ああ!昭和は遠くなりにけり!

@dontaku

第3話



(続3)淡い恋心・・・信子そして美穂


今年の夏休みは私の会社が契約している森の中にあるログハウスに行くことになった。ここは以前から行きたかった所で自然豊かな所だった。ゲストハウスと呼ばれる本館があり、レストランを始めホテル、温泉などの設備があった。宿泊施設は10人位が楽に泊まれる丸太小屋のコテージで、敷地内に多数点在する。優太君と優太ママをレンタカーで迎えに行って出発する。ワンボックスの広い室内に皆大喜びだ。特に美穂は初めての大きな車に興味津々だ。ゴージャスなシートをㇼクラウニングさせたり読書灯を点灯させて見たりと車の旅を楽しんでいた。室内は賑やかで、ピアノとヴァイオリンの話で盛り上がった。

途中、サービスエリアに立ち寄る。美穂も優太君も初めてのサービスエリアに大はしゃぎだ。早速お土産コーナーを見て回りこれが可愛いとかあれが美味しそうと楽しそうだ。先を急ぐため軽食やおやつを仕入れて出発する。車の中は、皆が持ち込んだ美味しそうな匂いがお互いの食欲をそそった。私は溢して室内を汚してしまうのではないかと心配していたが、皆さん流石に器用な方たちでスマートに飲食していただけた。車酔いをする人もなく、車は軽快に山道を登って行く。

やがて目的地の森の中のビレッジに到着した。ゲストハウス本館のフロントでチェックインしてそのままログハウスへのコテージへ。美穂と優太君は初めてのログハウスだ。広いリビングに寝室が5部屋、寝室は広くベッド回りも清潔だ。荷物を運び込んでいると何やら揉めていた。どうやら部屋割をどうするかで揉めていたようだ。しかも一番広い角部屋をお互い譲り合っての揉め事だから、平和と言えば平和だ。

取り敢えず、今日はゲストハウス本館のレストランでディナーと洒落込んだ。既にメニューで見てコースの予約を済ませていたので、お風呂の準備をしてから向かう。ゲストハウスはログハウスから距離があるので車での移動だ。

ゲストハウス本館のロビーは広く、中央に大きな薪ストーブがあった。そして奥にはスタンダードピアノが置いてあった。直ぐに美穂が駆け寄る。

「美穂、ちょっと待って。」それを見た信子がフロントのお姉さんに確認する。

「ご自由に弾いていただけますよ。」

早速、美穂の演奏が始まる。「高原列車はいく」を弾き始める。良く場所を考えて選曲するものだとわが娘ながらいつも感心する。

早速、居合わせた皆さんの注目を浴びる。曲が終わると信子が声をかけた。

「温泉行くわよー。」美穂は慌てて鍵盤の蓋を閉じる。

“ピアノさん、また後でね。”

男女に分かれて温泉に入る。

私は優太君と一緒に男湯へ。男同士の裸の付き合いだ。話は優太君のお父さんについてだった。どうやら大手建設会社に勤めていてダムの建設に関わっているとのことだ。それでお正月くらいにしか帰って来ないという。しかもそれが3年続いていると口を尖らせて不満そうだ。私は湯船に浸かりながら言った。

「優太君のお父さんはダムの建設現場の責任者じゃないかなあ。責任者は何百いや何千という人たちを束ねてダムの建設を行うという重要な仕事をしているんだ。だから常にダムに居なくてはいけないんだよ。」

神妙に聞く優太君。美穂もそうだが、まだまだ4年生。父親の仕事の詳細など分かるわけがない。私は続ける。

「私もいつかは転勤になって外国へ行かなきゃあならなくなるかも知れない。君や美穂と同じ小4の時、うちの妻は私と離れてアメリカへ行ったけど、あの時の寂しい思いは美穂にはさせたくないんだ。だから私は一人で行くつもりだ。優太君のお父さんもそう思って遠い所で一生懸命君たちのために頑張ってくれているんだよ。」そう言うと優太君は涙を流し始めた。

「優太君!私が外国に行くときは美穂を頼んだよ。」優太君は湯船に顔を沈め、そして顔を出した。「はい!わかりました!」

男湯を出てロビーへ向かう途中にベンチがあった。その脇にはラムネが置いてあった。女性たちが出てくるにはまだ時間がありそうだ。

「優太君、ラムネ飲もうか。」そう言って2本注文する。独特の器具で瓶の口を塞いでいるガラス玉を瓶の中に押し下げる。しゅわあーっ!と泡が噴き出す。優太君はびっくりだ。ほとんど今の子供たちは飲む機会が無いのだろう。一気に飲もうとするとガラス玉が転がって来て蓋をする。人によって飲み方が違う。舌先でガラス玉を押して隙間を作って飲む者、ガラス球が転がらないように水平に近づけてのむ者、などなどだ。私は後者の飲み方だが、優太君も真似してくれている。なるほどと感心しながらラムネを味わっている。

「あーっ!2人で何か飲んでるうーっ!」美穂の明るい声が炸裂した。

女性3人もラムネを味わう。やはり美穂は飲み方が分からない。2人のママたちが飲んでいるのを羨ましそうに眺めている。

「美穂ちゃん、こう飲むんだって。」優太君が“水平飲み”を伝授する。初めて飲むラムネ。中々水平にガラス玉をキープ出来ず、踊るように口に入ってくるラムネにむせる美穂。そうか、美穂にも苦手なものがあるのか。

ロビーに戻ってくると美穂は再びピアノにまっしぐらだ。

「湖畔の宿」を弾き出した。流石にロビーに居た人たちはびっくりだ。小学生が楽譜も見ずに懐メロを弾いているからだ。皆立ち止まってピアノと美穂をじっと見つめていた。すると幼稚園くらいの女の子が美穂の傍へ。

「おねえちゃん、教えて。」

「うん、いいよ。どうぞこちらへ。」美穂はそう言って女の子に席を譲った。

女の子は右手の人差し指で「チューリップ」を弾き始めた。たどたどしい指先。そんな光景を眺めていると初めて美穂と出会った日が想い出される。あの時の美穂もこんな感じだった。懐かしさに胸が熱くなる。隣にいる信子も同じ想いだったに違いない。

「あら、どうしたの?2人とも?」優太ママに声をかけられた。

「いえ、美穂がピアノを始めた時もあの女の子と同じだったなあ、と思って。」信子もじっと見守っていた。美穂のすぐ傍で優太君も2人を見守っていてくれている。時々女の子の嬉しそうな声が聞こえる。そうしている間に女の子の母親らしき人がピアノに近づいてきた。

「まあ、まあ。ごめんなさい。演奏の邪魔をしてしまって。」申し訳なさそうにそう言った母親は女の子の腕を掴んで連れて行こうとした。その母親の片方の手には売店の未精算であろう品が入った買い物かごが見えた。

「お母さま。大丈夫ですよ。お買い物が済むまで一緒にピアノを弾いていますから。」信子の神対応だった。女の子は母親が買い物中にピアノの方へ歩いてきたらしい。

「さあ、もう一度。」そう言って最初から一緒に弾き始める美穂。

女の子は上手に弾けるようになったことがよほど嬉しかったのだろう。美穂にお礼を言って自分から母親の元へ走って行った。

しばらくしてその親子は美穂に頭を下げながらコテージの方へ歩いて行った。美穂は女の子に手を振った。女の子も手を振って笑顔で答えてくれた。その光景を見た母親は微笑みながら再び美穂にお辞儀をしてくれた。

私たちはピアノが弾きたいと言う美穂と優太君をそのまま残して一旦コテージへ戻った。

美穂は再び演奏を始める。今度は「峠のわが家」だ。美穂の奏でる旋律は相変わらず軽やかだ。夕方になり多くの人が通り過ぎて行くのだが、殆どの人が足を止め美穂の演奏に聴き入ってくれた。

すると同じ小学生の子供たちがピアノの傍に陣取って美穂の演奏を聴いてくれた。年上の中学生から幼稚園児までが美穂の演奏にじっと聴き入っていた。いつの間にかゲストハウス本館のロビーは宿泊客で溢れんばかりだった。

演奏が終わると拍手と歓声が!皆さんに背を向ける格好で弾いていた美穂が一番驚いていた。そして何時ものルーティンでの一礼だ。

その拍手、歓声はゲストハウス本館へ戻って来た私たちの車の中にも届いていた。ゲストハウス本館の支配人さんが美穂に声をかけてくれた。

「お嬢さん!もう1曲弾いていただけませんか?」

「はい。わかりました。」美穂はおもむろに弾き始める。「エーデルワイス」だ。子供たちは聞き覚えのあるこの曲に大喜びだ。

「ほんと、上手だなあ。」皆が口々にそう囁く。

私たち3人がゲストハウスに到着した時にはロビーには人が溢れんばかりの賑わいだった。夕方の忙しい時間帯だ。チェックインする人、階上のホテルの宿泊客の往来で大賑わいとなっていた。流石の優太君も余りの観客の多さにびっくりだった。

演奏が終わると割れんばかりの拍手が起る。近くにいたピアノを習っている女の子数人が美穂に質問攻めだ。にこにこと質問に答えて行く。そして実技指導まで始めた。教える方も習う方も真剣だ。そんな子供たちを優しく見守る大人たちだった。

一段落付くとディナーとなった。この際と思い、美穂と優太君のためのフルコースだ。長いテーブルに5人分の席が用意されている。

予めナイフとフォークが順番に並べられている本格的なフレンチだ。

流石の美穂と優太君もこれにはびっくりだ。優太ママと信子が二人に教えながら食事は進んでいった。「おいしいね。」「うん。」二人とも大満足のようだ。上手くナイフとフォークを使いこなしている。

食事が終わるとデザートだ。私たちは紅茶とケーキだが、美穂と優太君はアイスクリームだ。するとフルーツの盛り合わせが!

「私共の支配人からの御礼でございます。」ボーイさんがにっこりと二人に会釈し置いてくださった。二人ともびっくりしている。

「ピアノ演奏のお礼だと思うよ。いただきなさい。」私がそう勧めると二人とも目を輝かせてフルーツに手を伸ばした。

コース料理もいよいよ終わろうとした時、料理長さんが通訳さんを連れて各テーブルを回ってご挨拶にいらした。これも二人にとっては初めての経験だ。真っ白で背の高い帽子をかぶった料理長さんの登場に、二人は少し緊張気味に構えて座っている。

英語で話しかけられた。すると優太ママが、次に信子が、そして私が英語で受け答えする。日常と違う親たちにびっくりして目を丸くする二人。「日本語でお話ししてごらん。」私は二人にそう勧めた。

「ごちそうさまでした。美味しくいただきました。」二人での声を揃えてのお礼の言葉に料理長さんと通訳さんは満面の笑みで答えてくださった。「ドウイタシマシテ、アリガトウゴザイマス。」

ディナーが終わると私たちはフロントへ向かった。そして支配人さんにフルーツのお礼を言った。支配人さんはかえって恐縮され、再度演奏のお礼を言ってくださった。コテージでの楽器の演奏について優太ママが支配人さんに尋ねた。「チェックアウト時間の朝10時以降なら夕方まで大丈夫ですよ。ところで楽器は何を?」支配人さんは1人だけが弾くと思っているようだ。

「ヴァイオリンなのですが、僕だけでなく母たちも含め4挺なんです。」優太君が答える。

「えっ!四重奏ですか。それはすごい。ピアノとヴァイオリンの三重奏もお出来になるんですね。これは素晴らしい。一度拝聴させていただきたいです。」

社交辞令だと思っていたのだが…。

その日の夜は皆疲れていたせいか直ぐにベッドに潜り込んだ。

翌朝、真っ先に目を覚ましたのは美穂だった。美穂はウッドデッキの椅子に座って朝の清々しい高原の空気を思い切り吸いこんだ。

鳥たちのさえずりが聞こえる。誰かが肩にカーディガンを掛けてくれた。優太君だ。

「美穂ちゃん、おはよう。少し冷えるからさ。」

「ありがとう。おはよう。」美穂は優太君の優しい心遣いに胸をときめかせていた。優太君が話し始める。

「実は、昨日、美穂ちゃんのお父さんと温泉に入った時に色々話したんだけど、俺、ずっと美穂ちゃんを守っていく。そう約束したんだ。」

突然の話に驚いた美穂だが、次第に嬉しい感情が込みあげてきた。

「うれしい!優太くん!ありがとう!」そう言って隣にいる雄太君に抱き着く美穂。優太君はそんな美穂をぐっと抱き寄せ顔を近づける。そして目を閉じた美穂の唇にキスをした。キスの後、美穂は恥じらうように俯き頬を染めた。

そんな時、とんとんとんと小さな音がした。丸太で組まれた手すりの上に野生のリスくんが遊びに来てくれた。恐らく宿泊客がご飯をあげて行くのだろう。逃げる様子もなくじっとこちらの様子を伺っている。

二人は何かあげようと思った。そんな時、リビングで優太君が落花生の袋を見つけた。急いでウッドデッキへ戻るとご飯待ちのリスの数が5匹に増えていた。「さあ、どうぞ。」二人で落花生をリスたちの前に並べる。するとリスたちは警戒しながらも素早い動きであっという間に落花生を口に押し込んでいく。そして頬袋をぱんぱんに膨らませて満足げに森へ帰っていった。二人は手を振ってリスたちを見送った。「可愛かったね。」二人でそう言って再び軽いキスを交わした。

やがてコテージの中から声が聞こえてきた。大人たちのお目覚めだ。

二人はおもむろに間を空けて座り直す。

「あら、おはよう。二人とも早起きね。」優太ママが二人に声をかける。続いて信子が出てきた。「おはよう。二人とも眠れなかったの?」「ううん。何時も通りだよ。あのね、リスさんたちが朝ごはんを貰いに来たんだよ。すごく可愛かった。」美穂が嬉しそうに報告する。

「ええーっ!見たかったなあ!」残念がる2人のママ。

「おはよう。」最後は私だった。久しぶりにぐっすり眠ることが出来、爽やかな目覚めだった。リスくんたちを見れなかったのが私も残念だった。

今日は午前中にロープウエイで山の頂上へ登る。帰りにうどんをいただいて、戻って来たら皆さんの練習だ。でも、美穂はどうするのだろう?いや、ヴァイオリンは4挺積んだ。何も無いのは全く楽器が弾けない私だけだ。

5人揃って車でゲストハウスへ向かう。ロビーに入るといろんな方から声を掛けられる。特に美穂は子供たちの人気者になっていた。

朝はレストランでバイキングだ。昨年の夏は、美穂のスクランブルエッグの鬼盛りが想い出される。今年はどうだろう。

昨日と同じテーブルに名札立てと取り皿が用意されている。何時ものように私はお留守番だ。程なくして優太君の驚く声が。そして2人のママの笑い声が聞こえてきた。思った通りだった。しかも今年はどんぶりにスクランブルエッグを入れて持ち帰ってきた。なるほどこれならこぼれない。一応は学習しているようだ。どんぶりにこんもりと盛られたスクランブルエッグにウインナーが2本刺さっている。だから鬼盛りだ。それを嬉しそうに食べている。去年と同様にフランスパンと丸まったバターを美穂の前に置く。「わあ!パパありがとう!」

