第3話 皇帝の食卓
まもなくして扉をノックする音がした。上品な音だ。
「どうぞ。入っていらして」
ちょっと緊張しながら言う。
背の高い貴婦人が入ってきた。黒い髪に青色の瞳。洗練された美人だ。見てて心地よい、遠慮の表情を浮かべている。どことなく皇帝と風貌が似ていた。だが、皇帝よりずっと優しそうな人だ。
「イヴリン、ずいぶん長い間会わなかったわね。痩せたかしら」
貴婦人が嬉しそうな顔をして言う。
が、私は再会の抱擁をするどころではなかった。
首を横にふってどう説明しようか考える。
「お名前はなんておっしゃいます?」
トンチキな質問で、善良そうな彼女の顔に驚いた表情が浮かんだ。
「ハンナよ。皇帝の姉の。あなたの名前は?」
落ち着いた声できく。
私は安堵してしまった。修道院を出てから初めて、まともに話を聞いてくれる人に出会えたのだ。
「エスメラルダです、皇女様。陛下は私のことをイヴリンだと思っていますが、違うんです。息子と一緒に修道院に帰りたい……。
お願いです、ハンナ様。逃亡に手を貸してください。あなたはお優しい方です。どうか……」
必死になって懇願する。
「エスメラルダ、ハンナと呼んで。残念だけれど、今すぐここから逃がしてあげることはできないわ」
ハンナは長椅子で私の隣に腰をおろして言った。
「弟があなたの息子をどこにやったのかはわからない。それに二人で逃げても危険なの。人さらいや盗賊が出てるから。もし、奴隷に売り飛ばされたりしたら、恐ろしいわ。
修道院に戻ることだってできない。理由は、わかるでしょ?弟はずっとイヴリンを探していた。初恋の人だった。愛してたのよ。あなたが修道院に逃げ込んだどころで諦めないわ」
「でも、私はイヴリンなんかじゃない……」
弱々しい声で訴える。
「わかってるわ。それでも、私もあなたをここから去らせるわけにはいかないの」
彼女は気の毒そうな調子で言った。
「弟は、オーガストは強情なの。昔はもっと優しかったわ。強情で冷酷なのはいろいろ苦労したからよ。皇帝でいるのは簡単なことじゃない」
初めて皇帝の名前を耳にした。意外な感じがする。
ハンナの声はどこか物思わしげで、やさしい。弟のことで度々心を痛めるほどに深く愛してるのだろう。
「わからないわ」
かぶりを振って言う。
「オーガストは悪い人じゃないの。あなたやあなたの子どもを傷つけたりしないわ。私を信じて」
哀願するような調子で言ってくるので、ハンナに宮殿から逃げ出さないと約束するしかなかった。
皇帝の晩餐はひんやりとした石造りの広間で行われた。中央に重たそうな灰色の石のテーブルが置かれている。給仕係が盆をもって、しきりに出入りしていた。
薄暗い、奥まった場所にある部屋だ。花も花瓶もなければ、絨毯さえ敷かれていない。むき出しの床が広がっているだけ。音楽もなかった。さっきまでいた優雅な寝室や庭園とは大違いだ。
私がやや遅れて到着すると、食卓はすでに重苦しい静寂に支配されていた。エメラルドグリーンのドレスに手こずってしまったせいで遅刻したのだ。
皇帝がしびれを切らし、広間の扉のところまで迎えにきた。ドレスと私とを吟味するかのように見ている。感に打たれたかのようにしばらくこちらを見つめていた。
「よく似合っている」
短くそう言う。
「陛下の選んだドレスですから」
石の分厚いテーブルには皇帝と私の他に二人の貴婦人が席についていた。一人はハンナだ。顔を蒼白くして、うつむいて座っている。なんだかさっきよりも生気がなかった。
もう一人はアナベラ母太后で、食卓の重苦しい沈黙の原因は明らかにこの人物らしい。
痩せた、性格の厳しそうな貴婦人である。きつく結ばれた口元。細い、鳥のような首からは首筋がぐっと突き出ている。厚くはたかれた白粉は、心ならずもほうれい線を濃く見せていた。灰色の冷徹な目はどんなことでも見透かしてしまいそうである。老人に似ず、かくしゃくとした人だった。
「オーガスト、あの遊女を私たちとおんなじ食卓にしようって言うの?」
老婦人が鋭い声をあげた。
皇帝は静かに母親を見た。老婦人の非難にも動じる様子はない。
「お母様、イヴリンはれっきとした貴族の生まれですわ。卑しい生まれではありません」
ハンナが消え入りそうな声で反論してくれる。
「ええハンナ、あなたにはれっきとした貴族の令嬢に見えるでしょうね。庶民のダレル・ドーンだかディーンだか知らない男と婚約するくらいですから!私に隠れてこそこそと」
ハンナは母親の怒号に強く恥じ入るようにうつむいて、沈黙した。美しい青色の瞳に涙が光っている。
どうやら、常人ではアナベラの猛攻撃に太刀打ちできないらしい。
「母上、イヴリンは妃になる人ですよ」
オーガストは静かな、だが、有無を言わせない口調で話した。
アナベラの目つきがますますキツくなり、細い首筋がますますとがってくる。
「妃ですって?オーガスト、正気の沙汰じゃありませんよ!こんな娼婦に!イヴリンには正妻は務まりませんよ。絶対あなたに恥をかかせるはずです。この国の名誉に泥を塗るのと同じじゃないですか」
老婦人はものすごい剣幕でまくしたてた。
ハンナなど怒り狂う母親の隣で震え上がっている。が、オーガストは眉をクイと上げるだけで冷静そのものだ。いわば沈黙の怒りだった。
「残念ですが、決まったことです。イヴリンは私の少年の頃から愛してきた女性なのですから。皇帝の妃となる人には、
私はアナベラ相手にそれだけのことを言ってのけた皇帝にすっかり感心してしまった。
老婦人は屈辱で体をブルブルと震わせ、冷たい部屋を飛び出してしまった。
寝室に戻ってから、一日のことを思い返す。大変な一日だった。急遽結婚が決まるし、最愛の息子とは引き離されるし、夕食は散々だったし。
皇帝にあんなことまで言わしめたイヴリンという女性は何者だったのだろう?若い情熱的な恋人たち。相思相愛だった。何者かの意図で引き離されたのか?それともイヴリンが彼に飽きて何も告げずに去っただけか。
彼の愛情は本物だ。私の中に過去の愛を見出そうとしている。私が一度も手にしたことのない愛。見分けのつかないくらいそっくりな女が経験した愛。
男は誰も、彼のように私を愛さなかった……。私を利用し、傷つけるばかりで。
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