはや呻き声すら出すことは無かった。彼女の想像を絶する、実に陰惨な状態であった。

 彼女は死体を思わず投げ出し、玄関にしゃがみ込んだ。そして吐き気を堪えながら啜り泣くうちに、ふと気がついた。恋人をかように痛ぶった不審人物は何処へ?あの臭いは何の、あるいは、誰のもの?彼女は思考をここまで至らせると同時に、青ざめて頭をガバと上げ、廊下の奥にある、リビングルームへ目を向けた。閉まったままの窓がうかがえる。誰かが逃げ出して飛び降りたということは無いと分かった。さらに、彼女は自分がこの三一三号室に辿り着くまでに、マンション内に不審な人物を見かけなかったことにも気がついた。

 (まだ、この部屋に隠れてるかも)

 彼女の背筋がひときわ冷えた。すぐに立ち上がり、きびすを返し、震える手で、外へ開けるドアノブを握りしめた。途端、重さと軽やかさが同居した奇妙な足音が響き渡り、驚いた彼女は声を上げる間すら無いまま後頭部を凄まじい力を以て押され、視界は真っ暗になり、鼻に鈍痛が走った。顔面が扉に激突したのだ。ドアに突っ伏したまま、意識を失いつつある彼女が最期に感じ取ったのは、ストッキング越しに足首を掴まれる感触であった……。

 ガリガリガリ ガリガリガリガリ。

 細い血の線は、玄関の鉄扉に打たれた赤黒い点から始まり、派手すぎない家具や調度品に彩られた、小綺麗なリビングルームの中央にまで伸びていた。そこでは大きく肥え太った、裸の「何か」が、本日二人目の獲物の顔を弄んでいた。今や彼女の容貌は、のみのような凶器によって損害され、滲む鮮血によって塗り潰されている。

 やがて「何か」は女に飽き、自らの身体を靄や粉塵のように変化させると、締め切られた窓のわずかな隙間から脱け出、短夜の中へ去った。

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