他の3人は揃って海鮮丼とサラダだ。優太君はいつもママといるせいか同じものを食べるのが常のようだ。私はパンとコーヒーがあれば十分だが、いろいろ見て回っているとついつい手が伸びてしまう。

そうして賑やかな朝食が終わった。

車で一旦コテージへ戻って仕切り直し。さあ、出発だ。林道をゆっくりと走り県道へ。ロープウエイの乗り場まで意外と近い。

私は高いところが苦手だ。しかし他の4人は絶景に大騒ぎだ。

私はなるべく外を見ないようにシートに座って俯いているのだが、いたずら娘は私の頭を押さえ無理やり絶景を見せようとする。「うわあーっ!美穂やめろおーっ!」ロープウエイが私たちだけの貸し切り状態で助かった。

山頂からの眺めは素晴らしかった。一番景色の良い所を見つけ皆で記念写真を撮る。しかし、誰かがカメラを持ってシャッターを切らなければならない。

「すみませーん!シャッター押してください!」美穂が若い男性二人にお願いした。

「はい。いいですよ。」にこにこと撮ってくださった。5人でお礼を言うと照れたように足早に去って行かれた。それにしても美穂の積極性にはいつも感心させられる。優太君も私と同感のようだ。

ロープウエイで麓まで下りると流石にお腹が空く。私だけでなく他の4人も同じだった。そこで、予定通り、うどんを食べに行くことにした。この付近のうどんは有名なだけあって多くのお店がある。

急に美穂が「あそこのお店が良い!」と叫んだ。通り過ぎてしまったので左折4回で戻って来た。そのお店は入り口辺りに水車がありぎっこん、ぎっこんと音を立ててゆっくり回っていた。

車から降りると美穂は真っ先に水車の元へ。初めて見る水車に驚きと興味津々だ。一旦中へ入り冷たい盛うどんを注文する。注文が終わると美穂は再び水車見学へ。レジのお姉さんが笑顔で美穂を見送る。美穂一人だけではということで私が美穂の後を追う。

「ねえ、パパ。水車ってどうして回ってるの?」素朴な疑問だ。

「美穂、水車はね、水の流れでぐるぐる回って、その力で杵を突いてお米や麦などの殻を剝いて、その後は粉にするんだよ。小麦粉、米粉なんかを作るんだよ。もうひとつはね、下の田んぼから上の田んぼにお水を流す役目もするんだよ。」そう説明しながら昔の懐かしい想い出が蘇る。だが、水車小屋のベンチで信子とキスをしていたことなど美穂に言える訳がなかった。

「おうどん来ましたよー!」優太君が呼びに来てくれた。私は美穂を促し優太君と二人で席まで先に歩かせた。

うどんはコシが強く真っ白できらきらと輝いていた。喉ごしも最高で全員が大満足だった。一緒に頼んだてんぷらは舞茸が一番人気だった。2人のママはお土産に乾麺を買い込んでいた。

コテージへ戻ると取り敢えずのティータイムだ。今日の練習内容の打ち合わせを行う。やはり美穂を含む四重奏のようだ。その間、私は今宵のバーベキューの準備をしようか。まあ、材料はすべて一式頼んであるのでゲストハウスのレストランへ取りに行くだけなのだが。既にコンロ、薪、お皿、鉄串、調味料などは届いていた。

それにしてもヴァイオリンが4挺で音を奏でると迫力がすごい。そうこうしている間に夕食の時間になった。火は既に起こしてあるので具材を網で焼くだけだ。美穂と優太君は初めてのバーベキューだ。

皆がウッドデッキに集まってくる。二人とも大はしゃぎだ。牛肉、鶏肉、マトンと肉類は完璧だ。海のものは車エビ、ホタテ、サザエで野菜はトウモロコシ、タマネギ、ピーマン、ニンジン、シイタケとバターと一緒にホイールに入ったえのきだ。

立ち昇る煙の中、2人のママが手早く焼いてくれる。

美穂と優太君はふうふうと熱々の具材を次々に食べていく。本当に楽しそうだ。そして二人は好き嫌いが無いようだ。2人のママはビール片手に、二人はアイスティーを、私は皆をお風呂へ連れて行くために二人と同じ物をいただく。やはり人気は牛ステーキだ。特に小学生の二人には一番人気だ。皆思い思いのものをいただき、お替りは自分で焼いていた。美味しく具材を完食して後片付けをする。

後片付けをしながら大人3人で話す。内容は自ずと美穂と優太君のコンクールについてだ。美穂は3回目、優太君は初となるのだが、信子に言わせると美穂の油断が怖いと言う。私は美穂に限ってと思っているのだがどうも演奏途中で思わずやってしまうとのことだ。それに比べ優太君は雑草のような逞しさもありメンタル的にも強いと信子は分析していた。

「信子さん、優太って意外とあがり症で最初につまずくと後まで尾を引いてしまうのよ。」優太ママがそう心配していた。

そんな大人たちの心配をよそに美穂と優太君はお土産を何にするかで盛り上がっていた。二人でお揃いのものを買おうということだったが何を買うかが決められなかったようだ。結局、お風呂の後で売店を覗きに行こうということで話がまとまった。

ゲストハウスで温泉に浸かる。もう夜の7時を過ぎている為か周りは大人ばかりだ。そんな中、優太君と私は親子と思われていたらしく一緒に入っていた方々から「親子で良いねえ。」「うちは構ってもらえないよ。」などと話しかけられた。優太君は返事に困りながら「ええ・・・。」「まあ・・・。」と愛想笑いをしていた。そこで私が風呂場中に聴こえる声で嬉しそうに話した。

「実は私の娘の自慢の彼氏です。小学生ながら良く出来た子です。」と自慢した。男湯に「おおーっ!そうでしたか!」という明るい声が響く。優太君は湯船の中で真っ赤になっていた。

優太君と温泉を出て今度はフルーツ牛乳を飲む。今は色々な飲み物があるせいか優太君はフルーツ牛乳の存在を知らなかった。飲んでいると後から男湯から出てきた皆さんに声を掛けられる優太君。その都度照れながら返事をしていた。小4ながら語彙力もあり流石学級委員長だと思った。美穂が信頼を置く人だと良く分かった。

そうこうしていると女性3人が出てきた。

「ちょっとおーっ!大きな声で言わないでよおーっ!」美穂に怒られてしまった。どうやら女湯まで聞こえていたらしい。しかも、そこで小学生は美穂だけだったようで、周りのお姉さま方から祝福の言葉を沢山いただいたようだ。怒ってはいるものの少し嬉しそうに優太君を見つめていた。優太君は少し顔を赤くして下を向いていた。

「やだ!優ちゃんったら!照れているわっ!」優太ママがそう言って優太君を小突いた。

皆でフルーツ牛乳を飲み終えるとロビーへ。

美穂と優太君は売店へ向かった。何を買うのだろうか。

「うふっ。何か弾いちゃおうかな。」信子はそう言ってピアノに向かって歩き出した。「あら!良いわねえ。」優太ママも信子に続く。

「愛の歌」が流れて来た。さすが信子だ。華麗なメロディーだ。

売店からその姿をじっと見ていたのは美穂だった。

「美穂ちゃんどうしたの?」立ち止まって動かない美濃に優太君が心配して訪ねた。

「早く私もあんな風にピアノを弾きたいの。」ぽつりと美穂が言った。

「大きくなれば美穂ちゃんになら当たり前のように弾けるさ。」そう言って美穂の肩を抱き優しく包み込んでくれる優太君。

「うん、そうだね。」にっこりと笑顔で返す美穂。周りにいた若いお姉さんたちがじっとそんな二人を見つめていた。

ロビーは信子の演奏に聴き入る人たちでいつの間にか溢れかえっていた。これがプロの実力なのか!私は椅子から立ち上がる信子に手を貸して一緒に一礼をした。割れんばかりの拍手に包まれた信子だった。

「美穂ちゃんのパパとママってすごく仲良しだよね。見習らわなくっちゃあね。」優太君は美穂に言った。「うん。」美穂は明るく答えた。

「信子さん、最高!」優太ママが駆け寄ってきた。

そして3人で美穂と優太君を探す。

「ちょっと、あれ見て。」二人を見つけた優太ママが私たちに小声で教えてくれた。「うふふ。仲が良いこと。」信子と二人で小躍りして喜んでいた。二人はロビーのベンチでぴったりと寄り添って座っていた。とても小4とは思えない程の恋人同士だった。

そんな雰囲気の中それは突然だった。美穂と優太君が連れ立ってピアノへ向かった。ロビーにいた人は突然の小さな恋人たちに目を奪われていた。美穂がピアノの前に座った。プロの演奏の後に子供が?

皆そう思って見守っていた。

美穂が演奏を始めた。初めて聴くイージーリスニングの楽曲だ。

最初は子供・・・。と思っていた大多数の人が思わず聴き入っていく。何時もの美穂の演奏ではなかった。何かに目覚めたかのようにエレガントに「涙のトッカータ」を演奏していく。ロビーにいる人だけではない。私たち3人も驚いていた。いつの間にイージーリスニングの曲を覚えたのだろうか。それを証明するかのように、華麗な旋律を奏でるピアノにうっとりする女性も多く見受けられた。それ程美穂の演奏は素晴らしかった。

「あっ!美穂ちゃんだ!」誰かが指を差して叫んだ。しかしそれに乗じる人は誰一人いなかった。美穂の連続演奏は続く。「恋は水色」が流れる。信子も優太ママも目を潤ませて聴いている。美穂が小4でエレガントな演奏を身に着け始めたからだ。「もう子供じゃないのね、美穂。」信子はそう呟きながら美穂を見つめていた。

演奏が終わり何時ものルーティンで挨拶をすると信子の時と同じくらいの拍手が起きた。美穂は嬉しそうに優太君がいるベンチにウインクを飛ばした。わあーっ!と観客が湧く。

「人を好きになるって凄いわね。」優太ママがしんみりと言った。

「そうだね。私もそうだった。いつの間にか忘れていたわ。」信子も昔の幼かったあの頃の自分の恋心を想い出していた。

そんな2人のママたちをよそにロビーは熱気を帯びていた。

ついにはアンコールまで巻き起こった。

それに応えるように美穂の「第九」が始まる。

会場は新たな驚きに包まれた。先ほどのエレガントな演奏からダイナミックな演奏へ変わったからだ。もう既に子供の演奏の領域を超えていた。“美穂の才能は枯れることはない!”私は確信した。

演奏を終え、美穂と優太君が戻って来た。

「ねえ、これお揃いで買ったんだよ。」嬉しそうに二人でピンク色の水晶のネックレスを見せてくれた。

夜も遅いため宿泊客の皆さんの拍手に送られコテージへ戻る。

二人はそれぞれの寝室で眠りに就いた。

後は大人の時間だ。話題は自ずと美穂の演奏のことと二人の中学進学のこととなった。

「ホント、美穂ちゃんには感心させられるわね。」口火を切ったのは優太ママだ。私は冷蔵庫から缶ビールを3本持ってきた。

「そうだね。でも、あの演奏は優太君が傍にいてくれるからこそだわ。」信子が開けた缶ビールを口に運びながら言った。

「それにしても2人の演奏に人があんなに集まってくれるなんて。」私は続けた。

「一人、美穂のことを知っている人がいたね。これから二人だけの遠くへの外出は避けた方がいいような気がする。」

「でも、私達って家を空けることが多いから誰かが必ず付いて行くわけにもいかないよね。」優太ママも同じ様に気にかけていたようだ。

「秘密にしていたけど、美穂には合気道を教えているの。そこそこの腕前だけど女の子だしね。」信子の爆弾発言に優太ママも私もびっくりだ。確かに4年生の時の信子は土曜日に合気道を習っていた。

「わあ、ピアノだけでなく合気道まで教えていたなんて!」驚く優太ママだった。

「それはそうと、優太君の練習量は足りているの?良ければもっとうちに入り浸って貰っても構わないわよ。美穂も喜ぶだろうし。」信子は提案した。

「ありがとう、信子さん。どうしても演奏旅行とか音合わせで家を空けがちになるの。だから優太も家事をこなしてくれるんだけどその分練習する時間が削られちゃって。」優太ママは困り顔で話してくれた。

「いやいや。それこそそういう時は遠慮なくうちでやってください。公園と違って、天気に関係なく日が暮れても練習出来ますから。」私が勧めると信子が同意して頷いてくれた。

「特に地方公演の時なんかは泊まりに来て頂戴。美穂も喜ぶし負担もあまり変わらないし、第一、パパも安心でしょ?」信子は笑いながら私の方を見た。

「そうだね。私も帰りが遅いことが多いからね。優太君がいてくれれば安心だよ。では、そう言うことで。」と優太ママに同意を促す。

「そうね。ありがとう。お二人のお言葉に甘えさせていただきます。」そう言って頭を下げてくれた。

「いえいえ、私たちこそ無理言って申し訳ぁりません。」信子と2人揃って頭を下げた。

「そう言えば美穂ちゃん、音大の付属中学からお誘いが来ているんだって?」優太ママによると、どうやら楽団内でも噂になっているようだ。信子はうんうんと頷いて聞いていた。

「そうなの。最初にお話をいただいた時はお断りしたの。でも、さっきの美穂の演奏を聴いた時に私の考えがぐらついたの、もうあの時点の美穂じゃないって。優太君とお付き合いし始めてから美穂の演奏が変わって来たの。だから中学の頃の美穂の姿がはっきりと浮かんでこないの。もう私の手には負えないんじゃあないかって。」そう言いながらも信子は嬉しそうだった。

「そうか。美穂は信ちゃんを超えちゃいそうか。」私は一抹の寂しさを感じていた。何時も、何時も美穂は信子の背中を追いかけていたことを考えると尚更だ。逆に、それは親としての喜びでもある。

「一緒の中学に行けるといいわね。」信子はそう言って優太ママにおつまみの袋を手渡した。

「そうね。先ずはコンクール入賞だね。」一人で頷きながら優太ママが呟くように言った。

「あら、それは大丈夫よ。今日の練習でも私たちと遜色のない演奏をしていたじゃない。まだ小4だよ、優太君。」信子が元気付けるように言った。

「そうそう。弓捌きもプロの様だし。さしずめ“ストリート系ヴァイオリニスト”って感じだし。」私の一言を3人で笑った。

「ところで、明日はどうするんだっけ?」スケジュールに熟知していない私は2人に尋ねた。

「それが、美穂は優太君とスワンボートに乗りたいらしいのよ。」

宿泊3日目の朝、やはり真っ先に目覚めたのは美穂だった。歯磨き、洗顔を済ませると隠しておいた落花生の袋を取り出し、これを持ってウッドデッキに出た。朝の爽やかな森の風が美穂の髪を揺らす。

ウッドデッキには昨夜のバーベキューコンロが残っていた。その脇を通り並んでいる椅子たちの1脚に腰を下ろした。

近くの木がかさかさと音を立てた。音の方に目を遣ると複数のリスくんたちが降りてきた。途中の枝からウッドデッキの手すりへ軽快に飛び移る。そして美穂のすぐ傍まで近寄ってきた。

