第3話 蜜蜂と石窯パンと四季君と

 背中のリュックと腰に下げた水筒が、ばいんばいんと跳ねて走行の邪魔をする。しかも上り坂が、何気に辛い。


「虫おっかけてどうする気ーっ!」


 あたしは苛々しながら、十メートルほど先を軽やかに走る四季君に叫んだ。四季君が、振り返らず答える。


「あれは蜜蜂だよ。ここら辺は今、椎の花が咲いてるから」

「だから何!?」


 答えになっていないとあたしが声を荒げた次の瞬間、四季君の前に浮かんでいる黒い点、つまり蜜蜂が、ふいと進行方向を変えた。道路を外れ、山林の中に入っていく。それを追いかける四季君も、躊躇うことなく草むらの中に飛びこんだ。


「嘘でしょー!」


 立ち止まったあたしを、「はやく!」という四季君の声が、木々の向こうから急き立ててくる。


 虫に刺されるのは嫌だ。マダニに噛まれるのも嫌だ。でも、置いて行かれるのはもっと嫌だ。

 あたしは意を決して、山林に足を踏み入れた。



「ひえええ!」


 名前も知らない梢や葉っぱに全身を打ちつけながら、あたしは走る。

 虫に刺される! マダニに噛まれる! 猪に遭遇するっ! 

 心は恐怖でいっぱいだ。けれどここで四季君を見失うと遭難必至! という最大の恐怖にお尻を叩かれ、無我夢中で四季君の後を追う。

 四季君は時折、後続のあたしを振り返りながら、「堤さんはやく!」と手招きをする。

 何度目かの手招きに、「分ってるよ、もう!」と返事をした直後、あたしは濡れた落ち葉に足を滑らせて、すっ転んだ。


「ま、待って!」


 斜面を駆け上っている四季君に叫ぶ。倒れているあたしの姿を見た彼は、急いで戻って来てくれた。


「怪我した?」


 訊かれたので一応、手や脚をチェックする。土で汚れているだけで、傷はなさそうだ。


「大丈夫みたい」


 ほっとして答えると、「じゃ、行くよ」と四季君があたしの右手を掴んだ。


 手を引かれる形で斜面を上りきると、今度は下り斜面が目の前に現れる。木々の間は落ち葉で埋まっていて、滑りやすそうだ。


「ごめんね。蜂、もう見失っちゃったよね」


 目を凝らして蜂を探している四季君に、息を切らしつつ謝った。この鬱蒼とした山林の中で、あんな小さいものを見つけられるはずがない、と。

 けれど驚いた事に数秒後、四季君の肩が小さく跳ねる。


「いた」


 そして四季君は、またあたしの手を掴むと、斜面を駆け降り蜜蜂の追跡を再開した。

 嘘でしょ、としか言いようがなかった。


 堆積している落ち葉を蹴って、倒木を跨いで、沢を飛び超えて、手を繋いだあたしたちは一匹の蜂を追いかけ続ける。

 疲れて足がもつれ始めた頃、ぱっと山林が途切れて開けた場所に出た。


「ほらやっぱり。当たりだった!」


 四季君が声を弾ませる。

 あたしたちの前には、一軒のログハウスがあった。地面は草ぼうぼうで、壁に苔がこびりついて一見すると廃屋みたいだ。けれど、小さなガラス窓の向こうには、一輪の白い花が花瓶に生けられていて、レースのカーテンもかかっている。人が住んでいる証拠だ。裏庭らしき空間には木箱が積み上げられており、蜜蜂はそこに入っていった。


「信じられない……」

「いえーい」


 呆けているあたしに、四季君が嬉しげにハイタッチを求めてくる。あたしはのろのろとした動作で腕を上げると、四季君の掌に自分の掌を重ねた。

 片方の手は繋がれたままだったので、今から社交ダンスでも始めるみたいな、何だか妙ちくりんなポーズだな、なんて思ったのは……あたしだけかもしれない。


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