第7話 暗闇の中の記憶、種明かし

 ソフィーがいた。彼女の小さな震える手を強く握り、眠りにつこうとする。わらを敷いただけの床はかたく、眠れない。凍え死にそうな寒さだった……


「エスメ、眠れないわ」

 ソフィーが暗闇の中でささやく。

「寒いの。朝が来るのが怖い……」


「シーっ。大丈夫よ、私がいるもの。あなたを守ってあげる。いつかこの生活も終わるわ」


「ほんとうに?」

 いたいけな声が言う。


「本当よ。それまではジッと辛抱するの。何も聞かず、何も見ずにね」


 私はソフィーを守ってあげたかった。あまりに幼く、あまりに痛々しくて。彼女を守るためならなんでもするつもりだった。

 家族も寝る部屋もなく、人格さえ与えられていなかったのだ。ソフィーがいなくなったら、大切なものは何もなくなってしまう。


「本当なの?本当に守ってくれるの?」

 ソフィーが痛いほど手を強く握りしめた。


「本当よ。必ず守ってみせる」

 真剣に言う。


「本当なの?」

 ソフィーは繰り返したずねた。何度も何度も。


「本当に守るわ。絶対に守ってみせる」

 何度もそう言った。


 握られた手はどんどん冷たくなってゆく。いつの間にか頬に涙が流れていた。

 ソフィーの幼気いたいけな言葉に心が押しつぶされてしまいそうだった。



 いつもこの夢の結末は一緒だった。どれだけソフィーを強く抱きしめてあげても、どれだけ「守ってあげる」と言っても、最後には腕の中で冷たくなっているのだ。


 目覚めてからしばらく、天井を眺めている。天井画の中で、小さな裸の天使が百合咲く野原を飛んでいた。心ながむ絵だ。背中をどっと流れる冷や汗もすぐにおさまった。


「大丈夫?」


 朝の陽光の中、オーガストが着替えている。庭から水の涼やかな音が聴こえてきた。


「ええ。夢の中にドラゴンが出てきたの。ゆうべだって死ぬ思いをしたわ。でももう大丈夫」

 そう言ってぎこちない笑みを浮かべる。


「そうか。朝食を食べたら外に行こう。見せたいものがある」



 朝食は寝室で一緒にとった。フワフワもちもちの白いパンや山羊のチーズ、マスカットやオレンジなどが食卓に並んでいる。私は思わず微笑んでマスカットをつまんだ。口の中に甘くみずみずしいのが広がる。朝一番に食べる果物ほどおいしいものはない。

 私はこの上なく上機嫌だ。



 彼は馬車で巨大な黒い倉庫の前につれていった。私より先に馬車を降りて番人に何か指示している。


 やがて黒い鋼の扉がゆっくりと開き始めた。まず見えるのは暗闇。なんだか物騒な感じだ。


「イヴリン、降りて中に入ろう」


 彼の手を借りて馬車を降りた。


 倉庫の中は暗くひんやりとしている。何か大きな建造物、だろうか。頭上にそびえ立っている。オーガストは松明を高くかかげた。パッと室内が照らされる。


「まあ!ドラゴン!死んでるの?退治したの?」


 すっかり度肝をぬかれて言った。昨日のドラゴンがいたのだ!しかも、まったく動こうとしない。


「いや、よく見て。松明をもって近くに。襲ったりしない」


 ドラゴンに、生命は宿っていなかったのだ。よくできた複製といったところだった。鱗は青銅か鉄のもので、鮮やかな彩色をほどこされている。目はきれいな緑色のガラス玉だ。


「騙したのね」

 クスクス笑って言う。

「摩訶不思議なことを信じてたのに。他の人たちには言わないつもり?」


「君に種明かしできたらそれでいい。毎晩、夢でうなされているわけにもいかないから」

 

「二人だけの秘密ね。きっとこれから先、何年も語り継がれるわ。皇帝オーガストの婚礼にドラゴンが現れた。参列者を混乱に陥れたが、彼の治世には再び現れることはなかったという……。伝説になるわ」


 彼は私が最初思っていたよりも、愉快な人だった。だがウィリアムのことでは、失望させられることになる。息子と母親である私は一日で数十分くらいしか一緒にいられないと言うのだ。


「ウィリアムには母親が必要よ。養育係では気休めにはならない。結婚したら息子に会わせてくれるって言ってたのに」

 私が熱心に訴える。


「あの子は忙しいんだ。教育の遅れを取り戻さないといけない。皇家の男子はそうやって育つ」

 オーガストはそう言い切った。


 今すぐに寝室から書斎にこもってしまいそうな雰囲気だ。


「でも、あなたは残酷だわ。それに独善的。同じ部屋に行って見守るだけでもいいのに。あの子と一緒にいたいのよ」


「ウィリアムのことは君が心配する必要はない。君だって他にやるべきことがあるはずだ」


 彼に話し合う気はないのだ。


 寝室の扉を叩く音がした。遠慮がちな音だ。


「どうぞ、入って」


 扉が開いた。隙間から可愛らしい二つの目がのぞく。黄金色の巻き髪に優しいブラウンの瞳。血色のよいほっぺた。


 ウィルだった。私は駆け寄っていって抱き上げる。ウィルはギュゥっと私を抱きしめた。なんだか悲しそうな目をしている。この子は滅多なことで感情を外に出さないけれど……。


「お母さん、会いたかった」

 ウィルが小さな声で言う。


 オーガストは厳しい顔をした。すぐに、あの血も涙もない教師たちのところに連れ戻すつもりなのだ。


 私の心配していた通りになった。ウィリアムまでが、オーガストの冷酷な計画に組み込まれてしまったのだ。

 こうなったら皇帝に嫌われるしかない。そうしたら、母子ともども追い出してくれるだろう。


 こういう策略は体面を捨てければうまくいかない。気が進まなかった。だが、私は母親なのだ。母は強い。


 まずはいろんな奇行を演じてみせよう。あの心臓に毛の生えた皇帝が恥入り、頭を抱えるほどの奇行を。

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