「・・・。」リスくんたちを驚かせないように無言で落花生を一つつまんでリスくんの前に差し出した。リスくんは素早い動きで落花生を小さな可愛い両手で掴むと口の中に。さらにもう一つ受け取るとまた口の中へ。両頬の頬袋が大きく膨れたところでものすごい勢いで帰って行った。今日も5匹のリスくんたちのお出ましだった。美穂は1匹のリスくんに2個ずつ落花生をあげていった。リスくんたちは次々に森へ帰って行った。初めてリスくんたちに手渡しで落花生を渡せたことに大いに感動する美穂だった。そして賑やかな小鳥たちの歌声を聴きながら森に取り込まれるようにうたた寝を始めた。

ふと目覚めると毛布にくるまれていた。

「美穂ちゃん、おはよう。」優太君だ。優太君が美穂に毛布を掛けてくれたのだ。

「おはよう、優太君。毛布ありがとう。」毛布にくるまったまま優太君を見つめた。優太君はそっと顔を近づけ美穂の唇に軽いフレンチキッスをしてくれた。

「うふっ。優太くんったら。」美穂ははにかみながら優太君に右手を伸ばした。優太君も美穂の右手を自分の左手で握ってくれた。恋人繋ぎだ。誰に教わった訳でもなく、自然の流れが二人にそれを教えてくれた。二人で指を絡ませてまったりと小鳥たちのさえずりを楽しむ。

普段の生活とは全く違うゆったりとした時間が流れていく。

テラスの2階から大人たちの声が聞こえた。慌てて繋いでいた手を離す二人。そして何もなかったかのように白々しく振舞う。

「おーい!お二人さん!朝ごはんに行くよーっ!」

ゲストハウスのレストランはもう多くの人たちで賑わっていた。

「おはよう!」と皆さんが次々に美穂と優太君に声を掛けてくださる。そして私たちにも。皆さんとの距離が近くなったような気がした。連泊の方たちが多いからだろうか、皆さんとはちょっとした顔なじみの様になっていた。。

相変わらずのパターンで私がお留守番だ。美穂のメ今朝のニューは何だろうか。遠くで二人の笑い声がしている。そこへ2人のママが合流する。さらに大きな笑い声が。周りの方たちもつられて笑っている。これは期待できそうだ。

やがて4人が戻って来た。美穂と優太君はいくら丼のようだ。私がそう言うと美穂が笑った。

「ぶぶーっ!パパ残念でしたあーっ!下にサーモンくんがいまあーっす!」

「ええっ!いくらとサーモンを2階建て?」私はその発想に驚いた。

普通、並べて盛るだろう、いくらとサーモンは。

「これだと2倍食べれるんだよ。」嬉しそうにどんぶりにぱくつく美穂を優太君も唖然として見ていた。優太君のどんぶりにはいくらとサーモンがきちんと2分割されていた。一度戻ってまた席を立った2人のママがみそ汁を4人分持って戻って来た。それと入れ違いに私も朝食を取りに行った。今日は、フランスパンは自分の分だけで良さそうだ。他の方たちと食材のうんちく話を交わしながら好きなものを選んでいく。これも旅の醍醐味なのだと思った。

食事が終わると近くの湖に出かけることになった。

すぐにその湖は現れた。パンフレットに載っていた湖だ。

二人は真っ先にボート乗り場へ。そして憧れのスワンボートに乗船だ。係のおじさんたちに手を借りて揺れるスワンボートに乗り込む。

「行ってらっしゃーい!」係のおじさんたちに見送られて意気揚々と船旅に出て行った。私たち大人3人は二人を見送った後は土産物屋さんで散策だ。地元の銘菓、漬物などなど様々なものが所狭しと並んでいる。その中で焼き物のコーナーがあり、皿、コーヒーカップなどが置いてあった。

「あら、自分で作れるみたい。」優太ママが手書きの陶芸教室の案内を見つけた。絵付けをして焼き上げてくれるらしい。

「昔の、あの銀杏が綺麗だった神社。あれを描いてみない?」信子の提案だ。「そうだね、あの時の絵を再現してみよう。」そう話す私たちの会話に興味を示す優太ママ。その優太ママに、小学生の時に別々の日に書いた私たちの絵がそっくりだったこと、そしてそれが2点共市の絵画コンクールに入選したことを話した。

「まあーっ、そんなことが!だから二人とも気が合って仲良しなんだね。」優太ママは良い話が聞けたと喜んでいた。

「でも5年生から大学3年生までは別々だったからその間の想い出が無いの。普通は知らない者同士で夫婦になるけど、ずっとお互いのことを想っていたからその空白が残念なのよ。だからあの二人にだけはそんな思いをさせたくないの。」高く積まれた菓子箱の前で神妙な話をする大人3人だった。

「あーっ!楽しかったあ!」2人が戻って来た。満面の笑みを浮かべている、相当楽しかったようだ。二人の首元の淡いピンク色の水晶がきらきらと輝いている。湖の真ん中で他のカップルにその水晶を褒めてもらった様で二人で喜び合っていた。そんな二人を焼き物教室に誘う。

教室は比較的空いており、私と信子が3人を挟むようにして座った。

二人はコーヒーカップ、優太ママは一輪挿し、信子と私はお皿を選び絵付けを始めた。しばらくして美穂が気付いた。

「な、なんでパパとママは同じ絵を描いてるの?」

「どこか有名な所なんですか?」優太君も驚いて私に尋ねる。

信子が微笑みながら昔の絵画の話をした。

「ねっ。二人とも、良いお話だよね。」優太ママが二人に声を掛けた。

改めて見てみると、美穂はピアノの絵と五線譜、優太君はヴァイオリンとやはり五線譜、優太ママはアマリリスを描いていた。

「皆さんとてもお上手ですね。」教えてくれていたお姉さんに感心されてしまった。後を託して陶芸教室を後にした。

陶芸教室の真向かいに可愛らしい雰囲気の喫茶店があった。いかにも観光地らしい若い人たちに好まれるであろうといった白い壁、濃い緑色に塗られた窓枠、そして蔦に包まれた佇まいが印象的だ。

「うふっ。絵本に出てくるお家みたい。」美穂は相当お気に召したようだ。中に入るとインテリアも可愛い。一言で表現すると“不思議の国のアリス”がぴったりだ。少したじろぎながら奥の席に案内される。美穂は店内をきょろきょろと見回す。

「美穂、何を探しているんだい?」私が尋ねる。

「お家と同じ音が聞こえる。」そう言って耳を澄ませた。

「いらっしゃいませ。」若いお姉さんがお冷を持ってきてくれた。

皆でメニューを見る。写真付きでどれも美味しそうだ。

「美穂はまたナポリタンかい?」私の問いかけに大きく頷く。

「優太君は何にする?」優太君に尋ねるとやはりナポリタンが良いとの返事だった。

「優ちゃんはね、ナポリタンにたっぷり粉チーズをかけて食べるのが好きなんですよ、ね。」優太ママが笑いながら私たちに話してくれた。

大人3人は厚切りトーストと紅茶のセットをいただくことにした。

二人の前にナポリタンがやってきた。熱々で夏だというのに湯気がもわっと立っている。優太君はおもむろに粉チーズをかける。その量の多さに美穂は目を丸くしている。そして自分も半分だけに粉チーズを振った。味比べをするつもりのようだ。

「いただきまーす。」二人で声を揃えて言うところが可愛い。

ふうふうしながら熱々のナポリタンをいただく二人。美穂は味見と言わんばかりにオリジナルのものから口にした。にっこりしている。

すると店のBGMの音量が上げられた。かかっているのはイージーリスニングだ。美穂が先ほど言っていたのはこの絞られたBGMの音のことだったのだ。

「お嬢ちゃん、耳が良いねえ。」厚切りトーストを運んできてくれたマスターが美穂に嬉しそうに言った。

「はい。パパのステレオの音と同じですから。」にこにこと受け答えをする美穂。そんな美穂をじっと見つめた後、マスターは私に問いかけてくれた。

「失礼ですが、どちらのメーカーのステレオを?」

美穂の耳の良さに感心したマスターの問いかけに私はアンプとプレーヤーとスピーカーのそれぞれのメーカー名と型番を話した。

「おおっ!全く一緒だ。あそこにあります。」そう言って観葉植物をずらして見せてくれた。

「あーっ!パパのと同じだ!」美穂が指を差す。確かに同じだ。私と同じ音を好む方に会えたのは初めてだった。それからオーディオ談義に花が咲いた。マスターは何度も何度も美穂の耳の良さを褒めてくれた。

「美穂ちゃんはねピアノを弾くからかしらね。」優太ママが言う。

「美穂はそれぞれのピアノさんの音を覚えているのよね。」信子が嬉しそうにマスターに話した。

「だからですか。耳が良い事は良い演奏の助けになりますからね。」

マスターと名刺交換して店を後にした。

グラブハウスに寄って夕食のためにレストランの予約をする。皆思い思いのアラカルトを選んでいた。

レストランを出たところで支配人さんが挨拶してくださった。

「実は、勝手なお願いなのですが。」そう切り出して続けられた。

「夕食後に皆様で何かお聴かせ頂けないでしょうか?」

快く引き受けた私たちはコテージに戻ると練習を始めた。

皆で、何をやるべきかを決める。ピアノは1台なのでヴァイオリンの三重奏、あるいはメインを決めて後はそれぞれサブに回るか、などなど。ただ、美穂が言うには曲が決まらなければ演奏の各パートが見えてこない。これには皆納得だった。万能な音が出せるヴァイオリンの特性を活かせば大抵の曲は大丈夫という優太ママ。優太君の一言が決定打となった。

「俺“ヴァイオリン協奏曲ホ短調”を弾いてみたい。」

「作品64ね。」信子がうなずく。

「優太、ちょっと大変だけどメインを弾いて頂戴ね。美穂ちゃん、ピアノでヴァイオリン以外のパートをお願いね。」優太ママが各自の演奏パートを割り振る。

「楽譜とかはどうするんですか?」私が優太ママに尋ねた。

「大丈夫。今から弾いて覚えるから。」美穂が答える。皆も頷いた。

「でも、1曲で大丈夫かなあ。もう1曲お願いしますとなったら。」優太君は心配していた。

「美穂ちゃんが“田園”弾いていたよね。」優太ママが思いい出したように言った。

「美穂が弾き慣れているし、皆さんにとっても身近な曲じゃないかしら。」信子が同意する。

「美穂ちゃんのピアノと一緒に弾いたことがあるよ。」優太君も喜んで賛成した。美穂には反対する理由はなかった。

夕食のためにゲストハウスへ向かう。ロビーには多数の折りたたみ椅子が配置されていた。急ということもありホワイトボードに手書きで案内が書かれていた。皆さん立ち止まって見てくださっている。

レストランでアラカルトをいただく。美穂と優太君はハンバーグ、優太ママと信子はエビフライ、私はチキンソテーを堪能した。

食後のデザートが終わると改めてドリンクをオーダーし、演奏時間を待つ。準備と言っても車からヴァイオリンを3挺降ろすだけだ。

レストランを出るとロビーは黒山の人だかりだ。これにはびっくりだ。しかし驚くのは私だけだった。3人とも場慣れしている。優太君だけが緊張していた。人前であまり弾いたことが無いのだ。

「大丈夫。何かあったら“美穂”が助けてくれる。」私は“美穂”というワードで優太君を落ち着かせた。

私はピアノの後ろでヴァイオリンを並べケースを開けておく。

拍手の中、横一列に並んで皆さんにご挨拶。司会は美穂だ。小学生の司会に支配人さんを始め皆さんからおおーっ!とどよめきが起こる。曲の紹介をしている間に、順番にヴァイオリンを取りに来る。

3人がヴァイオリンを手にして位置に着いたところで美穂がピアノへ向かう。そして軽くピアノにタッチ。「ピアノさん、よろしくね。」

美穂の前奏部分のピアノのメロディーが流れる。再びどよめきが起こる。美穂の演奏はとても小学生とは思えないからだ。美穂は4年生だがかなり身長が低い。これと演奏のギャップに驚かれるのだろう。直ぐに優太君のヴァイオリンが続く。こちらも小学生ながら澱みのない澄んだ音と弓捌きでメロディーを奏でていく。そしてそれを支える2人のヴァイオリン。ヴァイオリンだけで3つのパートを弾いていく。その調和を助ける控え気味の美穂のピアノ。

優太君はリズムに合わせて身体を揺れ動かす。すっかりプロのヴァオリニストだ。ロビーには見事なまでの協奏曲が流れる。

そして第一楽章が終わる。盛大な拍手の中、美穂が振り向きロビーの皆さんの様子をうかがう。帰る人は一人もいない。

美穂はおもむろに2曲目を弾き出す。「田園」だ。美穂自身でアレンジした名曲だ。ピアノに続き3人のヴァイオリンが調和を保って音を流す。オーケストラでの定番曲を見事にピアノとヴァイオリンで弾き進めていく。皆さんも全く異なる「田園」を楽しんでおられるようだ。優太君ももうすっかり場に慣れて堂々と演奏している。傍で聴いていると、4人中2人が小学生とは思えない。誰が劣って誰がカバーしてという次元ではなかった。私は身震いした。

2曲目が終わると美穂が再びマイクを取って演奏会参加の御礼とお開きを案内した。

「ええーっ!」という残念そうな声が上がると「アンコール!」という歓声が上がる。3曲目を用意していて正解だった。

美穂が演奏に入る。「3人の王の行進」だ。それにしても美穂のレパートリーの多さには脱帽だ。信子曰く、美穂は一度覚えた曲は忘れないそうだ。そうこうしている間に3曲目も弾き終わった。

本当にお開きです。という美穂のご挨拶に拍手が起る。それと同時に美穂は即興で「蛍の光」を弾き始めた。ヴァイオリンをケースに収めながら3人は顔を見合わせて微笑んだ。だが、美穂の周りには小学生の女の子が5、6人集まっていた。

「おねえちゃん、「瀬戸の花嫁」弾いて。」あまりにも突然だった。

とっさに優太君がヴァイオリンを持って走り寄る。

「こんな曲だよね。」そう言って弾いて見せる。

「うん。おにいちゃん。」その1年生くらいの女の子は嬉しそうに答えた。そう、美穂は1回メロディーを聴けば演奏が出来るのだ。2番に入ると優太君はガイドメロディーまで弾き後は美穂のピアノに任せる。ヴァイオリンとピアノへのセッションに女の子たちは大喜びだ。そして二人にお礼を言って嬉しそうに帰って行った。

「優太くん、助けてくれてありがとう。」美穂も嬉しそうにお礼を言った。

そんな二人を私たち大人は微笑ましく思った。

演奏が終わって温泉に行こうとしたが男湯も女湯もごった返していた。24時間入れるのだが小学生2人には夜が遅すぎる。二人を先にコテージのシャワーを使わせて就寝させることにした。

一旦コテージへ戻って、レディーファーストで美穂がシャワーを浴びることになった。美穂は鼻歌を歌って上機嫌だ。私たちは今日の演奏の反省会を開いたのだが特に何もなかった。それ程充実した演奏だったのだ。そうしている間にも美穂がシャワールームから出てきた。さっぱりした表情で優太君にシャワーを勧める。

