第10話 再会
果たして宮殿から親子で逃亡したところで、逃げ切ることはできるだろうか。
ハンナが皇帝は自分からあなたを嫌うことはない、と言うなら、失踪するしか方法はないのだ。街道の建設に賛成してみたのも、そのためだった。二人っきりで逃げて、追い剥ぎや奴隷商人に捕まらないために。
相変わらず息子にはほとんど会えず、贅沢な暮らしを享受しなければならない。
私は宮廷の軽薄さや贅沢三昧をただ静かに見守っていた。呆れてしまうような豪華さ、上辺だけの言葉や優雅さ。白い豊かな胸の上ではずむ金やエメラルド。あまりに大勢の人たち、お化粧をした白い顔、顔、顔……。
夜会の日には、きらびやかなドレスや宝石の中、息苦しい思いをした。それにきつい香水の匂いや女たちの嬌声!一体、いつ、こういう世界から離れられるのだろうか。
街道の建設が終わるのを待っていたら、ウィルの子ども時代が終わってしまうのではないか。
私は別の安全で確実な方法を探っていた。国外に逃亡するべきなのではないか。もともとウィルや私にはこの国に思い入れはないのだ。ウィルはともかく、わたしには良い思い出なんかない。
ある夜、ハンナの主催する夜会に足を運んだ。熱帯夜のように暑い、長い夜のことだった。
退屈し、壁の花となって隅の椅子に座っている。ハンナは婚約者のダレル・ドーンと同じ部屋にいられて幸せそうだ。彼は日焼けした、三十後半の男だった。活動的で、知的でおとなしいハンナとは好対照である。
「イヴリン、私の婚約者、ダレルよ。まだ紹介してないわよね」
ハンナが幸福を包み隠そうとするかのような、弾んだ口調で言う。
「ドーン将軍、噂はかねがね」
私は微笑を浮かべ、お辞儀をしてみせた。
ダレルは落ち着いている。宮廷の中でも、恐ろしいアナベルの反対にあっても。それは称賛に値することだ。ハンナは違った。不安定なのだ。穏やかな性格なはずなのに、最近は当然はしゃいだり、ひどく悲しそうな顔をしてみせたり。
婚約者が一人の貴族と話し出すと、ハンナは私をカーテンの裏に連れていった。
「ダレルとやっと会えたわ!二ヶ月ぶりなのよ。彼には仕事があるし、自宅は宮廷からちょっと離れたところにあるけど。でも、一番の問題は母なのよ。このまま、彼と結婚できないかもしれない。私だってもう若くないのに。弟の方が先に結婚したわ」
ハンナが嘆く。
「オーガストはあなた達の結婚に賛成してるのに」
「弟は母が賛成するか、亡くなるまで婚礼を待とうと言ってるの」
ハンナは母と弟の犠牲者なのだ。二人の勝手な考えに振り回されて結婚を待たないといけないなんて。
一気にオーガストが憎らしくなった。
皇帝が向こうからやってくるのが見える。
「ハンナ、私、ちょっと部屋の外に出るわ」
さっと立ち上がり、急いで廊下に出た。
廊下は涼しい。寒いくらいだ。
ひどくだだっ広いところに、誰もいないのが怖くなって、慌てて歩き出した。石の広間に行こう。今は誰もいないはずだ。あそこなら、皇帝の家族以外は誰も来ない。
夕食の時間はとっくに過ぎていたのに、広間には明かりがついていた。
背後に物音がする。皇帝が追ってきたのだろうか。
怒ったような顔をして振り向く。体が石のように硬直してしまった。手先からすっと熱が奪われてゆく。
ハンサムな男が立っていた。薄い金髪に冷ややかなブルーの瞳。この状況を楽しむかのように口元がゆがんだ。
「エスメラルダ」
彼は遠くに立ったまま言う。
私は無言で彼を見つめていた。
「宮廷に出入りする権利があるんだ。違法ではない。エスメラルダ、お前を探していたんだ。お前の方だってこの私を待っていただろう?心のどこかではわかっていたはずだ、私にもう一度めぐりあう運命なのだと」
彼はしゃべった。誰かを魅了するかのように、流暢な口ぶりで。
「私はイヴリンです」
かすれた声で言った。
「イヴリンは死んだ。確かなつてでそう聞いたよ。エスメラルダ、私なら、お前を皇帝のもとから解放してやれるんだ。ウィリアムにも素晴らしい人生を与えてやれる」
この人はどこまで私のことを知っているのだろう?ずっと逃げ果せていると思っていたのに。それなのに全てを知っているのだ。
「あなたには関わりたくないわ」
私は静かに言った。
「いや、関わるのが俺の義務で権利なんだ。ウィリアムの父親はオーガストじゃない。あの、堅物の狂った母親から生まれた奴なんかじゃないさ」
彼があざけるように言う。
「ベネディクト……」
「エスメラルダ、やり直させてくれ。お前は美しい。ウィリアムは俺の唯一の肉親なんだ。考えておいてくれ」
私は呆然と遠ざかってゆく彼の背中を見つめていた。
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