「うん。」そう言って優太君は自分の着替えを持ってシャワールームへ向かった。

信子は美穂を座らせてドライヤーで濡れた髪を乾かしてあげた。短めの美穂の髪は見る見る間に乾いていく。そんな中、優太ママが気付いた。

「美穂ちゃん、背が伸びたんじゃない?」改めて美穂を立たせて信子が横に並ぶ。何時も見慣れているせいか気が付かなかったが、確かに信子の肩に迫るくらいだ。

「うふ。美穂、もうすぐペダルに足が届きそうね。」信子は嬉しそうに美穂の頭を撫でた。美穂も嬉しそうだ。ペダルを使えれば演奏に強弱を簡単に付けることが出来る。ピアノを無理して強く叩くいたり高速での連打の必要がなくなるため、指への負担を減らすことが出来るからだ。

丁度その時、優太君がシャワールームから戻って来た。

「ちょっと優ちゃん、美穂ちゃんと背比べして。」優太ママは二人を背中合わせで立たせた。まだ優太君の方が10cmほど背が高い。

「そうだね、優太君位になれば美穂もペダルに足が届きそうね。」そう言う信子もその日が来るのを楽しみにしていた。

そんな二人を就寝させ、戸締りを確認して、私たち3人は車でゲストハウスの温泉へ向かった。

一旦ベッドに潜り込んだ二人だが中々眠れなかった。美穂はそっとリビングに下りて行った。その音に気付いた優太君も美穂に続いた。

「美穂ちゃん、眠れないの?」優太君は美穂の隣に座って声を掛けた。美穂からは微かに石鹸の香りがした。

「そう。ごめんね、起こしちゃった?」美穂が申し訳なさそうに優太君を見つめた。優太君からも同じ石鹸の香りがした。お互い同じ香りに包まれていることに気付き嬉しくもあり恥ずかしくもあった。

しばらく無言が続く。

「あのね、私、懐メロの編曲をするから先に休んで。」美穂はそう言ってバッグから鉛筆と五線譜を取り出した。

「いや、俺はもう少し美穂ちゃんと居たい。」優太君はそう言って美穂を見つめた。

「うん。」美穂はそう言って目を閉じた。優太君はソファーの背もたれに身を預けている美穂の首に片腕を回して肩を抱き、自分の唇をそっと美穂の唇に重ねた。二人はこうしてお互いの気持ちを確かめ合うのだった。

それから二人で編曲を始めた。お互いにこう弾けば良いなどと意見を出し合った。大人たちが帰ってくるまでの二人きりの時間が流れていた。

ふと気が付くともう朝だった。毛布に包まれているのに気づく。

あのまま眠ってしまったのか、毛布は優太君が掛けてくれたのかと思い隣の優太君を見た。まだすやすやと眠っている優太君の頬に顔を近づけそっとキスをした。“人を好きになると当たり前のようにこういうことが出来るんだ”そう思いながら優太君の寝顔を眺めていた。おもむろに洗面所に行って冷たい森の水で顔を洗う。一気に眠気が飛んでいく。リビングに戻ると大きな窓のカーテンを開ける。

木漏れ日の朝日が窓から差し込む。

「あら!」ウッドデッキに機敏に動き回る小さな影。美穂がカーテンを開けたことに驚いて集まっていたリスくんたちが近くの茂みに逃げ込んだのだ。美穂は部屋から落花生を持ってきてリスくんたちを待つ。冷たい森の風がひんやりと心地よく美穂を包み込む。

やがて、再びリスくんたちが戻って来た。ウッドデッキの手すりに1列に並ぶ姿が可愛い。順番に美穂から落花生を貰い、順番に森へ帰っていく。そんな姿を見守りながら今日でリスくんたちとも会えなくなると思った途端涙が溢れてきた。

「美穂、おはよう。毎朝そうやって“二ホンリス”にごはんをあげてたんだね。」私はそう言いながら美穂の隣のチェアに座った。

「おはよう、パパ。リスくんたちって“二ホンリス”って言うんだ。」指で涙を拭いながら美穂は寂しそうに言った。

「寂しいだろうけど、来年また会えるよ。」私がそう言うと美穂は驚いて私に聞いてきた。

「実は昨晩、温泉から出て2人をロビーで待っていたんだけど、支配人さんに声を掛けられたんだ。演奏のお礼と、来年も是非来てくださいとのことだった。2人と合流して、支配人さんを交えて4人で話し合って、良い御縁だし、なかなか皆で集まる機会も少ないからまたとない機会でもあると思って皆で賛成したんだ。5年生から始まる林間学校のスケジュールとか2人の演奏の都合を考慮して日程を決めましょうと話が纏まったんだよ。」私の話に目をきらきらさせて聞き入る美穂。自然といつもの笑顔を見せてくれた。

やがて優太君も目を覚ました。優太君に「おはよう。」と声を掛け、それを合図にまだ2階で寝ている2人を起こしに行った

「美穂ちゃん、おはよう。毛布ありがとう。」美穂に朝の挨拶と毛布のお礼を言う優太君。

「おはよう、優太くん。えっ、毛布掛けてくれたの優太くんじゃなかったの?」驚く美穂。先ほどのキスを想い出しなぜか照れてしまう美穂だった。

5人で最後の食事のためにレストランへ行く。途中行き交う多くの人たちに声を掛けていただいた。何時もの席でお馴染みになったバイキングの朝食だ。美穂は最後のバイキングということもあり気合十分だ。また何時もの光景が繰り返される、と思っていると何と少なめのスクランブルエッグにマッシュポテト、ジャンボウインナーといったややハードなものをもってきた。さらにパンを取りに優太君と出かけて行った。二人で楽しそうに戻ってきた。両手にはジョッキ一杯の搾りたてジャージー牛乳と5段に盛られたフランスパンが。そうか、美穂は背を伸ばしたいのか!

私たち大人はサラダ中心の朝食となった。食べている間にも周囲の方たちから声を掛けられる。特に美穂と優太君は同じ小学生を始め中学生のお兄さんお姉さにも声を掛けていただいた。食事が終わって売店を4人が覗きに行っている間にフロントで宿代の精算を済ませる。すると係のお姉さんから1枚の封筒を手渡された。

「うちの支配人からの御礼です。」にこにこと話してくださるお姉さんだが「現金はちょっと。」と返そうとすると違うとのこと。それではと封筒の中をあらためる。中には支配人からの演奏のお礼と感想、そして系列グループの有名遊園地の年間フリーパスが5枚入っていた。フリーパスって言ったらそこそこの金額になる。本当に戴いて良いものかと思ってパスを見ていくとそれぞれに名前が記されている。ここまでして頂いてお返しするのもかえって失礼と思い有難くご厚意に甘えることにした。

ロビーからピアノの音が聴こえた。誰が弾いているのだろうと思いロビーへ。そこでは美穂が3人の幼い女の子に一人ずつピアノを教えていた。みんな笑顔で楽しそうだ。その周りを女の子たちの保護者の方たちが取り囲む。美穂と一緒に弾いている女の子たちの表情が活き活きしている。ピアノ、いや音楽って素晴らしいものだ、皆を笑顔に出来る。楽器が全く弾けない私はそんな4人を羨ましいと心から思った。

お世話になったビレッジを後にした私たちは牧場に立ち寄ることにした。高原道路を快適に走り爽やかな高原の匂いに包まれながら目的地である牧場へ到着した。こちらの牧場は乳牛がメインで、だが羊も多くの数が放牧されていた。また、「ふれあい動物園」があり小さなモルモット、ウサギ、小ヤギ、子羊などのコーナーもあった。

美穂と優太君はモルモットとウサギのふれあいコーナーへ。係のお姉さんに触り方、抱き方などの注意を受けコーナーへ入る。ニンジンスティックなどを持っていると早速うさぎさんが寄って来てくれた。ニンジンスティックを食べ終えるのを見計らって座っている自分の膝の上に抱き上げる。そして優しくなでなでをしてあげると大人しく気持ち良さそうにくつろいでくれる。美穂と優太君は並んで座りそれぞれうさぎさんをなでなでしていた。よほど居心地が良いのかうさぎさんたちは目を細めてピクリとも動こうとしない。これには二人とも大満足だ。「かわいいね。」うさぎさんが驚かないように二人で小声で話しながらにこにこ顔だった。

うさぎさんにバイバイして先へ進むとニワトリさんのコーナーがあった。私は小学生の頃5羽の“白色レグホン”を飼っていたので懐かしかった。

「ニワトリさんと遊んでおいでよ。」信子に勧められて中へ入る。

ニワトリの数と勢いに怖気づいた二人は「怖くないの?」と私に言って中に入るのを躊躇していた。「“ブロイラー”だからそんなに怖くないよ。」と私が勧めるが第一歩が踏み出せないでいる。私は土を浅く掘って一休みしている“ブロイラー”の女の子に近づき目の前でそっとしゃがみ込む。私が動かないと分かると彼女はまた目を閉じてくつろぎ始めた。じりじりと近寄りそっと手を伸ばして背中を撫でてあげる。全く嫌がらない。しばらく撫でていると他の“ブロイラー”の女の子たちが寄って来てくれた。しゃがんでいる私に安心したのだろうか、あっという間に囲まれてしまった。外で見ていた4人はびっくり。「さすが飼っていただけあるわね。」と笑っていた。

そのうち“ブロイラー”の女の子たちは私を突き始めた。私の存在が何かを確かめたかったのだろう。そうこうしていると一回り大きな“ブロイラー”の男の子が何処からか現れた。女の子たちを押しのけるように私の周りを歩き回っていたが突然ばたばたと羽音をたて私の頭に飛び乗ってきた。「わあーっ!」4人が驚く。男の子は私の頭の上で叫んだ。「コケコッコーッ!」

これには4人以外の周りの人たちも大爆笑。おまけに沢山写真を撮られたしまった。

最後は乳牛“ホルスタイン”さんたちに会いに行く。余りの大きさに尻込みする4人だが田舎育ちの私は平気だ。“ホルスタイン”さんの視野に入るようにしてそっと近づいて鼻筋をなでなで。かなり満足していただいたようでじっと動かずになでなでさせてくれた。お礼に備え付けの干し草を手渡しで御馳走すると喜んだようにたくさん食べてくれた。二人にもエサやりを勧めたが、やはり大きさに負けて腰が引け、おっかなびっくりの様子だった。

一通りのふれあい体験が終わり牧場のメイン施設へ戻る。

ここでは、やはり高原の味“ソフトクリーム”だ。5人で長い丸太で出来たベンチに座り濃厚な味を楽しむ。

「濃くて美味しいね。」皆で“ソフトクリーム”に舌鼓を打つ。

そして売店へ。二人はお土産品の探検、3人は特選牛乳の直売所へ向かう。二人はお土産品のお菓子を見て回っていた。練習中にピアノルームで食べるクッキーなどを買うためだ。

お揃いのネックレスをした小学生カップルをお店の方々が可愛らしいと目で追う。二人とも騒ぐこともなく、仲良く手を繋ぐところがかえって目に着いてしまうのだろう。美穂は目ぼしいものを見つけるとしっかり箱の後ろのラベルをチェックしている。そして優太君と何やら相談している。お店の人も何か気になるようだ。そして3つのお菓子を選んでお店もレジへ。「ありがとうございます。お嬢さん、何か気になることがおありでしょうか?」お菓子を袋に入れながらお店のお母さんがにこにこと美穂に尋ねた。

「いえ、消費期限を見ていたんです。3つ一緒だと無理して食べなきゃって思ってしまうから。でも消費期限をずらしておけばずっとお菓子が楽しめるかと思ったんです。」お釣りを渡しながらお母さんが美穂に言った。「お嬢さん、あなた良いお嫁さんになれるわよ。」そして大きな声で笑った。二人は大照れだった。

牧場を楽しんだ私たちは帰路につく。用意していたクーラーボックスは牛乳とワインでぎっしりだ。

「パパとママのお土産は?」美穂に聞かれた。

「私たちそれぞれ勤務先に直接送ったの。手で持つと通勤電車でぐしゃぐしゃになってしまうから。」信子の答えになるほどと頷く二人。

やがて車は高速道路へ。最初のサービスエリアでお昼にしようということで大規模なフードコートへ。思い思いのものを食べることにした。私は何時も通りのお留守番だ。皆、何を食べるのだろう。

最初に戻って来たのは2人のママだった。二人とも“牛丼”を持ってきた。普段から気になっていたらしいのだが中々店に入る勇気がなかったそうだ。そう嬉々として話してくれた。

二人が帰ってきた。二人が買って来たものはハンバーガーのセットだ。今の子供たちにとってハンバーガーは当たり前の食事になっているのかと時の移り変わりを感じた。皆それぞれ普段なかなか食べれないものをチョイスしていた。そしてそれを美味しそうに食べている4人を周りの人たちは不思議そうに見ていた。それに釣られてか、私は立食いそばが無性に食べたくなった。麺類コーナーで大好きな春菊天そばを仕入れて席へ戻った。

「わあーっ。なにそれ?」真っ先に美穂が食いついてきた。

「少し食べてみるかい?」そう言って美穂に味見させた。それを見て優太君が笑っている。

ちょっと待て、美穂は麺類をすすれないのか!むしゃむしゃという感じでおそばを食べている。でもよく考えると家でラーメンを食べるときはすすって食べていたはずだが

「うふふ。美穂は初めて食べる麺はすすらないのよ。」私の表情を見ていた信子が笑いながら教えてくれた。

車内で遊園地の年間パスポートをいただいたことを話し全員に手渡す。こうして優太君と優太ママを送り届けて、無事帰宅。美穂は真っ先にピアノルームへ。窓を開け籠っていた熱気を部屋から逃す。

また明日から私たち5人の忙しい毎日が始まる。


美穂と優太君にとって夏休みは集中して練習できるまたとないチャンスだ。二人ともコンクールに向けての課題曲と自由曲の練習に励んでいた。その中でイージーリスニングの曲を3曲練習していた。ピアノとヴァイオリンによる演奏だ。譜面は美穂が考え優太君が意見を出す。お互いの意見が合わない時は?と美穂に聞かれたが、私は“それぞれの意見の通り弾いて比べてみたら?”と返事した。


いよいよ老人ホームでの定期演奏会の日がやって来た。この日は優太君が駅前から同乗して老人ホームへ向かう。何時も通りホームに着くと車がいっぱいだ。直ぐにホームの男性職員さんに声を掛けられた。私たちのために裏手の職員専用駐車場を空けていただいているとのこと。有難いことだ。

何時ものように中に入ると真っ先に掲示板へ向かう美穂。それに優太君と私が続く。掲示板には美穂へのメッセージが沢山貼られていた。優太君はびっくりしながらも美穂と一緒にメッセージに目を通す。すぐ脇の事務室から何時ものお姉さんが顔を出す。お互い挨拶して、またメッセージを読む。

「そうか、美穂ちゃんは社会科の課外授業で来たのが最初だったんだね。」優太君がしみじみ言った。

「皆さん、こんにちは。」ホーム長さん始め男性職員さんたちに声を掛けていただいた。

「こんにちは。」美穂と優太君が揃って挨拶をする。ホーム長さんは優太君の持っているヴァイオリンケースを見てにっこり笑った。

「今日はお二人のセッションかな。」

事務のお姉さんの案内で何時もの控え室へ向かう。

「今日も大勢のお客様がいらしてますよ。」その言葉に優太君が驚く。

「美穂ちゃん、何かとんでもない事になっているような…。」

開演5分前だ。3人で建物裏側の業務用エレベーターで1階に向かう。衝立越しに3人で会場を伺う。ホームの皆さんだけではない。その後ろの中庭にまでお客さんが溢れている。3人で顔を見合わせた。「す!すごい!」優太君が思わず呟いた。が、時間だ。

「みなさん、こんにちは。」美穂がマイクを持ってステージへ出ていく。それに優太君が続く。直ぐに優太君の紹介をする美穂。助っ人とだけの紹介に留めている。私は相変わらず衝立越しに会場を見ていた。一番前の真ん中に何時ものお母さまと、えっ!両脇に理事長さんと学校長さん!そして中庭には小学校の先生方とクラスの皆さんが駆けつけてくださっていた。ただ、学校関係の皆さんは優太君がヴァイオリンを弾けることを知らない。ホームの皆さんでそのことを知っている人は理事長さん、学校長さん、そして既にご存じかも知れないお母さまの3人だけだ。優太君は舞台端の椅子にじっと座っている。

「リンゴの唄」が流れる。美穂のオープニングの曲だ。この曲で始まり「東京ラブソディー」でフィニッシュするのが常だが、今日はどうだろうか。懐メロの演奏が続き最後の曲「影を慕いて」の前奏が始まる。優太君が私に合図をくれた。私はヴァイオリンケースを開けたまま優太君に近づく。軽く会釈をしてヴァイオリンと弓を取り出す優太君。どうやら2番から一緒に弾き始めるようだ。

美穂が1番を弾き終わり間奏に入る。優太君はゆっくり立ち上がり美穂の傍へ歩み寄る。場内が色めき立つ。特に中庭の学校関係の皆さんは驚きだ。「優太君ってヴァイオリン弾けるんだあ!」

美穂が頷くと同時に憂いのある優太君のヴァイオリンの音色が美穂のピアノと共に流れ始める。そして会場の皆さんを美穂と優太君の世界へと誘う。全員がうっとりと聴き入る中、美穂の演奏は止まることなく次の楽曲へ繋げていく。えっ?「オリーブの首飾り」?

これには理事長さんも学校長さんもびっくりだ。「この子たち!何時に間に!」

二人の演奏は次の曲「恋はみずいろ」へ淀みなく繋がっていく。見事にパートに分かれてピアノとヴァイオリンが演奏されていく。

「これが信ちゃんが言っていた美穂ちゃんの才能か!」

「弟の言っていた通りだ。小学生の演奏レベルではない。」

「素晴らしい子たちだわ。ずっと見守っていてあげたいわ。」

いよいよ最後の曲「シバの女王」に入る。ピアノとヴァイオリンの重奏に聴く人たちが圧倒される。涙を浮かべる人たちも見受けられた。そして静かな幕引きで演奏が終わった。建物が響くほどの拍手をいただいた。美穂と優太君は顔を合わせてにっこり笑顔を見せた。

会場は騒めいたままだ。誰も席を立ったりこの場所を離れようとしなかった。全員が見事な演奏をした二人を温かく見つめていた。

「皆様、本日は多数ご来場いただきありがとうございました。」美穂はマイクでそうお礼を述べ、優太君と一緒に深々とお辞儀をした。

再び割れんばかりの拍手が巻き起こった。そんな中、二人はお年寄りの中へ入って行き一人一人に声を掛けていった。皆さん嬉しそうに二人の手を握って「ありがとう。」と言ってくださった。

私はご三方へご挨拶に向かった。「本日はお越しいただきありがとうございます。」私がそう言うと三方とも涙ぐまれていた。

「こちらこそ、素晴らしい演奏を聴かせていただきました。」理事長さんが涙を拭きながらそう褒めてくださった。

「二人とも見事だった。とても小学生とは思えない演奏でした。とくに、優太君。予選会の時とは比べ物にならない位成長著しい。美穂ちゃんと共に次のコンクールが楽しみです。」学校長さんもそう言って大喜びだ。

「こんにちは、皆さん。」ホームと学校関係の皆さんとのご挨拶を終えた美穂と優太君がご三方に挨拶をした。

「美穂ちゃん、あなたたちって・・・。」お母さまは言葉にならなかった。二人の手をしっかり握って泣いてくださっていた。

「二人ともお見事でした。久しぶりに良い演奏を聴かせていただきました。」理事長さんが声を震わせながら褒めてくださった。

「二人とも、何時からこんな演奏が出来つようになったんだい?まだ小学生だというのに。」学校長さんにもそう言って褒めていただいた。

「あら!まあ!二人とも素敵なネックレス!」お母さまの一言で全てを知るご三方だった。「ほほほ。仲のよろしいこと。」


9月に入った。いよいよ2学期が始まる。登校すると直ぐ二人で老人ホームでの演奏会のお礼のため職員室を訪れた。

教室ではクラスメートたちに囲まれた。先日の老人ホームでの演奏会についてだ。学校で見る二人とは違う二人がいた、などと言われ少し照れ臭い二人だった。そんな中チャイムが鳴って程なく井上先生が入ってきた。

助かったあ!と二人は思った。

お昼休みも同じ状態だった。話の内容は音楽から二人の関係に移って行った。手を繋ぐのか、ハグはするのかなどと好き勝手に言われ始めた。

「何言ってるんだい!いい演奏をするために二人で練習しているんだぜ!」優太君が強い口調で言った。美穂はそんな優太君を頼もしいと思った。

「あ、優太君、ごめん!言い過ぎた。」クラスの皆が素直に反省してくれた。

放課後はわが家での練習だ。何時も通り優太君が先に練習する。その間、美穂はお風呂を洗って夕食の準備だ。今日は信子と優太ママは楽団の練習で帰宅時間がはっきりしない。こういう時はカレーに限る。ひょっとしたら優太ママにも御馳走するかもしれない。夜遅い私にとっても大好物なうえ、自分でよそえる好都合なメニューと言える。

美穂のカレー作りが始まる。とん、とん、とん。野菜を切るリズミカルな音が台所から聞こえてくる。練習休みの優太君がその音に釣られるように台所にやってくる。

「うわあーっ。すごい量の野菜だね。」優太君が驚く。

「うふっ、でもね、煮込むと半分以下になってしまうんだよ。」タマネギを切りながら涙声で話す美穂。

「あっ!俺まで涙が・・・。」台所に蔓延したタマネギの匂いに涙する二人だった。

「あとはブイヨンスープを入れて、ことこと煮込めば完成だよ。」

そう言って優太君に冷たい麦茶を渡す。

「何で分かるの?麦茶貰いに来たって。」差し出された麦茶を見て驚く優太君。

「だって、夕食近いとお茶しか飲まないじゃない。」観察力の鋭い美穂に脱帽の優太君だった。

麦茶を飲み終えた優太君と一緒にピアノルームへ。

優太君の目標は自由曲として「“ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64第一楽章”を演奏することだ。旅先の演奏会でも弾いてみたのだがやはり自分でも納得出来るものではなかったようだ。何といっても高速で連続するパートが多いため地道に練習するしかない。美穂にサブのパートを演奏してもらいそれに負けない高速の指と弓捌きが求められる。美穂も何度も何度も優太君の練習に付き合っていた。ゆっくり目だとそこそこ上手く弾けるのだが、美穂にピアノの演奏スピードを上げてもらうと弦を弾ききれず音飛びしてしまうのだ。

「優太君!慣れるしかないよ!」美穂がめげそうになる優太君に檄を飛ばす。プロでも大変なこの曲だ。だから尚更、小4では無理だと言われたくなかった。

優太君が一休みする間に美穂の練習だ。11月に迫ったピアノコンクール。課題曲は「カノン」を選んだ。譜面通りに丁寧に弾いていく。何度も何度も弾いている曲だが“集中力”を切らさないことと信子に言われている。絶対に惰性で弾いてはいけない、都度初めて弾く気持ちでというのが信子のアドバイスだ。自由曲は今までの美穂とは真逆のショパンの「夜想曲」を選んだ。初めてのしっとりとした大人の曲だ。今の美穂なら綺麗に弾けるだろう。優太君はそう思っている。スローな曲はペダルが使えないと厳しい。しかし美穂は敢えてチャレンジするという。3連覇を目指して守りに入らないのが美穂の真骨頂だ。そう、今回はエレガントへの挑戦と言えた。

二人でカレーをいただきながら話はやはりお互いのコンクールのことになる。優太君はコンクールまでに美穂の身長が伸び、ペダルに足が届きますようにと祈る気持ちでいっぱいだった。

車の音がした。優太ママと信子のお帰りだ。二人で玄関までお出迎えだ。「ただいまーっ。」2人のママのご帰宅だ。「おかえりなさーい。」二人で声を揃える。意識はしていないのだがどうしても揃ってしまうのだ。2人のママに冷やかされながらリビングへ。美味しそうなカレーの匂いが漂う。美穂と優太君はご飯にカレーをよそい食卓へ。それぞれママの横に座る。今日学校であったこと、練習の内容などを報告するのだった。

2人のママの食事が終わりティータイムとなった。

美穂が告白する。「最近、指とか、手足の関節が痛いんだよね・・・。」


ピアノコンクール当日、今日は美穂と二人で音大の大ホールへ向かう。久しぶりの美穂とのお出かけだ。優太君と2人のママは車で応援に駆けつけてくれる。今日は客席からの応援だ。

大ホールに着くと早速受付を済ませる。控室には本人以外は1名しか入れない。受付のお姉さんがにっこりと美穂に「がんばって!」と声を掛けてくれた。美穂は黙ってこくりと頷く。どうやら美穂は音大ではもう有名人のようだ。

控室へ入るとあっという間に女の子たちに囲まれた。「課題曲は何を選んだの?」「自由曲は何を弾くの?」美穂に質問が飛び交う。美穂はそれらの質問には全く答えずに話をはぐらかす。「ごめんね。その時のお楽しみ。」そう言って微笑んだ。そして皆さんと一緒にピアノ談義だ。私は他の付き添いの方々と挨拶を交わし世間話をする。

うちには美穂しかいないため兄弟や姉妹の話を聞くとわが子が美穂で本当に良かったとつくづく思った。開始30分前だ。出演順に更衣室での着替えが始まった。美穂は前回優勝者ということで最後のトリとしての演奏だ。他の子たちが緊張する中、美穂は目を閉じて指だけを動かしている。皆さん遠巻きに美穂を見つめていた。私は美穂に集中してもらいたく、誰かが美穂に話しかけようとした時には全力で阻止するつもりでいたが、美穂の集中力に押され誰も声を掛けようとはしなかった。

低学年の部が始まる。上手く弾けたと喜ぶ子、弾き間違えて泣いてしまう子、様々だ。美穂が突然泣いている子のところへ。何か声を掛けている。保護者の方が嬉しそうに美穂にお礼を言っている。いつの間にかお姉さんになったのだなあと思う。

「美穂、何て声掛けたんだい?」戻って来た美穂に尋ねた。

「うん。両手でしっかり弾けてたよ。私が2年生の時は人差し指だけでしか弾けなかったの。だからあなたは直ぐに上手に弾けるようになるわよ。」って話したの。そう話しているとその親子がお礼を言いに立ち寄ってくださった。女の子はもう笑顔を見せてお母さんと一緒にお礼を言って帰って行った。低学年の部が終わり1位から3位の発表が行われた。選ばれた3名は皆3年生だった。その場で表彰式が行われた。3人とも嬉しそうに賞状と盾を貰って控室に帰ってきた。「おめでとう!」美穂が3人に声を掛ける。「美穂先輩!ありがとうございます!」そう言って4人で喜び合った。

いよいよ高学年の部が始まる。美穂が着替えのため更衣室へ向かう。

居合わせた女の子たちは美穂の衣装姿を見ようとじっと更衣室の出入り口を見つめていた。更衣室のドアが開き美穂が出てきた。

「わあーっ!」「きゃあーっ!」一斉に女の子たちの声が上がる。

濃紺のノースリーブのワンピース、そして銀色のバラを胸に付けた美穂の衣装は余りにも似合い過ぎだ。これも信子のお下がりだろう。

皆の目に追われながら私の所へ戻ってきた美穂はくるっとターンして見せた。皆さんから拍手が巻き起こる。

「美穂、スカート短か過ぎじゃないか?」

そのころ客席には車で来た3人と優香さんと店長さん、ホーム長さんと老人ホーム有志の皆さん、小学校の校長先生、教頭先生、音楽担当の先生そして担任の井上先生の姿があった。その横には遥香さんの高校の音楽部顧問の先生、他部員の皆さんが詰めかけてくださった。「ありがとうございます!」そう言いながら信子は皆さんの席を回りご挨拶をした。

演奏が続く。特に6年生のお姉さんたちの演奏の上手さが光る。そんな中いよいよ最後の演奏者美穂の番がやって来た。

「美穂、また何時もの様に聴かせておくれ。」私がそう言うと笑って答えてくれた。

「はい。行ってきます。」そう言って進行係のお姉さんと共に舞台袖へ。

前の演奏者の子とすれ違い様に片手タッチする。美穂を紹介するアナウンスが。わあああーっ!物凄い声援が上がる。

スポットライトを浴びながら美穂が登場する。きゃあああーっ!黄色い声援まで巻き起こる。

「信子さん、美穂ちゃんのスカート短か過ぎない?」小声で優太ママが信子の耳元で囁く。

「そうだけど、他の衣装の寸法直しが間に合わなくて。でも、何故短いか直ぐに分かるわよ。」信子はそう言って優太君を見た。

優太君は美穂の濃紺のドレス姿に圧倒されていた。そこには自分の知らない美穂がいたからだ。何時ものルーティンでお辞儀をしてピアノ椅子へ座る。何時もより浅く腰掛ける美穂。

「あっ!」優太君が悟った。

課題曲「カノン」が流れ始める。何時もの美穂の軽快なピアノタッチだ。教科書通りの演奏で美穂は弾き進めていく。

「ホントに小学生なの?」「上手すぎだろ。」ひそひそ声が飛び交う。

「カノン」が終わる。何時もならメロディーを続けて2曲目に行くのだが、今回はきっちりと間を開けた。そしておもむろに2曲目へ。

その前奏に驚きの声があちこちから上がる。「ええーっ!嘘でしょ!」

ショパンのノクターン「夜想曲」だ。会場に美穂の優雅なメロディーが流れる。1か月前の美穂の演奏とは明らかに異なる。

「あっ!ペダル!」優太君が思わず小さな声を上げた。

美穂はペダルに足が届くようになったのだ!

「美穂ちゃんおめでとう!これでエレガンスに一歩近づけたね。」

優太君が目に涙をためて美穂を見つめていた。実は優太君の前では敢えてペダルを使わなかったのだ。その理由が曲の最後に分かる。

「スカートが短い理由が分かったわ。美穂ちゃん背が伸びたのね!」優太ママが信子にそう言ってこちらも涙ぐんでいた。

信子は嬉しそうに美穂を見つめていた。そんな中、美穂の優雅なメロディーが流れていく。

「美穂ちゃん、良かったわあ!ペダルが使えて。私も負けないように頑張らなくっちゃ!」客席で応援していた遥香さんに良い刺激となったようだ。

美穂の演奏が終わった。「ピアノさん、ありがとう。」何時ものルーティンで会場にご挨拶をする。そして客席の優太君へウインクを飛ばす。信子の時と全く同じだ。一人で顔を赤くする優太君。効果覿面だった。

美穂が控室へ戻って来た。そして満面の笑みを浮かべて私に抱き着いてきた。シックな出で立ちでも中身は小4の美穂だ。

程なくして審査結果が発表される。何時ものことだが、美穂にとっては成績ではなくどのように弾けたかが全てのようだ。だから審査結果をドキドキして待つことはない。返って私の方が居ても立ってもいられない。審査結果が出ると3位から呼ばれていく。皆その発表に一喜一憂するのだが。人によっては自信の表れと取られてしまうが美穂は本当に無欲だ。一人っ子で何不自由なく育ててしまったからなのだろうか。

色々考えたりしているといよいよ結果発表だ。3位の入賞者の名前が呼ばれる。呼ばれたのは6年生の女の子だ。嬉しそうに小躍りして母親と一緒に喜んでいる。続いて2位の発表だ。こちらも6年生の女の子だ。物静かな子の様でぐっと喜びを嚙みしめている。

エスコート役の進行係のお姉さんが美穂を呼びに来る。控室内には「やっぱり!」という声が上がる。

美穂は堂々とステージへ向かう。会場から盛大な拍手と祝福する声が飛び交う。

表彰状と盾をいただく。きっちりとした作法に会場内から感心する声が上がる。

「第一位おめでとう。美穂ちゃん。素晴らしい演奏でした。やはりペダルを使えるようになって演奏の幅がすごく広がりましたね。特に、小学4年生の美穂ちゃんにあのような優雅な「夜想曲」を聴かせてもらえるとは思っても居ませんでした。また、課題曲の「カノン」での正確な指捌きは美穂ちゃんの持ち味ですね。文句なしの第一位です。おめでとう。」学校長はそう言って美穂を称え拍手を送ってくださった。

「ありがとうございます。皆さんに聴いていただけるだけで嬉しいです。まだ、目標には近付けていないのでこれからも頑張ります。」

マイクを向けられた美穂のお礼の言葉だった。

「美穂さん。美穂さんの目標は何ですか?」審査員のお一人の質問だ。これは異例のことだった。学校長も少したじろいでいた。

「はい。早く高校生、大学生になってエレガントにピアノさんを弾くことです。」にこにこと、はっきり答える美穂。思わず会場から拍手が起る。会場にいた遥香さんが身震いする。もう美穂の射程距離に捉えられているように感じたからだ。

「美穂ちゃん、すごい演奏だったわね。」そう言って遥香さんに声を掛けたのは美咲さんだった。美咲さんも美穂の演奏を聴くために朝から駆けつけていたのだった。

「正直、あの演奏が聴けるとは思わなかったわ。アップテンポの曲で挑んでくるのだろうと思っていたけど完全に裏切られたわね。まさかノクターンでくるなんて。とても小学生の演奏じゃあないわ。私たちも頑張りましょうね。暫くは美穂ちゃんの良い目標でいられるように。ね、遥香さん。」美咲さんはそう遥香さんに言った。

遥香さんも涙を拭いながら「はい。そうですね。」と返事を返した。

応援の皆さんはここで引き揚げられた。ロビーで3人揃って皆様にお礼を言ってお見送りをした。

丁度その頃、美穂と私は中学生の出場者の皆さんと雑談をしていた。前回第1位のお姉さんからも美穂に祝福の言葉をいただいた。前回同様、今回もまた飛行機でとんぼ返りをされるとのことだ。中学のお姉さんは陽子さんという3年生の方で、そこのピアノ教室では信子と夏帆さんの後輩にあたる。加えてそこのチーフ講師は信子の先輩である碧さんだ。

そんな中、進行係のお姉さんが美穂と私に伝えてくれた。

「お二人とも、申し訳ありません。今回も最後まで待機をお願いします。」それを聞いて周りは大騒ぎだ。「美穂ちゃんすごーい!」と皆さんがわが事のように喜んでくださった。早速美穂は普段着に着替えるために更衣室へ。ほぼ同時に陽子さんも更衣室へ。お互いに第1位同志、しかも御縁もあるということですっかり仲良しになっていた。

「こんにちは。」そう言って私たちのところを訪れたのは夏帆さんだ。

「こんにちは、先日はお世話になりました。」そう丁寧にお礼を言われた。「よく入れたね。そうか、学生証があるからか。」私がそう言うと夏帆さんはこくりと頷いた。

更衣室の扉が開き水色のドレスを着た陽子さんと普段着に着替えた美穂が仲良く出てきた。二人とも何やら楽しそうだ。そして夏帆さんを見つけ挨拶をする。

そんな陽子さんの様子を見ながらお母さんも満面の笑みだ。

「春は、全く知らないところと思って緊張していたら美穂ちゃんが話しかけてくれたんです。だから陽子はリラックスして弾けた、しかも第1位だったんですよ。もう美穂ちゃん様様です。」

「いやいやお母さま、実力あっての第1位ですよ、ね、美穂ちゃん。」夏帆さんが美穂を見つめる。

「うん。リラックスしたって弾けないものは弾けないよ。」美穂が答える。思わず皆で納得してしまった。

そこへ3人が入ってきた。

「美穂!おめでとう!3連覇だね。」と信子。「あら夏帆さんお久しぶり。」信子は夏帆さんに気付き声を掛ける。

「その節はお世話になりました。」夏帆さんが続ける。「そちらのお2人は?」信子が紹介する。「私と同じ楽団のヴァイオリン担当の美智子さんとご子息の優太君。こちら様は?」

「はい、私共皆さんと同じピアノスクールでお世話になっている娘の陽子と私、千代子と申します。碧先生にお世話になっております。」お母さんはそう言って頭を下げた。

「あらあーっ!そうだったんですか。懐かしいです。私も碧先輩に可愛がっていただきました。」懐かしそうに信子が話す。

「市内はどちらにお住まいですか?」私がそう尋ねてみたところ懐かしい地名が飛び出した。信子が住んでいた分譲団地だ。信子と二人で喜び合った。

「私、ここに住んでいたんですよ。」信子も私も昔住んでいた住所を覚えている。信子の書いた住所に驚く親子。

「いや、それうちの住所…。ええええええ!」昔、信子が住んでいた、私が入り浸っていたあの家だ。

「去年の夏、お宅の前まで行ったんですよ、親子3人で。」

もう全員びっくりだった。余りの偶然の一致に驚くしかなかった。

そんな不思議な絆に守られて陽子さんがステージへ向かう。

「わあ!陽子さん、上手くなっているわ!」夏帆さんがモニターを見て驚く。美穂も同感だった。正直に中学生は違う!と感じたようだ。皆でモニターを見つめる。そう言えば3人はどうして入れたのだろう?私は信子に聞いた。「やだ、もう。ここは私たちの職場だよ。」信子は昔と変わらず口を尖らせてから笑って見せた。美穂と同じ仕草だ。やがて陽子さんの演奏は無事に終了した。

中学の部の第1位は陽子さんだった。陽子さんは2連覇達成だ。

皆に祝福され表彰のためにステージへ向かう。そんな陽子さんの晴れ姿に涙する千代子お母さん。そう陽子さんは中学最後のコンクールとなるからだ。

表彰式をおえて陽子さんたちが戻って来た。控室の全員が「おめでとう!」と3人を祝福する。皆がお互いを認め合って技を磨く。こんな素晴らしい世界に信子と美穂がいる、そう思うと胸が熱くなる。

陽子さんの着替えが終わると直ぐに空港へ向かう。そんな親子を見送って一息ついた。

「もう、12時を回ったからお昼にしましょう。」優太ママの掛け声で学食へ行くことになった。6人で校門に差し掛かると守衛さんが敬礼して挨拶してくださった。美穂は優太君と手を繋いで嬉しそうだ。

ショーウインドウの前で思案に暮れる。「信ちゃんは何食べてたの?」

信子に尋ねてみた。「そうねえ。まんべんなく食べていたからなあ。洋食ならフライ定食、和食ならサバの味噌煮定食、中華ならチャーハンと餃子定食ってとこかな。」そう答えが帰ってきた。

「そうそう、私、フライ定食ばかり食べていたわ。」優太ママが懐かしそうに言った。

「あっ!私それ毎日のように食べてます。」夏帆さんが優太ママに報告するように話した。「そうそう。白身フライが美味しいのよね。」

結局、美穂と優太君はナポリタン、夏帆さんは趣向を変えて鶏から揚げ定食、優太ママは懐かしの「フライ定食」、信子と私は「定食A」をそれぞれ食べることにした。各自で自販機にて食券を購入する。今日はコンクール開催日ということもあって結構賑やかだ。

空いていたスペースに3人と3人で向き合って座る。優太君はナポリタンの色が分からなくなるまで粉チーズをかける。それに驚く夏帆さんの箸が止まる。それを見て皆で大笑いだった。

午後からは高校生の部だ。皆帰らないという。美穂の話に出てくる遥香さんと美咲さんの演奏を聴きたいと心待ちにしている。2人とも高校生、短大・大学生部門での第1位、そして総合1位と2位の実力者だ。美穂が目標とする2人の演奏を聴いてみたい。優太ママも同様だった。夏帆さんも優太君も強く興味を持っているようだ。

美穂と私は控室に、他の4人は会場へ。会場には遥香さんの高校の音楽部の皆さんが既に陣取っていた。優太君が挨拶と美穂への応援のお礼を言いに行った。「きゃーっ!優太くーん!」黄色い声が飛ぶ。

「うふふ、優太くん人気者ね。」信子が優太ママに話しかける。

「あら、真っ赤になってるわ。」優太ママも笑って優太君を見つめていた。そんな様子を微笑ましく見つめる夏帆さんだった。

いよいよ高校の部が始まる。私たちが控室へ行くと遥香さんは着替え中だった。美穂と二人でお茶を飲んでいると更衣室から遥香さんが着替えを終え出てきた。

「こんにちは。」「こんにちは。」お互いに挨拶を交わす。遥香さんは濃いグレーのロングドレス姿だ。美穂は憧れるようにその姿を繫々と見つめる。腕周りと広く空いた首周りに深紅のフリルが付いていて大人の魅力満載だ。

高校の部も終盤に差し掛かる。「皆さん、こんにちは。」

「あっ!美咲お姉さん。こんにちは。」遥香さんと美穂が挨拶する。

美咲さんは私にも丁寧に挨拶してくれた。とても品のあるお嬢さんだ。そして遥香さんがステージへ。

「あら、遥香さん気合十分だこと。美穂ちゃん、あの曲は最初の連弾で全てが決まるのよ。「第九」も一緒でしょ。」何故か美穂が「第九」を弾いたことを知っている美咲さんだ。そんな美咲さんは美穂に自分の妹の様に接してくれる。良い先輩に恵まれると良い後輩が育つ。美穂は頷いて美咲さんの話を一生懸命聞いている。

やがて遥香さんが演奏を終えて帰ってきた。

「何だか清々しいわあ。」やり切った遥香さんの第一声だ。

「遥香お姉さん、迫力満点だったよ。」美穂の言葉に喜ぶ遥香さん。

「美穂ちゃんの言う通りね。後半の盛り上がりに重みが良く出ていたわね。」美咲さんにも褒められて小躍りして喜ぶ遥香さん。そんな時だった。

「美穂ちゃん、ドレスに着替えていてくださいね。」案内係のお姉さんに小声で言われる美穂。

「美穂ちゃん、一緒に着替えましょ。」美咲さんに誘われて二人で更衣室へ。その後姿を見送ると遥香さんが私に話しかける。

「美穂ちゃんって何時からペダルを使えるようになったんですか?」

「いや、妻が言うには、先週までは届いていなかったみたいだね。だからギリギリこのコンクールに間に合ったと言っていた。美穂本人もずっと待ち望んでいたからとても喜んでね。」私の話に驚く遥香さん。その時2人が更衣室から出てきた。それと同時に案内係のお姉さんが遥香さんを呼びに来た。どうやら遥香さんも2連覇達成のようだ。

「うわあーっ!みんな連覇だ。美咲お姉さんも、何時も通りにね。」

美穂に言われ明るく笑う美咲さん。「はい!美穂先生頑張ってきます!」そう言って2人で笑っていた。

遥香さんの表彰が終わり賞状と盾を貰って控室へ戻って来た。

「あのね、前列中央の二人の女性がじっとして聴いてくださってるの。誰かしら?」遥香さんが強い視線を感じたようだ。3人でモニターを見る。「あっ!このお二人!」遥香さんがモニターを指差す。

「やだ!ママと優太くんのママじゃない!遥香さん、美咲さん、私のママと優太くんのママです。」そう2人に説明はしたものの2人のママの顔つきは真剣そのものだ。

「お二人とも音楽関係者なのかしら?」美咲さんが美穂に尋ねる。

「はい、二人とも音大の楽団員です。」美穂の返事に驚く2人のお姉さん。だから美穂ちゃんも優太君も飛び抜けて上手なんだ!遥香さんはそう思って美穂を見つめた。

「ああーっ!あんな所に優太くんがいる!」美穂が目ざとく遥香さんの高校の音楽部の皆さんの中にいる優太君を見つけた。

「あっ!本当だ!わーっ、優太くんモテモテだわあ!」遥香さんが美穂をからかう。

「そうか!優太くんって美穂ちゃんの彼氏なんだ。それで「夜想曲」の謎が解けたわ。」美咲さんが笑う。

「美咲お姉さん、謎って何ですか?」口を尖らせた美穂が可愛い。

「あのね、聴いていると直ぐに分かったの。誰かのことを想いながらその人のために弾いているって。」美咲さんは少し羨ましそうだった。さらに続けた。「そうでなければあの曲は小学4年生では無理。取り敢えず弾いてみましたって感じで終わってしまうわ。」

「そうか。ペダルに足が届いただけじゃあなかったんだね。」遥香さんも美穂を羨ましそうに見つめた。そんな2人の思いをよそに美穂は言った。「優太くん!もう!許さないんだから!」

「やだあ!美穂ちゃん浮気現場を目撃した奥さんみたい!」遥香さんの発言に大いに照れる美穂が可愛かった。

「じゃあ、行ってくるわね。」美咲さんの出番だ。会場が湧く。

優雅な仕草でピアノ椅子に座る。会場が静まる。

美咲さんの仕草に合わせて優雅なメロディーが流れる。

「何て大人の弾き方なんだろう!」感動する美穂。遥香さんもうっとりとした目で聴き入っている。会場にいる信子も遥香さん同様にじっと聴き入っている。

演奏が終わるとホールが壊れんばかりの大拍手が起った。

それは控室にも轟音の様に響いてきた。そんな中優雅な振る舞いでお辞儀をする美咲さん。

「美咲さん、素晴らしい演奏をありがとうございます!」遥香さんと美穂が声を揃えて絶賛する。美咲さんも嬉しそうだ。控室の皆から次々に声を掛けられ嬉しそうに一言、また一言とお礼を言う美咲さん。そんな美咲さんの真摯な姿を憧れの目で追う美穂だった。

短大・大学の部の表彰だ。美咲さんが第1位。美咲さんはまだ1年生。このままだと大学生活での8連覇も考えられる。それほどずば抜けて優秀な逸材なのだ。それは会場で聴いていた信子と優太ママにも良く分かった。「落ちの楽団に是非来て欲しいわね。」美咲さんの表彰される姿を見て2人でそう思ったそうだ。

総合成績の発表の前に進行係のお姉さんが信子を訪ねてきた。身を低くしながらステージに代理で上がって欲しいとのことだった。

どうやら陽子さんが特別賞に輝いたようだ。ステージ袖へ移動する最中にそのことを知る。「すでに飛行機に乗られているみたいで。」

どうやらそっと美穂に陽子さんのことを聞かれたみたいで、美穂が陽子さんのことを話してくれたようだ。そんなことから急遽信子が代理として表彰を受けることになったようだ。

いよいよ総合成績が発表される。

特別賞は陽子さんだ。その選出理由が述べられる中信子が賞状を持つ学校長の前へ歩み寄る。

「あれ、何で信ちゃん?」一瞬不思議そうな顔をした学校長だったがアナウンスを聞いて信子が代理であることを知りにっこりと笑顔を見せた。信子は少し離れたところで第3位を待つ。

“第3位、ですが今回該当者なしという結果になりました。”場内がざわつく。当然控室もパニックに陥ったような騒ぎだ。その中で冷静さを保っていたのは美咲さんと遥香さん、そして美穂だ。

“第2位は、何と同点で2名いらっしゃいます。遥香さんと美穂さんです!”わあーっ!会場内に物凄い歓声が上がる。小学4年生の美穂が遥香さんと並んでの第2位となったからだ。控室で抱き合う遥香さんと美穂を美咲さんが抱きしめる。進行係のお姉さんに促されて2人で仲良く手を繋いでステージへ。割れんばかりの拍手に驚きながら学校長の前へ進む。学校長は最初に遥香さんに表彰状を渡す。そして隣の美穂に言った。「ごめんね。お姉さんの順番だからね。」そう言って目配せした。「うふっ、おじちゃん、気を使わなくても大丈夫だよ。」美穂はにこにこしながらそう答えた。盾を受け取る遥香さんの肩が震えていた。

「はい、美穂ちゃん。」そう言って表彰状を渡してくれた。美穂は何時も通りきちんとした所作で表彰状と盾を受け取った。今回は盾をしっかりと胸に抱え学校長を安心させた。学校長にマイクが渡された。異例のことだ。

「遥香さん、美穂さん第2位入賞おめでとう。2人とも審査員の方々から高い得点をいただきました。集計の結果同点となり、2人に甲乙付け難いという言う結論に至り同点2位となりました。遥香さんは演奏の強弱の使い分けと絶妙な表現力、美穂さんは、小学4年生ながらのあの澄んだ、水が流れるような演奏を聴かせてくれました。

お二人とも本当に良い演奏を聴かせていただきました。おめでとう。」

学校長は二人に祝福の拍手をくださった。それと同時に客席からも温かい拍手が送られた。遥香さんの高校の音楽部の皆さんが手を振ってくださった。その中に優太君もいた。2人は手を繋いで客席に向かい深々とお辞儀をした。そして嬉し涙を流して立っている信子の元へ。3人で第1位の発表を聞く。

“それでは第1位の発表です。第1位は美咲さんです!美咲さんも春に続き2連覇を達成しました!”

満面の笑みを絶やすことなく美咲さんが登場する。ホールは大歓声と拍手に包まれる。そんな中、表彰状を受け取る美咲さん。本当に嬉しそうだ。学校長が頷きながら盾を手渡す。

「美咲さん、第1位、本当におめでとう。今回も見事な演奏でした。

常に冷静で、凛としたその演奏は私どもも中々聴くことは出来ません。感情に流されず真摯にピアノと向き合うその姿に感動しました。同点2位の2人からのプレッシャーを受けながら微塵も動揺せずに自分の世界観を演奏しました。技術的にも申しあげることはありません。改めて、本当におめでとう!」

早速3人で受賞の記念撮影が行われた。おびただしい数のフラッシュが光る。3人は笑顔でカメラに収まって行く。その間に信子が戻って来た。そして私に特別賞の賞状と盾を預けると電話を掛けに走った。電話コーナーの近くで学校長さんとばったり出会った。その時、陽子さんの入賞理由を聞かされた。第3位の得点範囲に1点及ばなかったそうだ。しかし、他の入賞候補者との点差があまりにも開いていたので、第3位には基準があるため特別賞を授与することになったとのことだ。学校長さんに美穂の件を含めてお礼を言って公衆電話へ走る。そしてテレフォンカードを入れてダイヤルを押す。

通話先は碧先輩だ。陽子さんたちは真っ先に碧先輩に報告すると思ったからだ。電話に出た碧先輩に陽子さんの中学の部第1位と総合での特別賞受賞を伝える。受話器の向こうで大喜びする碧先輩の声が聞こえる。振り返るとロビーでは入賞者12名と総合入賞者3名の記念撮影が行われていた。それをじっと見つめる信子。美穂を真ん中に立たせようと気を遣う美咲さんを強引に真ん中に押しやり自分は左側に立つ。それを見て大笑いの遥香さん。笑顔と笑い声が絶えない写真撮影となった。信子が美穂に手を振った。美穂は気づいて笑顔で手を振り返す。その瞬間、凄まじいカメラの連写音とフラッシュの光が美穂を包む。やっとカメラから解放された皆さんが控室へ戻る。喜びの会話が飛び交う控室。順番に着替えを済ませて挨拶をしながら一人また一人と帰って行く。3人で更衣室へ入って何やら騒いでいる。そんな時に信子が入ってきた。嬉しそうだ。美穂の顔を早く観たいと思っているのだろう。

やがて3人が出てきた。美穂は信子を見て走ってきた。そして信子に抱き着いた。信子も美穂をしっかりと受け止めた。

「美穂!おめでとう!そしてごめんなさい!傍に居てあげれなくて!」私は何のことか分からずただ2人を見つめていた。

「だって、ママに心配かけたくなかったから…。」そう言って泣き出した。そんな美穂の涙を自分のハンカチで拭くと信子は自分の涙を拭いた。信子は授賞式後の最後の演奏中に起きた美穂の微妙な異変に気が付いたのだ。

「女の子になったのね。」

そして美咲さんと遥香さんにお礼を言った。「美穂のお世話をしていただいてありがとうございます。」

「いえいえ、女の子はこういうのは日常ですから。」2人はそう言って美穂に「おめでとう。」と優しく声を掛けてくれた。


次の週末、美穂と優太君は遥香さんの高校の文化祭に呼ばれた。

華やかな飾りつけや賑やかな出店が並ぶ中を二人で歩いた。既に人気者となっている二人は一軒一軒出店の呼び込みのお姉さんたちに捕まり中々先へ進めなかった。そんな時に文化祭実行委員の皆さんが助に来てくれた。挨拶とお礼を言う暇もなく学園内のホールへ案内された。

「ごめんなさいね。二人を裏口で待っていたんだけど。正面ゲート付近が騒がしいと連絡が入ったの。」そう言いながらホールの楽屋へ案内してくれた。

「美穂ちゃん、優太くん、いらっしゃい!」音楽部の皆さんが温かく迎えてくれた。

「先週はお世話になりました。」二人でお礼を述べると歓声が上がる。

「本当に可愛いカップルだわあ!」

「遥香さんは演奏中ですね。」美穂がそう実行委員の皆さんに言う。

「えっ!どうして分かったの?」控室に居合わせた皆さんが驚いたように美穂に尋ねた。

「えっ!だって遥香さんが弾くメロディーですから。」美穂は遥香さんの弾き方の特徴を完全に覚えているのだ。

暫くして演奏を終えた遥香さんが戻って来た。

「遥香さんこんにちは。」「あら、美穂ちゃん、優太君こんにちは。」

「遥香さん、先週は色々とありがとうございました。」そう言って深々と頭を下げる美穂に遥香さんは明るく言った。

「良いのよ、女の子はお互い様よ。でも、良く我慢してたね。」

そんな女性同士の会話が何のことか理解できない優太君だった。

学校内が華やぐ中での音楽部の公演会。様々な楽器の演奏が披露されていく。ホール内は大盛況だ。そして最後の大トリとして二人が紹介される。舞台へ向かう二人を見送りながら何を演奏してくれるのか楽しみな遥香さんだった。

二人が所定の位置に就く。美穂の何時ものルーティンに合わせてお辞儀をする優太君。黄色い声援が飛ぶが直ぐに静かになるホール。

美穂のピアノが音を奏でる。「涙のトッカータ」が流れる。そしてサビの部分に優太君のヴァイオリンが加わる。

「な、何!この二人!」舞台袖で聴いていた音楽部の皆から驚きの声が上がる。

「うふ、流石ね。美穂ちゃんの演奏が各段に変わったわ。それにしても優太君のヴァイオリン、素敵な音色だわ。」遥香さんも二人の演奏を大絶賛だ。

美穂オリジナルの連続演奏で2曲目の「エーゲ海の真珠」へと入る。美穂の軽快なピアノ演奏だ。

「演奏に深みが出ているわ。ペダルだけではない、やはり恋をしているのね、美穂ちゃん。」

遥香さんの思いに答えるかのように演奏は続く。

「オリーブの首飾り」に移ると再び優太君のヴァイオリンが加わる。

ホールの皆さんが熱心に聴き入ってくださる。

「小学生レベルどころじゃないわ!もうプロの領域だわ!」顧問の先生が遥香さんの隣で叫ぶ。頷きながら二人を見守る遥香さん。

「恋はみずいろ」に入ると優太君の心を揺さぶるようなヴァイオリンの音色がホールを包み込む。そしてラストの曲は「シバの女王」だ。力強い美穂のピアノと心を揺らすような優太君のヴァイオリン。

ホール内から鼻をすする音が目立ち始める。多感な高校生のお姉さんたちを感動させる素晴らしい演奏だ。演奏が終わるとスタンディングオベーションだ。とても素敵なそして感動的な演奏を称えてくださる皆さんの素直な反応だった。居合わせた学園長さんを始めとする学校関係者の皆さんも同様だった。皆さん自然と立ち上がり拍手を送ってくださっていた。

遥香さんや音楽部の皆さんに見送られて駅までのスクールバスに乗る。二人の手には紙袋一杯の各出店の品々が入れられていた。

皆さんの見送りに手を振って答える二人。

駅に着いてバスを降りる。手を振ってくれる運転手さんにお辞儀をする二人。「ありがとうございました。」

慣れてきた電車で自宅の最寄り駅へ。後は遊歩道を歩いて帰る。

今日の反省をしながらあっという間に家に着く。

「ただいまーっ!」二人で声を出すものの今日は誰も家にはいない。

信子と優太ママは楽団の泊りがけの仕事で帰って来ない。私は帰る予定なのだが夜遅くなりそうだった。

二人で食堂のテーブルに座りお土産の品々を出してみる。

パンケーキ、ワッフル、チョコバナナ、ドーナッツ、焼きそばなどが入っていた。二人だけではとても食べきれない。優太君の提案で夕食代わりに頂くことに。ほうじ茶を入れながら今日のことを話す。

「皆が泣き出したのにはびっくりしたよ。」優太君がお茶をすすりながら口火を切った。

「ほんとだね。私も驚いた。でも、それだけいい演奏が出来たってことだよね。聴いて貰えることにプラスして感動してもらえるなんて、何だか夢みたいだった。」美穂も感慨深げに優太君に話す。

「それにしても、美穂ちゃん。演奏上手くなったよね。ペダルの効果なのかな。」優太君は美穂の演奏の変化を強く感じていた。

「うふっ、好きな人が一緒に居るからだよ。目の前に。」いたずらっ子ぽく笑う美穂。

「うん、ありがとう。俺だって美穂ちゃんのこと大好きだよ。」

お互いの目を見つめ合う二人だった。

「優太くん、泊っていくよね。」そう言いながら何故かドキドキする美穂だった。

ピアノルームで古い歌謡曲集のレコードを聴く。老人ホームでの演奏曲を二人で選ぶためだ。聴きながら自分の演奏をシュミレーションする二人。

「あ!これ良いね。」「うん。」そう言いながらお互いに曲をメモしていく。最近は、優太君も美穂同様に聴いた曲を譜面に書いていけるようになっていた。

「あっ!この曲良さそう!」優太君がヴァイオリンを手にした。そして弾いてみる。

「うん。「恋のバカンス」って曲だね。私も弾いてみる。」そう言ってレコードの針を曲の頭に戻した。

最初は二人で聴いてみる。二人とも1度聴けば十分演奏できる。

再び曲の頭から音楽を流す。前奏は美穂がピアノで弾いていく。ガイドメロディーから優太君のヴァイオリンが加わる。二人で見つめ合って演奏する。こうして何曲も聴いていくのだ。

一通り選曲が終わると実際に弾いてみる。二人で記憶した伴奏を弾いてみてお互いのパートを決めていく。曲によってはピアノだけ、もしくはヴァイオリンだけが良い場合もあった。

そうこうしていると晩ご飯の時間になった。自然とお腹が空いてくる。二人で食堂に行き頂いたお土産を食べ始めた。パンケーキはクリームを巻いた形でラップされており、生クリームとカスタードクリームの2種類があった。二人で半分にして分け合って食べる。

「おいしいね。」そう言いながら熱いほうじ茶をいただく。

「焼きそばは炒めなおそうか?」美穂が焼きそばのパックを手にして聞いた。

「お父さんの晩ご飯はあるの?」優太君は私の晩ご飯の心配をしてれる。そんな気配りが嬉しい。

二人で分け合って色々食べ進めていくが流石にお腹一杯になった。

残りのものは冷凍することにした。

食事が終わると美穂はお風呂掃除、優太君はヴァイオリンの練習だ。

どうしても自由曲をマスターしたい。指使いを中心に何度も弾いてみる。第一楽章だけとはいえこの曲はハードルが高い。前回の演奏時よりははるかに弾き熟せてきたと自分では思っている。

戻ってきた美穂がオーケストラ部分をピアノで弾く。それに合わせて優太君の独奏が流れる。こうして小学生コンビの絶妙な演奏が生まれるのであった。


次の日の老人ホームでの定期演奏会には新たな楽曲を披露する。

会場は相変わらず盛況だった。美穂だけでなく優太君のファンも増えてきたからだ。驚くことに、中には大きなテントが張られ、数件の出店まで見受けられた。控室からは中庭の風景を望むことが出来たが今日はテントや出店の屋根しか見えないほどだ。

そんな中、美穂と優太君は打ち合わせに余念がない。

ホーム長さんがご挨拶にいらしてくださった。美穂と優太君の演奏と人柄でホームの皆さんの話題の中心だとのこと。お陰様でホームが明るく、活気づいてきたと喜んでおられた。

開始10分前だ。ホーム長さんを先頭にホールへ向かう。もう11月の半ばを過ぎているのにもかかわらずすごい熱気だ。

「こんにちは、美穂です!」「優太です!」漫才のような掛け合いで話を進めていく二人。ホールに笑い声が起る。この二人、何時の間に話術まで覚えたのだろうか。舞台袖で控える私はどこまも進化を続ける二人に大いなる未来を感じるのだった。

演奏は何時もの「リンゴの唄」から始まった。定番となった名曲だ。

序盤は美穂の軽快なピアノでの演奏が続く。「青春サイクリング」へ繋ぐと3曲目は「南国土佐を後にして」へ入り要所要所で優太君のヴァイオリンが加わる。そのことで演奏に厚みが出る。続く4曲目は「人生の並木道」だ。しっとりとした演奏がホールに流れる。目を潤ませるお年寄りも見受けられた。そして5曲目は何と!「ドラえもんのテーマ曲」だ。退屈していたちびっ子たちが一気に元気になった。途中にあるドラえもんのセリフは優太君がヴァイオリンで表現する。するとちびっ子たちから掛け声が“タケコプター!”

ちびっ子たちは目を輝かせて二人の演奏を聴いている。抱っこされている子も舞台を指差してにこにこしている。

そして6曲目は「オリーブの首飾り」だ。オージーリスニングではおなじみの、手品の際によく使われる曲だ。皆さんご存じの様で「ああ、あー。あの曲か。」という感じで聴き覚えのある曲だ。

最後の曲は女子高生のお姉さんたちを感激させ涙させた「シバの女王」だ。ピアノとヴァイオリンが織りなすメロディーが聴く人の心に沁み渡る名曲だ。優太君の名演奏が光る一曲だ。

こうして大盛況のうちに11月の定期公演は終了した。

しかし、ホール内はアンコールの大合唱だ。

二人は笑顔でそれに答える。美穂のピアノの高いキーが叩かれる。

「禁じられた遊び」だ。リクエスト2曲目は優太君の独奏「3人の王の行進」だ。メリハリのある力強いこの曲は優太君にぴったりの選曲だ。拍手喝采の中演奏会はお開きとなった。

控室へ戻り二人にお茶を勧めているとドアをノックする音が。来客だろうか。そう思ってドアを開けた。そこにはホーム長さんと年配の女性の姿が。中へお迎えしてお話を伺う。

女性はホーム長さんの妹さんで、保育園の園長をされているとのこと。美穂と優太君のことを聞いて今日は聴きにいらしたとのことだった。

「正直、小学生とお聞きしていたのでそれ程とは思っていなかったんです。でも、演奏が始まってびっくりでした。とても小学生の演奏とは思えませんでした。特に最後の曲、「シバの女王」は震えが来て涙が出ました。この二人、何故こんなに人を感動させる演奏が出来るのだろうかって。」明るい笑顔で話される好印象の園長さんだ。

「実は来月のクリスマス前後にうちの保育園で演奏会を開いていただけないでしょうか。」そう言ってお二人で頭を下げられた。

「なるほど、ところが、優太君は来年1月にコンクールを控えていましてスケジュール的には難しいと思います。美穂はスケジュール的にも大丈夫かと思います。」私の話に頷く二人。優太君は残念そうだ。ふと、気になったことがあった。

「失礼ながら、保育園にピアノはありますか?」二人は顔を見合わせる。「・・・。」沈黙が続く。

「それが、オルガンしかないんです。」消え入るような声で園長さんが来建てた。

「そうか、オルガンか。」ホーム長さんも残念そうにうな垂れた。

「あのう、保育園にピアノを置くスペースはありますか?」美穂が沈黙を破って質問した。

「はい、あります。集会所みたいなスペースがありますから。」不思議そうに園長さんが答えてくれた。

「あら、良かった。ピアノがあれば良いんですよね。」美穂は嬉しそうだ。

「でも、わが園では予算不足でとてもピアノは直ぐには買えないんです。」園長さんはそう言ってうな垂れて唇を噛み締めた。

「ねえ、パパ。優香さんのお店の裏にピアノが並んでるよね。あれって譲ってもらえないかなあ。」美穂は私をじっと見つめてお願い事をするときの顔を見せた。そうか!ピアノのリースアップ品があれば買い取るか再リースで手に入る。

「美穂!ナイスアイデア!」私は携帯電話を取り出し優香さんのお店に電話を入れる。園長さんとホーム長さんは急展開にびっくりして美穂を見つめていた。「さすが、商社マンの娘だね、美穂ちゃん。」優太君もびっくりの提案だった。

「先ほど「ドラえもんのオープニングテーマ」を弾いたんですけど、小さなお子さんたちの反応が愛らしくて。またあの笑顔が見たいんです。」美穂が園長さんに話す。

「まあ!美穂ちゃん、あなたって子は…。」そう言って園長さんは泣き出してしまった。ホーム長さんも目を潤ませている。

「お待たせしました。店の方にリースアップのピアノが1台あるとのことです。園長さん、ご一緒しますよ。」私がそう話すと泣きながら喜んでくださった。

ホーム長さんと事務の皆さんにお礼を言って園長さんを乗せて優香さんの楽器店へ向かう。

「あら、いらっしゃいませ。急にどうされましたか?」店長さんが出迎えてくれた。事情を話し、園長さんを紹介していると優香さんが店の奥からやってきた。初めましてと園長さんとご挨拶する。

「優香お姉さん、ピアノさんはどこですか?」美穂が尋ねると待ってましたとばかりに店の奥へ案内してくれた。そのピアノは店の片隅に置かれていた。型は古いが美穂のマイピアノよりは新しそうだ。

あまり傷もなく、使い込まれた様子もない。

早速、鍵盤の蓋を開け弾いてみることに。最初の音は「アマリリス」だ。「少し音階にぶれがある。」と言いながらすべての音階を鳴らしていく。

「うふっ。どんな音を鳴らしてくれるかしら。」そう言いながら「メヌエット」を弾き出す美穂。優太君も耳を傾ける。

「園長さん、調律すれば大丈夫みたいです。」そう言いながら「トルコ行進曲」を弾き始める。

「優香さん、このピアノのリース契約はどうなっていますか?」美穂の演奏の中、私は優香さんに尋ねた。優香さんはピアノに関するファイルを手に調べ始める。

「最新のリース契約書にリース期限の記載があると思うのですが、また、切れていれば正式に解約が行われているかを見てください。

優香さんは一生懸命書類を凝視する。

「あっ!ありました。まだリース期限が残っています。」そう私に教えてくれた。

「優香さん、名義変更して再リース出来るかどうかと買取価格がいくらになるか問い合わせてください。」美穂は演奏を終えたまま私たちを見つめていた。優太君も園長さんもことの流れをじっと見守っていた。店の電話で優香さんが話している。私は傍に行き電話を替わって貰った。どうやら再リースは出来ないようで時価にての新たなリース契約となるようだ。そうなると月々のㇼ―ス金額と時価を比較すれば自ずと答えは出る。暫くするとそれらの金額が提示された。やはり買った方が明らかに安い。私は購入する旨を話し書類一式を送って貰うこととした。

「皆さん、解決しました。このピアノは美穂のものになりました。そして、園長さん。貴方にお預けします。」私がそう言うと園長さんは嬉し涙で何度もお礼を言ってくださった。

店長さん、優香さんもあまりにも早い解決に驚いていた。もっと驚いたのが美穂だった。「えっ?このピアノさん、私のなの?」

こうしてピアノは一旦メーカーで再検査されて保育園に届けられることとなった。


翌日は月曜日、何時も通り学校から戻ると図書室で借りてきた本を取り出してピアノルームへ。そんな美穂を台所からそっと見つめる信子。

美穂は“童謡”の本を借りてきたのだった。だがそれは童謡にまつわる話が書かれているものの譜面とかは一切載って無かった。だが、美穂はそれでよかった。書いた人の心情、書かれた情景を知りたかったのだ。そしてそれらをピアノのメロディーに乗せたいと思っていた。そして実際に弾いてみる。右手でだけでガイドメロディーを弾いていく。そして次は左手で伴奏を付けてみる。短い曲が多い童謡だが数が多い。それでも美穂は1曲、また1曲と頭に入れていく。

「美穂、おやつにしない?」信子が美穂を誘いに来た。「うん。」

二人でソファーに座ってバウムクーヘンをいただく。

「ねえ、美穂。パパから聞いたわ。保育園のこと。美穂は優しい子だね。ママも賛成だよ、美穂のこと。」微笑みながら美穂の決断を褒めてくれる信子。

「ありがとう!ママ!ありがとう!」美穂は嬉しくてたまらなかった。信子に相談なしで決めてしまったことで話し辛かったからだ。

そっと“童謡”の本を持ってピアノルームへ向かったのもそんな理由からだった。

「美穂、隠し事は無しだよ。美穂は間違ったことをしない子だから美穂の考えを大事に思っているの。だからパパも美穂のために力になってくれたのよ。」そう言って笑った。

「ママ、ごめんなさい。てっきり叱られると思って…。」美穂はうな垂れて謝った。

「ううん、謝ることはないわ。美穂は間違っていないもの。美穂、パパとママに何でも話してちょうだいね。何でも美穂の力になってあげるからね。」そう言って美穂の傍へ行きそっと抱きしめた。

「うふっ!美穂ったら・・・。」信子も美穂同様涙を浮かべていた。


いよいよ2学期も終わり冬休みだ。

美穂にとっては忙しい冬休みだ。23日は保育園でのクリスマス会、24日には信子と優太ママのいる音大の楽団の“クリスマス演奏会”、25日は老人ホームでのクリスマス会と目白押しだ。特に保育園は初めてとあって、また、土曜日と、信子が楽団の練習いうこともあり私が付き添うことになった。留守中は優太君が練習に来てくれる。

初めての保育園は郊外の山の麓にあった。広い敷地の駐車スペースに車を止めると園長さんがお迎えにみえた。

「その節はご高配をいただきましてありがとうございました。」丁寧なご挨拶をいただきかえって恐縮してしまった。

案内されて正面玄関から園内に入る。中から子供たちの声が聞こえる。小学校とはまた違った雰囲気に新鮮さを感じる美穂だった。

保育士さんや事務員さんたちに温かく迎えていただく。皆さん小学生の美穂を見て少し驚かれたようだ。てっきり6年生くらいの女の子と想像されていたとのことだった。想像とのギャップに驚かれたのだろう。

集会所と聞いていたが立派なホールだ。体育館も兼ねているとのことだった。

美穂のピアノは奥の角に入り口を向いて置かれていた。ぴかぴかに磨かれて立派な姿を見せていた。美穂はピアノに歩み寄って行く。そしてピアノに両手をかけて目を閉じる。そんな美穂の姿を驚いて見つめる園長さんたち。そんな中、美穂はピアノ椅子に座ると左端の鍵盤から順番に弾いていく。音を確かめるためだ。

「良かったわ。誰にも触らせなくて。」園長さんはカラーコーンで人が入れないようにガードしてくれていたとの事だった。

ピアノの横には大きなクリスマスツリーが置いてある。左奥の壁にはクリスマスの飾り付けが、右後ろの窓には暗幕が張られそこにも飾り付けが施されていた。

「暗くないですか?楽譜は読めますか?」保育士のお一人が美穂に声を掛けてくださった。

「大丈夫です。楽譜はありませんから。」にっこりと微笑んで返事をする美穂。驚く皆さん方。小学4年生が譜面も見ずに演奏会をするというのだ。「信じられない。」皆さんそう思われただろう。

いよいよ子供たちの入場だ。最初のクラスの子たちがホールの入り口に。すると美穂の演奏が始まる。廊下から歓声が上がる。

「アンパンマンのテーマ」だ。美穂のピアノに合わせて大きく手を振って子供たちが入場してくる。続いて次のクラス、また次のクラスと元気に入ってくる。泣いている子なんかは皆無だ。全員が定位置で止まると一声に座る。余りの統率の良さに保育士さんたちはびっくりだ。美穂の演奏にも驚かれたが、何時もと違う子供たちにも驚かれたのだろう。やはり美穂の演奏には何かがあるのだろうか。

園長先生が美穂を紹介してくれた。美穂は園長先生からマイクを渡してもらって挨拶する。これにも保育士の皆さんはびっくりだった。

園長先生は老人ホームでの美穂の演奏会を体験されているので迷わずマイクを美穂に預けられたのだ。美穂の挨拶が始まる。

「みなさーん!こんにちはーっ!」そう言ってマイクを子供たちの方へ向ける。すると大きな、元気な声が返ってくる。「こんにちわーっ!」耳に手を当てて聞くポーズを取る美穂。何処で身に付けた!

「みんなげんきにお返事してくれて美穂お姉さんはうれしいでーす!今日は楽しいクリスマスです。楽しい曲を弾いていきますからみんなで大きな声で歌ってね。」そう言いながらいよいよ最初の曲だ。

「きらきら星」だ。みんな大きな声で歌ってくれる。そして次から次へと童謡が繰り出される。テンポ良く進められる演奏に皆くぎ付けだ。最後は「さんぽ」だ。みんな大きな声で歌ってくれた。

「はーい!みんな元気に歌ってくれてありがとう!」美穂はそう言って続ける。「今度はクリスマスの曲を弾きます。みんなサンタさんのこと、トナカイさんのことを想いながら静かに聴いてくださいね。わかってくれたお友達は返事してくださーい!」「はーい!」子供たちの大きな返事がホール中に響く。

美穂のクリスマスメドレーが始まる。「ジングルベル」「サンタが街にやってくる」「赤鼻のトナカイ」「ありがとうクリスマス」「きよしこの夜」と一気に5曲の連続演奏だ。小気味よいテンポの美穂の演奏に食い入るように聴き入ってくれる子供たち。美穂は終始笑顔で演奏していく。演奏が終わると子供たちが立ち上がり拍手してくれた。美穂は嬉しかった。ピアノに手を添えて何時ものルーティンで子供たちの小さなもみじのような手からの拍手に答えた。

拍手は子供たちからだけではなかった。園長先生、保育士の皆さん、事務の皆さんからも温かい拍手をいただいた。皆さんに向けて再度お辞儀をする美穂だった。

演奏を終えて美穂はあっという間に子供たちに取り囲まれた。矢継ぎ早に質問が来る。一旦それを制して一人ずつ指名して質疑応答する美穂に再び感心する皆さんだった。

「あら!いやだ!私肝心なことを言い忘れていたわ。皆さん、美穂さんはピアノコンクール第2位入賞の女の子です!」皆さんたちから驚きの声が上がる。そして子供たちに混じって保育士さんたちからも質問の声があがった。

一通りの質疑応答が終わると子供たちの退場だ。美穂の「さんぽ」の演奏に合わせてお行儀よく手を振りながら各部屋へ戻って行った。

こうして保育園でのクリスマス会の演奏は無事お開きとなった。

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ああ!昭和は遠くなりにけり! @dontaku

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